プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

奥柿幸雄

2021-01-23 15:47:07 | 日記

1967年


昨秋のこと、アトムズの練習に一日参加した奥柿は、ポツリとこういった。「プロ野球選手になれるのなら、もっと一生懸命、野球の練習をしておけばよかったなあ」奥柿の中学時代の夢は、一日でも早く実社会に出て働くことだった。「野球部のある会社にはいる以外、考えたことがなかった…」だから、静岡商に入学しても、野球はほどほどにしかやらなかった。欲がないという評判にも、こんな背景があった。それでいて、静岡商の三年間、奥柿は野球部の大黒柱だった。キャプテンの重責も果たした。打力は超高校級。せいいっぱいの努力をしたら、どんな怪物に成長していたか、見当もつかない。それがまた、周囲の人に大きな夢をいだかせる。奥柿獲得に走りまわったサンケイ・小山スカウトの見方はこうだ。「ファームでみっちり一年間きたえれば王(巨人)に負けないバッターになる」岡本コーチも「打撃の素質はりっぱなもの。長打を打つコツを身につければ、プロ野球を背負って立つ選手になれる」と、タイコ判を押す。奥柿は無口な男だ。自分から積極的に話をしようとはしない。一日二十四時間だまっていても、苦痛にはならないらしい。「プロ入りが決まってから、なるべく話をするように心がけているんです。ぼくの考えを他人にわかってもらうことは必要ですから‥」みずからをみつめる目は、ちゃんと持っている。末っ子だが、奥柿に甘えん坊なところは、女手ひとつで、奥柿を育てるのに母親こうさんが、どれほど苦労したか、知っているからだ。浜岡中学から静岡商へ進学するときも、考えた。大学進学かプロ入りかでも、奥柿は悩み抜いた。だが、結局は母親にラクをさせたいという望みが、プロ入りにふみ切らせた。「これ以上、オフクロに苦労をかけたくなかった」奥柿は、きっぱりといい切ったものだ。それから日はたった。日一日とプロ生活への実感がわいてくる。そんな奥柿の心中にも変化が生じてきた。「ひとまずひとりで東京に出る。そして、一人前になったらオフクロを呼ぶんだ」その日は果てしない希望に輝く。さらにいま、奥柿はひとつの決意を胸に誓った。「ボクといっしょに、ずい分多くの新人選手がプロにはいった。だが、ボクは絶対にだれにも負けない。一年でも早く、きっとアトムズの中心選手になってみせる。なにしろオフクロを喜ばせたいんだ」静岡県小笠郡浜岡町ー。御前崎に近い奥柿の故郷は、水野オーナーの生まれたところ。サンケイが奥柿の入団交渉権を獲得して以来、獲得に一番力を入れたのが水野オーナーだった。「オラが村から、こんなりっぱな選手が出た」いまでも、水野オーナーは、こういって奥柿を自慢する。

 

 

 

静岡商・本間文雄野球部長の話「シンが強く、実行力のある選手だから競争の激しいプロ野球の世界でも、りっぱにやっていけると思う。昨年夏、甲子園に出場したときに、ふだんより自分の力を発揮できたのも、度胸がいい証拠。高校野球ではホームランをねらう打撃をしていなかったから、中距離打者のようにいわれているが、長打力の素質はじゅうぶんになる。ハデなことのきらいな性格なので花やかなプロ野球の世界になじめば一流選手になることは間違いない」

