橋本屋吉次郎電子日誌

YAMAHA SR400・マツダ デミオ・ツーリング・城廻りについて・その他

美濃路を歩く その18(起宿)

2015-03-04 | 街道を歩く

のこぎり屋根を追っているうちに、起(おこし)宿にたどり着いていました。

【一宮市尾西歴史民族資料館】


別館


1982(昭和57)年に旧尾西市によって「起宿記念館」として公開され、1986(昭和61)年、隣接地に尾西市歴史民俗資料館本館が開館すると、別館として活用されています。

内部は自由に見学できます。
 

とにかく部屋数が多い!
 

昔のガラスなので外の景色が歪んで見えます。
 

本館の展示から、


起宿は、木曽川沿いにあり尾張国と美濃国の境にあたります。
木曽川には、3ヶ所の渡船場が設置されていました。
当時は天候などにより運行中止になることも多く、足止めを受けた旅客を受け入れなければならないので、規模の大きな宿場でした。

渡船場の一つ、船橋河戸には、将軍上洛時と朝鮮通信使が通る時に、270隻の船を使用した長さ約800mの船橋が架けられたそうです。
 

1720(享保13)年には象も木曽三川を渡り、江戸へ向かったそうです。
 

先日、中馬のおひなさんを見に行った際、母が「起も土人形で有名」と行っておりました。
 
 
 

箸置きサイズの小さなものもありました。
 


【本陣・問屋場跡】
歴史民族資料館の斜め向かいに碑が建てられていました。
 


宿場の名残を感じさせる建物
 


 


【船橋河戸跡】
 

塀の向こうは木曽川です。
 


往事を偲ばせる建物がたくさん残っています。


 
 


【宮川戸跡】


大藩が川渡りするときのように、他の渡船場だけでは間に合わないときに使われていたようです。


隣接する大明神社
 
 

境内の大銀杏
 

少し離れたところのは大イブキが木曽川からの風に耐え、立っていました。
美濃路の歴史を見てきたのでしょうか。
 


(続きます)


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美濃路を歩く 番外(のこぎり屋根コレクション)

2015-03-02 | 街道を歩く

愛知県一宮市、稲沢市、津島市、江南市など尾張西部地域はかつて日本一の毛織物産地でした。

いたるところに、のこぎり屋根の機屋(はたや)があり、織機の音が響いておりました。
 


のこぎり屋根の最大の特徴は採光面積の確保です。
昔は電力事情がよくなかったために、工場内の機械に電気を廻すぶん、照明機器の電気を極力抑えるための工夫ですね。
光のムラのない北側から光を採っています。

私が物心ついた頃は高度経済成長期であり、もっとも盛んだった頃で、ガチャ万景気とよばれていました。
ガチャンと機械を動かせば万というお金が入るという意味です。
 

当時は集団就職で多くの若い人がこの地にやってきました。
 

しかしながら、化学繊維の発達、生産拠点の海外移転、加えて不況が重なり、この地域の繊維産業は衰退していきました。

 

私の住む津島市周辺では零細企業は早々に操業を止め、大きな紡績工場はショッピングセンターなどに移り変わっていきました。

 

また、現在では電力が逼迫してしないことと蛍光管自体が安価になったこと、のこぎり形状にするのが高くつくこと、自然災害に弱いことからも徐々に減少していき、見られなくなってしまいました。

 

美濃路を歩いていると、萩原宿手前ぐらいから少しずつ見かけ、起宿近くでは稼働しているのこぎり屋根もたくさん見つけることができ、嬉しい限りです。
 

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美濃路を歩く その17(萩原橋~高木の一里塚)

2015-02-28 | 街道を歩く

萩原宿の北端で、美濃路は再度西に曲がります。
 

建物も現代風のものが多くなってきました。
 

日光川にかかる萩原橋
 


2005年まではこの川を渡ると尾西市でした(現在は一宮市に編入)。

街道沿いの街並みもだんだん変わり、
 

昔の名残が感じられなくなってきました。
 

日光川を渡って2本目の道で北に曲がります。


のこぎり屋根発見!
このあたりは毛織物業が盛んな土地で、その工場(といっても家内工業・零細企業が多い)が多く見られます。


【考子佐吾平遭難遺跡】
 

萩原宿問屋の馬子であった佐吾平は盲目の母を養い、孝子の評判が高かった。
ところが天保年間、明石藩主が江戸への参勤途中、暴れ馬を取り押さえようと行列の前を横切った佐吾平は、先駆の武士に無礼打ちになってしまいました。
人々は彼の死を悲しみ碑を建てて供養しました。


 

なお、これを聞いた尾張藩は、以後、明石藩が尾張藩領を通行するときは夜間に葬式の装いをしてのみの往来を許したそうです。



名神高速道路を横切ります。

これ何かわかりますか?
 

