プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

柴田晃

2019-06-30 21:07:59 | 日記
1962年

まだまだ力不足、今後の成長がたのしみ。

これといったキメ球を持たず制球力もなくまだまだ力不足。これから鍛えられてのびるルーキーだ。

1963年

一軍入りは当分むずかしい。努力の結果が二、三年後に出るか。

1964年

小さいが馬力はある。変化球の切れの悪いのが欠点。

ファームで努力中だが、一軍の実力はどうか・・・。コントロールはある。

1965年

バッティング投手できたえただけにスタミナ十分だが。下手投げ。

サイドハンドからの速球が生きれば。

バッティング投手。東映フライヤーズの縁の下の力持ち的存在。
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山本兵吾

2019-06-30 20:32:14 | 日記
1960年

東都大学野球の好投手として注目を集めている専大のエース山本兵吾投手(22)=広島県誠之館高出=は二十八日対芝工戦終了後「気持ちは広島に九分九厘まで傾いた」と語り、同夜さらに西野スカウトと話し合い、近日中に広島入りの運びになった。

山本がプロ野球に注目され出したのは今年になってからである。今春山本は専大のあげた九勝のうち八勝をあげる活躍をみせ、最優秀投手賞、ベスト・ナインに選ばれた。これで本人も自信をもった。本人のプロに入りたいという気持ちを聞き最初に勧誘の手をのばしたのは阪急だった。阪急は藤井スカウトが春のリーグ戦終了と同時に本人に会ったが、会議的な問題と藤井スカウトの態度に不満をいだいた山本党首はすぐ阪急との交渉をたち、一時はノンプロ熊谷組入社に気持ちがかたむきかけた。しかし家庭の都合でどうしてもプロ入りということになり交渉を持ったのが、広島、南海の二球団だった。投手難の南海は石川スカウトの子息亮三君が専大の捕手(四年)として活躍していることから密接な交渉を持っていた。一番出足の遅れた広島は実家が広島県内の福山にあるところから本人と対面作戦をとり西野スカウトが本人に上京のたびに会い熱心な勧誘をつづけてきた。こうして二球団による争いとなったが山本投手は広島に森永、興津と先輩がおり、白石前監督からも内部の事情を聞き実家にも近いところから「働きやすいチームだ」と広島入団に踏みきったわけである。

山本投手の話 自分の気持ちは広島に九分九厘まとまっている。森永、興津の両先輩もおり、実家も近いし、働きがいのあるチームだと思っています。

広島カープ久森事務局長の話 先日西野スカウトが広島に帰ったとき、可能性があるという中間報告は受けている。それ以後はっきりした結果がまだ聞いていないが、郷里も福山だし、それがうまくいったものだろう。

誠之館を出るとノンプロ備後通運に入社。一年間ノンプロで活躍後、州二年専大に入学。入学後は同僚の坂井(現大毎)のカゲにかくれて日の目をみなかったが、昨年坂井が中途退学して大毎入りすると一躍エースの座についた。上手からの速球とシュートに威力を持ち春のシーズンは99回1/3を投げて自責点10、防御率0.99の好成績をあげ、最優秀投手賞、ベストナインに選ばれ専大の投手陣を一人で背負った。今秋もすでに五勝をあげ、ピッチングの幅も出てますます磨きがかかってきた。1㍍78、68㌔。
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原田喜臣