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永利勇吉

2021-01-23 12:48:51 | 日記

永利は、ろくにものもいわず、メシをかき込んだ。もう五杯目、まったくよく食う男だ。わたしも若いころから食べるほうでは人後に落ちなかった。五十五歳のいまでも、朝食は米のメシがいいし、かるく三杯はお代わりして若手スカウト諸君にちょいちょいひやかされたりする。いや、実のところ、よく食べるくらいでなければ、日本中を走り回るスカウト家業はつとまらないのだ。そのわたしも、永利にはドギモを抜かれた。どこへはいってしまうのか、五杯、六杯のうちはまだよかったが、十杯をこえるころから、料亭の女中がプリプリしはじめた。無理もない。こんな大食漢に出会ったのは女中もはじめてだろう。こっちだって、しまいにはハラハラものだ。わたしのおかずをすすめたり、野球の選手はみんなよく食べるんだと、それとなく女中の耳に入れて、きげんをなおしてもらおうと試みたりした。お代わりは、十八杯でと決まった。永利勇吉君ー、記憶している方もあるかと思う。昭和三十七年、失恋のすえ四十一歳で鉄道自殺をとげた元西鉄捕手の永利君である。立大時代から強肩、打力のパンチもある好捕手で、立大卒業後、ノンプロ別府星野組をへて阪急入りした。昭和二十四年の暮れ、職業野球がセ、パの二リーグに分裂した直後、当時セ会長の故安田庄司さんから依頼をうけて、引き抜き工作に走り回っていたわたしは、宝塚駅に近い料亭「宝蘭」で永利を勧誘、諾否の返事を聞く前に、まず、その食いっぷりに驚かされたのである。永利は、無口な男だった。マスクをかぶり、投手をリードしているときは、むろん声も出し、テキパキと動いたが、ユニホームをぬぐと、とたんにむっつり屋になった。お世辞をいうでもなく、喜怒哀楽をはっきりあらわすでもなく、はたから見ていると、永利のヤツ、なにを楽しみに暮らしているんだろうと人ごとながら気になるほどだった。わたしはこの交渉にかかる前、同じ阪急の速球投手天保義夫を取りそこねたので、永利はぜびものにしたかった。食事が終わり、さっそく勧誘の話し合いにはいったが、無口な永利は、こういう改まった席へ出ると、よけい口が重くなるらしい。こちらがああだこうだと話しかけても、とにかくうつ向いたままだ。話をする。相手がのってくる。じゃ、これでどうだと契約金を示す。こうした勧誘交渉には、すべてタイミングというものがある。ところが、相手がしゃべってくれないことには、タイミングのつかみようがない。おかげで、むっつりうつ向いた男を相手に、わたしは一人芝居を演じているようなかっこうだった。永利に口をかけてから、彼の気持ちがどう変わっていったのか、よくわからなかったが、どうやら、はじめからパイレーツ入りはいやではなかったらしい。間もタイミングも無視したあげく、契約金を示すと、簡単にコックリうなずいた。永利は大食漢だったばかりにいろいろなエピソードを残した。人知れぬ苦労もしたはずである。二十四年といえばまだまだ食糧不足、たらふく食べるにはヤミ米を手に入れるほかなかった時代だ。グラウンドで張り切る前に、まず食事の満足を得るため、永利がどんな苦労したかと思うと、いまでも心が痛む。二十五年、パイレーツの一員となった永利は、かなりの活躍だった。前年、阪急での成績は78試合に出ただけで打率も2割2分9厘と低かったが、二十五年は132試合に出場して打率3割(十四位)、ホームラン21本、打点80、捕手としては堂々たる成績だった。パイレーツはパの西鉄グリッパースと合併、新チーム西鉄ライオンズが生まれるが、この合併のごたごたにつけ込んだかっこうで、二リーグ分裂時を再現するような引き抜き合戦が演じられた。セ・リーグの攻勢は激しく、日比野武捕手、南村不可止内野手(現巨人ヘッドコーチ、南村侑広氏)平井正明遊撃手、関口清治外野手を巨人がねらっていた。やがて永利にも手がのび、わたしは神戸の二つ手前、三ノ宮駅のプラットホームで、セの使者と永利をめぐって力ずくの対決をすることになる。

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菊村徳用

2021-01-23 12:21:19 | 日記

1974年


育英高の左腕菊村徳用投手(18)=178㌢、73㌔=が四日、ロッテと正式契約した。不運にも甲子園の晴れ舞台を踏めなかったため土屋(銚子商)工藤(土浦日大)永川(横浜)定岡(鹿児島実)の高校ビッグ4ほどの知名度はないが、その快速球は早くから超高校級といわれた逸材。あこがれの大投手金田監督の横で、「プロ入りは子供時代からの夢でした」と抱負を語る菊村の顔は上気していた。幻の左腕江夏二世と、うわさされる菊村の前途は洋々だ。

 

