1977年
東京は後楽園球場の右翼スタンド下。日本では唯一のバッティングセンターがある。一区画が約十畳ぐらいの広さ。これが五つ。ワンゲーム(20球)二百円。サラリーマン、学生たちが思い切り白球をたたいて一瞬のそう快感にひたるー。マシンはホームベースのところから真上にポーンとボールが飛び上がる。坂上式。この機械を生み出したの坂上惇さんが、実はこのセンターの経営者だ。「夏場と冬場ではお客の入りが違う。その意味では不安定な商売ですが、現金商売というのが助かります」。四十三年一月から始めて、そろそろ満十年。一応軌道には残っている。「最近またブームの兆しが見え始めた」とか。坂上さんのプロ野球生活は短い。二十七年、玉名高からテストで西鉄に入団。同期が怪童・中西だった。「わたしも入った時は三塁手。彼を見てしまった。えらいところに入ったと思いましたよ」。すぐ投手に転向、あとはもっぱら中継ぎ専門。二十九年ライオンズ初優勝の時は、約三分の一の44試合に登板している。三十年の途中で下手投げの太田投手(長崎商)と大映に移籍、三十二年暮れ、大映が毎日と合併する時、退団した。その後、ノンプロの播磨造船を経て、三十六年、大阪の運動具店に就職した。といっても、自分で商売するための見習だった。三十七年に福岡で坂上運動具店を開店。だが、三年もたたない三十九年、世の中は東京オリンピックでわいていたが、坂上さんの店は倒産、借金に追われる身となった。「商売は難しい。スキーで勝負、と八月ごろ大量に仕入れると、その冬、雪が降らんといった具合で・・・」プロ野球をはじめ、野球界でかなり使われた坂上式バッティングマシンを考案したのもこの時期だ。当時の金で試作料が二十万円。銀行から借金して二百台作ったが、十二球団中八球団が買ってくれた。結局、百台は売れたが、あとが出ない。そこで考えついたのが、いまのバッティングセンター式に娯楽機会としての利用。これでひと息ついたものの、社員に集金を持ち逃げされたのが倒産につながった。その後、横浜で通関業の会社に就職、そして現在のノボル産商を経営ーとなる。「営業畑で育ったが、仕事でお互いに納得するのは難しい。だが野球に関しては、相手が納得するまで教えられます。お互いが納得できるのは野球だけでしょう」バッティングセンターでお客にコーチすることもあるが、じっくり話をすれば、納得して帰っていくという。現在、事情があって福岡と東京を月のうち半々に過ごす変則生活だが、坂上さんはリトルリーグの発足に目下全力投球中。「野球で福岡の人にお世話になったので、子供たちに正しい野球を指導することで、わずかでも返礼したい」のが趣旨。少年野球リーグはぼつぼつ出来ているが、リトルリーグの方は遅れている。そこで福岡市リトルリーグ結成促進会を作った。稲尾氏(中日コーチ)もこれまで強力してきた一人だ。問題は硬球を使用できるグラウンドがないこと、話を聞いて頭を突っ込んでくる人もいるらしいが、政治的なものがからんでいたりして難しい。「純粋な気持ちで取っ組んでくれる人とやりたい」と言う坂上さん。夢の実現に走り回っている。
東京は後楽園球場の右翼スタンド下。日本では唯一のバッティングセンターがある。一区画が約十畳ぐらいの広さ。これが五つ。ワンゲーム(20球)二百円。サラリーマン、学生たちが思い切り白球をたたいて一瞬のそう快感にひたるー。マシンはホームベースのところから真上にポーンとボールが飛び上がる。坂上式。この機械を生み出したの坂上惇さんが、実はこのセンターの経営者だ。「夏場と冬場ではお客の入りが違う。その意味では不安定な商売ですが、現金商売というのが助かります」。四十三年一月から始めて、そろそろ満十年。一応軌道には残っている。「最近またブームの兆しが見え始めた」とか。坂上さんのプロ野球生活は短い。二十七年、玉名高からテストで西鉄に入団。同期が怪童・中西だった。「わたしも入った時は三塁手。彼を見てしまった。えらいところに入ったと思いましたよ」。すぐ投手に転向、あとはもっぱら中継ぎ専門。二十九年ライオンズ初優勝の時は、約三分の一の44試合に登板している。三十年の途中で下手投げの太田投手(長崎商)と大映に移籍、三十二年暮れ、大映が毎日と合併する時、退団した。その後、ノンプロの播磨造船を経て、三十六年、大阪の運動具店に就職した。といっても、自分で商売するための見習だった。三十七年に福岡で坂上運動具店を開店。だが、三年もたたない三十九年、世の中は東京オリンピックでわいていたが、坂上さんの店は倒産、借金に追われる身となった。「商売は難しい。スキーで勝負、と八月ごろ大量に仕入れると、その冬、雪が降らんといった具合で・・・」プロ野球をはじめ、野球界でかなり使われた坂上式バッティングマシンを考案したのもこの時期だ。当時の金で試作料が二十万円。銀行から借金して二百台作ったが、十二球団中八球団が買ってくれた。結局、百台は売れたが、あとが出ない。そこで考えついたのが、いまのバッティングセンター式に娯楽機会としての利用。これでひと息ついたものの、社員に集金を持ち逃げされたのが倒産につながった。その後、横浜で通関業の会社に就職、そして現在のノボル産商を経営ーとなる。「営業畑で育ったが、仕事でお互いに納得するのは難しい。だが野球に関しては、相手が納得するまで教えられます。お互いが納得できるのは野球だけでしょう」バッティングセンターでお客にコーチすることもあるが、じっくり話をすれば、納得して帰っていくという。現在、事情があって福岡と東京を月のうち半々に過ごす変則生活だが、坂上さんはリトルリーグの発足に目下全力投球中。「野球で福岡の人にお世話になったので、子供たちに正しい野球を指導することで、わずかでも返礼したい」のが趣旨。少年野球リーグはぼつぼつ出来ているが、リトルリーグの方は遅れている。そこで福岡市リトルリーグ結成促進会を作った。稲尾氏(中日コーチ)もこれまで強力してきた一人だ。問題は硬球を使用できるグラウンドがないこと、話を聞いて頭を突っ込んでくる人もいるらしいが、政治的なものがからんでいたりして難しい。「純粋な気持ちで取っ組んでくれる人とやりたい」と言う坂上さん。夢の実現に走り回っている。