プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田中章、上垣内誠

2016-04-30 23:27:31 | 日記

1977年

田中は郷里の千葉県木更津で、また上垣内もノンプロ時代にゆかりの浜松で、それぞれ焼き鳥屋のおやじにおさまるという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤久敏

2016-04-30 23:19:22 | 日記
1966年

中日ドラゴンズの田村スカウトは七日正午すぎから東京・内幸町飯野ビル内のレストランキャッスルで、第二回選択会議で交渉権を得た駒大の伊藤久敏投手(22)と二回めの入団交渉を行った。第一回の交渉で条件をきいた伊藤は郷里の久留米市に帰って父親三義さん(61)と相談し、中日入りを決意、この旨返事をしたもようだが、日通に就職が内定しているので、七日夜上京する父親といっしょに八日、日通をたずね、了解を得てから近日中に中日と正式契約する。六大学、東都を通じて左腕のナンバーワン投手。オーバースローの速球と、落差の大きいドロップが武器。またコントロールは無類でことし無四球試合7を記録。高校時代(久留米商)は三十七年夏の甲子園大会に出場、作新学院と優勝を争って加藤(故人、中日)と投げ合って敗れたが、超高校級の折り紙がつけられた。175㌢、72㌔、左投げ、右打ち。

伊藤投手の話 プロでプレーする気持ちがかたまりました。ただ日通に就職が内定しているので父親と八日、日通へあいさつにいきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石田芳雄

2016-04-30 22:36:51 | 日記
1972年

阪急は二十五日午後三時から大阪・梅田の球団事務所でドラフト第三位で指名した上武大付属第一の石田芳雄投手(17)=177㌢、72㌔、右投げ右打ち、群馬県出身=の入団を正式に発表した。石田投手はサイドスローからの速球が武器で甲子園は経験していないが、関東ではさきにドラフト第一位で阪急入りした石田真(足利工)同じく第一位で中日入りした鈴木(成東)と並ぶ好投手として注目された選手。二年のとき対松井田戦(春の関東地区予選)と対沼田戦(西毛リーグ)・二度ノーヒットノーランを記録している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山口富夫

2016-04-30 22:00:59 | 日記
1972年

山口は横浜高ー神奈川大(中退)から昨年、三協精機に入社した本格派投手。「チームの事情から山口に去られては困る」と三協側がしぶったことから、獲得交渉は難航したが「プロで自分の実力を打診したい」と割り切った本人の強い意志で、太平洋ク入りとなった。「外角低目をつく速球が武器で、スピードボールには自信がある」と胸を張って言ってのけるあたり、頼もしい投手である。ノンプロ三年間の成績は21勝2敗。抜群の防御率2・50を誇っている。ことしの秋には韓国へ遠征し、11試合のうち4勝をマークした。この山口の魅力は未完であることだろう。福岡まで同行してきた三協精機の光沢監督は「スライダーをマスターすれば、さらに威力のある投手になるはずだ」と語っている。短気が欠点だが負けん気が強いのは楽しみ。坂井球団代表はもちろん「即戦力」として期待しているが山口の夢は加藤初に続いて新人王を奪取することである。

山口ー「本格派で独特のフォークボールを投げる。一番早く第一線に出てくるのではないか」(渡辺スカウト)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前田四郎

2016-04-30 21:48:32 | 日記
1968年

高岡商・前田四郎投手(18)=176㌢、72㌔、右投げ、左打ち、第六位指名=の南海入団が十七日正式に決った。南海の新山球団社長は同日午後二時三十分大阪・難波の球団事務所で父親彦太郎氏(71)に付きそわれた前田投手と正式契約。同三時「本格派の前田君を獲得した」と発表した。前田投手はことしの春・夏の甲子園大会に出場、武器の速球が注目されていた。二年生の秋からエースとなり30試合を越す登板で3敗を記録しているだけ。球種は速球のほか、カーブ、シュートだが通算5本塁打を記録した左打ちのバッティングでも素質があるという。「三振を取れる直球で勝負ができる投手が目標」と前田投手は抱負を話していた。同投手は住友金属に就職が内定していたため契約が遅れていたが、プロ入りに難色を示した彦太郎氏、学校関係者の意向を押し切ってまで南海入団を希望したところに同投手の決意と自信がうかがわれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古角哲士

2016-04-30 20:58:09 | 日記
1966年

広島カープは第一回新人選択会議で交渉権を得た岡山・興譲館高の古角哲士投手(18)との交渉を打ち切った。今月十五日に備前コーチと木庭スカウトが岡山に行き、古角投手のピッチングを見た結果、プロではやや力不足と判断、当時上京中だった西野チーフスカウトの帰広を待ち、二十七日にスカウト会議を開いて不採用と決めたもの。これは交渉権放棄の第一号である。