菊村が兵庫県下で注目され出したのは、尼崎市の日新中時代。三年のとき、兵庫県中学校大会阪神大会(神戸新聞社後援)で強敵報徳をなんと20奪三振の快投をみせたのだ。県大会出場ことはばまれたが、この快挙でが然日新中に菊村ありと、評判になった。中学生では珍しく大阪、兵庫などの野球名門校から激しいさそいがかかったほど。育英進学は当時の監督、日下隆氏の「君の速球なら、必ず甲子園に出れる!」の熱心な勧誘が実ってきたものだ。甲子園へ・・。だが、菊村の青春の夢をかけた高校生活は不運の一語に尽きた。入学早々の五月、春の兵庫県大会に早くもエースで登場した菊村。打線の援護がなく、初戦の市神港に0-2で敗れたが、その豪快なピッチングは未完の大器と、関係者の話題をさらった。一年夏の全国高校野球選手権兵庫県大会ではベスト16入り。同秋の県大会では四強で争う決勝リーグに進出。「さあ、今年が勝負だ!」一歩一歩近づく甲子園に、菊村がなお一層の闘志をかきたてた二年の春、予想もしなかった事件が待っていた。野球部員の不祥事に科せられた一年間の「対外試合禁止」処分。これは名門育英にとっても、エース菊村にとっても痛恨の出来事。当時の育英は県下でも屈指の大型チームといわれたが、夏の大会では不本意にも幻の優勝候補のまま消えた。それからは教えてくれるコーチもいなく「単調な練習だけで過ごした」つらく、長かった一年。菊村はほぼ手中にしていた二年夏、三年夏と、二度までも甲子園を失った。しかし、この試練に耐えた一年間は菊村だけでなく、育英ナインをも精神面で大きく成長させたのだろう。二年の冬休み、全部員がアルバイトに励み、その収益金をすべて社会福祉事業に寄付する善行が話題を呼んだ。菊村には最後のチャンスとなった今年夏の甲子園。だが、一年間のブランクはあまりにも大きかった。強敵洲本実を相手にした兵庫大会3回戦。菊村は相変わらずの快速球で力投したが、どたん場の九回であきらめきれないサヨナラ負け。「あのスピードは、文句なく一番だ」「いや、江夏の阪神入団時よりも速いさ」プロ野球のスカウト連がささやきあっているとき、菊村が流れ落ちる悔し涙をふこうともせず、ベンチに一人立ちつくしていた姿が印象的だった。その左腕からの速球が、高校球界№1といわれながら、一度も踏むことがなかったヒノキ舞台。夏休み。ライバル土屋、工藤、定岡が甲子園で脚光を浴びている間、菊村は道路工事のアルバイトに励んでいた。炎天下にツルハシを持って穴を掘る仕事。そこにはもう不運な高校生活を悔いる気持ちは消えていた。「足腰を鍛えるんです。将来の野球生活に備えて…」こう話す菊村の表情は、底抜けに明るかった。先のドラフト会議では、まず予想通りのロッテ一位指名。「希望球団はセ・リーグ」といっていた菊村も、尊敬する金田監督の直接勧誘には「ロッテでがんばります」ときっぱり。契約金でもめるビッグ4とは対照的に、「お金は両親にこれまでのお礼としてあげます。僕は裸一貫でやり抜くんです」その心意気もカネやん好みだ。過去、育英からプロ入りした左腕投手は鈴木(近鉄)竹田(中日)と成功している。「甲子園組には絶対負けません」幻の左腕は、来春、全国ファンの前にそのベールを脱ぐ。

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小林敦美

2021-01-21 12:44:04 | 日記

1984年

往年の山口高志ばりのダイナミック投法が、阪急によみがえった。リッカーからドラフト二位で入った小林敦美投手(22)=179㌢、74㌔だ。まだ六分程度のキャッチボールなのに、梶本投手コーチは「速い球が投げられるフォームなのがいい。ひじの使い方もうまい」キャンプで鍛えるのが楽しみといいたげ。高校(宇部鴻城)、社会人時代とも、華やかな球歴はない。リッカーでは、阪神に入った中西の陰で中継ぎ。「しかし、プロでは負けません」といい切るのは140㌔台の威力を持つ速球に自信を持っているからだろう。百メートルを11秒5、6で走るバネも貴重。高校時代は足が遅い方で、社会人に進んでから速くなったとか。運動能力の開発余地はたっぷりありそう。上田監督の期待も「一年目から戦力になって欲しい」密度の濃い練習に、疲れもうかがえるが、一人になった夜の5㌔のロードワークとシャドー投球を欠かさないあたり、「一年目」にかける自覚は十分だ。

