プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小山昭吉

2014-05-31 20:18:05 | 日記
1981年
・今季のシーズンも終了したばかりだが、そんな事はお構いなく秋季練習で連日の猛特訓に励むのは3年目を終えたばかりの小山捕手。「ボクも必死です」と胸の内は燃えている。一見、ヌーボーとした顔つきだが、そろそろ一軍に入りたくて、うずうずしてきた21歳である。一軍での経験はまだゼロだが、今季はイースタンで、まずまずの成績を残した。「守りの方は、もう大丈夫だと思います。これからは、インサイドワークとバッティングを上達させたい」。と猛練習に明けくれている。合宿所で朝から夜まで、やれ素振り、やれウエートトレーニングと、常に精力的に動いていることでもわかる。とはいえ、首脳陣からみれば「まだヒョッ子同然」よほど腕をあげないと一軍入りはキツイ。地元・神奈川の日大日吉高から54年のドラフト3位で入団。それだけに期待は大きいのだが、果たして小山はどう応えるかだ。

ファーム成績
1979年・打率156・本塁打0
1980年・打率185・本塁打3
1981年・打率254・本塁打3
1982年・打率171・本塁打0
1983年・打率258・本塁打2
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小鷹卓也

2014-05-28 19:55:20 | 日記
・「金田二世」といわれたほどの大物投手。本格派左腕にありがちな制球難の解消が急務である。走り込みを多くして下半身を鍛えていきたい。

年俸・「77年・200万」「78年・220万」「79年・220万」

ファーム成績
1976年・0勝0敗・防御率2,81
1977年・0勝1敗・防御率6,43
1978年・0勝0敗・防御率18,00
1979年・登板なし
1980年・4勝2敗・防御率3,00
1981年・0勝1敗・防御率4,00

1978年
・オールスター明けとともに小鷹に朗報が飛び込んできた。念願の一軍行きである。埼玉・飯能高から入団して5年目。これまでは181センチ、80キロの恵まれた体に左腕という利点を生かし切れず、まったく埋もれた存在だった。それが突然の指名。投手陣のコマ不足が小鷹に幸いしたとはいえ、持ち味のカーブが決まれば面白い存在になりそうだ。「ええ。一軍はプロ入りしてから初めてです。一生懸命投げるので期待していてください」まるで新人のように顔を赤らめ、コチコチになったのは無理もない。「まずは、ワンポイントで使ってみるつもり」という首脳陣だけに、5年目の新人、小鷹の出番は多くなりそうだ。
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岩上江笠

2014-05-27 21:50:13 | 日記
フォーム・・・横手から投げてくる変則投手 球種・・落ちるシュート

1963年

当っている近鉄は初回の失点を苦もなくはね返した。近鉄は立ち上がり板東が15球でKOされたが、山本八、小玉の好打で1点差に迫り、四回には阪急が押えに出した梶本兄に対し島田四球、土井二塁打のあと、小森が三塁打して勝ち越し点をあげ、そのあと吉沢が2点ホーマーする猛攻をみせた。阪急は一回二死から衆樹のホーマーを皮切りに3点をたたき出す速攻をみせながら、頼みの一線級投手が打たれて戦意を失い、岩上の落ちるシュートが打てず、やっと八回岩上の疲れに乗じて3安打をつらね1点を返した。近鉄はここですかさず山本重を繰り出す投手リレーで逃げ込んだ。
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井上勝巳

2014-05-27 21:43:09 | 日記
1963年

大毎は立ち上がり一死もとられないうちに山本重を十二球でKO、岩上もおびやかして四本の長短打を集中して4点を奪う快調な出足だった。ところが二回途中から救援した左腕の井上(ことし大毎から移籍)にすっかり沈黙してしまい、とどめを刺せなかったのが、後半逆転される原因になった。井上は七回まで2安打を許しただけ。シュート気味の速球とインドロを投げるピッチングで、悪いクセであるノー・コンはあまり顔を出さなかった。これで反撃意欲を整えた近鉄は、四回山本八の右翼線二塁打をふくむ2安打2四球で栗本をしりぞけて2点、七回にはディサをつかまえて木村軍、竹下、関根と3本の二塁打、さらに新鋭土井が中前に適時打して逆転し、井上はプロ入り四年目で初めて勝投手になった。

