三浦広之投手
投球フォーム・右オーバースロー「速球主体の本格派で低迷期にはサイドスローにも挑戦した」
球種・クロスファイヤー気味のストレートが武器で変化球は大小2種類のカーブ、シュート、スライダー
年棒の推移
1978年「220万」・1979年「500万」・1980年「570万」
1981年「550万」・1982年「480万」・1983年「450万」
・1978年、プロ1年目を迎えた三浦は同期入団の松本祥志「東洋大姫路高」とともにMMコンビとして将来の阪急のエース候補に抜てきされ2軍では徹底した英才教育を受けた。三浦は3連続完封、37回3分の2連続無失点などの実績を引っさげ6月の中旬過ぎには待望の1軍入りを果たし、6月24日のロッテ戦では初登板を初勝利で飾り、7月21日に行われた第1回ジュニア・オールスターゲームでは先発投手を務めた。この年、4勝1敗、防御率3,44と高卒1年目としては及第点の成績だった。2年目のキャンプでスライダーを習得し投球の幅を広げた三浦は4月18日の西武戦「西武球場」の完封勝利を皮切りに4勝までがオール完投、
前期だけで6勝を稼ぎ防御率は2,82と大躍進を見せたが7月15日の近鉄戦「秋田」で栗橋茂に3ホーマーを浴び敗戦投手になってから6連敗、故障にも泣きプレーオフ直前には右アキレス腱を痛め登録抹消、予定されていた米教育リーグ参加も棒に振ってしまった。1980年、3年目の三浦はまずまずのスタートを切ったが6月17日に原因不明の右肩痛で2軍落ちした。この年以降はフォームもサイドスローに変更し再起を目指しファームで汗を流したが故障には勝てず、2度と1軍のマウンドを踏むことはなかった。プロ6年目の1983年11月4日、三浦は「体力の限界」を理由に引退を申し出、これが受理された。
阪急・退団直後の三浦「今シーズンにかけていたが、いいときのフォームを思い出せなかった。野球には未練はありません・・・」と言葉を詰まらせた。
阪急球団史上・異例ともいえる人気ぶりだった
・「プリンス」「貴公子」「玉三郎」三浦には、きらびやかなニックネームはいくらでもあった。ファンレターは1日に20通近く舞い込み、特に女学生に圧倒的な人気があり阪急が東京遠征に出たときなど宿舎には朝早くから三浦見たさの女学生が群れをなして押しかけてきた。1979年には史上初の「ジュニア・オールスター」と「1軍のオールスター」の掛け持ち出場を果たし本番の1軍オールスター第1戦「大阪球場」では掛布雅之「阪神」を3球3振に仕留めている。
プロ初勝利
1978年・6月24日・阪急ーロッテ前期11回戦「西宮球場」観衆5500人・試合時間・2時間12分
ロ000010000・1
急00200101・・4
勝ち・三浦、セーブ・山田、負け・広木・・本塁打・山崎裕7号
・阪急投手陣・投球内容
三浦6回・3安打・6三振・四死球1・自責1
山田3回・1安打・4三振・・・・・・・・・自責0
・注目を一身に受けマウンドに上がった三浦は初回、有藤を歩かせたが、得津を3塁ゴロ併殺に切って取り、4回まで無安打。
5回1死後、山崎裕に左翼ポール直撃の本塁打を許したが6回を1失点、山田の好リリーフにも助けられプロ初勝利を挙げた。
お立ち台インタビューでは「まだ信じられません」「中沢さんの構えるところへ思い切って投げただけ・・・」と夢心地の様子だった。
投球フォーム・右オーバースロー「速球主体の本格派で低迷期にはサイドスローにも挑戦した」
球種・クロスファイヤー気味のストレートが武器で変化球は大小2種類のカーブ、シュート、スライダー
年棒の推移
1978年「220万」・1979年「500万」・1980年「570万」
1981年「550万」・1982年「480万」・1983年「450万」
・1978年、プロ1年目を迎えた三浦は同期入団の松本祥志「東洋大姫路高」とともにMMコンビとして将来の阪急のエース候補に抜てきされ2軍では徹底した英才教育を受けた。三浦は3連続完封、37回3分の2連続無失点などの実績を引っさげ6月の中旬過ぎには待望の1軍入りを果たし、6月24日のロッテ戦では初登板を初勝利で飾り、7月21日に行われた第1回ジュニア・オールスターゲームでは先発投手を務めた。この年、4勝1敗、防御率3,44と高卒1年目としては及第点の成績だった。2年目のキャンプでスライダーを習得し投球の幅を広げた三浦は4月18日の西武戦「西武球場」の完封勝利を皮切りに4勝までがオール完投、
前期だけで6勝を稼ぎ防御率は2,82と大躍進を見せたが7月15日の近鉄戦「秋田」で栗橋茂に3ホーマーを浴び敗戦投手になってから6連敗、故障にも泣きプレーオフ直前には右アキレス腱を痛め登録抹消、予定されていた米教育リーグ参加も棒に振ってしまった。1980年、3年目の三浦はまずまずのスタートを切ったが6月17日に原因不明の右肩痛で2軍落ちした。この年以降はフォームもサイドスローに変更し再起を目指しファームで汗を流したが故障には勝てず、2度と1軍のマウンドを踏むことはなかった。プロ6年目の1983年11月4日、三浦は「体力の限界」を理由に引退を申し出、これが受理された。
阪急・退団直後の三浦「今シーズンにかけていたが、いいときのフォームを思い出せなかった。野球には未練はありません・・・」と言葉を詰まらせた。
阪急球団史上・異例ともいえる人気ぶりだった
・「プリンス」「貴公子」「玉三郎」三浦には、きらびやかなニックネームはいくらでもあった。ファンレターは1日に20通近く舞い込み、特に女学生に圧倒的な人気があり阪急が東京遠征に出たときなど宿舎には朝早くから三浦見たさの女学生が群れをなして押しかけてきた。1979年には史上初の「ジュニア・オールスター」と「1軍のオールスター」の掛け持ち出場を果たし本番の1軍オールスター第1戦「大阪球場」では掛布雅之「阪神」を3球3振に仕留めている。
プロ初勝利
1978年・6月24日・阪急ーロッテ前期11回戦「西宮球場」観衆5500人・試合時間・2時間12分
ロ000010000・1
急00200101・・4
勝ち・三浦、セーブ・山田、負け・広木・・本塁打・山崎裕7号
・阪急投手陣・投球内容
三浦6回・3安打・6三振・四死球1・自責1
山田3回・1安打・4三振・・・・・・・・・自責0
・注目を一身に受けマウンドに上がった三浦は初回、有藤を歩かせたが、得津を3塁ゴロ併殺に切って取り、4回まで無安打。
5回1死後、山崎裕に左翼ポール直撃の本塁打を許したが6回を1失点、山田の好リリーフにも助けられプロ初勝利を挙げた。
お立ち台インタビューでは「まだ信じられません」「中沢さんの構えるところへ思い切って投げただけ・・・」と夢心地の様子だった。