阪急はドラフト2位の小林敦(宇部鴻城高ーリッカー)が四回から初登板。五回には不規則安打もあって1点を失ったが制球のいいカーブで3三振を奪うなど実力の片りんをみせた。

二番手の新人小林敦(22)(リッカー)が中継ぎで好投。140㌔前後の直球を武器に攻めの投球をするのがいい。

1986年

阪急、小林敦。球が高めに浮き3本塁打はいずれも高めのストレート。いいカーブを持っているのにこれでは一軍は苦しい。

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川原昭二

2021-01-21 10:36:15 | 日記

1982年

日本ハムの川原が、プロ八年目でうれしい初勝利を飾った。五回、無死満塁でルーキーの田中をリリーフ。リーの二塁ゴロ併殺で1点を与えたがあとは上手からの速球と「曲るのと落ちるのと二種類ある」というスライダーを両サイドに投げ分けて好投。九回には勝ち急いでリーに2ランを浴びるなど2点差と迫られたが、どっしりベンチに座ったままの首脳陣を見て「これだけ信頼されているんだ」と自分に言い聞かせ、レオン、水上を連続三振に打ち取った。九州産業高からノンプロの丹羽鉦(にわしょう)を経てドラフト二位で入団した。「チームが大阪で負けていたし、江夏さんの故障ということで、チームのためにいいところで勝てたと思います」と言うあたりは、やはり入りたての新人とはひと味違うところ。ファーム生活が長く「今年は縁の下の力持ちでもいい。とにかく、自分に与えられた任務をきちんと果たそう」と、いわば開き直ってシーズンに入ったそうだが、昨年イースタンで213奪三振のリーグ記録を作った実績はダテではなかった。この川原だけでなく、初先発の田中が四球を連発しながら、よく踏ん張り、五十嵐が前夜に続く本塁打。大沢監督は彼らが活躍すると、チームに勢いが出て来るよ」とご機嫌だった。

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1974年プロ野球戦力外選手

2021-01-20 14:51:49 | 日記

1974年


師走の風が冷たく吹き荒れてプロ野球界にも冷酷な年中行事がやってきた。自由契約という名のクビ切り旋風だ。三千万、五千万円と庶民には気の遠くなるよな契約金で新人たちが入団交渉を進めるその裏で、ユニホームを脱いだ選手たちは目の色を変えて第二の人生を切り開こうとしている。

 

「きっと再起してみせる。広島を見返してやるぞ」と、すごいやる気を見せるのは国貞だ。広島を自由契約になった三十歳の内野手。クビを宣告されてからがぜん燃えた。その意気を買ったのが太平洋の江藤新監督だ。「クビになってはじめて、みんな後悔する」と、一度は自分も実業家を目指してユニホームを脱いだ経験から、国貞の後悔ぶりを目につけ、来春早々にテストしたうえで採用する見通しだ。「まとめて面倒を見るか」と江藤監督に声をかけられてホッとしているもう一人の選手はヤクルトの東条。国貞らと一緒に「もう一度野球をやりたい」という自由契約選手を集めて行われるテストにこのベテランも参加することになっている。「チャンスを与えられたオレたちは、ほんのひと握りの幸せものさ」と二人は口をそろえる。そのとおり、解雇をいい渡される前に行方をくらました選手もいる。防御率1位のタイトルをとったこともある関西のある左腕投手は、酒の魅力におぼれたのがまずかった。「エースになれる」とさえいわれたのに、酒を飲みすぎてだんだんと肥え、そのうち体重が雪ダルマ式にふえた。クビの宣告をしようにも連絡がとれないままプロ球界とお別れする悲劇を生んだ。「フロントで一番いやな仕事」といわれるのがこの自由契約選手の決定。それだけに親会社やその傍系に再就職をあっせんするチームも多い。「一流の宣伝マンになって恩返しをします」ときっぱりいうのは近鉄をやめた久保捕手。本社の傍系の広告会社に推薦され、サラリーマンになる。ヤクルトの大木投手は、佐藤球団社長がヤクルト本社に送り込んでくれた。阪神の小笠原外野手は、まじめさが認められ、チームの用具係に転向する。「プレーでは失格したけれど、これからもタイガースの一員ですよ。野球が好きでたまらないんです」と感謝して新しい裏方さんの誕生だ。「色んなことをやってほしいと願う。ボクだってこうしてなんとかやれるんですからね」と、博多市内でヤキトリ屋を経営する縄田洋海さん(28)はいう。昨年限りで太平洋の投手をやめさせられ、先輩・竹之内の出資で開いた店が大はやり。「ライオンズの選手と一杯やりながら野球の半紙をするのが楽しみ」と笑う縄田さん。ことしプロ野球にサヨナラする選手たちもこうあってほしいものだ。