西野スカウトの話 備前コーチと木庭スカウトの報告を聞いたところ、プロではむずかしいらしい。本人の就職のこともあろうしいと考え、正式に交渉打ち切りを決めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田村登志親

2016-04-30 20:40:49 | 日記
1972年

さきの選抜会議で太平洋クから指名されたロッテの田村登志親投手(22)は、ロッテからの移籍通告に対して「自分の力に限界を感じている」として拒否していたが、二日、東京・赤坂の中村事務所で太平洋ク・末吉秘書と会い、入団を説得された。しかし、本人の気持ちはやはり「やめたい」に終始した。太平洋クでは今後も時間をかけて翻意させる意向だ。同投手は早実から中大を経て、昨年ロッテのテストに合格した。中大では二年まで内野手をしていた選手で、投手の経験はゼロ。この田村をテストでみた当時のロッテ・大沢監督が「投手としておもしろいじゃないか」と採用した。軽い気持ちでテストを受けたのが合格、それも投手としてスタートするとあって、本人はびっくりしたり、とまどったり。だがもともと野球に魅力を感じていただけに、懸命に努力した。この一年間をみてきた大沢監督は「来年の後半には使える。カーブをもう少し大きくすればおもしろい」と見ているが、本人はやっとファームの試合に投げられると思っていた矢先に、一軍のバッティング投手専門となってガックリきていた。そこへ選抜会議へのリスト・アップ。「出されるとは思ってなかったトレード会議に出されてショックを受けた。太平洋クに指名してもらったのはうれしいが、もう自信がない」。各球団とも人員をそろえるために、仕方なくリスト・アップをする選手もいるのだが、本人はそのことで自分の実力を評価されたと受け取ったようだ。末吉秘書は、この日「一年間やっただけで自信がないとは弱気すぎる。こっちは実力、素質を認めたからこそ指名した。あと二年投手として勝負をかけたらどうか」と説得した。家族の意見はすべて本人まかせ。これまでプロ野球選手として最低保障額だった年棒六十万円の参加報酬も、もちろん太平洋クでは考慮する条件を出している。同日、石原代表は「太平洋クへ行かなければ、規約により任意引退選手となります」と冷たくいいきった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福塚勝哉

2016-04-30 20:15:49 | 日記
1966年

阪急の福塚勝哉捕手(27)は二十七日、午後四時、大阪・梅田の航空ビル内球団事務所で岡野社長に一身上の事情を理由に退団願いを出したところ、岡野社長が受理し、任意引退選手として円満に退団が決定した。退団後は勝恵夫人の実家である四国・松山で石油関係の事業にたずさわる。福塚捕手は三十一年に県和歌山商から大毎オリオンズに入団。その後六年めに阪神へ移籍、四十年に西本監督の希望で阪急へ移籍。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千原陽三郎

2016-04-30 20:10:04 | 日記
1972年

中日・千原陽三郎内野手(30)の引退が二十九日、正式に決った。同選手は、かねてから「限界を感じた」と退団を申し入れていたが、球団側も本人の意思が堅いとみて、引退を認めることになったもの。同選手は任意引退選手扱いとなる。千原選手はさる三十九年、日大から投手として入団、途中から打者に転向して四十三年には2割6分8厘を打ったことがある。九年間の通算成績は509試合に出場、打数1102、安打272、本塁打25、打率2割3分8厘。なお、引退後は家業(クツ店経営)を継ぐことになっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大塚弥寿男

2016-04-30 20:05:37 | 日記
1972年

ロッテ・大塚弥寿男捕手(29)は、二日、東京・西大久保の球団事務所で石原代表と会い、退団したいと申し入れた。同選手は先月にも一度退団を申し出て、慰留されたが、将来のことも考えてこの際プロ球界から身を引くことにしたようだ。同代表も「決意が固いようだから」と認めたようだ。同選手は浪商時代、主将として尾崎(映)とバッテリーを組み、夏の甲子園で優勝、早大では八木沢(ロ)とバッテリーを組み優勝するなど、栄光の道を歩いてきたが、プロ入り後は、醍醐のカゲに隠れてあまり出場の機会がなかった。引退後は夫人の実家の経営する会社に就職する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上林成行・太田清春

