プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井上佳明

2016-06-30 23:00:44 | 日記
1953年

金田が腰の神経痛で休んでいる国鉄投手陣のなかで一番いい選手である。八日現在5勝12敗と負越してはいるが、巨人から国鉄唯一の白星をあげ、阪神には2勝のうち1勝、名古屋には3勝のうち2勝を稼いでいる。大きなモーションのサイドスローから独特のシュート、カーブをコントロールよく配合好調なときにはちょっと手が出ないほどの切れ味を持つ。二枚腰のような粘り強いピッチングが彼の身上だが、性格も粘り強い。ほめられたときは顔を赤らめているが、辛らつに批判されたときはまず素直に耳を傾けている。しかしつっこんでいくと廿歳にしてはしっかりしすぎているほど自分を知り、粘り強くシンを通そうとする。苦労がそうさせたのかもしれない。教科書販売を業とする大阪商人の三男として生まれ、天王寺高校で野球を覚えた。「もともと野球選手になろうとは思わず好きだからやっていた」のが廿五年高校三年のとき23勝3敗の好成績を収めてから、にわかに投球術に興味を深め、和歌山遠征のとき桐蔭の西村(現阪神・伊沢)と三振奪取を競ったり、近畿大会に全国選抜の覇者北野高校をシャットアウトしたりしているうちに野球への情熱がますますたかまっていった。「元来上手投げだったのが、このころからしらずしらずのうちに横手気味に変わっていった」という。卒業の廿六年、はじめて人生の岐路に立たされた。このころの希望は「早大か慶大かに行きたかった。そして学生野球の味をしりたかった」というがちょうどそのころ家業が次第に思わしくなくなったので「上の二人の兄も亡くなったし、ぼくが大学に入るよりはプロに入った方が両親を喜ばせる途だ」と思いさっそく野球部長に相談した。家庭の事情を知っていた部長と担任教官は賛成してくれたが、プロの実情を知らない一部教官と一見ひ弱そうに見える彼の体を心配した教官たちは反対した。両親はなにもいわず黙っていたというが「どうしていいかまったく途方に暮れてしまった。しかし自分の部屋に閉じこもって考え込んでいたとき母がそばにきて家のことなどお前は心配しなくていいと励まされたとき、やっぱりプロに入ろうと決心がついた」という。そして近くの氏神様に夜中こっそりと足を運び「一人前の投手になること」を誓ったそうだ。それまでは小学校時代のニックネーム。泣虫のカメ(佳明?)どおり弱い性格だったが、プロ入りを転機にすっかり気持ちを立て直し、ひたすらピッチングに身を打ちこんだ。成田(天王寺鉄道局監督)宇佐美(現国鉄二軍コーチ)の指導を受けたが、高校時代の逸材もプロでは一介にすぎない。コントロールとピッチング・フォームの矯正に苦しい鍛錬の明け暮れがつづいた。しかし十七貫、五尺六寸の小柄ながら素質と鍛錬がものをいってぐんぐん伸び、廿六年は大洋に2勝をあげて2勝2敗、廿七年は巨人からは1勝も奪えなかったが阪神、名古屋からそれぞれ勝ち星を拾って7勝7敗。今シーズンは八事のキャンプで覚えたスライダーが身につき、バネのきいたフォームで安定感も増えてきている。杉浦監督は「小さいがなかなかよい球をもっている。ただモーションが大きすぎるが、粘り強いし勝負師的なカンをもっているからもう少し体力さえつければ大成するだろう」といっている。左打者に対しては自信のないピッチングで打たれたり、走者が出るとカーブの威力が減ったり、若さからの欠点はあるがまだ廿歳。苦労をものともせず念願の「一人前の投手」をめざすことだろう。
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麻田勝也

2016-06-29 23:59:19 | 日記
1952年

セ・リーグ阪神タイガースではこのほど麻田勝也選手(27)と契約した。同選手は平安中学出身、右ききで大阪の大福製作所の投手として軟式野球に活躍していた、五尺七寸五分、十九貫、背番号27
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カスパラヴィッチ

