プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

佐藤平七

2023-12-30 13:34:18 | 日記
1951年


毎日の先発佐藤も要所要所をカーブで逃げて健闘した。


1953年
復調の佐藤はインステップする技法で外角低目に速球を決めこみ得意のシュートを混えて完全にスタルヒンに投げ勝った。

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工藤友也

2023-12-30 13:31:06 | 日記
1993年
工藤投手は長身から投げ下ろす本格派。140キロ近い速球と切れのいいスライダー、フォークを駆使。フォームもダイナミックで活躍が期待される。入団が内定した工藤投手は「ホッとしました。うれしいです。平田君には負けたくない。早く一軍で投げたい」と話していた。

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山本文男

2023-12-29 15:02:23 | 日記
1963年
33年、広島に山本文男という少年が入団したのをご存知の方もいるだろう。観音崎中でエースだった山本の球はプロに入っても速かった。キャンプで当時の四番小鶴をキリキリ舞いさせ、白石監督に買われて第一線に加えられた。公式戦でも巨人を相手に好投、父役有名になったが、結局はプロの激しい練習にからだがついていけず、早々に肩を痛め、回復しないまま、35年に広島を去っている。「入団したてのころはタマが走ったし、これならいけると張切った。ところが練習は日を追ってキツくなった。疲労で体がクタクタになり、それでもムリをして投げたのが悪く、肩を痛めた。治療したが、体が成長しないうちに痛め、悪いまま固まってしまったので、結局なおらなかった。体が完全にできていきないのにプロに入ったのが間違いでした」と、山本投手は言う。

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小林誠

2023-12-29 13:08:13 | 日記
1965年
「将来の大物まちがいなし」と林監督や首脳陣が太鼓判を押す選手が台頭している。背番号59番。保原高出身で十九歳の二年生、小林誠二塁手。1㍍75、73㌔の小林は大きな体ではないが、軽快な守備ぶりはともかく、パンチのきいたバッティングはますます磨きがかかり、キャンプの進境ナンバー1といわれている。湯之元キャンプを訪れる評論家たちもそろっていい選手だと目を見張っているが、中でも別当薫氏の惚れ込みようなどが桁外れ。「他の選手には失礼だが、湯之元キャンプでずっと小林のバッティングに釘付けにされてしまった。柔らかく力が抜けて強烈なスイングができるのが魅力だね。バッティングの正確さ、フォームのできている点では、豊田や徳武などよりもはるかに上だと思う。リストワークが見事で三塁方向に飛ぶ彼の当たりは打球の速さではナンバー・ワン。もし二塁の守備に不安があるようだったら、外野なりどこかに彼が出場できるポジションを捜してやるべきだ。」と別当氏もべた褒め。林監督もそれは十分承知の上だ。昨シーズン、小林はイースタンでは三年生の望月の控えとして34試合にしか出ていない。打率は2割4厘(64打数13安打)で、長打は二塁打が3本だけ。無難な二塁手と地味な評価だった。しかし、まだ十九歳の若さに加え、柔軟な体を持っており、粘り強い根性もあるだけに期待は十分持てる。新生国鉄の新星として売り出すだろう。