常滑焼の焼酎瓶を石垣の代わりに使われています。
私が子どもの頃は尾張西部でもよく見られましたが、最近はめずらしくなってしまいました。

美濃路は徐々に北から西へまがり、


西萩原あたりからはまっすぐ北西に向かいます。


ところどころで見かける幟
尾張大國霊神社(国府宮)で行われる儺追神事、通称はだか祭に際して、西尾張の各地区持ち回りで大鏡餅が奉納されます。
なんと50俵取り(約4トン)という巨大なもので、これを奉納するというのは地区の誉れなのです。


【富田の一里塚】
 


本来、一里塚は街道の両側にあるものですが、そろって残っているものは全国的に見てもとても珍しいです。


西側


東側


美濃路歩きも後半戦に突入しました。


道標


「右おこし」
次は起宿です。


「左つしま」
巡検街道を経て、津島神社へ向かう道を示しているのでしょう。


隣接して駐車できるスペース、さらにベンチ・水飲み場・トイレが設けられ、現在でも一里塚としての役割を果たしているのはすばらしいです。
あとはwi-fiのフリースポットがあれば完璧か?


【駒塚道分岐】
美濃路から斜め左手に道が分岐しています。
道標には「左駒塚道 舩渡ヘ五丁 慶応三年」と刻まれています。
駒塚道は、尾張藩家老石河佐渡守が、領地の駒塚 (岐阜県羽島郡)から渡し舟で木曽川を渡り、名古屋城へ 出仕するためつくった街道だそうです。
 


【中嶋邸】
道標を過ぎ、右手に庄屋だった中嶋邸の塀が続きます。
1865(慶応元) 年、長州征討の為、14代将軍徳川家茂は総勢18,000人の軍勢を 引きつれ京に向かう途中、起宿に宿泊しましたが、
このとき幕閣の老中阿部豊後守は、この中嶋邸に宿泊したそうです。
 

瓦にも「中嶋」の文字があります。
 

今は使われていないのでしょうか。
傷んでいました。
加えて、落書されて痛々しいです。
 


(続きます)


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美濃路を歩く その16(萩原宿)

2015-02-26 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅も6日目になりました。
名鉄尾西線の萩原駅にクルマを置いて歩き始めます。

【萩原商店街】


駅の北側にある萩原商店街
ここに萩原宿がありました。

近年、多くの駅前商店街でかつての賑わいが廃れ、閉店する店が増え、シャッター通りになっている光景が見受けられます。
郊外型大型量販店に対し個人商店ではなかなか勝負にならないようです。

この萩原商店街も閉店してしまった店や
 
 

営業しているのかどうかわからない店も点在していましたが、

 

まだまだ、元気な店舗もけっこう見られました。
なんだかうれしくなります。
 
 
 

そして、商店街の中にも宿場らしい建物や

 


趣のある建物(写真は萩原郵便局跡)が点在しています。
 


【正瑞寺】
正瑞寺は、萩原宿西の端にあります。
蓮如上人巡行の際に天台宗から浄土真宗に改宗した寺院で、このあたりに高札場があったといわれています。
 

本殿は改築中でした。
 
 


萩原宿はここで直角に折れ曲がり、南北に方向になります。


古い建物がちょくちょく見られます。
 
 


(左)馬頭観音、(右)地蔵菩薩で奥の建物は山車倉庫として使われています。


馬頭観音は1763(宝暦13)年に萩原宿の馬持ち12名が建立し、2008(平成20)年再建されました。


ベランダ?にも神様が祀られています。


【問屋場跡】
 


【本陣跡】


問屋場跡・本陣跡ともに碑が建てられているだけでした。

ただ、昔を忍ばせる建物はこの近くにも見られます。
 


萩原宿最北端にあった建物
以前は茅葺きだったのでしょう。
熱田から美濃路を歩いてきて初めて見かけました。


【萩原城跡】
問屋場・本陣跡の東あたりに、かつて萩原城がありました。
城主は、三次吉房、豊臣秀次の父です。
1590(天正18)年、秀次が尾張を領した際、吉房は10万石を与えられ、犬山へ移りました。
その後、1595(文禄4)年、秀次失脚に連座して領地を失い、讃岐へ追放されました。
江戸時代に入ると、徳川義直の御茶屋御殿が築かれたそうです。

