月曜日にだんなと上野の東京都美術館でひらかれている「プラド美術館展」へ行ってきた。エル・グレコ、ティッツィアーノ、ルーベンス、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤなどの巨匠達の作品が全81作品、見ごたえのある展覧会だった。
さて、当然のことながら、私が惹かれたのは聖画の数々。
その中から特に気になった作品。
「十字架を抱くキリスト」ーエル・グレコ
映画「パッション」を見たときの十字架を背負うキリストは血まみれで息も絶え絶えでとても見ていられないような映像であった。聖書の記述も途中で担ぐことができなくなり、途中でクレネ人シモンに無理やり背負わせている。それほど大きく重い十字架なのだが、この絵では十字架もさほど大きくなくそっと携えているようだ。そしてキリストの顔は天を仰ぎとても穏やかな表情。まるで天の父なる神の御心を願い、その栄光を仰ぎ見ているように見える。
「聖ベルナルドゥスを抱擁するキリスト」ーリバルタ、フランシスコ
私はプロテスタントのクリスチャンなので聖ベルナルドゥスがどんな人なのかは知らない。誰かカソリックのクリスチャンの方いましたら教えてください。
十字架から聖ベルナルドゥスを慈愛に満ちたまなざしで抱擁するキリストと信頼し安心しきってすべてゆだねきっているような聖ベルナルドゥス。バックは暗い色でキリストとベルナルドゥスだけが明るく浮き上がって見える。この絵を見たとき聖ベルナルドゥスに自分を置き換えたくなってしまった。
「聖アンデレ」-リベーラ、ジュゼッペ・デ
光と影のコントラストが美しい。Xの形の十字架を持っていることからキリストの十二弟子の一人、アンデレだということがすぐわかる。この十字架を聖アンデレの十字架という。なぜなら、彼は殉教するときキリストと同じ十字架ではもったいないからとXの形の十字架にしてほしいと願い出たのだそうだ。また魚が、これはアンデレが漁師であったこと、キリストが「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という聖書の話から象徴的に使われている。事実、聖書ではアンデレがいろいろな人々をキリストの元に連れてきている。
「天使により解放される聖ペテロ」-ペレーダ、アントニオ・デ
ペテロはアンデレの兄弟であり、アンデレとともにキリストについていった人だ。私はこのペテロという人物が好きだ。素直な心を持ち、臆病で衝動的であるが実行力がある。しかし、キリストが捕らえられたとき怖くなって3度もキリストを否定するなど人間的な弱さもある。そのペテロが復活のキリストにあって信じられないぐらいに変えられ、力強く宣教していくのである。
この絵は、宣教したペテロをヘロデが捕らえ、2本の鎖につなげられて牢にいるところに御使いがやってきて救い出す場面を描いたものだ。この絵を見たときなぜペテロ表情がぼんやりとしているのか不思議に思っていたが帰って新約聖書の使徒の働きを読んで納得。こう書いてあった。
「彼には御使いのしている事が現実の事だとわからず、幻を見ているのだと思われた。」
そう思ってもう一度絵を見ると表情がうまく出ているなぁと思った。肌、布、鎖の質感、また色彩が他の聖画に比べると豊かだ。魅せられてしまう作品だった。
「聖パウロの改宗」-ムリーリョ、バルトロメ・エステバン
構図が面白い。すっきりとしている。絵を斜め半分にして、下にパウロとその一行。上に復活のキリストという構図。色調が全体的に柔らかく新約聖書、使徒の働きのドラマチックな一面を的確に捉えていると思う。
この絵は最初はキリスト教徒を迫害していたサウロ(改宗後はパウロ)がダマスコに行く途中天からまばゆいばかりの光に照らされて復活のキリストに語りかけられる場面だ。
「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」
「主よあなたはどなたですか?」
「私はあなたが迫害しているイエスである。」
この後サウロはキリストから町に入ってからしなければならない事が告げられると言われる。このときサウロは目が見えなくなっていた。そしてキリストから使わされたアナニヤが手を置いて「兄弟サウロ、あなたがくる途中でお現われになった主イエスが、私を使わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」というと直ちに、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。余談だが、「目からうろこが落ちる」ということわざはこの話から来ている。
「サロメ」-ティツィアーノ、ヴェチェッリオ
私の好きな画家ティツィアーノの作品だが、この絵は不気味な作品だ。それもそのはず王女サロメが盆の上に乗せているのは斬首された洗礼者ヨハネの首だからである。
この話は新約聖書のマタイの福音書に書かれている。
