プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

財津守

2016-10-30 18:59:55 | 日記
1962年

財津が初ホーマーした。七回一死後水谷投手の初球内角高目のストレートだった。「ぼくは力のある方じゃないですからね。むしろホームランより確実にヒットすることを心がけているんです。ホームランはミートがよかったからでしょう」財津はあたりまえといわんばかりだ。「腰がスムーズに回転していると思っているし、バットも出ているんだが・・・」という財津は紅白試合の通算打率は二割一分二厘。昨年森(大洋移籍)の代打で登場していた当時とくらべてさびしいかぎりだ。「いまはヒットするよりポイントを確実につかむ段階だ」とフォームの調整に夢中だが、濃人監督は「財津はうまいバッティングをしていた。しかしもう一つ甘いところがある。自分でボールと思ったらツー・ストライク後であっても絶対に手を出さない。一線級の投手に当って、コーナーぎりぎりの球をきれいなコースでもファウルするようにならなければ」といっている。昨年後楽園の対国鉄戦に左足小指をスパイクされて骨折したとき財津はスパイクを切ってまで出場したほどの根性の持ち主。だからチーム内で「財津の目の色を見ろ」と競争相手の合い言葉になっているほどだ。その財津がねらっている右翼には強敵長谷川が控えている。「ぼくは競争するからにはどんなことがあっても負けたくない。泥棒でも日本一になればいいと思うくらいですよ」最近の紅白試合ではもっぱら一塁を守っているが、寺田が当たっていないだけにあるいは財津がその位置を奪うことも考えられる。そのためには中日一の根性の持ち主も好打者に生まれ変わらなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妻島芳郎

2016-10-30 18:31:52 | 日記
1962年

妻島はノンプロ時代にコントロールがいいと聞いていた。ところが試合になると立ち上がり中にホーマーされたせいもあるだろうが、堅くなり、コントロールがくずれた。腕がちぢんでしまった。三回一死もとれずに降板、打者十六人安打九(本塁打三)失点八、オープン戦とはいえプロ入り初登板にしてはさんざんな成績。妻島のウイニング・ショットはスライダーと沈むシュートだというのに、スライダーをはじめから多投して自滅した。内、外角をつくバラエティーにとんだピッチングをするべきだった。日大二高時代の球拾いからプロ入りするまでになった選手。「非常にまじめで典型的なサラリーマン・タイプ」というトレーナーの器だがまじめさだけではプロ球界ではとり残される。もっとドライに割り切った方がいいのではないか。日大二高、日本通運、1㍍78、70㌔、右投右打、二十四歳、背番号11。

毒島投手の話「力が十分出せなかった。中さんに0-2からど真ん中に投げ込んで一発を打たれたショックが消えなかった。コントロールもなかった」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山崎武昭

2016-10-23 18:52:13 | 日記
1963年

昨年まで左手親指の内側にできていたマメが今シーズンは指の上からつけ根にかけて大きく広がった。これはボールを深く握ってフォークボールを投げるのと、カーブのときに親指にひっかける位指を上にしたからだという。リーグ戦一か月前まではこのマメが二か所も切れて痛がっていたが、リーグ戦にはいるころにはすっかり固まり、自信を持って投げ込んでいる。「カーブとストレートだけではやはりヤマをかけられますからね」と要所は今シーズンから使いだしたフォークボールを多投している。山崎は早大がにが手らしい。「いまいうと二回戦から出してもらえなくなるから・・・・」と原因をかくしているが、早大からシャットアウト勝ちはこの日がはじめて、二年の三十六年)の春からマウンドを踏んだ山崎だが、早大戦の勝ち星は二年の秋の先発して6回1/3を投げて勝利投手になったのがただ一度の勝ち星だ。昨年春は一回戦に先発して三回でKO、秋は一回戦に先発して8回1/3で引き分け、三回戦は先発で六回投げてKO、しかも敗戦投手になるなど、法大に入学してからの対早大戦はこの日で6試合2勝1敗。「意識しているわけではないんだが、意識していまう」という。この日は今シーズン二度目のシャットアウト勝ちを記録したものの、七安打と今シーズンで一番多い安打を打たれている。だがナックルボールをおぼえたのと、カーブの切れがよくなったので今シーズンはまだ4試合で31イニングしか投げていないが、奪三振24と昨秋の奪三振30をはやくも越そうとしている。「雨で練習ができず、投げ込みがたりなかったので心配だった。肉体的にも精神的にもきょうの試合が一番疲れた」となげいていたが、昨秋の対慶大四回戦のリリーフから続いている自責点なしの記録を45イニング2/3と伸ばした。高知商出身、法学部四年、1㍍77、74㌔、左投左打、背番号17。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村瀬広基

