プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

河原田明

2014-04-30 22:33:15 | 日記
1958年

東映フライヤーズでは三日午後三時、東京京橋の同球団事務所で早実の河原田明投手(17)と正式契約を行った。同投手は巨人と四日に契約する王投手のかげにかくれていたが、シュートが武器で、甲子園に春夏合計四回出場している。1㍍83、75㌔、左投左打。
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新屋晃

2014-04-30 21:11:26 | 日記
新屋晃選手「1978年・年俸280万」

・大沢監督お気に入りの選手。1年中、血マメをつくって素振りを欠かさない努力の人である。


1975年
・優秀な若手が多い日ハムの中でも、「バッティングは荒削りだが、快足と根性は一番」と、いわれている新屋内野手が早くも1号ホーマー「ロッテ2回戦」を記録、プロ3年目のシーズンを快調に飛び出した。鹿児島・照国高校出身の「薩摩隼人」
170センチ、68キロと小柄ながらパンチ力もあり、内野手にはうってつけのタイプ。1年目は打率190で2ホーマーだったが、昨年は主力選手に成長。3年の今季は八重沢、相本、猿渡らと一軍入りを争うまで成長している。まだ変化球に弱いという欠点もあるが「シャープな振りに徹して、今年は自分のバッティングを固めたい」といっており期待は十分。背番号43の九州男児の飛躍を注目して見たい。
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岡義朗

2014-04-29 20:26:39 | 日記
・控え選手として貴重な存在。足が速いので代走に使われ、また守備固めにも欠かせない。問題は非力な打力である。

年俸「77年・200万」「78年・240万」「79年・240万」「80年・480万」「81年・440万」

1980年「南海時代」
・守備の人、岡が好プレーを演じた。7月13日の対日ハム2回戦の10回ウラのことだ。この試合の9回、二塁打を打ったメイの代走として出場、10回表の攻撃で藤原の左前打で勝ち越しの2点をあげて、なお一死、1,3塁の場面で岡はスクイズバント。これが二塁内野安打となって3点目。貴重な追加点を叩き出した。「プロ入りして9年目。最初は内野だったが、ここ5年間は外野専門。まずは守備固めからチャンスを狙います」そのことば通り。そのウラ、リリーフの金城が2四死球で無死1,2塁の大ピンチ。だが、そこは守備の人、岡だ。代打・大宮の当たりは左翼へのファウル飛球。フェンス沿いにうまく回り込んだ岡がこれを好捕。ピンチを救った。岡山東商時代には2度、甲子園に出場。3年の時には全日本選抜の一員にも選ばれた。そのときのメンバーには近鉄・梨田、日ハム・鶴崎らがおり、ハワイ遠征の経験もある。「とにかく守備固めなら岡に任せろといわれたいですね。外野の守りなら自信がありますから。」ボトル1本は軽くあけてしまう岡。飲めば陽気になり、歌も飛び出すという明るい性格の持ち主だ。
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河瀬雅英

2014-04-27 20:27:13 | 日記
1976年
・近鉄の養成選手として1年間鍛えられていた河瀬投手「大阪・興国高校出」が晴れてメンバーの一員になった。昨年1月、練習生で自主トレに参加、ここで西本監督、杉浦コーチの目に止まり「入団」の了解もすでに取りつけていた。しかし投手陣は29人も抱える大所帯。「これ以上いらない」というフロントの意向で、合宿入りはしたものの選手登録はされなかった。オーバースローの無理のないフォームは首脳陣の間でもかなり期待されている。興国高時代は控え投手として、公式戦の出番はほとんどなかった。全くの無名といっていいだろう。この1年間、昨春の延岡キャンプにも参加し、シーズン中は黙々とバッティング投手を務めてきた。しかし、選手契約を終えると、これまでの苦労がすべて吹っ飛んだように顔をほころばせた。「合宿生活も楽しいし、みんないい人ばかりです。練習一本に打ち込み、負けないようにがんばります」あこがれのプロ選手となって希望に燃えている。養成選手の先輩には阪神の古沢のような成功例もあるのだ。中央では無名でも努力次第では道は開ける。河瀬には正月も休日もない。今日も藤井寺のグラウンドで懸命に走りこみを続けている。
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阪本敏三

2014-04-27 11:10:28 | 日記
1967年

阪急にまた一人有望な新人が入団した。昨年東映が交渉権を得ていた河合楽器の阪本敏三内野手(立命大、一七三センチ、七一キロ)だ。阪本は平安高校時代に甲子園大会に出場、いまをときめく?巨人の柴田(当時法政二高)から四打数四安打を打ち注目されたこともある。その上、山本級の足も持っている。立命大に入学し一年春からレギュラーとなり、四年春のリーグ戦まで連続七シーズン盗塁王となった俊足の持ち主で、百メートルを十一秒七で走る。大学時代の通算打率は三割一分五厘で好打者として知られていた。卒業後ノンプロの河合楽器に就職したが、藤井スカウトが熱心にプロ入りを説得、プロ入りに踏み切らせた。ノンプロ時代の打率も三割以上を打っており、実践型の遊撃手として、都市対抗でもマークされたいた。
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若林憲一