ヘロデに捕らえられたヨハネはヘロデの犯した罪ー自分の兄弟の妻ヘロデヤを妻としている事を不法だと言い張ってヘロデヤの恨みを買う。ヘロデヤの恨みはヨハネを殺したいと思うほどになりその機会をうかがっていたがついにそのときがきた。ヘロデ王の誕生日の祝宴のとき、娘サロメが踊りを踊り王は褒美に何でも与えると誓う。そこで母ヘロデヤに「何を願いましょうか?」とたずねるとヘロデヤはこういったのだ。「バプテスマのヨハネの首」。
ヘロデはヨハネの話を当惑しながらも喜んで耳を傾けていたのでこの申し出に非常に心を痛めたが、列席の人々の手前もあってそれを許してしまうのである。
この絵を見て、罪がわからない事の怖さや憎しみにより罪を重ねていく怖さ、善悪の判断をプライドをまもるために状況に任せてしまう愚かさを感じる。
「ノアの箱舟に乗り込む動物たち」ーバッサーノ、ヤコボ
有名な旧約聖書、創世記の中の「ノアの箱舟」の話。地上に人間の悪が栄え、人間を作った事を後悔した神様が大洪水を起こしすべてのものたちを滅ぼそうとしたが、ノアとその家族だけは神様の御心にかなっていたので助けられた。そのとき大きな箱舟を作り、動物をひとつがいずつ乗せるようにと命じられ、載せている場面である。
動物たちが実に写実的。大小さまざまな動物がいるのだが配置もバランスがよく、あまりごちゃごちゃ感がない。動物の流れが自然と箱舟へといざなわれる。
「聖ステファヌスの殉教」-カヴァッリーノ、ベルナルド
ステファヌスはステパノとも呼ばれる。ステパノはキリスト教最初の殉教者である。新約聖書・使徒の働きにはこうある。
「ステパノは恵みと力とに満ち人々の間で、すばらしい不思議な業としるしを行っていた。ー中略ーしかし、彼が知恵と御霊によってかたっていたので、それに対抗する事ができなかった。」
議論をして負けた人々は、ねたみに駆られ、律法学者や民衆、長老をあおり、とうとうステパノを捕らえ、偽りの証人を立てるが、逆にステパノが話すほうがことごとく正論だった。そのため、彼らはらわたが煮えくり返るほど悔しがり、ステパノが
「見なさい。天が開けて、人の子が、神の右に立って折られるのが見えます。」
というのをきくや否やその思いは爆発してステパノを石打ちの刑(死ぬまで大きな石を投げつける当時の刑)にしてしまうのである。
死ぬ前にステパノはひざまずき大声で叫ぶのだ。
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」
絵は、薄暗い背景(群集も含めて)にステパノだけが鮮やかな赤い衣を着て天の栄光を仰ぎ見ている。自分を殺す人々をとりなすステパノの顔は輝いて見える。こんな祈り、私だったらとてもできない。
「サムソンとライオン」-ジョルダーノ、ルカ
サムソンは旧約聖書・士師記に出てくる一人だ。サムソンは神に聖別された人でペリシテ人からイスラエルを救う使命があったが、肉体的誘惑に弱くデリラという女に自分の怪力の秘密が長い髪にあることを話してしまう。髪の毛を切られてサムソンは捕らえられ、目をつぶされ牢に入れられてしまう。しかしそこで神に悔い改めると髪の毛はまた伸び始め、もとの怪力も戻る。祝祭のとき、ペリシテ人がサムソンを嘲笑するために牢から引き出すとその怪力でペリシテ人の家の柱を引き倒して倒壊させ、多くのペリシテ人を滅ぼした。
絵の場面は、サムソンの武勇伝のひとつ。素手でライオンを倒し、引き裂くところだ。この絵は一度見たら忘れられない。それほどダイナミックな構図なのだ。絵からまるで飛び出しそうなほど全体を覆う。大きく荒々しく動きがある。すごい!としかいいようがない。
「聖トマスの懐疑」-ストメル、マティアス
なんとなくラ・トゥールの絵を彷彿させる。光と影のコントラストが美しい。
聖トマスはキリストの12使徒のひとり。この場面は新約聖書・ヨハネの福音書に出てくる。他の弟子たちが復活のキリストに出会ったとき、彼はそこにいなかった。弟子たちが口々に復活のキリストに会ったというと、トマスは「私は、その手に釘のあとを見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れて見なければ、決して信じません。」というのである。
その8日後キリストが現れ、トマスにこういわれたのだ。
「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」
そこでトマスは「私の主。私の神。」というのだ。
キリストはさらにこういわれた。
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです。」
トマスのような人はたくさんいるのではないか。私のその一人だった。自分が納得しなければ信じるものかと思っていたのだから。でも、信仰って実際はそうじゃなかった。
他にもたくさんのすばらしい絵画の数々だった。
美の世界を堪能させていただきました~!!
気がつかなかった・・・・すごく長くなってしまっていた。ここまで読んでくれた方ありがとう!
さて、当然のことながら、私が惹かれたのは聖画の数々。
その中から特に気になった作品。