2016-10-23 18:12:00 | 日記
1962年

村瀬の今シーズン初勝利は伊藤の中堅左ライナーをスライディング・キャッチした国松の美技できまった。背中を痛めてノックもやらず、静養中(? )の別所コーチがマウンドからのんびりした顔でおりてくる村瀬のところにまっしぐらに走っていったのが印象的だった。「そりゃええもんですわ」初勝利の味をきかれて村瀬はあいきょうのある顔をほころばせた。「前半はシュートで、後半はストレートで勝負したんや。しかしきょうはツイとったわ。逆にワシに追い風ではなく打者に追い風やったら四回くらいでKOされとった。三回の式田、五回の財津の当りは完全にホームランになっとった。それにはじめころぎょうさんいい当たりされたやろ。まあファイン・プレーで助けてくれはったし、中日さんはそれだけツイてなかったんや」昨年の九月はじめに巨人入りし、たちまち5連勝してリーグ優勝に大きく貢献。ことしはエースの一人と期待されながら村瀬はさっぱりだった。昨年冬季練習でスライダーを覚えたことが原因だそうだ。スライダーのにぎりのためか球質がすっかり軽くなってしまい、別所コーチから村瀬にスライダー禁止令が出た。「スライダーは三球使ってまっせ。投げられるんやから、スライダーもあるでえ・・・というのをみせとかんと損や。そやけどみな完全なボールばかり投げたんや。打者の目を混乱させたらそれでええのやからな」といいながら、一番ピンチだった七回の無死一塁で江藤を遊ゴロ併殺打させた球は「スライダーですわ」とヌケヌケと答えた。これを聞いた別所コーチ、ギョッとしたような顔をして「あれ、村瀬のやつ、勝手にスライダーを使ってやがるな」とニガ笑い。藤田が村瀬のところへやってきた。「やっと一つ目を出したな」一つ目とはもちろん1勝のこと。村瀬はこの先輩に帽子をとってうやうやしく頭をさげた。「村瀬が出てきたからあとは柴田だ。夏場にはベテランはへばるから、若手のジョー(城之内)村瀬、柴田が出てこないと乗り切れないからね」別所コーチはさっそくつぎの売り出しのことを考えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹中惇

2016-10-23 14:55:38 | 日記
1962年

「タケ、カムオン。ストライクだけよ」三回竹中がボックスに立つと一塁コーチャーの与那嶺から声がかかった。ウエーティング・サークルで二本のバットを軽々と振っていた竹中はきこえたのかきこえないのか、まったく無表情。カウント0-2。「つぎはいい球くるよ」口に手がメガホンを作った与那嶺がさかんに声援した。打球は久保投手のグローブをかすめて中前へ。「第一打席でフワーッとバットが出てしまったので思い切ってためたんです」仲のいい財津は半平さんと呼び、江藤にいわせると電信柱の竹中だが、話し声はきわめて小さい。「オープン戦もこれで三度目。やっとプロの試合のふんい気というものがわかってきたところです」日大時代に神宮のエースだった竹中だが、三塁手はまったくのしろうと。「三回のトンネルははずかしかったですよ」バウンドを合わせようか、合わせまいかとまどっていた竹中の長い足の下を、小森のゴロがスルリと左翼江藤の前までころがった。「ゆるいゴロは絶対待っちゃダメですね。その前に高木(守)河野さんがエラーしたでしょう。ゴロさばきのうまい人がやるんだからと思ったのがいけなかった」といっているが、四回トップの黒田がドラッグ・バントの構えを見せたときには、すばらしいスタートで三本間の真ん中あたりまで走っていた。「コーナー・ボールを打てなければダメだ。まだ速球を打つことができない。だから速球を打つポイントさえつかめるようになればしめたものだが・・・」濃人監督のバッティング評はきびしいが、その内野守備になると「ゴロ一つ捕るにしても竹中には素質が見える。要はカンだけだよ。そのために竹中を試合にどしどし使う」竹中は五回で前田と交代したが、代打に出た前田をくやしそうに見つめながらベンチの真ん中にすわっていった。「補球と選球のタイミングさえつかめれば・・・」前田に負けないといいたいのだろう。濃人監督はその竹中に第二の長島になることを期待している。日大出身、1㍍83、80㌔、右投右打、背番号18。二十二歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山中巽