2016-04-30 19:58:42 | 日記
1973年

近鉄は二十二日午後一時三十分から大阪・森之宮の球団事務所で上原代表、西本監督が立ち会い、ドラフト三位指名のクラレ岡山・上林成行投手(24)=180㌢、75㌔、右投げ、右打ち、愛知県国府高卒=と同6位指名、西濃運輸・太田清春投手(22)=180㌢、75㌔、右投げ、右打ち、三重県高田学園高卒=の入団を正式に発表した。両投手は発表に先立ち、正式に契約をすませた。背番号は上林が26、太田が45。上林は重い球質と剛速球を武器にし、高校卒業のときには南海に、その後広島、太平洋とプロ球団からドラフトで指名を受け、四度目の誘いでようやくプロ入りに踏み切った。太田はノンプロにはいって投げ方を上から下手投げに変えてメキメキ頭角を見せてきた投手で、浮き上がるシュート、外角に流れるカーブを武器にし、第二の山田をめざす。近鉄ではノンプロを経験した両投手に即戦力として期待を寄せている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関口一郎

2016-04-29 15:02:16 | 日記
1958年

昨春の六大学リーグ、慶明二回戦に関口が登場しなければ、彼に誘いをかけるプロ球団はおそらくなかったのではあるまいか。というのは、彼の場合、性格の弱さがわざわいしてヒノキ舞台ではついぞ日の目をみたことがなかったからだ。彼は練習のときやオープンゲームでは強打者連を簡単に料理するが、いざ神宮のマウンドを踏むと、スピードががた落ちするブルペンエースにすぎなかった。ところが最高学年を迎えた昨春、慶明戦で強打の慶應を五安打に封じてシャット・アウト。いらいめきめきと自信をつけ、押しも押されぬエースとなった。このゲームは彼が明治に入ってから三度目の登板。二十九年秋の慶明戦では見事にKOされているだけに、彼の先発を危ぶむものが多かった。しかし島岡監督が反対を押しきって起用したのは、三十年冬の台湾遠征での彼の活躍ぶりと、精神的な成長を高く評価したからだという。春秋の筆法を借りるなら台湾での秋山の不調が、こんにち関口を生んだわけだ。明治高校時代、迫畑監督に教えを受けたのがキッカケで大洋に入ったが、下半身が弱いのを意識して、シーズン・オフにもランニングをつづけたとのこと。キャンプ・イン前半には期待していない、と迫畑監督はごく控え目だが、もともと素質には恵まれている。「手足がすっかり固くなって、自分でも情けなかった」と公式戦に初登場したさいの思い出を先輩の沖山が語っていたが、あがってもともと、なんどか登板するうちには自信もつこう。大洋の左投手といえばかつてのエース権藤や小林経と鈴木ぐらい。なによりもこれらの旧人にとってかわるぐらいの意気ごみと自信を持って投げまくることだ。身長1㍍77、体重73㌔、21歳、背番号25。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江崎照雄

2016-04-29 12:18:24 | 日記
1958年

江崎は高校球界の名門中京商高の出身で、現中日中山投手の一年先輩である。高校当時から豪速球投手として定評があったが、甲子園には二十六年春の選抜に出場しただけで、それも準々決勝で長崎西高に敗れている。二十八年には日大進学したが、河内(現阪神)島津ら好投手が目白押しに並んでいて出場の機会を得なかった。このように彼の球生活は恵まれたものではなかった。高校時代には大学級の速球といわれたほどであり、しかも1㍍86、76㌔という優れた体格の持ち主の彼が、なぜこのように悲運の道をたどったか。それは気性の弱さがわざわいしていたのである。しかし昨秋のシーズン、エース島津が精彩を欠くにおよび責任を感じて異様な奮起を示し、救世主的役割を演じて見事日大に優勝をもたらし、同時に最優秀投手に選ばれたのだ。もしこの活躍がなければプロから誘われることもなく、「ノン・プロ選手としておさまってしまったかも知れない。江崎のピッチングは真っ向から打者にぶつかっていく本格派である。スピードだけなら毎日の中西投手をしのぐかもしれない。しかしカーブはまだまだ本物ではなく、学生時代のままならプロではねらい打たれるに違いない。速球を低目にコントロールすること、カーブはブレーキは小さくても、もっと鋭くすることが必要だろう。別当監督は「昨年のリーグ戦で二、三度みたが、球の速さだけはすばらしい。カーブはものになっていたが、とにかく未完成の大器だ。幸いウチは江崎の先輩にあたる野口さんがコーチだし今シーズンは小野、中西と三人で若手トリオを組んでがんばってもらう」と大きな期待を寄せているが、江藤も「プロへ入るなら毎日にと思ってきたが、入ってみていっそう毎日が好きになった。監督さんが私をずいぶん買ってくれているのでやりがいはあるし、なんとかがんばってみます。ことし大学からプロ入りした東(立教ー南海)木村(早大ー南海)関口(明大ー大洋)には負けられません」とたいへんな気負いようである。新星は新星でも惑星といったところだ。日だ卒、右投右打、23歳、背番号15。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東実