 

今季の主な自由契約選手(4日現在)

【巨人】松本、板東

【阪神】小笠原、才田、江島

【ヤクルト】東条、植原、岩崎

【広島】国貞、藤本、問矢、横山

【ロッテ】青野、城之内

【阪急】オースチン、アマーン、国岡、金橋、田中、畑野、大西

【近鉄】半田、佐野、溜池、久保、真鍋

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北原泰二

2021-01-20 14:21:19 | 日記

1992年


西武に楽しみな右投手が誕生した。敗戦処理からチャンスを掴み、これ以上点をやれない場面での指名が多くなった北原泰二投手にとって今が一番、野球が楽しい時期だろう。1年目は体作り、2年目の昨年はイースタンで5回を投げて11失点。今季も負け試合で何番目かに出てくる投手。正直、北原に対しての印象はこの程度だった。しかし、和田二軍監督を訪ねた時「旬の選手だヨ」と目を細める先に、北原の姿があった。5月24日対ロッテ戦、北原は竹下、長見と90、91年ドラフト1位投手の後を受けてマウンドに立ち、自己最長イニング5回を投げ、今季7試合目にして初勝利を挙げている。聞けば、5月の初め頃から投げ方を変えたという。北原は高校時代、スリークォーターだった。プロ入り後、オーバースローに変えたのだが、コントロールが悪かった。西三雄投手コーチと試合で投げるたびにビデオで研究し、原点に帰るという意味で、腕の出す位置を下げる結論を出したそうだ。北原のように、長身の投手は確かに上から投げた方が球に角度は出るが、逆にサイドスローにしたことによって、打者には球がホップして来るので、スピード表示以上に速さを感じるし、持ち球のシュートも生きてくる。また、今まで体の開きが早く、球の出どころが打者にとって見やすい。という欠点が感じられなくなった。西コーチの、勇気ある決断は、正しかった。そこで今後の課題である。サイドスローは、力を入れれば入れるほど、球に体重が乗らない。かといって今のままでは、腕だけで投げている感は否めない。もう少し腰を沈め、下半身を遣いながら投げる形を、体で覚えることだ。元大洋監督の古葉さんが広島時代、右クリーンアップへのワンポイントとしてチームに一人はサイドスローが必要、と口にしていた。今後、実践を積んで安定性が出てくれば、一軍で中継ぎ、抑えとして活躍するのも夢ではない。5月28日、対日本ハム戦で8回一打逆転の場面で登場、そのピンチは凌いだものの、9回につかまりサヨナラ負けを喫してしまった。得意のシュートがキレず内容は悪かった。しかし、マウンドを降りる際の口惜しそうな表情が嬉しかった。注意して見ていると、北原は目の輝きがいい。練習に取り組む姿勢がいい。プロ入り当時の憧れが渡辺久信という北原。しかし投げ方を変えた今では、川口レッドボーイズ(リトル)の先輩で同じ川口出身の斎藤(巨人)が目標といい切る。北原は、来季以降、西武一軍先発投手を支える中継ぎの一角に、確実に加わることだろう。