2016-10-23 12:56:43 | 日記
1962年

山中は高校時代より力強さが加わり、スピードも増した。力いっぱい投げようとすると球がうわずるが、軸足が折れなくなり、投げおろすので球の角度が鋭くなった。これが一つの進歩。つぎにカーブの切れが非常によくなった。タテに変化して角度が鋭い。とくに四回パ・リーグの首位打者候補といわれる榎本を内角へくい込むカーブで三振にとったあたり、すばらしいもの。これが第二の進歩。だが右打者に対する内角シュートはスピードがあり、いいコースをつくが、左打者の外角シュートはまだ甘い。その球がこんごの研究課題だ。中京商出身、1㍍83、75㌔、右投右打、十八歳、背番号21。

山中投手の話「葛城さんまでずらりスターが並んでいるので顔は見ないで投げた。ミットだけ見て投げました。紅白試合で投げすぎて、一度調子は落ちたが、いまは上り坂です。思い切って投げた球が予想より速かった」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田敏美

2016-10-23 12:01:56 | 日記
1962年

西鉄の宇高渉外部長は十四日、秋田市のニュー・グランド・ホテルで秋田県十和田高の米田(まいた)敏美投手(18)=1㍍78、68㌔、右投右打=と契約、入団を発表した。ホップする速球が武器でシュートの切れもよく球は重い。大洋からも誘われていた。

米田投手の話「プロ野球は昨年秋田で巨人と国鉄の二軍戦しか見たことはありません。なにもわかりませんが、稲尾さんのもとでがむしゃらにがんばります」

宇高渉外部長の話「球が重く、手もとでホップする速球がなかなかいい。まだ足のけりが悪い点など荒けずりだが、体力もあるから将来が楽しみだ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラウンスタイン

2016-10-23 11:06:44 | 日記
1962年

阪神タイガースに入団したカリフォルニア大のマーク・ブラウンスタイン投手。昨年カリフォルニア大に移るまでは野球の名門、デューク大で二年間三塁手をつとめ、打率・480と・320をマーク、サンフランシスコ・ジャイアンツに勧誘されたことがあるが、投手に転向して腰を痛め対校試合ではさっぱり。アメリカ・コンティナー会社社長のむすことあって金にはこまらず、阪神と契約した理由がふるっている。「旅行はできるし、日本の古い文化にも接触できるし・・・」それに知友もつくっておけば「将来商売にも・・・」。さて今シーズン、日本のファンにどんなベースボールをみせるか。

期待のブラウン投手がやっていて戸沢代表はごきげん。午後一時からの記者会見の前に三塁ベンチまでわざわざ出むいていって、ブラウンを選手に紹介したり、記者会見が終わるとさっそくカメラマンに早がわりしてたてから横からブラウンのユニホーム姿を写したり、練習が終わるまでつきっきり。「ロッカーの整理もきちんとしているし、性格もなかなかまじめそうだ。技術の方はまだわからないが、からだもいいし期待できそう」とニコニコ。記者会見ではつめかけた報道陣にコーヒーをサービスしたり大変な力の入れようだった。左足のスネを痛めていた藤本監督は、この日練習を休んだ。十五日は休養日。