・・プロ入り初勝利をあげた近鉄の井上は勝ったことが予想外だったらしい。実感がわかないのか試合後もベンチでぼっとしていた。岩本コーチに「こりゃ、イノ」と握手を求められてやっと顔がほころんだ。でもすぐむっつりした表情にかわり「投げたのは直球がほとんど。カーブは遊びに使っただけ。手からボールが離れればあとはどこへゆくかわからないですよ」と無責任なことをいいだした。いささかタナボタ的勝利だったのでてれているかと思ったが、野口コーチに「カーブがあまい」というきついこごとをいわれていたのが原因らしい。
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松本基淳

2014-05-26 21:22:12 | 日記
プロ入団時
・「高校生にしては水準が高いな」投手陣のピッチングが始まった1月20日。長嶋監督が真っ先に目をつけたのが、ルーキー
松本基投手。都立立川高で活躍した左腕だが「ヒジの使い方がいい。リストは柔らかいし、球の回転もいい」と掘り出し物にぞっこんの90番。発掘した内堀スカウト部顧問も鼻高々だが、苦り切るのは母校。「うちは進学校。唯一、一人の就職者が松本ですから、騒がないでください」

ファーム成績
1979年・0勝2敗・防御率3,00
1980年・0勝1敗・防御率4,26
1981年・0勝0敗・防御率18,00

1981年
・「都立の星」として、54年巨人入団。大いに期待された松本基だが、今季限りで退団することが決定した。目下、松本基は日本シリーズ、対・日ハム攻略法として、中条と共にバッティング投手として一軍に参加しているが、ついに一軍の晴れ舞台で投げることはできなかったわけだ。「でも、悔いはありません。こうやって、日本シリーズにも参加させてもらってますし、いい思い出として残ります」というが、どこか表情は寂しそう。「第二の人生」は国松二軍監督の紹介で、川崎市にある印刷会社に就職が決定。営業マンとしての活躍が期待されている。「真面目なヤツだから、きっとやってくれる」というのは国松二軍監督。また、就職先の印刷会社は、元巨人の外野手だった十時啓視氏が経営しており、「困ったことがあったら、いろいろ相談してほしい」と、いっていることから松本基としても安心して働ける場所だ。第二の人生に幸あれ、だ。
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鳥坂九十九

2014-05-25 22:16:11 | 日記
1978年
・近鉄の鳥坂九十九投手が今シーズンから、巨人のバッティング投手として再スタートすることになった。近鉄時代の背番号が「99」。自分の名前通りの99番は球界で最も大きい数字だった。2年越しの交渉で手に入れた愛着ある背番号。だが昨年暮れ、自由契約をいい渡されて退団を余儀なくされていた。そこへ巨人からバッティング投手の誘いを受け、再びユニフォームを着ることになった。ところが問題は背番号。巨人には「90番」の長嶋監督がいる。「いくら99番をつけたいと思っても、まさか長嶋監督より大きいものはつけられません。何番でもいいです」とあっさり返上したのである。ジャンボ仲根と同期入団。ファームでは2試合に登板しただけだが、明るく素直な性格は誰からも好かれていた。
「100パーセント完璧な人間にはならなくてもいい。しかし、99パーセントの人間になれるように努力する男に」父親の願いが込められてつけられた名前「九十九・・つくも」。王、張本の恋人として注目を集める日も、そう遠くはないだろう。「元気でやっているか。オレのことは心配するな。みんないいヤツばかりだ」このほど藤井寺の近鉄時代の親友・仲根宅に、
こんな多摩川からの手紙が舞い込んできた。
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近藤重雄