2014-04-27 01:15:21 | 日記
・捕手として入団するが、プロ4年目に外野転向。だが状況に応じ、時には一塁、遊撃もこなす万能プレイヤーである。

ファーム成績
1977年・打率214、本塁打1
1978年・打率276、本塁打1
1979年・打率208、本塁打3
1980年・打率270、本塁打0
1981年・打率000

1977年
・5月4日の巨人ー大洋「後楽園」の試合は9-3と大洋がリードして、8回表、大洋の攻撃に入った。一死一塁の場面で打席に入ったのは、長崎に代わってセンターの守備に就いていた若林。ここで見事にセンターオーバーの三塁打を打ったが、これがプロ6年目の初安打だった。甲府商業から1972年に大洋入りしたが、しばらくはファームの常連にとどまる。昨年のイースタンで打率263、5ホーマーのパンチ力を買われ、今年初めて一軍入りを果たした。しかし、代走が主で、この日を迎えるまで3打数無安打。それだけに6年目の初安打には、すっかり興奮し「なんでもいいから、できるだけ多くのゲームに出てチャンスをつかもうと必死の毎日です。後輩の田代があれだけ打つのだから刺激されます」と話していたものだった。
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石井高雄

2014-04-27 01:14:04 | 日記

1971年
・オープン戦もたけなわだが、カープではルーキー石井「柳川商業」の評価が上がっている。右投げ左打ちの利点もあり3月6日の南海戦「呉」で早速デビュー。この試合では四球で出塁し選球眼のよさに加え、バッティングの渋とさも印象づけ、翌7日には2番右翼手としてスタメン。5回には初安打を中前に放つなど3打数1安打、四球1。目についたのは4打席中、ファウルを実に11個も記録したこと。プロの投手に対し必死で喰らいつくファイトには、スタンドのファンも大喝采。「すでに自分の打撃を身につけている。これからも、どしどし機会を与える」と根本監督。石井自身も「僕は左投手は苦にしない。対戦した投手は、制球力はともかく、スピードはそれほどでもない」とかなりの自信だ。171センチと小柄ながら度胸は満点で首脳陣は「左打者が少ないだけになんとか戦力に」とちびっ子石井に大変な期待ぶり。
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筒井良紀

2014-04-27 01:13:00 | 日記

1975年
・「ストップ、ストップや!」1塁コーチ・小池の必死の叫びも無我夢中の筒井、松本には聞こえない。満塁ホーマーを左翼スタンドに叩き込んだ筒井は喜びのあまり、飛び上がりながら猛烈な勢いで1塁走者の松本を追い抜いた。幻の満塁ホーマー。8月6日のウエスタン、阪急ー南海7回戦のことである。2-2で迎えた6回、一死満塁のチャンスに打席は筒井だ。石田真の投じた3球目、思い切り振り抜かれた打球は風に乗って鮮やかなアーチ。リーグ今季初の満塁ホーマーが記録されるはずだった。しかし前述のように2塁ベース手前で、1塁走者の松本を追い抜いてしまう。中山塁審がすかさず「追い越しアウト」の判定を下すが、状況が完全につかめていない筒井は何やら抗議して、また走り出そうとしている。だが、すべてはあとの祭り。判定はくつがえらずに「3ラン安打」に変った。「前に走者がいることなんか全然わからなかった。そんなに速く走った憶えもないし・・」ベンチに戻ってナインに冷やかされた筒井は照れくさそうな表情。この筒井は20年前、同じ南海で名捕手として鳴らした筒井敬三選手「故人」のオイに当たり、本人も捕手として入団したが、上がつかえているため現在は外野にコンバートされている。お人好しのところからチーム内の評判もよく、他チームの選手からも好かれる人気者。「あんまり喜びすぎたんでつい・・こんど打ったときは胸を張って堂々とベースを周ってきますよ」これまで、「幻のアーチ」はいくらか記録されているが、満塁アーチが取り消されたのは初めてである。
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羽場勇二

2014-04-26 21:17:31 | 日記
1967年

昨年大洋を退団し、レスラーになることが九分通り決まっていた羽場勇二選手の国際プロレス入りが、お流れになった。桑田と国際プロレスのヒロ・マツダは、荏原高校時代野球部で先輩、後輩の仲。そこで桑田は、昨年自由契約になった大きな羽場に目をつけ、マツダと交渉した。マツダも性格のいい羽場に惚れて、プロレス入りはすぐ決まった。ところが羽場の両親から、「いくら給料が安くてもいいから、うちの息子はサラリーマンにしたい。どうもプロレスは・・」という横ヤリが入って、おじゃんになった。一番ショックだったのは当の羽場、「せっかく桑田さんが心配してくれたのに、申し訳がない。プロレスには興味があるんですがね」と、しょんぼりしている。馬場につぐ野球界からのプロレス入り第二号も、かくしてお流れとなった。性格のいい選手だっただけにチームメイトは、早く就職が決まればいいと気をもんでいる。
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渡辺博文