キャンプ・イン三日目のブラウンが力いっぱい投げておどろかせた。三十球の全力投球。まだボールが指にひっかからないのでシュートしたり、スライドしたりコントロールが十分でないが、球速はすごい。小山、渡辺らが「あんなに速いのを投げてだいじょうぶか」と目を丸くしていた。「暖かくなってみっちりやればすごいスピードが出そう」と戸沢代表が喜んでいた。

オープン戦

先発の予定だった飯尾がゲリのため阪神はブラウンをはじめて起用した。雨がふりつづく中で強行された。グラウンドはやわらかく、そのうえ選手の吐く息が白く見える寒さ。ブラウンは「こんな雨でやる?」と両手をひろげ、肩をすくめてマウンドに上がった。まだレギュラー・バッティングにも投げたことのないブラウンはさんざんだった。一回国松、渡海と連続四球。二人とも一度もバットを振らずらくらくと一塁へ歩いた。ブラウンのコントロールの悪いのを見越して巨人は徹底的なウエーティング。ブラウンは懸命に投げ、王を三振、長島を三ゴロにとったが、長島の七球目のとき走者がいるのを忘れ、ゆっくりワインドアップしてダブル・スチールをやられるほど落ちつきを失っていた。つづく宮本には肩にぶつけて二死満塁。森も四球で押し出しの1点。須藤には左翼線に満塁二塁打をくって3点とられた。阪神ベンチが一回かぎりでブラウンをひっ込めたのは当然。スピードはかなりあるが不安定なフォームで、わずか一回で4四死球という無制球ではどうしようもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吹田俊明

2016-10-23 10:45:21 | 日記
1962年

富田林高から三十二年近鉄にはいったときと違い、今度は一週間ほど考えた。からだの調子は昨年近鉄退団のときとくらべ、カッケもなおったし、ずっといい。問題は技術面だった。天鉄では成田監督(慶大OB、元国鉄投手)から「アマ規定で一年間は試合に出られないのだから、ゆっくり自分のフォームをつかめ。それには高校時代のピッチングを思い出すことだ。またノンプロでは連投が多くなるから、スタミナをつけるように」といわれただけだった。ぼくも三十七年の後楽園出場を目ざして、フリー・バッティングの投手をすすんで買って出た。まずコントロールをつけることを第一目標をおいた。プロでは球が速いだけでは通用しないことを四年間の近鉄生活で痛いほど知らされた。制球力をつけるには、バッティング投手はずいぶんプラスになったと思う。また近鉄時代、ミケンズから教えられた沈む球も、どうにか投げられるようになった。天鉄にはいってからも、実をいうと近鉄・根本コーチにはいろいろきいていた。「ピッチング・フォームがかたく、不安定なのは下半身が弱いからだ。下半身を強くするにはランニングが第一」といわれて一生懸命走った。一年間プロを離れたことで、過去の自分のピッチングを反省することができた。「体調も上々だ。あとはゲームのカンだけ。さしあたって来シーズンは十勝ライン突破を目標にやる」

目標にする選手、その理由 とくにない。好きなタイプの投手は、米田君(阪急)のような球の重い投手。

ウイニングショットは 近鉄時代と同じように速球。それと外角のスライダー。落ちる球は投げたいと研究中だ。

趣味、ニックネームとその由来 名前のうえをとってフキ、トンコという呼び名もあるが理由は知らない。趣味は川釣り。

身長、体重、きき腕、生年月日、現住所 1㍍78、75㌔、右投右打、昭和十二年六月九日、八尾市老原494。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新山彰忠

