プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

坂上惇

2018-07-22 23:10:47 | 日記
1977年

東京は後楽園球場の右翼スタンド下。日本では唯一のバッティングセンターがある。一区画が約十畳ぐらいの広さ。これが五つ。ワンゲーム(20球)二百円。サラリーマン、学生たちが思い切り白球をたたいて一瞬のそう快感にひたるー。マシンはホームベースのところから真上にポーンとボールが飛び上がる。坂上式。この機械を生み出したの坂上惇さんが、実はこのセンターの経営者だ。「夏場と冬場ではお客の入りが違う。その意味では不安定な商売ですが、現金商売というのが助かります」。四十三年一月から始めて、そろそろ満十年。一応軌道には残っている。「最近またブームの兆しが見え始めた」とか。坂上さんのプロ野球生活は短い。二十七年、玉名高からテストで西鉄に入団。同期が怪童・中西だった。「わたしも入った時は三塁手。彼を見てしまった。えらいところに入ったと思いましたよ」。すぐ投手に転向、あとはもっぱら中継ぎ専門。二十九年ライオンズ初優勝の時は、約三分の一の44試合に登板している。三十年の途中で下手投げの太田投手(長崎商)と大映に移籍、三十二年暮れ、大映が毎日と合併する時、退団した。その後、ノンプロの播磨造船を経て、三十六年、大阪の運動具店に就職した。といっても、自分で商売するための見習だった。三十七年に福岡で坂上運動具店を開店。だが、三年もたたない三十九年、世の中は東京オリンピックでわいていたが、坂上さんの店は倒産、借金に追われる身となった。「商売は難しい。スキーで勝負、と八月ごろ大量に仕入れると、その冬、雪が降らんといった具合で・・・」プロ野球をはじめ、野球界でかなり使われた坂上式バッティングマシンを考案したのもこの時期だ。当時の金で試作料が二十万円。銀行から借金して二百台作ったが、十二球団中八球団が買ってくれた。結局、百台は売れたが、あとが出ない。そこで考えついたのが、いまのバッティングセンター式に娯楽機会としての利用。これでひと息ついたものの、社員に集金を持ち逃げされたのが倒産につながった。その後、横浜で通関業の会社に就職、そして現在のノボル産商を経営ーとなる。「営業畑で育ったが、仕事でお互いに納得するのは難しい。だが野球に関しては、相手が納得するまで教えられます。お互いが納得できるのは野球だけでしょう」バッティングセンターでお客にコーチすることもあるが、じっくり話をすれば、納得して帰っていくという。現在、事情があって福岡と東京を月のうち半々に過ごす変則生活だが、坂上さんはリトルリーグの発足に目下全力投球中。「野球で福岡の人にお世話になったので、子供たちに正しい野球を指導することで、わずかでも返礼したい」のが趣旨。少年野球リーグはぼつぼつ出来ているが、リトルリーグの方は遅れている。そこで福岡市リトルリーグ結成促進会を作った。稲尾氏(中日コーチ)もこれまで強力してきた一人だ。問題は硬球を使用できるグラウンドがないこと、話を聞いて頭を突っ込んでくる人もいるらしいが、政治的なものがからんでいたりして難しい。「純粋な気持ちで取っ組んでくれる人とやりたい」と言う坂上さん。夢の実現に走り回っている。
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井出登

2018-07-22 20:04:40 | 日記
980年

来春巻き返しのための補強第一弾として、中日は昨年のドラフト会議で四位指名し、交渉権を持つノンプロ球界NO1左腕、井出登投手(24)=178㌢、71㌔、左投げ左打ち、いすゞ自動車ー獲得に再び全力投入することになった。井出は来月上旬から後楽園で開かれる都市対抗大会に三菱自動車川崎の補強選手として出場するため、同投手への再交渉は同大会終了後になるが、中日球団はすでに打診した家族、会社関係者などの周辺折衝から「中日入り」の感触をつかんでいる。また、六日午後、川崎・木月の三菱自動車川崎の寮でのインタビューでも、慎重に言葉を選び名言は避けたとはいえ、プロ意思がうかがわれた。井出は社会人野球の最激戦区といわれる神奈川で、攻撃力に弱点のあるいすゞ自動車で孤軍奮闘。昨年まで日本鋼管の木田(現日本ハム)をライバルとして投げてきた。オーバースローから投げ降ろす力投タイプで実力的にも木田に肉迫するという評価があった。これが中日のリストアップした理由だが、当時、井出は世界選手権出場候補に選ばれており、またここ数年いすゞ自動車は都市対抗出場を合言葉にしながら、これを果せない会社事情がエースを慰留工作させ、中日の入団交渉アタックが実らなかった。
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山田和英