2016-06-29 22:10:11 | 日記
1953年

カスパラヴィッチは予想以上の速球の持ち主である。その速球を打者をおそれずグングン投げ込んでゆく気力、これは普通の投手ではなかなか出来ないことである。しかもこの速球に配するに角度の鋭いドロップ、それもインコースのヒザ頭に落ちるものと、横手で投げるカーヴとシンカーを持ち、さらに威力のあるシュートを配合している。これらの球がいずれも荒けずりでまだまだ伸びる余地を残しているのでよけい頼もしい。もっと良いことは六尺の長身を持ちながらストライドが非常に狭いことで、これは日本の投手たちが学んで良いことだと思う。というのはストライドが狭いとウエイトが球によく乗りカーヴも一般と鋭さを増すからである。リストの使い方も合理的でこの調子でゆけばまだまだ球速を増すことだろう。ただ一抹の不安は上手に逃げるうまさに欠けていることで、全力投球だけでは狙われる危険がなきにしもあらずだ。後半大映打者に打たれて来たのもその現れである。こうした点を今後改めてゆけば一流投手となることだろう。近鉄は有望な投手を手に入れたものだ。
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姫野好治

2016-06-29 21:41:32 | 日記
1953年

大分工業で二年、別府星野組で一年半、明電舎で一年余、そして廿四年に大映入りして投手生活十年目の今シーズン監督推薦でオールスター・ゲームに選ばれた。「田舎者なので・・」とボソッと語るような派手なところが少しもないのでおよそ素人受けしない。しかし玄人筋には同じ大映の林投手とともにその巧味を高く評価されている。「セの強打連の一人一人に、あの人にはこの球で、あの人にはこのコースでと考えこんだら神経衰弱になってしまいます。思いきって勝負をするだけです。左打者が苦手なので阪神の金田さんあたりがイヤですね」これがオールスター・ゲームに選ばれた感想。彼はコーチャーに恵まれなかった。大分工業時代に一日だけ当時台湾総督府勤務の渡辺大睦氏(明大OB)にピッチングを見て貰ったことがあるが一日ではなにがなんだかサッパリ。星野組で荒巻投手(毎日)と一緒だったが彼とはタイプも違うのであまり勉強にもならず、わずかにそのころ浜崎氏(阪急監督)から十日間ほどと、明電舎に移ってから雨宮氏(早大OB)にときどきコーチされたぐらいのもの。だから野球が判りかけて来たのは「ほんのここ二、三年」ですという。努力と自分の研究だけで投げて来たのである。その彼が大映ですばらしい幸運に恵まれた。パ・リーグ随一の巧味をもっといわれている林投手にコーチされるようになったのである。彼と全く同じタイプの林に手をとって仕込まれるようになってからグングン腕があがってきた。とくに昨シーズンは彼としてプロ入り以来最高の十三勝をあげ、今年も33イニング無失点の記録を残している。今シーズンは三月廿四日に阪急に勝ち四月九日、十五日と阪急、毎日に勝ち滑り出しがいいので十五勝を突破できるかと思われたが、このところちょっと足ぶみして一日現在六勝六敗(プロ入り以来の通算42勝43敗)しかし六勝のうちシャットアウト・ゲーム四(東急2、阪急1、毎日1)を数えている。「フィールディングが下手で、投球モーションが大きいから南海のように足が早く細かい攻撃をしてくるチームはどうも苦手。今シーズンの目標は十五勝を稼ぐこと。早く林さんのように巧くなりたい」と抱負を語る。林投手は「九州の生れだが夏はそれほど強くない。夏になると自分でダメだときめてかかる気の弱さがある。世間では彼をシュート投手だといっているが試合中はカーブを多く投げる。武器は落ちるカーブ。この球が外角低目にきまるとちょっと打たれない。浮くカーブ、流れるカーブを投げておいて、ポッと落とすのがいい。悪いクセとして一試合のうち一回ぐらいきっと崩れる。今はほとんど横手投げ。この横からのシュートもいいがこれが死球などになるとトタンにガックリしてしまう。もっと図太くなるとのびますよ」という。荒巻投手の父君の紹介で静香夫人と結婚したのが昨年暮。秋ごろには父親となるそうだ廿九歳。
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松尾勝彦

2016-06-29 20:56:29 | 日記
1962年

阪神はこのほど松尾勝彦投手(19)=1㍍79、74㌔、右投右打、神戸商ー駒大一年中退=の入団をきめた。松尾は駒大一年に在学中だったが、プロ入りを強く希望。一週間前からテストを受けていた。スピードボールが得意、十六日からファームの練習に参加する。
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井上慎一

