プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

若生照元

2019-07-31 22:45:50 | 日記
1960年

二日、西京極で行なわれた阪急対大洋のオープン戦に大洋のルーキー若生(中大)波山(東北高)がいずれも先発投手としてオープン戦にデビューしたが、若生は三回投げて三安打、無得点に切り抜けた。「まだゆるいカーブにたよるごまかしのピッチングだ」と本人もいうように得意の切れのいいシュートはみられなかったが、捕手の島野に注意するなどプレートさばきは新人ばなれしたもの。「肩がもっとほぐれてくればビシビシ投げます」と元気いっぱい。一方二試合で先発した波山について三原監督が「藤本英雄(現大和証券)のデビュー当時を思わせる腰のバネの持ち主」と期待していたが、三分の一回しかもたなかった。「別にあがっていたわけではなかったが、ストレートを投げようと思うと、なにかフワッと肩から力が抜けてしまって・・・。カーブを投げるときは落ち着くんだが・・・」と首をかしげていた。ストレートがほとんど高目に浮いていたのをみると、やはりあがっていたのだろう。「二人ともとにかく素質があるんだから、どしどし投げさせてオープン戦中になんとか一人前にしたい。波山とくらべるとやはり若生は大物だね」と三原監督はいっていた。
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原田幸昌

2019-07-31 22:36:59 | 日記

1960年

地元徳山商出身の大洋・原田幸昌投手が十五日の対東映戦に三原監督の温情?で九回に投げた。試合前にたくさんのくだものカゴをもらってこの新人投手はテレていた。代わりばな松岡に左前安打をあびたが、この回から代わった土井捕手の好リードで一応後続を断った。しかし大きな体に似ずスピードはあまりない。最後の土橋を三振にうちとったときはスタンドからものすごい拍手が送られた。
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若生照元

2019-07-31 21:23:30 | 日記
1958年(中央大学時代)

この日の若生はゆっくりふりかぶり、直球のコーナー・ワークよく農大打者に一安打も許さず完封した。彼はいままで岡崎投手のカゲにかくれ、ほとんど公式の試合には出場せず、そのスピードを買われてレギュラー・バッティングの投手をつとめていた程度。東北高時代は現大毎の若生、現西鉄の若生と同級生だが血縁関係はないそうだ。この若生は投手と外野手をかねていた。高校時代からそのスピードには定評があり、加藤監督は彼の球質を買っていた。その期待にこたえた彼はおだやかな表情で「運がよかったんですよ。シュートがキメ球なんですが、きょうはストレートが思うようにきまっただけです」という。中大入学後マウンドを守ったのは昨年秋の駒大戦がはじめて。次は専大との優勝決定戦、二回戦に五回三分の二投げ自責点0と好投している。また決勝戦は一人で投げたが4-2と敗れている。「いままでは上手から投げていたんですが、どうも単調すぎるので横手から投げるようにしました。昨年専大に負けてから落ちる球を研究してなんとか投げられるようにはなったが、まだコントロールがつかないので当分ストレートを投げます。調子はわりといいです。ただいわれたとおり投げるだけですよ」これだけしゃべるのにトツトツと時間をかける。性格はおとなしく、無口の方だが、東北人特有の粘りっこさをもっている。趣味は映画(邦画)九人兄弟の末っ弟。経済学部三年、二十歳。右投右打、1㍍73、69㌔、背番号31。
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堺一也

2019-07-31 07:14:02 | 日記
1960年

背番号38 右投右打 175㌢、74㌔、佐伯鶴城高

テスト選手としてはいった。俊足で鉄砲肩といわれるほど強い。打撃はリストの回転に難があるが、みがきをかければ大打者になる素質は十分。闘志のかたまりのような選手。
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岩名健治

2019-07-31 07:09:36 | 日記
1960年

背番号51 右投右打 178㌢、75㌔、浪速工高

学校時代は卓球の選手で、硬球をにぎったのはことしはじめてという変わりダネ。巨人の藤田そっくりのフォームで投げる。軟式野球出身だけに先輩土橋をつぐとはり切っている。
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山田幸造

2019-07-30 22:46:12 | 日記
1958年

山田投手の話「はじめて一軍のマウンドにあがったら顔や体に相当重い圧迫感を受けて困った。ナックルがぼくの武器だが、この試合ではよくきいていたと思う。直球にも思ったよりスピードがのった。もうひとつ鋭いカーブをマスターできれば・・・しかし三回には一度打たれたら頭がカッカッしてきてつづけざまに打たれた」
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服部貞夫