2018-07-22 14:51:02 | 日記
1980年

阪神は十八日午後一時から大阪・梅田の球団事務所でドラフト4位指名の大商大・山田和英投手(22)=180㌢、70㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。契約金二千万円。年棒三百二十万円(いずれも推定)。背番号は未定。同投手は大阪・柏原高時代から好投手として注目され、阪神は高校三年のとき、ドラフト6位で指名したが、大商大に進学、一年秋のリーグ戦で同大学の優勝に貢献した。その後は一年先輩の大川(ヤクルト)同期ではことし大洋に2位指名された堀井の陰に隠れて目立った活躍はできなかったが、縦に割れるカーブを武器に、大学通算9勝9敗の成績を残している。山田は入団発表の席上「大学時代、変化球に頼りすぎた面があった。もう一度真っすぐにみがきをかけてやりたい」と反省。「一軍に上がることを第一目標に、それと早く一勝したい。村山さんのように真っすぐで押せる投手になりたい」と夢をふくらませていた。発表に立ち会った小林チーフスカウトは「素材としてはAクラスだし、ボールの力ではことしの東西の大学の中でナンバーワン。大きく落ちるカーブがいいし、あとは真っすぐに力をつけてほしい」と期待していた。
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大屋好正

2018-07-22 09:53:40 | 日記
1977年

プロ野球公式戦も大詰めの段階に突入したが、一足早くウエスタンリーグでは阪急が優勝を飾り、クラウンは四位に終った。そのクラウンのファームのなかで、ひときわ明るい好成績を残したのが大屋投手だ。後半の19試合に登板して66イニングスを投げ、奪った三振39個、防御率1.09をマークして一位になった。昨年は、コントロールの甘さを突かれて、さんざん打ち込まれたが今シーズンは「シンカー、カーブが思いのままによく決まった。サイドスローが僕には合っているんでしょうかね」と大屋投手はにこやか。もともと力投型ではない大屋投手。持ち前のキレのよいカーブを生かすため、上から投げていたのをサイドスローに変え、コントロールを徹底してみがいた。ところが、フォーム改造の無理がたたって、昨秋の強化練習中ロッ骨を折ったり、右わき腹を痛め、今シーズンの前半はほとんど棒にふった。「イライラの連続でした」と大屋選手は苦しかった当時を振り返る。だが、休養した三ヶ月のブランクは、大屋投手を大きく成長させた。試合に対するどん欲なまでの執着を開花させたのである。残り25試合というところでお呼びがかかった。初登板は大量点を奪われた大屋投手も徐々に調子を上げ、下痢をしていようが、どこが痛もうが歯を食いしばって19試合に出場した。その努力あって防御率一位を取った。「コンビネーションがいいねえ。手元でストン!と落ちるカーブを覚えて幅ができた。欲をいえば、もう少し速いカーブが欲しいのと、ピンチに立ち向かう精神力が要求されるね」と三浦コーチは厳しい目で見つめている。投手陣の層が薄いクラウンだけに今後の成長次第では一軍へ上がるチャンスも芽生えてきた。大屋投手は、プロ球界に入ってまだ二年目。和歌山県の海南高から専修大に進んだが、県立和歌山商から中央大を経て大洋入りした田村投手とは、高校、東都六大学でのライバル同士。田村投手がすでに一軍で活躍しているので、大屋投手としては、一日も早く一軍入りを果たし華々しいデビューを飾りたいところ。「オフも返上して、トレーニングを積み来年のキャンプに勝負をかけます」その真剣な表情に決意のほどがうかがえた。
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1977年退団選手

2018-07-22 09:38:38 | 日記
1977年

退団後は、食べ物屋をえらぶ選手が多いが、田中は郷里の千葉県木更津で、また上垣内もノンプロ時代にゆかりの浜松で、それぞれ焼き鳥屋のおやじにおさまるという。末永は二軍マネジャー。以上のレギュラー、準レギュラークラスは、全体から見るとあくまで少数派。大本(ロ)日高(日)村上(中)新井(巨)土谷(神)小金丸(洋)根建(広)・・・・と聞いても「ハテ?そんな選手が」と首をかしげる向きが多いだろう。果たしてそれら無名選手の新しい人生は?十日現在、現役引退が決まっている人びとは、十二球団でざっと三十数人ー。
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