2016-06-29 20:35:20 | 日記
1953年

廿六年の都市対抗に大阪代表となった南海土建で松本(現南海二軍コーチ)とバッテリーを組んでいた大阪府予選決勝に5-3で日本生命を破り、本大会優勝戦には2-3と鐘紡に負けはしたが特異な下手投で注目を集めた。それまでは横手から投げていたが野球生活の振り出しは捕手である。福岡県田川高校時代強肩を買われてマスクをつけたが、たまたまある試合に投手が故障で出られず代わりに投げさせられた。球速も豊かでノビもあるというのでこれがきっかけで投手に転向。持前のナチュラル・シュート(強肩の選手にみられる意識せぬシュート)に磨きをかけ、横手からクセのあるシュートを武器に卒業後三井田川ー高倉鉱業と二年間ノンプロを歩いた。そして廿六年当時南海の二軍的存在だった南海土建に入った「下手投に変えたのはこのときです。練習を見にきていた柚木さん、筒井さんがちょっと投げてみた下手投の球をみていて下手投の方がいいから練習してみろといわれ、それから本格的に下手からの練習をしました」上下、左右に多彩な変化を見せる低目の球がウィニング・ショット。はじめてプレートに立った昨年は3勝2敗、19試合中完投1、救援10、先発1で勝率・600、防御率2・618。この成績について「まだフォームがぎこちなかったので制球も悪く、それに打たれるとムキになってしまうので完投がほとんどできなかった」と説明する。五尺八寸、十九貫近い立派な体格だが、いたっておとなしく、スマートな南海タイプ。生一本の真面目さがムキ出しだが、その生一本がピッチングに現れて今まで足ぶみしていたようだ。大神投手が「昨年七月ごろに四日市でやった近鉄戦に6点とられてから井上さんはあまり打たれていません」と先輩を語っているように昨年後半から次第に腕をあげて今シーズンのキャンプも人一倍熱心に走り、投げたという。この伸びかけてきた彼のピッチングに進境の拍車をかけたのはエース柚木の故障、それにつぐ中堅投手の不調である。これは彼個人にとっては天来の好機ともいえた打たれてもすぐ代えさせられない。また少しぐらいの不調は承知のうえで登板させられる。結局これが内に芽ばえかけた自信をぐんぐん育てあげた。7勝の大神にならび7勝2敗(10日現在)の好成績は天与のチャンスをしっかりとつかむまで試練に耐え抜いてきた力と汗の結晶であろう。三月廿五日近鉄一回戦に完投勝利投手となってから阪急、投球にそれぞれ一敗を記録しただけ、三回の完投に平均二・三点の失点は「打たれればムキになる」という欠点を一応克服したものとしてその努力は高く買われていい。「コントロールには自信がついてきたが威力のある球をもっと研究したい」という。柚木投手も「いい素質をもっているが、うま味が乏しい。若いからこれからまだまだ叩かれるがそれに耐えていけたら全盛時代の武末と肩をならべる投手になる」と未完の大器を誉めている。もっと叩かれてみることだ。廿二歳。
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ペン光吉・銭村兄弟

2016-06-29 20:02:29 | 日記
1952年

広島カープが昨年末以来入団交渉をつづけていた米カルフォルニアフレズノ郡の銭村兄弟、ペン・光吉の二世三選手がいよいよ同球団に正式入団することになった。十二日広島カープが河口代表にとどいた連絡によると、三選手は十五日深夜空路ロスァンゼレスを出発、十八日東京空港に到着廿日広島で行われる広島対巨人戦から出場する。三選手の略歴は次の通り。

ペン・光吉(24) 投手、左投、左打、原籍、加州サンフォード・ハイスクール卒、卒業後フレスノ球団の投手として活躍、五尺八寸、廿貫、速球が得意、スラッガー。

ハゥワード・銭村(26) 内野手兼投手、右投、左打、原籍広島市、フレスノ大卒、在学中大学リーグの首位打者、盗塁王となる。往年のハワイ朝日軍の名選手銭村健一郎の次男、五尺四寸五分、十六貫三百、捕手をのぞき万能選手。

ハーウェイ・銭村(24)外野手、右投、右打、ハゥワード・銭村の実弟州立フレスノ大を六月卒業、大学リーグでは打率三割六分五厘で首位打者、盗塁王も獲得している。五尺六寸、十八貫、駿足、好打、強肩の外野手で、米プロ球団からも引っ張られていた。
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佐藤敬次