2016-10-23 10:07:02 | 日記
1962年

新人らしからぬ落ちついたプレート・マナーに王将クラスの風格がある。ところがピッチングの内容はというと王将クラスにはかなり距離があるようだ。まず第一にスピードが不足している。キャンプ・インがおそかったので調子を整える段階であることはたしかだが、尾崎や城之内のようなすご味がない。スリークォーターから整った投げ方でストレート、カーブ、スライダー、シュートを投げわけるが、打者に対する威圧感はとぼしい。きわどいコースにはいった球は打たれないが、ストレートでもカーブでもコースがあまいとすぐいい当たりをされていた。六回まで八十六球投げたが、ストライクは五十八球でボールは二十八球だった。つまりストライクの二にボール一の割り合いだ。でも打たれて点をとられた二、三回は、このストライクとボールの比率が三対一の割り合いになった。六イニングで一つしか四球を出さなかったことを考えても、コントロールのよいピッチャーであることは立証ずみ。しかしそのコントロールのよさがかえってアダになってストライクを投げすぎるピッチャーという感じさえする。長所は外角球にすばらしいコントロールを持っていること。プレートいっぱいに投げ込んでくるカーブも、外角いっぱいにきまったときはいいが、肩口から真ん中にはいった場合はひとたまりもない。二回藤本(伸)にタイムリーを打たれた球がそうだったが、これは新山にとってもっとも危険な球だ。相手の村瀬の球はなんともいえない重いひびきで藤尾のキャッチャー・ミットにおさまっていたが、新山の球を受ける野村のミットはポン、ポンと軽い音。あの音だげから判断してもボールは軽い感じだ。パ・リーグには大毎、東映、西鉄というパワーのあるバッターがそろっているチームが多いから前途多難だが、完全にできあがったつぎの登板に注目したい。法大出身、1㍍79、75㌔、右投右打、二十二歳、背番号10。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富永格郎

2016-10-23 09:25:43 | 日記
1962年

「トミ(富永のこと)今シーズン久保が好成績あげている理由知ってるか? 速球が低目にきまっているからだよ。きょうオマエがよかったのもドロップが低目にきまっていたからだぞ」水原監督が気の弱い富永にハッパをかけていた。しかし、この日の富永はいつもとちょっとちがった。「きょうは負ける気がしなかった。走者が出たって点をとられるとは思わなかった」めずらしく強気だ。「リリーフなんて聞いていなかったので、ちょっとあわてたね」開幕カードの先発を思い出したのだろう、ニヤリと笑った。「あのときはどうも落ちつかなくてね。雲にでものったような感じだったが、きょうはドロップが切れていたから落ちついて投げられた。勝負どころではほとんどドロップでいった」そして汗でくもるメガネをふきながら胸を張ってロッカーを見渡した。「暑さには強いんだ。毎年八、九月の後半戦に調子があがってくるんだ。でもいつも後半戦にちょいと顔を出すのでは申しわけないからね。ことしは・・・」そこでプツンと言葉が切れた。この試合に勝って5勝目。白星の少ないのが気にかかるようだ。「どうも出足が悪くてね。これで3連勝だが、間があきすぎていて連勝もピンとこない」シャワーを浴び、着がえをすませると試合中かけていた金ブチのメガネを黒いプラスチックのメガネのものにあわててかえた。「金ブチのメガネなんていやなんですよ。第一キザでしょう。こんなのかけたくないんだけど、いままでのやつだと、投げているうちにズンズン鼻の先の方へ落っこちてくるんですよ。しかたがないからこの間買っちゃった」金ブチのメガネがテレくさいというあたり、いかにも地味な富永らしい。「トミさんのピッチングはほんとうにハデなところはない。性格そのものですよ。そのかわり、実用本位のメガネみたいですよ」張本が大声で富永を擁護した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラウンスタイン

2016-10-22 23:37:39 | 日記
1962年

一回表だけほうったブラウンの成績は打者八人に四つの四死球と二塁打二本。三十八球ほうって3点とられるあいだに十九分かかった。その間小雨は降りっぱなしで、ブラウン投手の初登板はさんざんのていたらくだった。それでも帰りのバスの中での一問一答はなかなか愉快だった。

ー固くなった?「からだ中カチカチ。バッド・デー・ネクスト・タイム(悪い日だった。このつぎにやるよ」

ーどんな球をほうった?「ボールしかほうらない」ここでブラウン君はニヤリと笑った。なかなかのユーモリストである。でもそのすぐあとでまじめな表情にもどり、ストレートとシュート、カーブの三種類投げたとしゃべった。