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迫田七郎

2023-12-29 12:50:23 | 日記
1965年
迫田は九州の南端、鹿児島の産だ。九州といえばバンカラが男性のシンボルといわれている。だが迫田はおよそバンカラには縁が遠く、よかにせどん(いい男)である。色は黒いが面長で、目がパッチリ。鼻筋の通ったハンサムボーイである。一見、線の細さも感じさせるが気性の激しさは超一流。「好きな色は赤」そんなところにも迫田の気性が現れている。照国高(鹿児島)から神奈川大に進学したが、たった半年で東京の試験を受けた迫田。三十八年の十月だった。「プロでやる。ただそれだけだったんです」当時を思い出していつも迫田はそういう。その迫田がこの夜東映を相手に完投シャットアウト勝ちした。もちろん迫田にとって初めてのことだ。この夜がプロ入り通算十六試合目のマウンドー。運のいいやつ知らない人はそう思うだろう。だが迫田には完封できるデータがそろっている。いまから約一ヶ月前、正確にいうと三月二十七日後楽園でのオープン戦東京対東映戦で迫田は東映の誇る左打線を25打数2安打に押え込んで、完封勝ちした。2点とられたが、それは野手の失策が原因、自責点はもちろんゼロだった。汗をふきながら引き揚げてきたヒーロー迫田もこのへんから話がはじまる。「確かにあのオープン戦が役に立ちました。張本さんはちょっとこわいけど、ラーカーは穴がありますしね。左打線がものすごく多いんですが、そんなに気にしませんよ」ぐるっと取り囲まれた迫田は、まるでしかられた子供のように、照れ臭そうに話す一面もある。「八回はどうなることかと思いました。でも長南を併殺に打ちとった時これでいけると自信がはじめてわいてきました」健康そうな白い歯をみせて笑ったのはそのときがはじめてだ。二月十五日で二十歳になった迫田。「もうおとななんです」だからこのくらいやってもおかしくないでしょうといいたげだ。昨年迫田は全部救援。そして0勝1敗。それも東映戦で記録したものだが、この夜はオマケつきで東映に仕返しをした。「やっぱり気分はいいんですね。さっそく連絡するところ?ないですよ。きょうはテレビがあるからオヤジは見てるでしょう」とあっさり。青木チーフ・スカウトが今シーズンからつけている勤務評定に、今シーズン最高のプラス5が迫田についたのも当然である。

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西出佐分郎

2023-12-29 10:57:10 | 日記
1957年
昨年八月神宮球場で行われた全日本大学野球選手権で関大が全国制覇した時の殊勲者は村山ー上田のバッテリーに平井ー難波というところだった。私はあまり目立った働きこそしなかったが、六番を打っていた西出のあらいプレーに注目していた。西出はどちらかといえば力だけの無器用な選手で、まだまだ完成された選手ではない。それだけに物足りないところがある半面、これから伸びる希望を私は感じたのである。守備では肩が強いこと。これは高校時代から彼の十八番だけに三宅などにヒケはとらないが身体が固いためかんじんなフットワークが十分でないのは致命的だ。このためダッシュがなく前後は強いが、どうしても左右に弱いのだ。前のゴロでもゆるい当たりが苦手なのもそのため。打率でも身体の固いことが欠点となって、いまのところはあなの多いバッティングだ。内角寄りでベルトから上のコースには絶対強く、リキがあるだけにこのコースにきた球はロングを飛ばすが、どうしても外角球には弱い。フォームに柔らか味がないのだ。川村関大監督も「バッティングのスケールはあるが、ムラがあるのが欠点だ。最初一発打てばつづけて打てるが、ひとつポイントをはずされるとさっぱり。別にお天気バッターではないのだが、調子づくと外角球も打てるのだが…」と語っていたし、御園生二軍監督も「いまのバッティングならプロの変化球は打てないだろう」と批評はきつい。身体に柔軟性を持たせることはもちろんだが、いままでのように力まかせではなく、もうすこしミートとタイミングに重点をおいて打つように心がければ、打てない外角球や低目の球にも手が出るようになるのではないだろうか。足もあまり速い方とはいえないが、足は野球の基本、すこしでもスピードをつけるようにしなければならない。こう書いてみる西出は、欠点ばかり多くて、あまり長所はないようだが、決して悲観することはない。まず彼は人一倍練習熱心なのである。西出は阪神渡辺博選手の母校大阪桃山学園高出身、二十八年関大に進んだが、高校、大学とも最上級生になるまで補欠であった。だがいつも持前の努力で、レギュラーになった時はつねにチークの中軸として働けるようになっている。大阪からのキャンプ便りでも「西出は大学生ながらいつも一番先にグラウンドに出て、最後まで練習している」と御園生二軍監督が感心していた。「彼はバッティングにしても守備にしてもまだまだ未完成なところばかりだ。しかしリキがあるだけに二軍でみっちりしこんでみたいと思っている。ヤマは二年間、ここで彼のプロ選手としての将来がわかるだろうが私は最近ウチにスケールの大きな選手が少なくなっただけになんとかものにしてみたい」という御園生二軍監督の言葉に彼のすべてが語られているようだ。