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福井保夫

2021-01-20 13:58:34 | 日記

1974年


近鉄バファローズからドラフト1位に指名されていた松下電器の福井保夫投手(22)=180㌢、78㌔、右投げ右打ち=の入団が二十九日内定した。この日午後、津山市川崎の同投手実家を近鉄の中島スカウト部長が訪れ、父親良二さん(55)、母親孝子さん(49)を交え具体的な条件を提示して二回目の交渉に入った。話し合いは約二時間、同投手の気持ちが入団に傾いていたためスムーズに進み内定した。正式契約は十二月中旬、同球団事務所で行われる予定。同投手は四十六年三月、津山商から松下電器に入社、山口高投手の陰に隠れて目立たなかったが、長身から投げ下ろす球には威力がある。決め球はスリークォーターからのスライダーで制球力もよく、若さと体力に恵まれた本格派。

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関口朋幸

2021-01-20 09:17:00 | 日記

1978年


阪急がドラフト1位指名した山梨県吉田商の関口朋幸投手(17)=187㌢、71㌔、右投げ右打ち=の入団が三日内定した。これは同日、阪急の矢野、当銀両スカウトが山梨県南都留郡河口潮町河口の関口投手宅を訪れ、交渉の結果まとまったもので、交渉には関口投手のほか両親、樋口勝彦・吉田商監督が立ち会った。関口投手は「プロ野球選手になるのは子供のころからの夢だった。この夢がかなえられてうれしい。プロに入るからにはやれるだけやりたい」と語っていた。

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丑山努

2021-01-19 08:35:03 | 日記

1984年


ドラフト6位で、異色の選手が入団した。昨年秋、長野・松本工から川崎市の橘高校夜間部に転校し、昼は日本ハム合宿所勤務(練習生)の苦学生、丑山努(うしやまつとむ)捕手(19歳)である。松本工2年までは、現阪神の御子柴投手とバッテリーを組み、強肩強打のキャッチャーとして将来を嘱望されていた。58年夏の県大会の準決勝で甲子園に出た長野商に敗退したあと、三沢編成課長の誘いで日本ハムの練習生になった。昼はバッティング捕手、夜は眠い目をこすりながら学業に励み、6位ながら晴れてプロ選手の座をつかんだのだ。契約金1500万円、年棒160万円の条件でサインした。ウシは「ようやくボクにも春が…」

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佐々木正行

2021-01-19 07:40:04 | 日記

1984年


このオフの契約更改交渉で保留したのは津末、工藤、川原、田中幸と佐々木の5人だが、二度は佐々木一人だけ。11日に三度目の交渉で、480万円から50万円アップの「530万円」で無事にサイン。ヤクルトの3年間は41打数、6安打、ホームラン0、打点8だったのが、移籍1年目の今季は46打数11安打、7打点。おまけにロッテ・西井と阪急・山田から2ホーマーを叩き、プロ最高の働きぶり。11月27日には次男・隆真(たかまさ)ちゃんも誕生した。「二度ねばったおかげで、赤ン坊のミルク代が50万円ももらえたけど元が安いんだから…」といいながらもホッとした表情。法大での仲間では高代(2200万円)、岩井(1220万円)田中富(1030万)とは水をあけられたものの、先輩の中西(480万円)をちょっぴりリードして懐が暖かくなった?

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1966年 プロ野球 退団選手

2021-01-18 21:17:53 | 日記

1966年のプロ野球戦力外選手を知ってますか?

1966年

プロ野球コミッショナー事務局は、三十日、1967年度選手権試合のための第一次保留選手を公示した。野球協約によると各球団は毎年十月十六日までに来シーズン必要とする選手名簿を所属リーグの会長へ提出しなければならず、リーグ会長は十一月二十五日までにこれをコミッショナーへ送付し、第一次保留選手としての公示を受けることになっている。その結果、第一次保留名簿からもれた選手は自由契約選手もしくは任意引退選手となる。第一次保留名簿からもれた選手は、次の通り。