2014-04-23 00:03:43 | 日記

昨春につづく連続出場。去年は初出場ながら見事準決勝まで進出、真面目なプレーで好評を博したが、日ごろの精進がまた実を結んで今年も攻守にバランスのとれた好チーム再建に成功している。エース渡辺は昨年すでに甲子園のマウンドを踏んでおり、左投手独特のシュートに一段のさえを示し、鳥取西高との試合ではノーヒット・ノーラン・ゲームを演じ快調である。この投手力に呼応して打線も粘り強く、チーム打率も3割をオーバーしている。昨年のメンバーのうち6人まで残っていることは、渡辺の好調と思いあわせて昨春以上の活躍が期待されそうだ。14勝2敗2引分。
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山尾孝雄

2014-04-22 23:44:26 | 日記
1963年

山尾はやわらかいからだから投げおろすシュート、カーブ、速球を武器とし、そのコンビネーションには定評がある。「球威は学生時代よりぐんと増している。ただ下半身が安定していないのでコントロールに難がある。バネが不足しているのも気がかりだ」山尾につきっきりの土井垣コーチはこういっているが、山尾は「学生時代はスピードのある方だと思っていたが、プロでは通用しない。まだまだこれからです・・」と低姿勢だ。
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水谷宏

2014-04-22 06:43:06 | 日記
1975年、年俸280万


・入団して2年間、芽が出なかった水谷が勝負の年の3年目に中原コーチからスリークォーターの投球フォームを腕の位置を下げサイドスロー気味にする事を伝授された。これがうまくいきスライダー、シュートの切れが見違えるように良くなった。
コーチ連は「辛抱したかいがあった。ことしこそ一軍入りだ」そう喜ばれていたとたん、水谷は打球を顔面に当てて戦列を離れる。このブランクで、せっかくの上がり調子も台無しとなった。それでも「夏場に投手陣がバテてくるときにファームから上がるのは水谷だろう」と首脳陣は一日も早い復帰を待ち望んでいる。
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鬼頭洋

2014-04-21 21:03:57 | 日記
1973年

鬼頭洋投手

妻=明子 長女=みゆき 長男=洋貴

大洋から移籍。パリーグの打者には球質も知られていないし、やる気十分。唯一の左腕とあってフル回転。45年にはヤクルト相手にノーヒット・ノーランを記録している。
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鬼頭洋・阿部成行

2014-04-20 22:00:01 | 日記
1964年

来シーズンのホープ、鬼頭洋(21)=名商大1㍍79、69㌔ 阿部成行(17)=花巻商 1㍍74、69㌔の両投手の発表が二十、二十一日と相次いで行われた。両選手とも左腕。大洋にとって左投手はぜひ必要な存在だけに、このふたりにかける期待は大きい。
鬼頭は現在南海の林投手と、高校時代に騒がれた愛知県の名投手。ややサイドから、くせのあるシュートが武器の鬼頭は、「これがプロで通用するかどうかはわからない。でもこれはわたしのウイニング・ショットだから、今後さらに研究していく」となかなか意欲的。さっそく合宿入りした鬼頭は若手にまじって猛練習を続けている。ところでこの鬼頭は三年生だったが、家族は大学卒業後ならプロ入りしていいと中退を反対したが、どうせやるなら今からやりたい、という本人の強い願いがかなってプロ入りが実現したわけ。眉の太い鬼頭は明るい性格の持ち主。早くも合宿の人気者になっている。
一方阿部は今夏の甲子園で大活躍。「特に変化球に頼らず、速球一本のピッチングがここまできている点も魅力だ」と阿部獲得の立て役者、藤井スカウトは高く買っている。
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高橋明

2014-04-20 21:50:37 | 日記
1964年

多摩川球場では、五番打者の実現とエース投手の誕生を日差しとして連日のように練習を繰り返されているが、ある日、一塁側のブルペンで、コーチに就任したはずの藤田が、往年の球威をとりもどしたのかと目を疑わせるようなピッチャーがいた。投球動作から投げ終わるまでのフォームが、かつての藤田とそっくりなのだ。ところが、その幻の藤田?とは高橋が懸命に投げ込んでいる姿だった。藤田がピッチング・コーチになって約1か月。このわずかな期間に高橋のフォームが大きな変化をみせていた。つまり藤田コーチのアドバイスを素直に受けて投げているうちに、高橋は藤田の長所はどんどん吸収していくらしい。もちろんこのフォームの変化について、高橋自身もとっくに承知している。フォームが元エースとそっくりだよと声をかけると、汗を流しながら練習していた高橋は、「ウフフ・・。自分でもよく似てきたなあってビックリするくらいです。フォームばかりでなく、ピッチングの成績まで昔の藤田さんのようになるといいんですがね」と朗らかな表情。球に威力が加わって自信にあふれる態度。「今シーズンの成績はよくなかったし、不調の間にペナント・レースが終わってしまったような感じです。だから二度といやな味を味わいたくないですよ」と、これからシーズン・インと聞き違えるような弁。ナックルやスライダーなどの変化球の投げ過ぎから肩をこわし、不満足な一年間だった彼は、来シーズンは投球内容をガラリと変える心構えだ。
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