2014-05-25 20:55:02 | 日記
1970年

川崎コロンビア時代

川崎コロンビアは、五強がひしめいていた川崎市予選を四戦全勝で、抜け出したチームでその原動力となったのは、社会人十年目の近藤重投手であった。第三十五回大会(昭和三十九年)に、決勝戦まで駒を進めて、そのときに敢闘賞の久慈賞に輝いた近藤重は、今シーズンはコーチを兼業しノックバットを持つ日が多かった。それでも、予選が始まるとじっとしておられず主戦・矢野を凌ぐ働きで予選の最高殊勲選手賞と最優秀投手賞を一人占めした。この近藤は、右腕から外角低目をつく速球を主体とし、カーブとシュートの制球力がいい。
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石床幹雄

2014-05-25 19:55:40 | 日記
1965年

注目を集めた新人選択会議で阪神は大穴あて他球団スカウトも度胆を抜かれたという。この大穴は四国の石床幹雄投手。オリーブで知られる小豆島出身のまったくの無名選手である。土庄高では二塁手兼リリーフで第二投手。むろん甲子園にも出たことがない。そんな埋もれた大器を見出したのは佐川スカウトで、一目みてゾッコンほれたとか。リリーフ投手だったのも、「二年生のとき高松高から転校したので、一年間出場できなかったからだ。シュートがよくてまれにみる本格派だ」という。もっと、したり顔なのは戸沢社長、藤本総監督ら。「だれも知らんかったやろ。けど実力派堀内なんかよりあると思う。来春のキャンプが楽しみや」と他球団のウラを完全にかいたこともあたって得意満面。
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三橋豊夫

2014-05-25 13:28:43 | 日記
1971年

「これまでいろいろな新人と話をしてきたが、彼ほど素直な性格な持ち主をみたことがない」と、松園オーナーを感服させたのが、日通浦和から入団してきた三橋(みつはし)投手。「ノンプロ時代はほとんど直球ばかり投げてきました」という大型サウスポーに、球団では元国鉄が生んだ大投手、金田兄の背番号を三橋のために用意したほど大きな期待をかけている。出身校は、甲子園とは無縁の埼玉県立鴻巣商、タマは滅法速いがどこへいくか自分には分からない・・というところまで金田兄の若いころにそっくり。育ての親というべき日通浦和稲葉監督の反対を振り切って、あえてプロ入りしただけに、相当の決意と根性の持ち主とみた。唸りを生じて投げ込まれる金田二世の快速球がいまから楽しみである。
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長持健一

2014-05-24 19:06:58 | 日記
1969年

テスト生あがりの名選手といえば、山内(広)野村(南)土橋コーチ(映)など多士済々だが「ボクも将来は土橋さんのようなエース投手になりたい」と大きな夢を持ってオープン戦に参加しているのが東映の長持。早くも二試合に登板(二十一日現在)三イニングで二安打というかなりの成績を残している。長持はかつて東急ー広島で鳴らした長持栄吉外野手(埼玉県教育委員会)の甥で、昨年東映のテストを受けて合格したばかりの投手だが、東京駒沢中学時代は二塁手、そのあと国士舘高を一年で中退し、自衛隊に二年在籍、さらに小西電機でサラリーマンという変わった経歴の持主。野球の経験も、草野球と自衛隊仲間と軟式を楽しんでいた程度で、投手としてのキャリアも殆どない選手だ。一メートル七五、七三キロと体はまずまずだ。長持は「忍耐力では誰にも負けない自信がある。堅いボールにも馴れたし、将来は速球で勝負できるピッチャーになるのが夢」と張り切っている。松木監督は、この長持をオープン戦メンバーに組み入れた当時はバッティング投手として考えていたそうだが、今では第二の土橋として注目している。みっちり鍛えれば面白い投手になるだろう」と第二の土橋長持に目をかけている。
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岡田光雄