【巨人】内野手=広岡達朗
【中日】投手=吉山智久、牧田政彦 内野手=島田幸雄 外野手=佐野卓郎、小久保勲
【阪神】投手=酒井貢、椎木孝彰、織田光正 外野手=滝川博巳、室山皓之助
【広島】投手=寺本勇、矢崎健治 内野手=山元二三男 外野手=三浦和美
【大洋】投手=平山佳宏、渡辺政好、山田裕、高山勲 捕手=羽場勇二 内野手=K・アスプロ 外野手=黒木基康、室井勝
【サンケイ】投手=谷口勝範、富永格郎 内野手=中島節男、岡嶋博治(東映移籍)、麻生実男
【南海】投手=難波孝将 内野手=J・ブルーム
【西鉄】投手=米田敏美、池田信隆、大熊伸行 捕手=神原隆彦、伊藤勝利、青木勝俊、池永浩之 内野手=茅野智行、島田伸也 外野手=F・アギー(大洋移籍)
【東映】投手=岩切正男、井上健仁、山崎正之 内野手=高島正義、N・ラーカー、D・ジマー
【阪急】投手=三平晴樹、水谷勇
【近鉄】捕手=越智靖朗 外野手=大丸忠之

なお東京は第一次保留でもれた選手はいない。

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長光告直

2021-01-18 14:18:39 | 日記

1959年

待望の三人目の投手が現れた。長光投手がその人だ。昨年はまったく鳴かず飛ばずの成績だったが、奮起一番、努力の甲斐あって十三日の対大毎戦には七回までわずか4安打に押える好投を示した。ミサイル大毎の主力、葛城、田宮あたりでさえ、唖然と見送りの三振を喫するという番狂わせ?を演じたが、実はこの決め球が長光投手の苦心の結晶なのだ。ミツ(長光)にはマウンドはまかせられんといっていた柚木コーチが、こんどはことしのピッチャーはいいですよ。中でも長光の進境はすばらしいと会う人ごとにいっているのもうなずける話。この魔球実はフォーク・ボール。あまり期待されていなかったのに発奮した長光は、キャンプでいろいろ握りを変えて新球を研究中、ヒョッと変わった球を発見し、これを安心してマスターした。元来、上手からのフォーク・ボールには慣れている田宮も、長光の横手というより仕立てからのフォーク・ボールにはまったく面くらったというのが本音らしい。マークの上をとおりすぎるように見えていて、その実、一瞬止まったようになってストンと落ちる。パ・リーグの打者はこんごの悩まされることだろう。

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上田正則

2021-01-18 13:36:47 | 日記

1974年


本土に復帰した沖縄県からプロ野球選手が誕生した。ロッテは十一日、沖縄大・上田正則投手(22)=1㍍75、70㌔、右投右打=の入団を発表した。ドラフト指名外で契約金、年棒とも百五十万円。五千万円とか、三千万円とかいわれる契約金のうわさが乱れとぶ中で「本土のプロ野球で投げたい」と自らとびこんできた沖縄の一青年。ここにバラ色の夢と、男の心意気がある。

 

ロッテのスカウトに若生氏が決まったこの八月、金田監督の希望は「かくれた大物をさがせ」だった。まだスカウトに荒らされていない場所を考えたとき、ふと浮かんだのが沖縄だった。西鉄(現太平洋)の投手だった若生氏が東映(現日本ハム)との公式戦で沖縄に出かけたとき、高校野球の田鍋審判に世話になったことがある。さっそく電話をかけたところ「沖縄大にいいバッテリーがいる」といわれた。投手が上田で、捕手が中地。すぐに沖縄にとんで二人に打診したところ「本土のプロでやってみたい」と乗り気だった。ところが中地は張り切りすぎて肩をこわしてしまった。九月になって若生スカウトは再び沖縄にとんで上田に交渉を開始した。那覇商三年のときにノーヒットノーランを記録したが、沖縄の大学は硬球を使わないため準硬式というハンデがある。四十七、四十八年に全日本準硬式野球大会で優勝、ことしも準優勝投手という実績はあってもプロ野球で使えるかどうか。若生スカウトは硬球を持参して自ら捕手をつとめた。「私の力も落ちているけど、彼のストレートが速くてとれないんだ」専門家もいないためフォームは荒けずりだが、村山(元阪神、現評論家)ばりのダイナミックなフォーム。上田も「本土のプロ野球でやりたかった。テストでもいいから受けようと思っていたんです」と目を輝かしたという。両親も「本土でやれるなんて…。男ならやってみろ」と大変な力の入れよう。条件を聞いてからという本土のドラフト交渉経過とは雲泥の差だ。契約金百五十万円は単なる支度金で終わってしまうのかもしれない。上田投手は沖縄大の勉強でこの日の入団発表には出席できなかったが「一月五日から若手の自主トレーニングがはじまるそうですね。それまでにはいきます。ぼくががんばれば沖縄の後輩もきっといいはげみになると思います」と元気いっぱいの電話を若生スカウトにかけてきたそうだ。またロッテは同日ドラフト五位指名の桐蔭学園・入沢淳捕手(18)=1㍍80、79㌔、右投右打=の入団も発表した。同捕手は百㍍を11秒7で走る俊足。神奈川県では大物捕手とさわがれ、二年のとき神奈川県選抜チームの一員としてフィリピン遠征にでかけている。

