武者小路実篤が言ってた。30年位前の記憶なので、意解だけど。
「ココロはドコに発生するのか。分子や化合物がココロや魂を造るのか。この、ココロの震えは、ただの化学反応に過ぎないのか。」
ほぼ同義の問いかけに、「死と生」があると思うが、これは、そのうち。
オレにとってモノとは、工業製品か、手工芸品だ。ほぼ、生命由来の食品とは別のカテゴリーだ。モノにも生命由来のものがあろうかと思うがま、ソレも大概手工芸品のカテゴリーだ。
モノは、ほぼ、その全てが原材料を加工して製造されているだけの道具(鑑賞対象も、ココでは鑑賞の道具)だ。
製作者の意図や、想いはソコにはあろうかと思うが、手にする者がソレをどう受け取るかは、受け手に一任されている。
オレは、少し変わった性癖があって、家電製品の樹脂部品ひとつやバッタもんひとつ取っても「ドコカで誰かが一所懸命、コンナのモノにしてるんやな~」って感慨にふけったりする。
一瞬で破り捨てる包装紙イチマイのデザインだって、一瞬のやっつけで出来ている訳ではないだろう。手土産のケーキをくくっているヒモ一本、adidasじゃなくってadldasのクツだって、その意図や動機はどうあれ、おそらく、誰かがマジメに造っているのだ。
そして、造り手がどう想いを込めようが、手間をかけようが購入者が対価を払って受け取った時点で、受け手に全ては委ねられる。
雨ざらしにしようが、貸し金庫に納めようが、美術館に展示しようが、毎日身に付けようが、全て受け手が決めることだ。
オレの手元には、もう、10年以上(何年かわからないけど)使い続けている道具にIMCOのライターがある。以前にもここで書いたのだが、この、ブリキと脱脂綿でできた道具は、オレの人生を10年以上見つめてきた。
惚れたオンナに相手にされず悔しかったことや、その直後に家内に出会った事や、長男が生まれた時に職場を敵前逃亡して病院に直行したことや、夜中に破水した家内を病院に連れて行って次男が生まれたことや、ロケⅢ契約した日のことやら、なんやかんや家の外で起こった事には、ほぼ100%立ち会っている。
そう、モノに魂を込めるのは、造った者では、断じて、ない。
そのモノを使う者、受け取る者が、モノに魂を宿すのだ。
その魂は、モノがその者と共にある限り、生き続けると思う。
ロケⅢも魂が、宿っている。
オレの魂だ。製作者がどこにあっても、何者でも関係ない。
コイツにはオレの魂が宿り、ソレが、オレを「あちら側」に誘うのだ。
そして、その魂は、オレを知る者が、そのモノを受け継ぐ時、共に受け継がれる、と信じたい。
今、オレが死んで、家内がロケⅢを受け継ぐなら、ロケⅢに宿すオレの魂は、家内を通じてロケⅢと共にセガレ共が受け継ぐと思い込みたい。
反面、そのまま、誰かの手に渡って新たな魂を吹き込まれるのも、まぁ、悪くないような気もする。
モノには、魂が宿る。
その息吹を吹き込むのは、オレたちなのだ。