2014-05-24 18:51:05 | 日記
1969年

藤井寺の秋季練習で、中原コーチの下で、岡田、五十嵐、芝池、水谷、半田の五投手が、Aグループとして、シゴかれている。この中で筆頭の岡田投手は、今シーズン有望視されていた芝池、水谷を抜いて、いち早く第一線に躍り出て九勝をあげ、鈴木、清、佐々木につぐ四本目の柱に成長したルーキーで、来シーズンは十五勝は固いとみられている。ノンプロ・松下電器から近鉄に迎えられた今シーズンの初めは、速球とドロップだけが武器であったため打ちこまれることも多かったが、半年でシュートをマスターしてからは勝星もふえてきたのである。そこへ、さらにパームボールを覚えてピッチングの幅を一段と広げようというわけで、いま中原コーチの指導で落ちる球の習得に余念がない。パームボールといえば、ロッテの小山投手が、その一人者といわれているがこの岡田投手の体格も、小山の一八三センチ、七三キロに比して身長は同じ、体重は七五キロと似ており、持前の制球のよさに加えて、この体格を生かせば、小山投手同様の落ちる球の名手になれるとみられている。「ことしは、よいピッチングをしているときでも、六、七回になるとくずれることがあった。これは球種のすくないこともあったが、力の配分がうまくやれなかったからだ。来シーズンは、パームボールを覚え、力の配分さえ考えたら、九回中に一度くずれるというようなことはなくなると思っている。二年目のジンクスなんて、このパームボールさえ覚えたら、なんでもありません」こう語る岡田は、入団当時「右の鈴木投手になる」といっていたが、その鈴木は入団の年に十勝、二年目には二十勝投手となっているだけに、来季は十五勝どころか、二十勝を狙いたいところ。投手としては、小さな尻の持ち主で比較的弱い下半身を鍛えるために、ピッチングの外に、人一倍のランニングで汗を流している。
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阿部良男

2014-05-23 21:57:10 | 日記
1972年
・このところ毎朝、目が覚めるとまずスポーツ紙の打撃30傑を見てからでないと、洗面どころではないというのが阿部である。「そんなに穴のあくほど読まなくても・・」と同僚に皮肉られる場面もあるが、「プロ4年目、やっと30傑に載っているんですからね。この気持ち、プレーしているものしかわからんだろうな」5月21日以降、1番に定着してから順調に上昇線に乗り6月27日現在、打率267の19位。西鉄では2番目の成績だ。「このままいけば、パの№1の1番打者になれる」と関口コーチにいわれて、「野球をやめようかと思った時期もあるが、今は楽しくて仕方ない」とは現金なものである。
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マイナープロ野球選手の生年月日

2014-05-22 22:46:31 | 日記
大谷泰雄(近鉄) 169㌢ 75㌔ 右投右打 昭和22年10月20日生

堀田芳信(東京) 177㌢ 70㌔ 左投左打 昭和24年8月7日生

松室武(南海) 175㌢ 78㌔ 右投右打 昭和19年6月27日生

上別府幸一(西鉄) 180㌢ 70㌔ 左投左打 昭和21年12月12日生

坂英男(南海) 176㌢ 70㌔ 右投右打 昭和24年6月10日生

小山正(大洋) 179㌢ 78㌔ 右投右打 

畑口健二(大洋) 179㌢ 80㌔ 右投右打 昭和22年7月18日生

松本忍(中日) 176㌢ 67㌔ 左投左打 昭和22年6月17日生

杉斉英(中日) 182㌢ 78㌔ 右投右打 昭和22年5月6日生

大津秀美(西鉄) 178㌢ 72㌔ 右投右打 昭和23年6月5日生

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笠間雄二

2014-05-22 20:32:18 | 日記
・パワフルな打撃と強肩が売り物。声の大きさはプロ随一で、ナイター中継の音声に笠間の声だけは入るほどだ。この持ち前のファイトでチームを元気づける。あとは、捕手としてのち密さが加わればレギュラー候補の筆頭である。