現在はNTT西日本萩原電話交換所になっており遺構はありませんでした。
 
 


(続きます)


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美濃路を歩く その15(高木~串作)

2015-02-24 | 街道を歩く

中嶋宮から西に向かって歩き、美濃路に戻ります。
 


すると、とたんに「南無妙法蓮華経」と彫られた石碑を見つけました。

 

側面には、文化元年とあります。
 


【高木の一里塚】



石碑が置かれているだけです。


道の反対側の巨木は当時からのものでしょうか?
たぶん違いますね。


美濃路は高木の集落をとおります。

 

やがて、萩原の宿が近くなると西へ北へと折れ曲がります。


【串作庄屋・問屋場佐藤家跡】


周りをブロック塀に囲まれて見つけづらかったです。


「1864年8月第14代将軍徳川家茂が長州征伐で上洛の折、昼休憩をとった。憐松軒枝風憤の碑はその名残 出典 萩原町史」と書かれています。


憐松軒枝風憤の碑
痛々しい状態です。早いところ修復していただきたいものです。


国道155号線、串作交差点まで来ました。
 

名鉄尾西線はこの近くで大きく弧を描いています。
北側は跨線橋になっていますが、西側は踏切です。

 

そして踏切を越えれば、萩原宿ですが、ここからは次の機会にします。


萩原駅に着きました。
橋吉家の近くには駅がないので、毎回スタートまたはゴール地点にバイクを置いています。
今回は、スタート地点である国府宮駅、ゴール地点である萩原駅ともにバイクを置くようなところはなく、クルマで来ざるをえませんでした。


ところで、萩原駅前には美味しいラーメン店があります。


 中華そば 華丸
TEL:0586-68-3065
所在地:愛知県一宮市萩原町串作1407-2
営業時間:11:30~14:00,17:30~21:00
定休日:水曜、第1・3火曜 (祝日は営業、翌日休み)

休日となればご覧の通り行列のできる人気店です。
ならぶのが嫌いな橋吉ですが、この店のラーメンの魅力には勝てず列の最後尾につきました。
(スマホを持つようになって、多少気が長くなったみたいです。)


 味玉そば
煮干しがメインの魚介節に鶏ガラ豚骨の動物系を合わせたダブルスープが縮れ太麺に良く絡みます。

ブロックのようなチャーシューですが、箸でつまむと崩れそうな柔らかさ、味もしっかり
しています。 
味玉は黄身が橙色で流れ出さないギリギリのトロみ
太くほどよい歯ごたえのメンマと具材一品一品が丹精込めて作られています。
860円は高いけど、たまにならばまあいいか・・・
ごちそうさまでした。

(この日の旅は終了です。)


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美濃路を歩く その14(稲葉宿~中嶋宮)

2015-02-22 | 街道を歩く

稲葉宿の北西の端まできました。

【禅源寺】
 
 


山門


本堂


1869(明治2)年、この鐘を合図に、大規模な農民一揆である稲葉騒動が発生しました。
農民の不満は西尾張地域一帯にひろがり、4日間、3万を越える人々が加わった暴動になったと伝えられています。
もちろん、現在ではそんな喧噪はみじんも感じられません。

 


美濃路はここからいったん北へ進んだのち、西に向かいます。
西尾張中央道を横切り、稲沢市から一宮市に移ります。
 


【中嶋宮】


美濃路に面して一の鳥居があります。
ここから参道を北に進みます。

しばらく歩くと二の鳥居がありましたが、境内はまだまだ遠く見えません。
 

ようやく三の鳥居が見えてきました。
 


三の鳥居
国府宮同様、美濃路にまで参道を伸ばしているので長くなるのでしょうね。


境内に到着

 
 


拝殿


狛犬


末社


【長寺】
長寺は中島宮に隣接しています。

 

歴史あるお寺ですが、どうも管理が行き渡っていないようで、

 


山門


本堂


 