2016-06-29 19:31:38 | 日記
1968年

大宮工・佐藤敬次投手(18)=1㍍75、70㌔、右投右打、第七位指名=の東京入団も濃厚になった。白川スカウトが四日、永田オーナーと親交のある福永健司代議士を埼玉県大宮市吉敷町の自宅にたずね、不在だったが協力を要請。そのあと、大宮工・山崎監督にあいさつ、午後三時から大宮市東大成の佐藤選手宅で父親・敬さん(54)母親・貞子さん(42)と本人をまじえて初交渉した。両親は「本人にまかせる」といい、本人も「プロでやってみたい」といっているところから、条件面さえ折り合えば、入団となる。同投手は選抜の優勝投手吉沢のカゲにかくれていたが、本格派として早くから注目されていた。
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七森由康

2016-06-28 23:41:26 | 日記
1965年

金田の見返り選手を巨人に注文するとき、国鉄首脳陣が集まってリストをつくった。すぐ戦力になる若手投手がいい。そこまではすぐ意見が一致しても、名前はたくさんあがった。七森、渡辺、大熊・・・。渡辺と大熊は国鉄から勝ち星をあげているのに七森は逆に1敗。「大橋か渡辺にしよう」という意見の中で、林監督は強く七森にひかれた。手首のかえしがスムーズなうえに、下半身のバネがある。絶対に七森をとるべきだ」電話で国鉄移籍を知らされた七森は、たった一人の肉親、父親の一郎さんのことが頭に浮かんだという。「脳軟化症で大阪病院に入院しているオヤジにクビになったわけではない。期待されていくんだから心配しないでくださいとすぐ電話したんです」その一郎さんも湯之元キャンプに出かける二月に退院。七森はなじみのない選手の中で練習に取り組んだ。「巨人よりきつい。宿へ帰るとグッタリしてしまいますよ。金田さんのかわりはとうていつとめられないけど、ぼくを選んでくれた人たちのためにも働きます」七森ってどんなヤツだといっていたナインも、すぐ覚えた。ピッチングもストレート中心に勇ましいが、イビキもナイン一。眠れないという文句が出たくらいだ。この日のピッチングは七イニングを投げて五安打。いうことも威勢がよかった。「ぼくのピッチングはこんなもんじゃないですよ。スピードがなかったし、コントロールも最低。あんな球で3点におさえられたなんで不思議なくらいです。六十点くらいのできじゃないですか」巨人での三年間の勝ち星がたったの2勝。それが353勝の金田のアナを埋めるのだから気合がはいっている。「巨人に比べたら登板のチャンスはあるし、若手選手も多いから住みごこちは快適です。これからはスピードをつけることが先決。カーブだけではいつかボロが出てしまいますからね」七森の力にほれこんでいる林監督の採点はからかった。「この程度のピッチングしかできない投手じゃない。もっとスピードはあるし、変化球の切れもいい。貴重な左投手だし、巨人戦用投手としてたくさん使わせてもらう」近鉄ナインも「かなりやるだろう」という。山本八も高木もどこへくるかわからない荒れ球に手をやいたそうだ。
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北村正司

2016-06-28 23:18:32 | 日記
1952年

毎日オリオンズに入団したハワイ生まれ二世リチャード・北村正司選手は廿二日午後一時すぎ空路羽田に到着、若林二軍監督につれられて訪れたパ・リーグ事務所でつぎのように語った。「東京は立派な街ですね、住む所がきまったらすぐ家内をよぶつもりです、米大リーグからも話があったが日本が好きなのできました、体の調子は上々です」同選手は廿四歳、遊撃手、セントルイスHS卒後ウェバー、コロラド州立大学に学び六月卒業、この間ホノルルの朝日に入団1949年ハワイオール・スターに加わって米本土に遠征した。セントルイスブラウンズ(ア・リーグ)から招かれていた。同選手は廿五日から出場する、このため島田内野手は準登録となった。
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ホイタック

2016-06-28 23:04:59 | 日記
1965年

中日は五日午後五時から市内中区南外堀町の球団事務所で、二日から中日球場でテストしていた元米大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスのポール・フォイタック投手(34)=1㍍80、82㌔、右投右打=の入団を発表した。背番号18。同選手は二十八年大リーグ、タイガースに入団、一度マイナーに落ちたが、三十七年までタイガースの中軸投手として活躍。三十八年のシーズン途中エンゼルスに移った。三十七年にはタ軍の一員として来日、四試合に登板して2勝1敗、防御率2・14の成績を残している。三十八年までの大リーグ通算成績は86勝86敗。同投手の武器は落差の大きいナックル。西沢監督もこのナックルにほれこんで採用にふみきった。七日からのオープン戦は参加しない予定。