年俸「77年・220万」「78年・420万」「79年・360万」「80年・400万」
「81年・520万」「82年・660万」

1979年「イースタン・リーグ」
・茅ヶ崎球場の場外の松林へ5号をぶち込んだと思ったら、日ハム9回戦「6月24日・浦和」では石井から6号ホームラン。
「スピーカー」と呼ばれる大声を響き渡らせながら、ただいま「ホームラン王」で頑張っていた笠間「巨人」に28日、待望の「一軍呼び出し」がかかった。ファームでの精進を認められての堂々の昇格だけに、笠間はもちろん大喜び。「1年目のように、自分の持っているものをすべて出し切りたい」とやる気満々だが、前へ突っ込みぎみだったフォームとドア・スイングを矯正したのが、いまの「変身」につながった。8試合連続安打を2度記録したのがその証拠だし、粗さが目立ったバッティングに確実性が出てきた。中司とチームの打点王争いを続けたのも「乗ってる」証拠。「ファームへすぐにUターンはないだろう」・リーグ関係者と、ここにきて周りの見る眼も違ってきた。入団以来、地肩の強さは定評があったが、最近はモーションが小さくなった上、コントロールがついて、盗塁阻止率も6割台をいったりきたり。6月16日のヤクルト5回戦「茅ヶ崎」では右翼の風が強いと見るや、たて続けに見事な流し打ちをやって、「お前にもあんな芸当ができるんだなあ」と、岩本二軍監督をうならせている。江川の女房候補№1として、ジュニア・オールスター戦の出場も確実視されており、「イチから全てやり直し」といっていた男に、ようやくチャンス到来の夏がやってきた、というところ。「スピーカー」の本領を発揮して、
ガンバレ笠間!
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沖泰司

2014-05-21 22:29:30 | 日記

・高校3年時「松山商業」の1978年、捕手で4番、主将も兼ねて甲子園に出場。社会人時代「スリーボンド」の1985年、都市対抗で3試合連続本塁打。プロ入りしてからスイッチヒッターに転向し、ポジションも内野ー外野ー捕手ー内野と毎年、目まぐるしく変った。

年俸「87年・480万」「88年・530万」「89年・650万」「90年・650万」

ファーム成績
1989年・54試合、打率197、本塁打1、打点9
1990年・44試合、打率271、本塁打0、打点14

1986年・3月22日・オープン戦・日本ハムー西武「後楽園」
西000000010・1
日00010013・・5
勝ち・津野、負け・串原
本塁打・パットナム2号、沖1号

・日ハムの新人・沖が12球団トップのルーキー・1号アーチをかっ飛ばした。5回から古屋に代わって三塁の守りにつき、第1打席は空振りの三振。2打席目は8回無死1,2塁のチャンスで登場だ。西本の4球目、真ん中高めをフルスイング、打球は左中間スタンドへ飛び込んだ。「ルーキーの中で最初にホームランを打てて気持ちいいですね」とニッコリ笑った。スリーボンドから入団。社会人だった昨年、都市対抗でジャンボ席に特大のアーチを放つなどパワーには定評があった。高田監督は「新人の一発は自信になるよ。とにかくパンチ力があるね。名護キャンプのときは一番悪かったけど、フロリダ・キャンプからオープン戦と調子を上げてきている。ルーキーとしては一番いいパターンだ」と、こちらもニッコリだ。1月には長女・樹莉亜
「じゅりあ」ちゃんが誕生し、それまで住んでいた八王子から合宿所近くの川崎市中原区の3DKのマンションに引っ越した。妻の佳保里さんは、「新居」でテレビの前に正座して夫の活躍を見守った。「前の打席で三振したので、ダメかなと思ったところへホームランでした。うれしくて飛び上がってしまいました」夕食はハンバーグの予定だったが、急いでごほうびのステーキを買いに行った。「25歳になりますので、他のルーキーより厳しい。1年目からガンガン行きますよ」と沖はいい残し、妻と長女の待つ自宅へ急いだ。
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