ー調子は?「まだまだ。ネクスト・タイム」

ーストライク・ゾーンはどうだった?「高目はあまりストライクにとらないが、低目はあまい」

そのあとであまりいいわけはしたくない、という意味のことを何回もしゃべっていた。まじめな好青年といった感じだ。近鉄のミケンズをひとまわり大きくしたようなからだをしているが、スピードはない。スリークォーターから投げる球はいろいろと変化するが、コントロールはさっぱりだ。二週間ばかり前にも甲子園でブラウンのピッチングを見たが、ベテラン捕手山本(哲)が閉口するほどの荒れ方だった。一分間に一球ぐらいの割りで暴投がとび出す。その間にも山本(哲)がやっととめるようなひどい球がいくつもあった。梶岡ピッチング・コーチは「ボールの握り方も知らない」といっていたが、あらゆる面で投手になりきっていない感じだ。足腰が弱いからピッチング・フォームそのものにも安定感がない。りきみすぎてボールは高目に浮きっ放し、カーブはほとんど外角遠くにはずれていた。ただ握りがいいかげんなためか、シュートがいろいろ変化するのがおもしろい。無死一、二塁で王を三振にとったのもその球だし、長島を三ゴロにうちとったのもシュートだった。長島を打席に迎えたときはとくにコチコチになったそうだが、いくらかたくなったといっても、一、二塁に走者がいるのにワインドアップでやすやすと重盗されたのはひどすぎた。ブラウンの球を打った王も長島も「ボールが遅かった」といっていたが、長島は「まだでき上がっていないのでしょう」と同情的だった。藤本監督も「テスト・ケースとして投げさせてみたがコンディションも悪かったし、もう一度チャンスを与えてどんな球を投げるかためしてみる」といっていた。初登板、しかも一イニングだけのピッチングで評価するのも気の毒だが、今シーズンは大して期待できない。

マーク・ブラウン カリフォルニア大出身、1㍍88、90㌔、右投右打、背番号18。二十二歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラウンスタイン

2016-10-22 23:15:25 | 日記
1961年

阪神では二十五日午後北区梅田の球団事務所でアメリカ、カリフォルニア大のマーク・ブラウンスタイン投手(22)=1㍍88、90㌔、右投右打=の入団を発表した。同投手は高校時代は三塁手、1956年デューク大からカリフォルニア大に移って以来投手に転向した。ことしのカリフォルニア大での成績は3勝0敗。南カリフォルニア・セミプロでも11勝2敗の成績をあげている。阪神入りのいきさつは同投手が「ぜひ日本で野球をやりたい」という希望をもっており、貿易商をやっている父親が戸沢代表の友人にあたる某貿易商にそのむねを伝えたことから話がまとまったもの。なお同投手は来年二月上旬に来日する予定になっており、ブラウン投手で登録される。

戸沢代表の話「この話はことしの夏ごろからあった。からだも大きいし、まだ若いのでとることにきめたが、実力は全然わからない。セミプロで優秀な成績を残しているが、そのセミプロのレベルがわからないので話にならない」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラウンスタイン

2016-10-22 22:44:46 | 日記
1962年

阪神の外人投手マーク・ブラウンスタイン(MARK・BROWNSTAIN)が十三日来日。十四日から甲子園球場の練習に参加した。

「十分間だけ走ってもいいか」エース・ナンバー18の新しいユニホームを着たブラウンは、グラウンドを出ると記者団に断ってランニングをはじめた。「天候が不順でトレーニングは少しもしてこなかった。それに日本はやはり寒い。でも日本のプロ野球のことはいろいろ聞いてきた。大学には日本の新聞もあるし、向こうをたつ二週間前にドローチャー(ドジャースの監督)からもいろいろ聞いた。でもこの球場は予想していた以上にりっぱだ。大きいし、それにたいへん美しい」カリフォルニア大学で経営経済学を専攻。この一月に学位をとったというこのインテリ投手はなかなかじょさいがない。「ピッチング・フォームを写真にとる」というとさっそく右翼のブルペンで大和田捕手を相手にピッチングをする。「全然練習していないそうだが、それにしてはフォームもよく整っている。外人独特の手首の使い方だが、やわらかそうだ。評判どおりのすごいスピード・ボールを投げるかもしれない」鋭く切れるスナップを見て梶岡コーチが目をまるくしてPR?20球ほど投げたあとソロムコをさそってまたランニング。「うわさでは肩を痛めたとかヒジを痛めたとかいろいろいわれているそうだが、私は一度も故障したことはない。いまは寒いからムリだが、暖かくなれば得意のスピード・ボールをお見せする。カーブとチェンジアップも投げるが、勝負のときは上からの速球でいく」約一時間のトレーニングを終えたブラウンは、ぶあつい胸をドスンとたたいて自信たっぷりだった。