2019-06-30 12:21:06 | 日記


1962年

ほっそりとしているが、ピッチングにバネがある。新人テスト生のピカ一。

細いがバネを使って投げこむ球は新人と思えぬ変化がある。これからの選手。

1963年

新人テストで入団二年目、ピッチングにバネがある。

いまひとつのコントロールがないが、カーブは鋭い。若手のホープとして期待されている。

1964年

素質は十分だが、精神面でもう一歩。間もなく芽を出すだろう。

フォームはきれいだが、球にするどさがない。のびなやみ。

1965年

本格派投手。外角速球で押しまくるピッチングは魅力がある。

本格派の投手だが、恐さがないのが欠点。昨季はバッティング投手が多かった。

球速、変化球はよいが、球質が軽いのが難点。
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佐々木隼人

2019-06-30 12:07:57 | 日記
1959年

19歳、宮古水産高、1㍍73、72㌔、右投右打、新人

昨年は練習生として登録されなかったので新人といっても実際は二年目。これからの選手。

合宿、釣り。
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清水賢

2019-06-29 13:13:32 | 日記
1960年

国体高校野球に出場、二十七日の決勝戦で北海高に敗れた米子東高の清水賢捕手(18)は阪神、東映、阪急、大毎、中日から入団交渉を受けていたが、同日熊本市内の宿舎竹の丸旅館で「好きな阪神をえらびたい」と、つぎのように語った。同選手は夏の甲子園大会でインサイド・ワークにすぐれているところを認められ阪神、東映が最後までくい下がったが、同校が国体に出場するため正式な回答が出なかった。二十八日米子に帰り次第、両親、岡本監督、吉瀬部長と協議して最終的にきめることになっている。

清水捕手の話「定時制の三年生でまだ学校は一年残っているが、プロでやりたい気持ちが強い。同じ野球をやるならプロでと思っている。これはぼくだけの気持ちで、両親や一切をまかせている監督さんがどうかわかりません。それにぼくの方にはどこの球団から話があるのかくわしく知りません。いくとすれば好きな阪神にいきたい」

吉瀬部長の話「まだはっきりしたことはわからない。米子に帰り次第、両親、監督と相談することになっている。私自身プロの人とは会ってもいないし、まだ両親の気持ちもわかっていないので、なんともいえない」

清水賢捕手略歴 春の選抜で準優勝した米子東高のバックボーン。四番を打ち投手リードのうまさは抜群。夏の予選では七番にさがり13打数無安打とスランプがつづいたが、甲子園では8打数3安打(1三塁打)2打点をマーク、国体ではクリーン・アップ(五番)にカムバックして準優勝、ようやく実力を発揮してきた。秋田商・成田とともに高校球界指折りの好捕手。1㍍75、70㌔、右投右打。
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高木孝三

2019-06-26 22:59:02 | 日記
1964年

大洋に自衛隊出身の珍しい投手がいる。山口県防府市の第一航空教育隊からさる九月、大洋に入団した高木孝三投手(20)=広島県佐伯郡五日市町出身=がその人。オリンピック東京大会で金メダルをとった三宅選手やマラソンで銅メダルの円谷選手らの活躍で自衛隊株が上がっており、ノンプロ野球にも、ことし初めて自衛隊が進出した。これからも自衛隊出身の選手がプロ野球にはいってくることも考えられる。そこで自衛隊出身の第一号高木選手をクローズアップしてみたー。入団してからまだ二ヶ月たっていない十月三十一日、足利で行なわれた対東京オープン戦に高木投手はプロ入り初登板した。この試合で高木は先発して3イニング投げ、自責点2で敗戦投手になった。別所コーチは「初めてにしてはまあまあのでき」とほめていたが、本人は不本意だったらしい。「あのときはどうしたのかタマが走らずふがないない結果でした。あがったわけではないのですが…」ことし二十歳、頭にまだ幼さの残っている高木はオープン戦とはいえプロでの初陣を飾れず残念そうだった。「でも初めから勝てるほどプロは甘くないですね。いい勉強になりました。しかし速球には自信がありますからこんどは押えてみせます」五日市中学から広陵高にはいり本格派投手として鳴らした自負はじゅうぶんうかがえる。平山スカウトは「彼の直球はスライドするのが特徴。変化球はカーブしか投げないが、直球が速いのでカーブがよけい生きてくる」とほめている。土井コーチも「コントロールはいま一歩だが、直球には相当の威力がある」といっているので、来シーズンの高橋重につぐ第四の投手になる素質はじゅうぶん。

ことしの七月、都市対抗で中国地方の代表になった山門鉄鋼の補強選手として出場した高木は、都市対抗では一回戦で敗退したものの、中国予選を通じて28イニング自責点1の好成績を残した。そのピッチングを山門鉄鋼の有吉コーチ(元西鉄投手)に認められ「プロでもじゅうぶん通用する」と勧められてプロ入りする気になったという。広陵高三年の春、スライディングの練習中に右ヒジにヒビを入らせ野球を断念、自衛隊にはいったのがプロで野球するきっかけになったのだから皮肉なはなし。「両親は大学進学を希望していたようですが、勉強は好きではなかったし、若いうちにいろいろやった方がいいと思って自衛隊にはいったわけです。規制づくめの生活には初めまいりましたが、いい経験になりました」二年七ヶ月の自衛隊生活は高木にとって相当プラスになったらしい。

九月十一日に合宿入りして二ヶ月、合宿生活にも慣れた高木は今後の目標をたてる余裕もでてきた。「阪神の村山さんのように真っ向から勝負する投手になりたいですね。変化球で逃げるピッチングはしたくない。中学時代から一貫してきた速球一本やりのピッチングでぶつかっていきます。変化球をマスターしないといけないといわれますが、いま変化球を覚えるつもりはありません」若いうちから変化球を多投する老成のピッチングはしたくないとはっきりいう。なかなかド性骨も太い。別所コーチは「今後の問題は体力をつけること」といっているが、たしかに1㍍76、68㌔のからだは大男ぞろいの大洋ではよけい小さくみえる。しかし、まだ二十歳の育ち盛り、今後の練習で体重がふえることはじゅうぶん考えられるから体力の点は心配なさそうだ。首脳陣も来シーズン高木を戦力の一躍に期待しているので、高木の雄姿がみられるのもそう遠くはないだろう。
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荒砂任司

2019-06-15 11:49:53 | 日記
1956年

試合は荒砂、石川(緑)の好投ではじまったが荒砂は最後までペースをくずさず石川(緑)は後半疲れ、阪急はこれにつけこみ勝利を握った。阪急は六回無死岡田が遊撃左を抜く安打、荒砂四球の一、二塁のチャンスに、バントと片山のスクイズで手がたく先行、つづく早水が一塁線に安打して二点を加えた。石川(緑)は横手から山なりのカーブを外角一ぱいにきめ、内角へのシュートもよくコントロールされ、七回を終って投球数は60球、前半は三回市原に安打されただけだったが、後半に入り少し疲れ気味、球威が落ちたところを打たれた。八回にも荒砂以下に三連安打され、一点を許した。一方の荒砂はカーブの切れも鋭く、直球もスピードがあり低目にきまった。このカーブで有利なカウントをとり、直球、シュートで勝負し、八回までに許した走者は二回丹羽の遊ゴロ失と八回三振食い逃げだけだった。九回一死後あと一人でノーヒット・ノーランの記録が生まれるところまでこぎつけたが、石川の代打金子になんでもない二ゴロを打たれ、これが前進した二塁手の前でイレギュラー・バウンドして頭上を抜かれるという不運があって目の前の記録を一瞬にしてつぶされてしまったのは気の毒であった。
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小川敏明

2019-06-15 11:00:36 | 日記

1959年

全日本大学野球選手権大会で強肩捕手としてプロ球団から注目されていた中京大学の小川敏明選手(21)=商学部三年生=名古屋市中川区=は、家庭の事情から学業をつづけることを断念、愛知大学リーグ戦を待たずして同校を中退し、ドラゴンズへ入団すると十四日夜自宅で意志を表明した。正式契約は十六日、名古屋市中区の同球団事務所で行なわれる。

同選手は高校野球の名門中京商時代は現阪神の本間投手とバッテリーを組んで活躍、卒業後プロ各球団をはじめ、社会人球界から多く勧誘をうけたが昭和三十三年中京大へ進学。一年生からマスクをかぶり強肩捕手として知られ、同三十四年春以来三シーズン連続優勝に貢献。神宮球場で行なわれた全日本大学選手権大会へ二度出場した。プロや大学野球関係者は「東京六大学の捕手で、小川の強肩にかなうものは一人もいないだろう」と高く評価しており、ことしの夏の高校野球で、母校中京商を小川選手といっしょにコーチした一年先輩の立大安井投手も「投手が思わず首をかがめなければならないほどで、その強肩にはおどろいた。六大学、東都大学にもこんな肩のいい捕手はいない」と語っていた。三年生で在学中のため、プロ各球団は卒業の年に入団交渉を進めようとしていたが、社会人球界からは、すでにことしの四月に地元の全チームをはじめ日本石油、日本通運、日鉱日立、日立製作、日本生命などほとんどの会社から誘いをかけられていた。身長1㍍75、体重75㌔、腕っぷしの強いバッティングを誇る大型捕手として、将来性を大いに買われている。

ー大学を中退してプロ入りした動機は。
「両親と兄弟三人の生活で長男の私がめんどうをみていかなければならない家庭の事情から、あと一年で大学を卒業できるのに、まことに残念ですが、中退してプロ入団の決意をかためました。滝監督さんにはなんとか大学だけは卒業してはどうかと、強く引きとめられましたが・・・」
ー中日を選んだ理由は。
「名古屋で育った私は中学生のころから中日が好きでした」
ーほかの球団からも勧誘されたことがあるが。
ノンプロ・チームからたくさん勧誘をうけていました。高校時代にプロへ行かないかと誘いをかけられたことがあります。大学へ入学してからもそんな話をよく聞きましたが、学業をつづけるつもりでいましたので、プロ入りのことは全然考えていませんでした。
ープロ野球をみたことがあるか。
「練習に追われて、いつもみるというわけにはいきませんでしたが中日球場の近くに住んでいる関係で、ひまがあれば見に行きました。学生野球とはなにもかもちがうと思っていました」
ーこれからの目標は・・・。
「もう一度野球の第一歩から踏み出す気持ちでがんばります」
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江口晴造

2019-06-15 10:25:42 | 日記
1963年

大毎は十九日午後一時、大阪・北区堂島の毎日会館内大映関西支社五階会議室で、ノンプロ積水化学・江口晴造投手(21)=1㍍85、73㌔、左投左打、京都桃山高中退=の入団を発表した。背番号未定。同投手はノンプロ時代伊藤(積水化学ー近鉄)竹村(現積水化学主将)のかげにかくれて無名だったが、速球が武器の左腕本格派。大毎は青木チーフ・スカウトが高校時代から目をつけており、東映、近鉄も勧誘していたが、一番熱心だった大毎に決まった。

江口投手「目標は小野さん(大毎)です。速球には自信がある。もっとスピードを増すため、下半身を鍛えて早く一人前の投手になりたい」
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七森由康

2019-06-15 10:12:10 | 日記
1964年

七森は打線の援護に気をよくして投げた。シュートとカーブがタイミングよくきまった。三回田中、大和田の安打で二死一、二塁となったのが唯一のピンチ。ホームラン性の大きなフライも強い逆風が押しもどしてくれた。四回以後大羽を四球で出しただけで広島打線を二安打散発におさえ、プロ入り初完封を記録した。広島はこれで今シーズンの全日程を終了した。
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松下秀文・島田博

2019-06-15 10:08:59 | 日記
1954年

読売巨人軍では新人募集テストの結果次の二名を採用した。

投手 松下秀文(17)神奈川山北高=五尺八寸、十八貫、右投右打。
捕手 島田博(18)福島会津工=五尺七寸五分、十七貫、右投右打。
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大杉勝男

2019-06-15 10:05:43 | 日記
1965年

ノンプロ丸井(東京都支部)の大杉勝男左翼手(19)=1㍍80、78㌔、右投右打、岡山・関西高出=は十二日、西京極球場で行なわれた産業対抗予選決勝戦(対立正佼成会)で敗れ、東映入りにふみきったようである。同選手は高校時代から大型打者としてプロ球団にマークされていたが、高校の先輩である丸井・岡田監督のすすめで昨年丸井に入社。すぐ四番を打ち、今夏の都市対抗予選では二回戦(対熊谷組)で負けたが、8打数4安打、打点2をマーク。今春のオープン戦では4ホーマーと長打力もある。足がややおそいのが欠点。東映は宮沢スカウトがはやくから大杉のバッティングにほれこみ、相談相手である丸井・岡田監督を通して説得した。金銭的な折り合いがつき次第契約する。

丸井・大杉選手「プロ入りの話は岡田監督からきいている。まだはっきりきめてはいないが、できるものならプロで力をためしてみたい。東映以外のチームはどこもきていないが、東映からも条件などはきいていない」

東映・宮沢スカウト「からだが大きく、しかも非常にやわらかい。きれいなバッティングをする。岡田監督はもう少し自分のところにおいてきたえたいといっているが、無理におねがいした」
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藤本典征

2019-06-15 10:04:12 | 日記
1961年

伊万里高野球部の藤本典征選手(18)=三年=はこのほど、セリーグ広島カープと契約した。同校のエースで、夏の大会では西九州代表となった佐商に好投一回戦で惜敗した。速球とドロップが得意で、左投げ左打ち。百七十五㌢、七十㌔。性格は明るく、根性も持っており、地元では未完の大器と期待されている。同校からは初のプロ入り。
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三原卓三

2019-06-15 10:02:31 | 日記
ゴルフ場の朝は早い。午前八時には、気の早いゴルファーが押しかけてくるからだ。だから、ゴルフ場に働くプロ・ゴルファー、従業員、キャデーは、それ以前にやってこなくてはならない。江ノ島にある江ノ島ゴルフ場も、ご多分にもれず朝は早い。このごろ午前五時になると、一人の青年が真っ先きにコースへ飛び出す。コースをひと回りランニングしたあと、早くからやってきたお客さんのキャデーをつとめる無口な男である。黒いセーターに、作業ズボンという服装で、どう見ても元プロ野球選手には見えない。これがカープの外野手だった三原卓三君の近況である。かつては何万という大観衆から、拍手と歓声を浴びた。そんな過去とは、あまりにもかけ離れた現在である。三原君が将来を嘱望され、広島カープのユニホームを着たのは四年前、三十一年の春だった。広島県の庄原高校では、投・攻・守三拍子そろった好選手だった。とりわけしゃくるようなゴルフスイングのバッティングは光っていた。「こいつは大ものだ」三原君をみた評論家たちは異口同音に彼の豪快なバッティングをほめた。やがては、広島カープの中心選手にーだれもがそう信じていたに違いない。だが、大勢の人から注目されだすと、三原君の生活は荒れた。夜ふかしが続き、酒も飲んだ。プロ野球選手として欠くことのできない節制と努力が、忘れ去られたものになった。こうして三十四年のシーズンオフに、予期もしない整理選手の宣告を受けた。悪かった、と気づいたときには、すべて手遅れだった。「もう、過去の生活は思い出さないことにしているんですヨ」クラブをふる手を休めて語る三原君は、暗い過去を忘れようとしている。カープを退団した後、知人の紹介で協和醗酵に入社した。再び野球で身を立てるつもりだった。しかし、サラリーマン生活は、わずか三ヶ月という短いものだった。「高校を出たくらいでは、あのような大会社では出世できない」と考えたからである。また、大学出身者に対するコンプレックスがあったからである。そこで、もう一人の知人に紹介されたのが、プロ・ゴルファーへの道。生まれ変わったつもりで、と第二の人生へスタートを切ったのが、この十月初めのことだった。ゴルフをおぼえるのは、目と筋肉からといわれる。江ノ島ゴルフ場の支配人浅見緑蔵氏(プロ・ゴルファーで元日本オープン選手権者)は、まず、三原君へキャデーになることをすすめた。周囲の人たちは、元プロ野球選手にそんなバカなまねはできるか、と半ばからかいの目で見ていたが、三原君の決心は意外に堅かった。カープの合宿で、最も朝寝坊で有名だった彼が、このごろでは午前五時起床、百八十度の転身ぶりだ。もうすっかりキャデーとしても腕も板についた。まだ、コースを回るという段階にはいっていないがキャデーがやる合い間には先輩のボール拾いをやり、つとめてゴルフを身につけようとしている。同ゴルフ場での先輩格染谷アシスタント・プロは「最初は、こちらから話しかけるのも気がひけたくらいです。でも、打ちとけてくると、彼の堅い決心のほどがわかりました。野球の選手をやっていただけあって、カンは鋭い。それに恵まれた体格が何よりのものです。ボヤボヤしていると、こちらが追い抜かれそうです」という。ことしのプロ野球日本選手権は大洋と大毎の間で争われた。万年最下位の大洋が優勝したことによって、一層球趣が盛り上がった。町の話題は大洋に集中した。それなのに、三原君は野球のヤの字も口にしなかったという。「もう、プロ野球はご免ですね」いくら野球の話を持ちかけてもこうだ。いま、ゴルフ場近くの寄宿舎で生活をしている。コースには近いしそのうえ浅見緑蔵氏という申し分ない師匠を持っている。「プロ野球では、とんな横道を走ってしまったので、ゴルフでは絶対に成功してみせます」と堅い決意に燃えている。浅見プロは「三原君は体格がいいので、きっと成功する。中途でさえ止めなければ、大ものにしてみせます」と折り紙をつけている。
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渡辺邦彦

2019-06-10 21:59:11 | 日記

まさかプロ・ゴルファーになるとは夢にも考えていなかったーと渡辺邦彦君(26)はいった。小学校の六年生から野球ひとすじに進んできた人が、未知の世界へ転身したものだ。阪神電車の野田社長が、いまの住まい、芦屋カントリー・クラブの理事長をしている関係で、すいせんしてもらったが、「とにかく、ゴルフなんて全然知らなかったので、考えましたけれども、そう深くは悩まずにはいりました」最初はボールが真っすぐに飛ばず、だんだんむずかしくなるのでやっぱり、どんな職業でもプロと名がつけばその道は実にけわしいと彼はつくづく思ったそうだ。高校時代は、米田(阪急のエース)の三年先輩で、境高の一塁手で、四番バッターで活躍したものだ。二十七年の夏に、甲子園の土を踏んだキャリアを持っており、球友には一年下の拝藤(広島の投手)がいる。ノンプロは米子鉄道管理局に四年間、捕手で四番、年間20ゲームで6ホーマーを放つスラッガーだった。高校卒業のときに、スカウトにきた御園生氏の関係で「野球をやるなら一度プロへはいって」と阪神へ入団したのが三十二年。一年間、ファームの三塁手としてやったが、自分の力を知って、プロ野球から足を洗った。「そりゃ、野球をやめるときは、ずいぶん名残りも感じましたが、いまでは、そう野球もやりたいとは思わなくなりましたね。もうゴルファーになってから三年目ですからね」と遠い昔をしのぶ。親友だった鎌田や並木は、いまやタイガースのレギュラーとしてバリバリ働いている。初めのころは、野球とゴルフとは、そう関連性がないと思っていたけれども「最近では、かなり相通じるところがあると考えるようになったんですよ。自分のフォームを分解して研究するところなどは似通っています」と。しかし、野球の場合は、動くタマに対してタイミングを考える。ゴルフは静のマトに向かってふる。動と動、静対動の相違で、野球にはないむずかしさがあって「バッティングのくせで身体が動くので、身体をとめるのにひと苦労でしたよ」という。選手権など正式競技に出場する資格のテストが、ことしから一段ときびしくなったが「来年はパスできると思うんですよ。早く選手権にも出てみたいですからね。これが第一の目標ですよ」と自信のある語り方だ。これからはメンタルなものを身につけることで、まだまだキャリア不足だそうだ。ゴルフの世界で一番ものをいうのは、このキャリア。テストに合格するには普通のプロでも最低五年はかかるそうでいま渡辺君は周り道をとりかえそうと、毎日せっせとグラブをふっている。
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