映画「パッション」を見たときの十字架を背負うキリストは血まみれで息も絶え絶えでとても見ていられないような映像であった。聖書の記述も途中で担ぐことができなくなり、途中でクレネ人シモンに無理やり背負わせている。それほど大きく重い十字架なのだが、この絵では十字架もさほど大きくなくそっと携えているようだ。そしてキリストの顔は天を仰ぎとても穏やかな表情。まるで天の父なる神の御心を願い、その栄光を仰ぎ見ているように見える。

私はプロテスタントのクリスチャンなので聖ベルナルドゥスがどんな人なのかは知らない。誰かカソリックのクリスチャンの方いましたら教えてください。
十字架から聖ベルナルドゥスを慈愛に満ちたまなざしで抱擁するキリストと信頼し安心しきってすべてゆだねきっているような聖ベルナルドゥス。バックは暗い色でキリストとベルナルドゥスだけが明るく浮き上がって見える。この絵を見たとき聖ベルナルドゥスに自分を置き換えたくなってしまった。

光と影のコントラストが美しい。Xの形の十字架を持っていることからキリストの十二弟子の一人、アンデレだということがすぐわかる。この十字架を聖アンデレの十字架という。なぜなら、彼は殉教するときキリストと同じ十字架ではもったいないからとXの形の十字架にしてほしいと願い出たのだそうだ。また魚が、これはアンデレが漁師であったこと、キリストが「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という聖書の話から象徴的に使われている。事実、聖書ではアンデレがいろいろな人々をキリストの元に連れてきている。

ペテロはアンデレの兄弟であり、アンデレとともにキリストについていった人だ。私はこのペテロという人物が好きだ。素直な心を持ち、臆病で衝動的であるが実行力がある。しかし、キリストが捕らえられたとき怖くなって3度もキリストを否定するなど人間的な弱さもある。そのペテロが復活のキリストにあって信じられないぐらいに変えられ、力強く宣教していくのである。
この絵は、宣教したペテロをヘロデが捕らえ、2本の鎖につなげられて牢にいるところに御使いがやってきて救い出す場面を描いたものだ。この絵を見たときなぜペテロ表情がぼんやりとしているのか不思議に思っていたが帰って新約聖書の使徒の働きを読んで納得。こう書いてあった。
「彼には御使いのしている事が現実の事だとわからず、幻を見ているのだと思われた。」
そう思ってもう一度絵を見ると表情がうまく出ているなぁと思った。肌、布、鎖の質感、また色彩が他の聖画に比べると豊かだ。魅せられてしまう作品だった。

構図が面白い。すっきりとしている。絵を斜め半分にして、下にパウロとその一行。上に復活のキリストという構図。色調が全体的に柔らかく新約聖書、使徒の働きのドラマチックな一面を的確に捉えていると思う。
この絵は最初はキリスト教徒を迫害していたサウロ(改宗後はパウロ)がダマスコに行く途中天からまばゆいばかりの光に照らされて復活のキリストに語りかけられる場面だ。
「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」
「主よあなたはどなたですか?」
「私はあなたが迫害しているイエスである。」
この後サウロはキリストから町に入ってからしなければならない事が告げられると言われる。このときサウロは目が見えなくなっていた。そしてキリストから使わされたアナニヤが手を置いて「兄弟サウロ、あなたがくる途中でお現われになった主イエスが、私を使わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」というと直ちに、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。余談だが、「目からうろこが落ちる」ということわざはこの話から来ている。