ー日本の食べ物はどうか。
「生のサカナは食べられないが、お米は食べられる。テンプラなんかとてもおいしいね」
ーチームのふんい気はどうか。
「アスプロに聞いていたので大体知っていた。親切な選手ばかりで、とてもいいチームだと思う」
ー中日は昨シーズン投手力が弱くて最下位になったが、投手陣をどう思うか。
「権藤、柿本、山中などいい投手がたくさんいる。ことしはきっといい成績をおさめるだろう」
ー日本の野球の予備知識は。
「タイガースの一員としてきたときのことしか知らない。個々の選手をあげれば長島、王、吉田、桑田、近藤和などを知っている。あのとき下関で大洋との試合で投げて無得点におさえているよ。大洋のことはわかっているだけに投げやすいと思う。巨人は王、長島というすばらしい打者がいるが、ぼくはあくまでストレートで外へ外へと攻め、こんどはスピードを殺して変化球で勝負するよ」
ー武器は。
「中日の捕手がよくからだにぶつけていたのを見ていたろう。ナックル、パームボールが得意の球だ」
ーいまの調子はどうか。
「ちょっと寒いので本調子ではないが、コンディションはいい方だ。練習をやりすぎてちょっと足が痛いだけだ。ぼくは二日ピッチングをし、一日休む。休みの日にはペッパー・ゲームとランニングをやるようなシステムをとっている。毎日あくせくして投げると肩の調子によくないからね」
ー肩をこわしているという話があるが・・。
「そんなことは絶対にない。とんでもないデマだ。これからも暖かくなればもっとビュンビュン投げられる」
ー今シーズンはどのくらい勝てると思うか。
「最低15勝しなくてはだめだと思う。もちろん、それ以上をねらうさ」
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守田政人

2016-06-28 22:47:31 | 日記
1952年

毎日の投手陣で希望を持ったのはハワイから来た守田投手である、態度がどこか悠々としており、球筋の豊かなこともシュートの特に大きなことも珍しかった。またドロップも鋭い、惜しいことには、まだプロの空気に慣れていないことと、多少上がり気味にあったため、去る十三日の対阪急戦では球が従らに高きに流れ、カウントを整えようとして真中に投げ込んだところを打たれたが、この投手が一度調子をつけて立ち直ったらちょっとやそっっとで打てる球ではない第一手元にえぐるように入り込んでくるスピードあるシュートボールは打者泣かせの球となることだろう、その上に本格的なナックルボールを身につけているので、コンビネーションさえよければ非常な武器となるに相違ない、面白いことには、この守田投手、名は政人というのであるが、政人の政は書くのが面倒だから正でもいいではないかといったそうである、そういえば名前などは符牒のようなものである、横文字の流行する現在アチラ言葉が得意ならなおさらである、それよりもこうした話の中にも人の性格が滲み出るものでさしずめ姓名判断からゆけば守田投手などは大投手の俤ありといえそうである。
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島田軍治

2016-06-28 20:10:27 | 日記
1965年

南海はこのほど法大・島田軍治投手(22)=神戸高出、1㍍80、73㌔、右投右打=の入団をきめた。近日中に発表する。背番号は41。同投手は近鉄入りした木原と同期だが、リーグ戦には一度も出ていない。長身からの速球が武器。呉のキャンプに参加、テストをうけた結果、採用がきまったもの。
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武内和男

2016-06-27 20:17:17 | 日記
1954年

芽を出す機会をつかんだ武内にとってチーム打率・230台という大映今シーズンの攻撃力の低調はよそ目にも痛々しい。それでも九勝(十二敗)をかせぎ大器らしい手堅い進歩をみせ、大映のホープへという藤本監督の腹案が成り立つ気配になって来た。武内は松山商高(旧工業)から二十五年にスターズ入りしたのだからプロ野球のめしを食い始めてすでに五年目である。だが少しもプロずれしたところがなく、大機晩成型でグラウンド・マナーもよく、たんたんとしているがねばり強い一面を持ち、着々と投手道を歩いている好青年である。二十二歳、五尺七寸五分、十八貫五百で左腕という武器を持っているが、その特長は手足、体幹それぞれ出来が大きく、まだまだ大男になる素質を備えている。藤本監督の話によると両親は普通の身体であるが武内は巨人型であった祖父の血をひいているから大きくなるに違いないというのである。しかし容姿も優しいし行動も節度があるので見たところスマートだが、相当な力を持っているのは祖父相伝らしい。投法は上手投げとスリー・クォーターが大体半々の割合。やはり左投手らしく右打者に対し外角をつくシュートがウィニング・ショットとなっている。この球は球速もあり相当な威力を持っているが特長としてはのびる球とシンカーになる二種類を操作していることである。そしてカーブ(インドロップといわれているもの)は落ちるものとスライダーになる球がまざっている。とにかく、のびたり沈んだり、落ちたりスライドする球が多いのだから相手には打ちにくいがコントロールが少しでもよくないと相手は選んでくるから自滅するおそれもある。それというのも左投手特有の武器の一つ、内角低目(右打者)への速直球を完全につかんでいないための苦闘にほかならない。ただし今春からこの点を重視夏ごろからかなりこの種の速球を投げこんでいるから、これが身につけばもっと勝数がふえると思う。藤本監督は投手を酷使しないしやたらに交代させないからピンチをのりきる修練も積めるし、打力の弱い背景で投げとおすから試合処理のコツも人より早くのみこめるわけである。これは若い投手にとってはなにものにもまさる研磨のめぐみといわねばならない。もっとスピードをつけること投手守備の上達、チェンジ・オブ・ベースの理解などが明日への課題。そしてブルペンで鍛えられた投手だけにウォーミング・アップが長い。もっと少ない投球数で登板できるようにすることだ。

武内投手の話

大器晩成型ですって?とんでもない、しかし納得のいくまで研究する気持ちは自分ながらよい習慣だと思っています。現在は直球にスピードをつけることに専念しています。足と腰が弱いのでスピードは出ないしコントロールも自信がない。だから自然に消極的なゴマカシになってしまう。そんなピッチングでもプラスになる場合がある。例えば西鉄の中西選手、毎日の山内選手など速い球に強い人がいるでしょう。私のピッチングはこういう「リキ」のあるバッティングをする人々は案外威力があるんです。「荒いので球道がわからないからだ」とよくいわれますが、自分ではスピードを殺して外角低めに沈むシュート(シンカー)がいいのだと思っています。中沢さんがいわれるように内角低目にきまる速球を近頃は意識して投げていますがまだスピードが乗っていないように感じます。一にも二にも足。腰を鍛えたければと思ってランニング、縄とびなど暇があればやっていますが、そのためか最近、球にのびがついて来たようです。著しいカーブシュートを身につけたいと思っていますが、まずスピード・ボールをビシビシきめねばウイニング・ショットも生きてきませんから・・・。Aがついている球速、試合度胸はどこからそんないい点が出たのか不思議です。ことに試合度胸は終始ヒヤヒヤしているのにAの中は甘すぎると思います。チェンジ・オブ・ペースではウチの林さん、星野さんなんかの投球ぶりを見習いたいです。いまのところ球速を鍛えてはみますがコースを覚えるまでには戻りません。結局はコントロールの不安定が原因なんですがそれも早急に解決させてみせます。
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黒川豊久

2016-06-26 20:47:12 | 日記
1961年

八月の香椎球場(国鉄二軍の練習場)は焼けつくように暑い。グラウンドはかたく、練習といってもイレギュラーする打球からからだを守るのが精いっぱいのありさまだ。こんな悪条件のなかで、ノッカーの河野コーチに「お前まだへばらんのか。いいかげんに解放してくれよ」といわせたのが二年生の黒川(東北高出)だ。「とにかく内に秘めた闘志というか、ファイトはすごいね。背広に着がえると内向性で無口な性格になるが、いったんグラウンドへ出るとその性格を一気にプレーではきだしてしまうんだ」河野コーチの言葉を裏付けるように、報道陣にかこまれたこの夜のヒーロー黒川はまったくおとなしい。「打ったのは内角球でした。実はヤマをはっていたんです」自分からスラスラと答えたのはこれだけ。質問されなければあとは石のように口をとじている。「最初はあがりましたが、このごろそうでもありません。ヒザがガクガクしなくなりました」これだけの話をはいいいえの連発で表現した。二十七日のウエスタン・リーグ対広島七回戦に2満塁ホーマーを含む5打数4安打、10打点、12塁打を記録。さっそくこの夜一軍に起用された黒川は、このゲームまで3試合連続安打で5打数3安打、2打点をあげた。技術的には「右手の押しが強くそれを生かしたのがよかった。右肩をボールにぶっつけるようにして打たせたら左翼方面へいい当たりが出るようになった」そうだ。趣味は映画。なかでもギャング映画が好きだという。
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