中嶋蔵人とはこの近くにあった中島城の歴代城主の号です。

神社や寺院を維持していくのは大変なようです。

(続きます)

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美濃路を歩く その13(稲葉宿)

2015-02-20 | 街道を歩く


美濃路を歩く旅、5日目は名鉄「国府宮」駅からの出発です。

【小沢一里塚】


道路脇に説明板が立っているのみでした。
近くで行っている住宅工事の道具が置かれていましたが、致し方ないですね。


町名には「小沢」の名が残っているようです。


一里塚をすぎると趣のある建物がちらほら見えてきます。
稲葉宿です。
稲葉宿は、稲葉村と小沢村で合同して運営されていました。
なお、二つの村は1878(明治11)年に、合併して稲沢村となりました。

 
 


【本陣跡】
鍵曲りの角に本陣が置かれ、石碑が建っているはずなんですが・・・
 

見当たりませんでした。
尾張農業普及指導センターの工事中のため、どこかへ移転されているのでしょうか。

隣の製麺店に、
 

こんな表示が掲げてありました。
 


古い町並みがそのまま民家として商店として使われています。
自然に残されている感じが魅力的です。
 
 

 
 


【脇本陣跡】


中部電力稲沢営業所であった建物
この付近に脇本陣があったそうです。


【問屋場跡】


西町の問屋場の跡です。
民家の軒先に碑が立っています。


【津島道の道標】



「右つしま道 三里」と刻まれています。


【宝光寺】

 


山門


常夜灯


本堂


立派な鐘楼


このあたりは何度かクルマやバイクで通り過ぎたことがあります。
気にはなっていたのですが、あらためて歩いてみると趣のある建物がゆっくり見られて良いですね。

 


【中島郡高等小学校址】


「美濃路を歩く その12」で紹介した中島郡高等小学校はもともとここにあったそうです。


(続きます)


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美濃路を歩く その12(国府宮)

2015-02-16 | 街道を歩く

【尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)】
尾張大国霊神社は、近くに尾張国の国衙(国府)があったことから、一般には国府宮神社(こうのみやじんじゃ)、国府宮(こうのみや)と呼ばれています。


一の鳥居
ここから、本殿まで約1kmもあります。
しかも、一の鳥居のまわりは田んぼがあるだけ・・・
何でこんなところにあるのか、以前から疑問でしたが、美濃路と接続させていたのですね。
なるほど


長い参道を歩きます。

大きな道は陸橋でパスしちゃいます。
 
 

まだまだ、参道は続きますが、ここらで腹ごしらえを、


 そば松
所在地:愛知県稲沢市国府宮2-2-6
TEL:0587-32-0709
営業時間:11:00~15:00,17:00~20:30(日祝 ~20:00)
定休日:月休

参道脇にある昔からのうどん屋さんといった感じです。
店名よりも大きく書かれた「カレーラーメン」「カレーうどん」が看板メニューのようです。
多の地域ことはわかりませんが、名古屋周辺ではカレーラーメンを提供する店を見かけません。
カレーうどんの美味しい店は良くあるのですが・・・


 カレーラーメン 620円
カレールーを出汁つゆで割ったスープは、きわめてまろやかで飲み干せてしまうほどですが、ほのかにスパイス感があります。
かまぼこ,鶏肉,ねぎ,揚げ,コーンが入ってそば屋のカレーといった感じです。
麺は細麺で柔らかめにゆでてあります。
コシのある太麺ではカレースープを跳ね上げてしまうのでこれは正解だと思います。
寒い季節ですから、すっかり冷え込んでいましたが、
これをいただいて暖まることができました。
ごちそうさまでした。

再び参道に戻ります。


二の鳥居

まだまだ参道は続きます。
 
 

道沿いに気になる建物を発見しました。



 


「中島郡高等小学校」の略なんですね。
なお、中島郡は2005年(平成17)年、祖父江町・平和町が稲沢市に編入することによって消滅しました。


三の鳥居
ようやく、山門が見えてきました。

これ何かわかりますか。
 

「はだか祭り」を見る桟敷席です。
この神社では、毎年旧暦1月13日に執り儺追(なおい)神事行われます。
通称「はだか祭り」とよばれ、厄年の男を中心に、尾張一円から、下帯・白足袋をつけただけの数千の裸男が集まります。かけ声ともみ合いの熱気はすさまじいものがあり、浴びせられる手桶の水も、体熱でたちまち湯煙となるくらいです。