私の好きな画家ティツィアーノの作品だが、この絵は不気味な作品だ。それもそのはず王女サロメが盆の上に乗せているのは斬首された洗礼者ヨハネの首だからである。
この話は新約聖書のマタイの福音書に書かれている。
ヘロデに捕らえられたヨハネはヘロデの犯した罪ー自分の兄弟の妻ヘロデヤを妻としている事を不法だと言い張ってヘロデヤの恨みを買う。ヘロデヤの恨みはヨハネを殺したいと思うほどになりその機会をうかがっていたがついにそのときがきた。ヘロデ王の誕生日の祝宴のとき、娘サロメが踊りを踊り王は褒美に何でも与えると誓う。そこで母ヘロデヤに「何を願いましょうか?」とたずねるとヘロデヤはこういったのだ。「バプテスマのヨハネの首」。
ヘロデはヨハネの話を当惑しながらも喜んで耳を傾けていたのでこの申し出に非常に心を痛めたが、列席の人々の手前もあってそれを許してしまうのである。
この絵を見て、罪がわからない事の怖さや憎しみにより罪を重ねていく怖さ、善悪の判断をプライドをまもるために状況に任せてしまう愚かさを感じる。

有名な旧約聖書、創世記の中の「ノアの箱舟」の話。地上に人間の悪が栄え、人間を作った事を後悔した神様が大洪水を起こしすべてのものたちを滅ぼそうとしたが、ノアとその家族だけは神様の御心にかなっていたので助けられた。そのとき大きな箱舟を作り、動物をひとつがいずつ乗せるようにと命じられ、載せている場面である。
動物たちが実に写実的。大小さまざまな動物がいるのだが配置もバランスがよく、あまりごちゃごちゃ感がない。動物の流れが自然と箱舟へといざなわれる。

ステファヌスはステパノとも呼ばれる。ステパノはキリスト教最初の殉教者である。新約聖書・使徒の働きにはこうある。
「ステパノは恵みと力とに満ち人々の間で、すばらしい不思議な業としるしを行っていた。ー中略ーしかし、彼が知恵と御霊によってかたっていたので、それに対抗する事ができなかった。」
議論をして負けた人々は、ねたみに駆られ、律法学者や民衆、長老をあおり、とうとうステパノを捕らえ、偽りの証人を立てるが、逆にステパノが話すほうがことごとく正論だった。そのため、彼らはらわたが煮えくり返るほど悔しがり、ステパノが
「見なさい。天が開けて、人の子が、神の右に立って折られるのが見えます。」
というのをきくや否やその思いは爆発してステパノを石打ちの刑(死ぬまで大きな石を投げつける当時の刑)にしてしまうのである。
死ぬ前にステパノはひざまずき大声で叫ぶのだ。
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」
絵は、薄暗い背景(群集も含めて)にステパノだけが鮮やかな赤い衣を着て天の栄光を仰ぎ見ている。自分を殺す人々をとりなすステパノの顔は輝いて見える。こんな祈り、私だったらとてもできない。

サムソンは旧約聖書・士師記に出てくる一人だ。サムソンは神に聖別された人でペリシテ人からイスラエルを救う使命があったが、肉体的誘惑に弱くデリラという女に自分の怪力の秘密が長い髪にあることを話してしまう。髪の毛を切られてサムソンは捕らえられ、目をつぶされ牢に入れられてしまう。しかしそこで神に悔い改めると髪の毛はまた伸び始め、もとの怪力も戻る。祝祭のとき、ペリシテ人がサムソンを嘲笑するために牢から引き出すとその怪力でペリシテ人の家の柱を引き倒して倒壊させ、多くのペリシテ人を滅ぼした。
絵の場面は、サムソンの武勇伝のひとつ。素手でライオンを倒し、引き裂くところだ。この絵は一度見たら忘れられない。それほどダイナミックな構図なのだ。絵からまるで飛び出しそうなほど全体を覆う。大きく荒々しく動きがある。すごい!としかいいようがない。

なんとなくラ・トゥールの絵を彷彿させる。光と影のコントラストが美しい。
聖トマスはキリストの12使徒のひとり。この場面は新約聖書・ヨハネの福音書に出てくる。他の弟子たちが復活のキリストに出会ったとき、彼はそこにいなかった。弟子たちが口々に復活のキリストに会ったというと、トマスは「私は、その手に釘のあとを見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れて見なければ、決して信じません。」というのである。
その8日後キリストが現れ、トマスにこういわれたのだ。
「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」
そこでトマスは「私の主。私の神。」というのだ。
キリストはさらにこういわれた。
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです。」
トマスのような人はたくさんいるのではないか。私のその一人だった。自分が納得しなければ信じるものかと思っていたのだから。でも、信仰って実際はそうじゃなかった。
他にもたくさんのすばらしい絵画の数々だった。
美の世界を堪能させていただきました~!!
気がつかなかった・・・・すごく長くなってしまっていた。ここまで読んでくれた方ありがとう!