日本全国には、さまざまな巡礼の歴史が残っておりますが、なかでも四国遍路、西国三十三観音巡礼、坂東三十三観音巡礼、秩父三十三観音巡礼などが特に有名で、四国では結願すると、満願の意味で、高野山へ。
西国、坂東、秩父の三十三観音巡礼では、百観音巡礼満願ということで長野の善光寺(北向き観音とセットする巡礼スタイルもあり)。
昨今のデジタル化に伴い、なにかヒトとしての「これでいいのか?」そういう思いつめた気持ちに、「巡礼」という古典スタイルをやってみることで、自分にとって本当に大事なことに一瞬でも近づけた気がします。
はじまりは好奇心でも、時間があるからでも、ご先祖供養でも、何でもいいのですが、やってみると自分の体の中に今まで自覚したことがないような、スゴイエネルギーがあって、それを半信半疑でもう一度感じたいと思う。
そうやって、自分自身のなかで、巡礼する意味を考えるようになりました。
でも一度は、自己流でなくて、巡礼ツアーバスで回ってみたら新しい気づきがあるのではないかと。
そう思って、四国遍路4周目にして、ツアー一周約20万か30万の相場でどちらか迷い20万にしてみたのですが、私としては残念だったとしか思えないんですよ。
四国4周しているのですが、1、2週目は納経帳を両親のために回ったので、私の今の納経帳は2週目なんです。
ところが、巡礼ツアー会社のミスで、88か所のうち、最終的にご朱印を1か所だけもらい忘れた、漏れていたんですよね。
他の西国や坂東も自分の納経帳を確認してください、という時間が渡された時言われるのですが、この会社にはそれがなかったんです。
ツアーが解散してよくよく納経帳を見て、そのことを説明すると、「あなたがこのお寺が初めて行ったからでしょう?」などと言われてしまい、驚きました。
何故なら、そのお寺の宿坊を毎3回利用し、今回はツアーバスで宿坊利用無しなので、今回時点ではご朱印は2個(納経帳2冊にそれぞれ1個のご朱印)なはずなんです。
だから本来、2個のご朱印がなければならないのです。
旅行会社のチェックミスであることは言うまでもありません。
それに2020年は限定で、各霊場の御詠歌を記載したお札を、帳面とお軸を納経いただいた方に無料で配布されているのですが、88か所回って封筒にそれらが入っていて一枚一枚思い出を振り返りながら見ていると、このように墨で汚れたものが1枚入っていました。
ちよっと残念な気がしました。
自分の不確認で、納経頂くのを忘れていたとか、汚れたものを頂いてしまったとか、それなら自分が悪かったと思えます。
でもお金を払って、その期待と共に保証に値するものが得られないと後から知ると、とっても残念な気持ちになりますね。
30万のツアーにすればこんなことにならなかったかな、と沸々と考えていたことがありますが、結局巡礼はできたし、納経もできたんです。
思えば、ご朱印が頂けなかったことは残念でしたが、墨で汚れたものも、元を正せばただの紙切れなんですよね。
紙切れなんて失礼な言い方かもしれませんが、私の心の中には88か所を巡ってきた苦しさも楽しさもあります。
それが一番大事なんじゃないかと。
今は県を離れられないけれど、いつかまた、自然に抱かれながら巡礼の道を踏みしめることができたら、と思っています。
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