こちらは店舗の上に作られています。


ようやく山門にたどりつきました。


手水舎

境内にも桟敷席が設けられていました。
 


狛犬


拝殿


儺追殿


西の鳥居


【尾張国衙址】
律令時代この地に尾張国の国衙(国府)がおかれていました。
このことから、尾張大国霊神社やこの地域を、国府宮(こうのみや)と呼んでいます。



現在では祠が置かれ、碑が建っているだけです。

この日の旅はこれで終了です。
名鉄「国府宮駅」から、バイクを置いた「新清洲駅」戻ります。
 


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美濃路を歩く その11(六角堂~井之口)

2015-02-14 | 街道を歩く

稲沢市に入りました。

【長光寺】
 
 


山門



仁王様


本堂



地蔵堂
通称、六角堂とよばれている特徴ある建物です。

 



長興寺門前にある道標
「右ぎふ道」


「左京都道 」と刻まれています。
もともとは300mほど離れた四ツ谷追分にあったものです。


【京屋伊助】
東海地方では有名な酒量販店「酒やビック」の蔵元がありました。
 
 


【盤桓子誕生地碑】
美濃路は突き当たり左折します。
 

その突き当たりのマンションに石碑がありました。
 
 

丹羽盤桓子誕生地碑です。
丹羽盤桓子ってどんな人?
調べてみました。
丹羽盤桓子(にわばんかんし)1773(安永2)年~1841(天保12)年
江戸時代後期の書家、学者です。
長光寺門前の道標も盤桓子の書ですが、石工がある字の書体を修正したため、大いに憤慨したそうです。


【四ツ家追分】
少し西に進むと四ツ家の追分があります。
美濃路から分かれた岐阜街道の起点です。
旧鎌倉街道筋をなぞるように稲沢市内を通り、一宮市から木曽川を渡り、笠松町、岐南町を通り岐阜城方面に続きます。
 
 
 


ほどなく、JR東海道本線と交差します。
愛知機関区が近くにあるので線路が何本も並行して敷かれています。
 


現在の地名で稲沢市井之口かつては七曲り縄手とよばれていたそうです。
このあたりは昔を偲ばせるものはあまり見当たりません。
おそらく少し前までは田園風景が広がっていたのでしょうね。

と思っていたら、ホントに田んぼが見えてきました。
 


その田んぼの向こうに見える謎の基地?
三菱電機稲沢製作所構内にあるエレベーター試験塔SOLAÉ(ソラエ)です。


【長束正家邸跡】
畑の中に石碑群を見つけました。
 


そのうちの一つに「長束正家邸跡」と刻まれていました。
長束正家は秀吉の五奉行の一人でこの地で生まれたといわれています(近江国栗太郡長束村の出生という説もあります)。

なお、ここの地名は長束町です。
 

このあたりの美濃路は西へ北へ何度も曲がっていますが、このような表示が整備されていることに加えて、歩道の色が変えてあるので大変わかりやすいです。
 


(続きます)


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美濃路を歩く その10(清洲)

2015-02-12 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅、4日目の記録です。
この日は名鉄 新清洲駅にバイクを駐輪して、歩き始めました。
 


現代の美濃路というべき名岐バイパス(国道22号線)を越えます。
いつものようにミラーレス一眼を取り出して撮影しようとしたのですが、なんと電源が入りません。
前日にバッテリーを充電しておいたのですが、コンセントにさしたまま忘れてきてしまったのです。
ですから、この日の写真はすべてスマホで撮影したものです。
あしからず。

交通量少なく、のどかな道です。
 

西から向かうとこのあたりが清洲の町の入口だったのでしょう。
けっこう道が曲がっています。

 

代わった祠を見かけました。
 


使わなくなった石碑を供養しているのでしょうか。


【総見院】



 


山門


本堂


立派な鐘楼


山門横のお地蔵様


【亀翁寺】




山門


「内務省御指定国宝」の文字が・・・
1950(昭和25)年までは国宝と重要文化財の区別がなかったのです。
現在では虚空菩薩像は重要文化財にしてされています。


お地蔵様


本堂


今までは、間口が狭く奥行きが深い町家タイプの家屋が多かったのですが、このあたりになると建て方も変わってきました。
 

何気ない公園ですが、
 

こういうところに美濃路の名前は残されていました。


 


  (続きます)

 


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