ドイツ系特有のがっちりはったアゴ、白い皮膚、太いマユ。映画ベーブ・ルース物語に出演したウィリアム・ベンディックスに似たブラウンは、意外に日本語がうまい。伊丹空港に出迎えにいった戸沢代表は、のっけに「どうもご苦労さん」とあいさつされてびっくりしたそうだ。記者会見でも盛んにかたことの日本語を得意そうに使った。「ライスたいへんおいしい。ジャパニーズ・ビールもおいしい。スシもOK」カリフォルニアで約二か月日本の女性に日本語のレッスンを受けたそうだ。それになかなかのおしゃれ。ロッカーでユニホームに着かえるのに十五分もかかった。ズボンの長さを気にしたり、バンドのところにできるシワを何度も直したりしてつきそいの杣田マネジャーをいらいらさせたが、本人は「プロはみだしなみも大事。お客さんにみせるのだから、時間があればもっとすっきり着るんだが」とケロリとしていた。そのせいか阪神のシマのユニホームがよく似合った。「ひまをみて日本民族の習慣、エチケットを勉強したい」と二十一歳のインテリ投手はいっている。

1941年カリフォルニア生まれ。リバレーヒル・ハイスクールをへて、1958年ジューク大学に入学。二年後の1960年にカリフォルニア大学に転校、今春一月に卒業した。ジューク大学当時は三塁手。一年生のとき十八試合で四割二分、二年生では三十五試合で三割二分一厘の打率をあげ、その間に十六ホーマーを打った。カリフォルニア大学ではずっと投手。休暇にはセミプロ・チームの投手もやった。二年間で21勝4敗。速球が武器。宿舎は宝塚ホテル。1㍍88、90㌔、右投右打。連盟登録名はブラウン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩名健治

2016-10-22 22:12:36 | 日記
1962年

「バッティング・フォームがくるったらすぐ岩名(健治=投手)に直してもらえ」というのが東映の各打者の合い言葉のようになっている。すなおな球とコントロールのよさでバッティング投手をつとめる岩名は文字どおり打者の恋人。平和台、大阪の遠征にも石原(碩)ら準一線級の投手が遠征メンバーからはずされたのに、岩名はかかせぬ存在としてチームと同行している。土橋二世というふれ込みで保井コーチ(現大洋二軍監督)が二年前入団させた軟式(大阪浪速工)出身のかわりダネだ。この岩名、プロ入り以前は大阪市内のとある会社の経理部に勤めていたれっきとしたサラリーマン。ソロバンは二級という銀行からでも口がかかりそうな腕前。いまでもソロバンを見ると会社に勤めていたときのことを思い出して、ちょいとはじいてみたくなるというへんなくせをもっている。「サラリーマン気質が抜けないですね。朝もみんなより早く目がさめてしまって困るんですよ」と本人は野球選手に徹することができない悩みを語っているが、そんなきちょうめんさが芦屋の宿舎竹園旅館の女中さんたちの人気を集めている。「まあ、そういっちゃなんですけど、たくさんいらっしゃる選手のなかにはずいぶん非常識な方もいますが、岩名さんはおとなしいいい人ですわ。いままでムリなことをいったことがないのは岩名さん一人ぐらいかしら」とべたぼめだった。そのせいか岩名選手だけは食事のメシの盛りも多い?というようなうわさまできかれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする