1955年
全国鉄に選ばれて産別大会に出場した札鉄の青山裕治投手(23)(札幌西)に目をつけていたところ、ゲームを終って一週間たっても札幌に帰らず、札鉄から捜索願が来たので大あわて。ところが当の青山君は伊東の大映キャンプに参加していたのだから、またまた国鉄の黒星というところ。
1957年
二年生で進境をみせているのは投手の青山。カーブをすっかり身につけたのが強みだが、力が入りすぎて球が棒球になる欠点をどこまで直せるか・・・。
1958年
人間の長い一生は、何が幸運のきっかけになり、何がつまずきの因になるか、わからない。大毎オリオンズの二軍に青山裕治という左腕投手がいる。彼はキャッチャーの谷本と、仲がよい。二人とも旧大映スターズの生き残り組だからだ。それにバッテリーという関係もあるだろう。青山は二軍、谷本は一軍と、別れてしまったが、二人が顔をあわせると、片目をつぶってウインクを交換しあう。しっかりやろうぜ、という代りでもあり、谷本に言わせれば「ツイてる奴だ」ということになる。青山は北海道の札幌の出身である。高校は札幌光星商業。大洋の目時が先輩に当たるわけだ。本校を終えると、札幌鉄道局に奉戦した。ここで彼は本格的な野球をやった。左腕からくり出す彼のピッチングは、たちまち速球王にのしあがり、そして、三十年の十一月、産業別対抗に全国鉄の一員として選ばれて上京した。北海道のエースでも、世帯の大きい国鉄に加わると、勿論エースではない。だが彼は選ばれたというだけで、夢のような希望に胸をふくらませて上京した。大会は十九日から始まった。全国鉄は石油部門代表日本石油と対戦した。主戦上田が先発した。だが、上田は立上り、花井(現西鉄)に長打を打たれ、一回で早くも二点を献上した。とても勝目はない。リリーフには上柿(東鉄)が出ていった。青山は出る機会がない。だが、後楽園の土を踏むだけでよい。ブルペンでピッチングをしよう。彼はドコドコと歩き出した。その時である。放送中のテレビカメラが彼をヒョイと映し出した。偶然である。彼も、ベンチにいる選手も勿論気がつかなかった。「ウム、いいフォームだ。ものになりそうだ」大映の藤本監督が唸った。14吋ブラウン管に左投手のピッチングが映っている。伊東である。この年、大映は秋の強化練習を伊東でやっていた。練習の終った宿舎である。「もう、国鉄はあかん」「だが、この投手はひょっとするといけるぜ、どや谷本」藤本監督が、チラッと谷本を横目で見ならが、話しかけるともなく眩いた。「そうですか」「ウム。これ、何という名前かな。ひとつ、ウチに取ろうや」一週間後、伊東の大映宿舎にやせすぎの青年がボストンバッグを抱えてやって来た。青山である。谷本が、藤本監督の独り言を思い出した。運のいい奴だ。そう言いたげに片目をつぶって見せてニヤリとした。青山にも、その意味が通じたのか彼も頬を一寸赤くしながらニヤリとした。こうして、青山裕治投手が誕生した。青山は、谷本と顔を合わせると、このことを思い出す。谷本も青山を見るたびに思い出す。二人の仲は堅い友情で結ばれている。