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岡昭彦

2021-01-18 13:16:52 | 日記

1974年


巨人が六位で指名した春日部工・岡昭彦三塁手(18)=1㍍79、77㌔、右投左打=のプロ入りが二十三日正式に決まった。巨人・内堀スカウトはこの日・浦和市大字大門の岡宅を訪れ、父親昭吾さん、母親牧子さんを交えて岡と入団交渉を行い、契約金七百万円、年棒百二十万円(いずれもすいてい)の条件を提示した。すでに二十一日の第一回の交渉でプロ入りの意思表示をしていたため、話はスムーズに決まり、両リーグのトップを切って正式契約した。入団発表は後日、東京の球団事務所で行われる。また、巨人はドラフト外選手獲得の一番手として土浦日大の荒川俊男捕手(18)=1㍍72、80㌔、右投右打=に白羽の矢を立て、内堀スカウトが二十五日ごろ、交渉に乗り出すことになった。荒川はことしの春、夏の甲子園大会で工藤(阪神二位指名)とバッテリーを組み、強肩強打の捕手として知られ、将来が高く評価されている。

 

岡選手「あこがれの巨人に入団出来てうれしい。五年くらいはファームで鍛えてもらうつもりです。いまはこれで巨人のユニホームが着れるんだなあ、といった気持ちです」

 

ドラフト会議で指名された七十選手のトップを切って契約、プロ球界にとび込んだ男はー。巨人のワクいっぱいの六位、全体の六十九番目に指名された春日部工・岡昭彦二塁手(18)=1㍍79、77㌔、右投左打=はいま、胸をときめかせてあこがれの巨人からの指名だっただけに条件を聞く前に入団OK。早々と二十三日に契約をすませた。今年から契約金の制限が撤廃されたためか態度の表明が遅い選手の多い中で、なんともスピーディーな契約第一号選手である。プロ野球の選手、それもあこがれの巨人から誘われるとは思ってもみなかった。ドラフト会議の当日、巨人・内堀スカウトから電話連絡を受けるまで半信半疑だった。この七月までは、機械科を卒業後、父親・昭吾さん(45)の経営する医療器具の製造を手伝うつもりでいた。こんなとき、岡の前に突然現れたのが巨人の内堀スカウト。埼玉県下屈指の強打者ー。こんな新聞の地方版に心を動かされたのだ。今年の四月、大宮で行われた春の大会で目をこらした。「ミートがうまい選手だ。投手から転向したので肩がいい」性格も素直だ。そして、今年の夏の県予選では、一回戦の小松原戦に本塁打を含む三打数三安打、前年度の代表校、川越工を1-0で破ったときも、岡の二塁打が決勝点のきっかけになっている。このとき内堀スカウトはひそかに指名を決めた。岡は目を輝かせていう。「八月までは巨人のテストを受けることになっていました。途中からドラフトに指名するかもしれないらしいから受けなくてもいい、といわれました。それでもドラフト会議の前、新聞にのった候補選手を見たとき、これじゃ指名されるのは無理だと思ってました」幼いときからの巨人ファンで、東京・練馬にいたころ、所属していたリトルリーグ、練馬チームのメンバーと石神井の荒川道場で巨人の王と写した写真がいまでも宝物だ。昨年秋まで投手で五番を打っていたが、コントロールが悪く三塁にコンバートされた。昨年秋からの通算打率が五割二分。ホームランも公式戦での四本を含め十六本打っている。「来年の一月、多摩川の練習からでるつもりです。いっしょに入ることになる定岡(鹿児島実)は甲子園にも出場したし。くやしいと思うけど巨人に入ってからは負けません」一月、プロ選手としてスタートするまで毎日練習を続けるという。

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