2019-07-30 22:42:04 | 日記
1958年

大毎オリオンズの大島のキャンプに参加して話題になった元力士・高崎山(本名、服部貞夫)は二十一日、見習生として正式に巨人に入団。多摩川の合宿に入り二軍とともに練習する。大分県鶴崎中学出、四年前玉乃海に発見されて二所ノ関部屋に入門、幕下まで進んだが、昨年暮「プロ野球で身をたてたい」と師匠の反対をおしきって断髪。同郷の荒巻投手をたよって大毎のキャンプに参加したもの。1㍍76、70㌔、右投右打、投手。20歳。
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畝龍実

2019-07-24 21:20:35 | 日記
1989年

社会人になって名前の売れた遅咲きの左腕。横手からのシュート、スライダーは清川二世。
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山本延義

2019-07-24 20:49:30 | 日記
1960年

昭和15年10月27日生

47 山本延義(19)捕手 多治見工、1㍍72、71㌔、
右投右打、岐阜、合宿、映画。

ブルペン捕手の域を出ない。

河村とバッテリーを組んでいた。小柄だがファイトは十分。

高校時代河村とバッテリーを組んでいた。無難なプレーをするがスケールが小さい。
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角田満

2019-07-23 21:43:19 | 日記
1988年

長身から重い球質で1年目から頭角を現した。今シーズンはステップの年に。

1990年

練習生から浮上。球威増し今季の秘密兵器と期待。

1991年

初の一軍昇格が期待された昨季だったが伸び悩んだ。制球力をつけること。
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大坪幸夫

2019-07-23 21:39:18 | 日記
1983年

怖いもの知らずのピッチングで急成長。シュートに威力があってスライダーにも磨き。勝負度胸を生かすとしたら一軍の中継ぎ役で使いたい投手だ。
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富田勇

2019-07-23 21:35:06 | 日記
1983年

中央に無名だが地肩の強さは天下一品。じっくり育てたい素材だ。

1984年

体の切れがよくなり、パワーもついた。地肩が強く、ストレートの速さに魅力がある。

1985年

地肩が強く重い球質の球を投げるがピッチングが単調。今季は打者との心理読む投球が課題。

1986年

球威はあるが、フォームが整いすぎて打者とのタイミングが合ってしまう。体のタメを覚えれば。

1987年

球の切れ味で勝負するタイプ。昨年の1軍体験を糧になんとかワク入りを狙う。ノンビリ屋さんが今年は必死。

1988年

球のキレで勝負するタイプ。ノンビリ屋さんもそろそろ一軍定着を。中継ぎで一軍ワクに残りたい。
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松本安男

2019-07-23 21:29:06 | 日記
1963年

背番号65 松本安男投手

昭和17年10月14日生

172㌢、63㌔。
右投右打
福島県 石川高 合宿

名鉄の軟式出身、テスト合格、独力でマスターした努力型
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大宮勝男

2019-07-15 16:59:36 | 日記
1960年

大河原高、宮城、1㍍83、75㌔、右投右打。昭和16年4月17日生。

無名だが身長、体重とも投手として十分。二軍で精進すれば第一線への進出も可能。

まだまだ未完成なところを持っているが体も大きく将来を見こまれて今春入団した。

大河原高のワンマン選手。速球が武器だ。
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飯尾為男

2019-07-15 14:01:15 | 日記
1960年

飯尾対バルボンの二度にわたる対決がこの試合の勝敗の分かれ目となった。立ち上りの飯尾は外角を切るカーブで人見を三振にとった。しかしながら飯尾の調子は決してよくなかった。直球にもカーブにも切れがないのだ。飯尾の武器は外角への鋭いカーブである。このカーブにスピードがないときは直ちにリリーフを要することを意味する。立ち直る型の投手ではないからである。すべり出しから好調のときはそのままあざやかに九回を投げ切るが調子の悪いときはあっさりカブトを脱ぐ、ねばりが足りないのだ。一回2-0からバルボンにまん中のカーブを投げて三遊間を割られた。このときすでに今後に不安を感じさせた。不調であることはあきらかであるし、カウントが有利なだけにもう少し投球にくふうが必要ではなかったか、あっさり投げる飯尾の悪い面が出た場面である。この回2点の先行点をあげて阪急はきわめて有利となったがバルボンの一撃がその遠因となっていた。さらに五回勝敗の行方を明らかにしたのも、飯尾対バルボンの一投一打にあった。無死一、二塁、投手は当然内野ゴロ併殺をねらって低目に変化球を投げるのが常道である。飯尾がシンカーで内角低目を攻めたのはよいが、三球続けて同じボールを投げたのはどうしたことであろう。それもコーナー一ぱい低目をつくものであれば効果はある。スピードを落とした手ごろの高目球とあっては長打されるのも当然であろう。一回にカーブを打たれたからといって内角攻めにするのはピッチングの方針としても平凡である。いずれにしてもこの試合バルボンの2本の長短打で決まったといってもよかろう。
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