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木村保

2023-12-29 10:20:31 | 日記
1957年
二十七年夏の高校野球大会決勝戦で芦屋高の植村投手(毎日)と渡り合ってから好投手木村(八尾高)の名を聞くことは久しい。当時植村は懸架の如きドロップで超高校級党首の異名をとった逸材ならば、木村も同年春の選抜大会に山口(早大)のひきいる北野高とともに大阪代表として甲子園原頭に駒を進めてから大阪一の名声をほしいままにしたキリン児であった。六大学での木村はどうであったろう。木村は過去六シーズン防御率を1点台に抑えている安定した投手。二十九年秋、三十年秋、三十一年春と優勝に輝くこと三度、そしてベストナインにも三回選ばれているほか、三十一年春の早東一回戦で連続8三振の連盟新記録をうちたてたことはいまさら紹介するまでもないほどだ。しかしこの木村がなぜ昨秋のリーグ戦で不振だったのだろうか。東大に二度も打たれ「木村も限界にきた」という声も聞かれたが、私は決してそうは思わない。不振の原因は疲労にあったのだ。春のリーグ戦後木村は大阪に帰らず夏季講習を受け八月の全日本大学野球選手権、そして休むヒマもなく秋のシーズンといった強行日程でコンディションを整えれるわけがない。それでは木村はプロではどうだろう。秋山(大洋)と比較することは出来ないが、昨シーズンの秋山の好投を思うにつけ「木村でも十分に…」という期待をもっている。その第一の根拠は秋山が成功したのと同じように威力のあるシュートを持っていることだ。秋山のシュートも変化があって威力はあるが、木村が得意とする横手からの伸びのあるシュートで打者の胸元を攻めたらプロといえども打ちこなせるだろうか。しかも木村は斜め、上手、下手と三段階にシュートを使い分け、スピードも秋山よりある。ストレートの威力もあるし、秋山にはない上手からのドロップもある。球威からみれば秋山より上とみてよいだろう。しかしピッチングの安定感ということになるとまだ秋山に一歩譲るようだ。木村には秋山ほどの巧味がないのである。そのよい例がコントロールだ。木村は四球が少ない。しかしこの機械的な制球力が彼の欠点なのだ。木村は不思議とストライクはとるが際どいコースをつく球が真ん中に集まって痛打を浴びることが多い。二十年春の早明二回戦における谷井(丸善石油)の決勝ホーマー、同年秋の早立一回戦における長島の3ラン・ホーマーがそれである。第二はカーブである。六大学では「木村を打つには速球よりカーブをねらえ」というのが木村攻略の秘けつになっている。シュート投手にありがちなカーブの弱さ、木村もその例にもれずカーブが弱い。しかもこのカーブが肩口から真ん中にきまることが多いからなおさらだ。リーグ戦中彼が痛打された三分の二以上が恐らくこのカーブと手元が狂ってストライク・ゾーンに入った直球ではないだろうか。この点さえ解消したら私はパ・リーグの新人王候補になるのではないかとさえ思っている。

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中田宗男

2023-12-29 09:59:02 | 日記
1982年
わずか13球で中田がプロ入り初勝利を手にした。十三日に牛島と入れ代わって一軍登録されたばかり。今季初登板で、五十五年六月二十八日の阪神戦以来、二年一ヶ月ぶりの一軍マウンドも「自信のある」142㌔のストレートで山本浩、水谷、木下を凡打にとってのうれしい初勝利。「ファームと同じように思い切り投げたのがよかった。ついてます」という中田が、鈴木代表から「ツキじゃないぞ。実力だぞ」と言われてニッコリ。ドラにまた一人孝行息子の誕生だ。

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中井悦雄

2023-12-29 09:41:45 | 日記
1966年
阪神タイガースはテスト中の元同チームの投手中井悦雄投手(23)の入団を十一日四国安芸市の宿舎で決めた。この日練習前のミーティングで藤本監督からナインに改めて紹介されたもので、同投手のカムバックは一年ぶり。一度自由契約になった選手が再び採用されたことは球界でも例がない。同投手は三十九年入団。終盤研修制度が解けたあと4勝1敗の好成績をあげ、新人王と騒がれたが、翌年夏、事故で右肩を骨折、同年暮れに自由契約になった。その後東京の経理事務所に就職していたが一年の静養で肩も全治、今シーズン末から甲子園の秋季練習にテスト生として参加していた。


中井投手の話 再びユニホームを着れることになってこんなにうれしいことはありません。新人の気持ちでがんばります。

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山本秀樹

2023-12-29 09:30:28 | 日記
1969年
午後三時から球団事務所で青木球団社長立ち合いのもとにドラフト指名第六位の山本秀樹投手(18)=横浜高、177㌢、74㌔、右投げ右打ち=の正式入団発表を行った。父親秀雄さん(47)渡辺元横浜高野球部監督(26)と同席して記者会見に臨んだ山本投手は「がんばります。プロ野球で自分の力をためしてみたいと思っていましたが、稲尾さんみたいな投手になりたい。監督が大投手で、プロへ投手として飛び込む者はしあわせです。これからはもっとストレートにみがきをかけたいと考えています」と力強く語っていた。

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佐藤栄七

2023-12-29 09:16:25 | 日記
1957年
通称キタと呼ばれる大阪梅田界わい。そのなかに阪急ビルとならんで三角型のスマートな航空ビルがある。その地階の一角に事務所をもつ阪急商業が、29年暮れ阪急を最後にプロ野球からおさらばした佐藤平七氏の勤務する会社だ。かつて法政時代に柚木投手(現南海)をたすけてリーグ優勝をとげたのを始め、ノンプロ函館オーシャン時代は、毎年のように都市対抗で活躍、25年毎日球団創立時に迎えられてのプロ野球でも佐藤ー荒巻ラインとうたわれるほど、荒巻投手とのコンビで好投したのはファンの記憶にも残っていることだろう。そのご、肩のおとろえとともに再起を期して阪急に移ってみたものの、カムバックの雄図も空しく寂しく消えていったのが29年。それから三年、いまは野球から離れて同産業営業部に籍をおく一介のセールスマンとして、慣れぬ商売に取組んでいる。阪急ブレーブスの木地社長とこの会社の社長が、阪急電鉄時代の友人であった関係から、ムリに頼んでいれてもらったそうだが、京阪神にまたがる大小二十幾つの食堂経営、宝塚遊園地などへの飲料販売、石炭販売、養鶏、養豚…など相当広範囲な営業内容をもつ会社のセールスマンは意外にむずかしいらしい。馬鹿正直すぎれ、商売の駆け引きができないから全然ダメですという佐藤氏にマウンド上での打者の駆け引きは通用しませんか?と問うてみたらああ、ダメですな。もともとベースボールをあまり考えないでやってきたほうだから、いまになって苦労しますワとの答。いつも課長から計画性がないと注意されるそうだ。ああでもない、こうでもないと考えれば考えるほど、引込み思案になる気弱い面が、積極性を必要とするセールスマンなる仕事をマイナスにしているのだが、半面野球をやっていたお陰で、名刺を出しただけで選手時代を思い出してくれ、野球の話から商談の糸口がほぐれることも再三ならずあるというから、すべてにマイナスとはいいきれない。野球への未練は?と聞いてみたらちょっと寂しかったが、いまはもう…。とさっぱりしたもの。現在はスポーツに理解が深い社長の若手を仕込めという命令で、軟式野球をやり、昨年、ことしと二年連続して健康保険の北区予選大会に優勝しているそうだ。いまの自分にはゴムマリがちょうどいいと笑っているが、プロ時代から好きなマージャンだけは相変わらずの病気ぶりをつづけているらしい。取っておきの失敗談を…とねだってみたらいやあ、失敗ばかりでどれを話したらよいのやら…とテレていたが、そのうちの一つを披露すれば、入って間もないころ、デパートへ入れているテーブルを運んでいったときに、勝手がわからず、その上、混雑をきわめている百貨店のこと、ついにぶっつけてこわしてしまったこともあるそうだ。日がたつにつれて、少しは要領もわかってきたとはいうもののなかなか実績が上がりまへんと苦笑していた。佐藤氏は最後に「プロ生活をかえりみて、一番悔いることはファイトに欠けたことと、まああとはなんとかなるといった楽天的日時を送ったことだ。こうして普通の社会へ入ってみて、始めて自分から野球をとったらゼロなんだということをしみじみ感じたが、あとの祭り。これからプロに入る人も、現在プロで活躍している人も野球意外じゃメシが食えないんだという気持に徹して欲しい。ファイトに欠ければ、どんな社会からも落伍するということがしみじみわかりました」と身をもって感じた教訓をしみじみ語っていた。

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宇野輝幸

2023-12-29 08:48:00 | 日記
1969年
ドラフトで第三位に指名した日大一・宇野輝幸捕手(17)=175㌢、74㌔=の入団が決まった。丸尾スカウトは二十九日夜、東京・赤坂の旅館「千代田」で本人、父親金吾さん(48)、母親幸江さん(49)高橋野球部長と二度目の話し合いをした結果、宇野側の承諾を取りつけたもの。阪急はドラフト会議で8人を指名したが入団が決定したのは宇野が第一号。契約金七百万円、年棒百四十万円(推定)後日、大阪・梅田の球団事務所で正式発表する。


丸尾スカウトの話 強肩で足も速く長打力もある。実力は八重樫(仙台商)らと大差ない。

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水本啓史

2023-12-29 08:31:04 | 日記
1988年
誠実な人柄で、ファームの選手の中でもファンの人気ならトップクラスだった水本啓史さん(24)は、非力なためにパワー野球に見切りをつけた。京都の実家に帰り、義兄の経営する室内装飾店に勤務している。「一日も早く一人前になり、営業までもやれるようになりたい。どの社会でも頑張ることに変わりはありません」と、相変わらずのファイトマンぶりだった。

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奥薗満

2023-12-29 08:21:19 | 日記
1970年
東京・日本橋本町の球団事務所でドラフト指名外の二人目、鹿児島商・奥薗満捕手(18)=175㌢、76㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。背番号は70。十四日の自主トレーニングから練習に参加する。同選手は四十三、四十四年夏の甲子園大会に捕手で五番打者として出場、また国体でも活躍している。強肩強打の大型捕手として活躍している。日立製作所に就職が内定していた。たまたま同選手を見た佐竹スカウトは「夏の大会から国体までに伸びる選手は少ないが、彼の場合は非常によく伸びたので、ぜひほしかった」といっており、これがヤクルト入りのきっかけ。


奥薗選手の話 プロ野球にはあこがれていた。ドラフトの指名は受けなかったが、自分の力では当然だと思っていた。でもヤクルトから話があったので、ぜひ自分の腕を試してみたかった。

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中村国昭

2023-12-29 08:09:47 | 日記
1970年
ドラフトで指名しなかった日鉱佐賀関の中村国昭二塁手(22)=180㌢、77㌔、右投げ右打ち、大分津久見高出=を獲得した。同選手はノンプロ時代二塁、三塁の両方をこなす好守、打撃面でも通算3割4分6厘、27ホーマー(三年間)をマークする好打の持ち主。津久見高時代には三十八年甲子園夏の大会に出場した経験もある。四十二年巨人がドラフトで五位に指名したときは「自信がなかった」そうでプロ入りしなかった。背番号44。


中村選手の話 巨人に指名されたころは自信がなかったが、いまはある。夏ごろからでも出場できるようにがんばる。

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