2016-04-29 11:30:46 | 日記
1958年

「東は頭が細長いから身体もひ弱いんだろうと思っていたら、この間プロで見ると筋骨リュウリュウとしていたので見なおしたよ」と中原ピッチング・コーチは言っていたが1㍍75、65㌔の身体は、プロではさして驚くにたらないが、その容姿からは強固な精神力とすぐれた耐久力を秘めているのが感じとれる。山本監督は「木村同様、プロ一年生の彼に、昨年活躍した秋山のように働かれると、恥しいからナ・・・」と反射心理学をさしむけているがそれだけに東も内心きっとやるぞの熱意に燃え上がっている。この彼、今冬は数少ない左腕投手というので多くの球団からねらわれたが、大学入学当初はイバラ街道を夢みていた。しかし二十九年、明立戦で当時秋山(現大洋)を向こうに回して、堂堂と四連投したころから芽が出はじめた。六大学でも過去六、七人しか記録しなかったノー・ヒット・ノー・ランの偉業を東大戦で樹立した。だが木村はともかく東はプロでは・・・・と不安の念をいだかれていた。というのは練習時の重い速球が一度マウンドに立てば霧の如く・・・というところから来たもの。肝心のモーションの緩慢さとともにこんごきょう正しなくてはならない課題だろう。柚木コーチも「現状では本格的なピッチングをしていないので、これをどうきょう正するかは考えていないが、下手にコーチして阪神の井崎の二の舞を踏んでは」とためらっている。しかし当人は「プロの打者を具体的に研究したわけでなし、もしモーションが緩慢とあれば改良出来る・・・・ともかく第二の柚木さんになるのだ」と言い切る。図太い神経の持ち主である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

布施勝巳

2016-04-29 10:18:22 | 日記
1958年

牧野以外は上位チームに対抗できない東映投手陣にあって、布施はしばしば南海や西鉄戦にかり出された。布施が比較的切れのよいシュートを持っているのを買われたのだろう。しかしここ三年間の上位三強との対戦成績は、西鉄に2勝5敗、南海に2勝12敗、毎日に3勝5敗と大きく負け越している。プロ入りいらいの通算成績が34勝54敗、だいたいがこのていどの投手なのだからさして驚くほどでないかもしれないが、勝率をだしてみると通算が・386のなかで三チームには・242で極端に悪い。布施の得意はスリー・クォーターからのシュート・ボール、内角にくるとこの球はたいてい沈むのでちょっと打ちにくい。カーブも低目にきまったときには手こずる。しかし布施の命とりは年々スピードが減退していることで、ために持ち味のシュートを生かし得ない結果となっている。まだ二十五歳の若さでもって、ちょっと解しにくいことである。上位三チームの打者にはやはり打ち込まれている。西鉄では中西に・455、大下に・364、関口に・556、南海では森下に・348、寺田に・313、毎日では荒川に・444といったところが布施の苦手というわけ。ほかでも野村には・286ながら3ホーマー7打点を与えている。一昨年の布施はこのうち森下、野村の南海勢を完全に押え、森下には・100、野村には・000であったのだが、二人の成長を別にしても、スピードが衰えて、その力に屈した格好である。逆に得手としているのは高倉、豊田、広瀬、大沢、杉山、醍醐、岡本健、木村、鈴木、佐々木といったところ。全部を2割以下にとどめている。このうち杉山が打てなかったのは昨年はかれ自身ふるわなかったからであろう。一昨年なんかは・455の高打率をマークしている。豊田も一昨年は・385であった。しかし不思議なのは高倉の・000だ。名にしおイン・コース打ちの高倉がイン・コースで勝負する布施を打ちあぐんでいるのは皮肉な結果である。芳ばしくない投手として結果とともにめだつのは、走者の盗塁を簡単に許してしまうヘッド・ワークの全然見られぬ投球に入るまでの態度である。かれがマウンドにあるとき35回の盗塁を企てられ、そのうち阻んだのがわずか4回というのは、捕手の責任よりもかれのセット・ポジションから投球に入るタイミングが悪いからである。山本、安藤が強肩の持ち主であり、牧野と組んでいるときは5割以上の刺殺率をあげているのだから、布施の責任というのは明らかである。根本的には投球にスピードを取りもどすことが急務だが、このへんの研究が行われねばいつまでたっても成績の向上はみられまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする