プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

プロ野球選手引退後

2018-01-31 21:05:34 | 日記
1981年

選手から世話役に変身するのは、球団職員になる高月(広島)、合宿の副寮長になる三浦(大洋)、球団職員になる峰本、飯田(阪神)ら。スカウトには関東(中日)笹川(大洋)宮本好(日本ハム)長谷川(西武)ら。新しい仕事について第二の人生に踏み出している人もいる。二十年連続勝ち星をあげ、四十五年には完全試合を達成した佐々木(南海)は大阪市南区でスナック経営者へ転身した。守備と足が売り物だった平林(阪急)は郷里愛知県でアパートの経営に、二軍の四番打者だった細川(阪急)は傍系会社のホテルマンに転向した。杉山(日本ハム)は清水市に帰って食料品店の主人に、深沢(広島)は山梨の実家の旅館、田村(南海)も和歌山の実家の酒屋の手伝いをするそうだ。
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塩原明・丸山公巳・島野雅亘・藤本勝巳

2018-01-31 20:54:03 | 日記
1967年

任意引退になった選手に多い。自発的に退団を申出た塩原(巨人)丸山(東映)などがそれ。塩原は二十七歳だが「自分の限界を感じて・・・」とプロから足を洗った。東映のブルペン捕手を黙々と五年間もつとめた丸山(31)は十二年間のプロ生活に別れをつげ、サラリーマンに転向した。横浜の通貨取扱い会社で「横文字の書類や聞きなれぬ専門用語に一日も早く慣れたい」と語る。島野(サンケイ)は夫人の実家(旅館)を手伝う。「あまり野球を長くやっていてもね」とさっぱりしたもの。藤本(阪神)は「事業を起こしたいので」と再出発。総じて野球では大成しなかったが、一応はつとめあげたというタイプ、サラリーマン的においがある。
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山田正雄

2018-01-30 21:50:13 | 日記
1962年

明治高は山田のワンマン・チーム。山田は体力もあり、左である有利さもあってよく投げるが、もうひとつ球速がほしい。ひとりで投げ切らなければならないのも重荷だ。

大毎オリオンズでは二十八日午後三時から東京スタジアム内の球団事務所で四選手の入団を発表した。

長谷川一夫投手(19)=大宮工、1㍍74、70㌔、左投げ、左打ち、背番号46
山田正雄投手(18)=明治高、1㍍79、74㌔、左投げ、左打ち、背番号59
三宅孝彦投手(18)=名商大付属高、1㍍75、70㌔、右投げ、右打ち、背番号65
中野正彦外野手(18)=静岡商、1㍍76、79㌔、右投げ、右打ち、背番号64
の四選手の入団発表を行った。

長谷川投手は今夏西関東の準決勝で敗れて甲子園進出はならなかったが、県予選5試合での奪三振65のレコードホルダー、連続三振も8、一試合奪三振21の快記録を持っている。左腕からの低め速球は超高校級の定評があった。山田は明治高で投手で四番を打った文字どおりのワンマン。三年間の通算打率が・450、大毎では始めから打力を生かす方針のようである。突然の入団発表で三宅、中野の両選手は間に合わず出席しなかったが、三宅は速球を武器とする本格派、中野は攻守走三拍子そろった静岡県下で一、二を争う好選手。

長谷川投手の話 どうせ野球をやるなら一番レベルの高いプロでと思っていたところ、社長さんから直接熱心に誘われたので、大毎にお世話になることにしました。一生懸命やる、ただそれだけです。

山田投手の話 投手として進出よりバッティングを生かしたい。高校時代に一塁、外野もやったことがある。大毎は打力のあるチームそんな中でもまれれば僕自身にもためになると思います。
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幡野和男・高井準一

2018-01-30 20:58:22 | 日記
1960年

私が法政二高の監督をつとめるのは法大在学中からだからことしで十二年になる。そして今夏の甲子園で宿願の全国制覇をやった。一応、理想のチームだったと思う。優勝できたのに一歩近づいたというのは、守備面でまだまだ満足のいくチームではなかったからだ。打力、走力の面で私が手がけたどのチームよりもよかった。しかし、守備面は投手によりかかったチームでこの点は満足できるものではなかった。私は私なりの考えからチーム作りの方針を立てている。高校の在学年数はわずかに三年、一年生のメンバーをそろえてスタートしても二年ちょっと、三年目の夏には一応の形を整えなければならない。私がもっとも力を入れるのはバッティングにしても、フィールディングにしてもまず基本をしっかり身につけるということだ。たとえばバッティングの場合はまずライト打ちからはじめ、バッティングとはミートが大事だということをおぼえさせる。はじめから引っぱるバッティングではどうしても力にたよってしまうからだ。しかし、幡野の場合にはムリにライト打ちをやらせるようなことはしなかった。それだけバッターとしてのセンスがあったわけだ。どんなタイプの投手に、どんな球を投げられてもポイントをつかむうまさが幡野にはあった。私が育てた外野手では斎田(法大ー近鉄)中山(日石)吉田(法大)に、幡野といったところが一流だ。そして穴のないコンスタントな点では幡野がいちばんだろう。しかし、斎田のような長打力は持っていない。力強さという点やや弱い感じがするのはそのためだ。私が内野を構成する場合、二塁にもっとも大きな内野手を持っていく。併殺プレーのキー・ポイントになる二塁はどうしても大型選手でなければいけない。小坂(法大ー広島、1㍍74)小川(法大、1㍍75)にことしの高井(1㍍76)がそうだ。いかにも野球をやるために生まれて来たような体で、ユニホーム姿が高井ほどぴったりする選手も珍しい。甲子園ではややスランプだったが、打つべきときにちゃんと打っている。第一戦(対御所工)では大量点の口火をきってナインをすっかり落ちつかせ、決勝戦(対静岡高)でも2安打しているのでわかるだろう、。高井はフライをとるのがニガ手だ。どちらかといえば小坂同様に最高のプレヤーだが、ゴロに対しては動きがいい。しかしフライを追うときには腰がのびきってしまう。足首、ヒザがかたくなるからだ。そして打球の下に早くいってボールを待つのではなく、腰がのびきったまま捕りにいくからへまをやることがある。法政二高から直接プロ入りするのは幡野と高井がはじめてだ。二人とも高校選手としての基本はできている。基本については補球ひとつでもうるさくいった。グローブのアミに引っかけて捕球するクセをつけないように、目の荒いヒモだけにしてグローブの真ん中で球をにぎるという練習をみっちりやらせた。こういった練習をきり抜けてきた二人だから軽率なプレーはやらないはずだ。しかし、これからは大人の野球だ。私も卒業生を送り出したあとのチーム作りをはじめた。もうこれでいいということはない。野球の技術にしても、もちろん同じことだ。技術に頂点はない。それを登りつめるのは努力だけだということを二人に贈りたい。

幡野選手の話 「阪神は高校出身の選手が多く、また甲子園でプレーできるのが魅力だ。プロのスピードに負けないように、振りをもっとシャープにすることがまず第一の目標。そして並木さんのようなプレーヤーになりたい」
出身校 法政二高 身長、体重、きき腕 1㍍76、72㌔、右投右打。
生年月日 昭和十七年五月十二日。
現住所 川崎市北加瀬950。
背番号 未定

高井選手の話「名人といわれた千葉さんに二塁手としてのプレーを徹底的に教わりたい。二塁手としては土屋さんのプレーが目標。スピードのある三遊間におくれず、また息のあったプレーはすばらしいと思う」
出身校 法政二高 身長、体重、きき腕 1㍍76、69㌔、右投右打
生年月日 昭和十八年一月一日
現住所 平塚市須賀587。
背番号 未定
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片岡健治

2018-01-30 19:44:45 | 日記
1962年

片岡健治投手が森選手の紹介で今季キャンプで大洋のテストを受けることになった。片岡投手といっても知らない人が多いと思うが、二年前ノンプロのいすゞから鳴り物入りで中日入りした投手。入団した当時はアンダースローでもモーションが独得で球威もあり、将来は中日の屋台骨を背負って立つ投手として大いにしょく望されている。ところが入団最初のキャンプで肝心の肩をこわしてしまった。このときの事情を片岡投手はこう説明している。「ボクは入団が少し遅れ、はいったときはもうキャンプが近かった。キャンプでみんなと並んで投げていたとき、みんなが速い球を投げるので、ボクも遅れてはいけないと思っていきなり速い球を投げてしまった。気がついたときは肩をこわしていたのです。焦って自分のp-エスを忘れたんですね」これが命取りになった。なんとかこわした肩をなおそうと片岡は治療と名のつく治療は全部やった。電気、指圧、神がかり的なオマジナイ、飲みぐすり、湿布剤、肩の治療では専門的な別府へもいった。しかしいったんこわした肩はなかなかなおらなかった。しかも二年目を迎えた片岡投手には都合の悪いことがあった。信頼する杉下監督がやめ濃人監督が誕生したのである。以来片岡投手はほとんどかえりみられない存在となった。片岡投手が森選手にかわいがられているとの単純な理由も加わって・・・。以来片岡投手はガタ健の異名をつけられ、まったく日影者になってしまった。精神的にもすっかりやる気をなくした片岡投手は昨シーズンのなかばで野球をやめようとまで決心し、シーズンが終わるまで練習に出てもただブラブラ過ごすようになっていた。そして去年の暮れ望み通り(?)自由契約選手となり傷心のまま球界を去ることになり、いったん郷里の栃木県大田原の実家に帰った。が、これをみた森選手がいたく心配、もう一度再起のチャンスを与えようとしたのである。もともと森選手と片岡投手の関係は深いからでもあった森のいた早稲田学院の一年後輩がノンプロいすゞにはいり、その後輩と片岡投手が同年輩で仲が良かった。そんな関係から森選手は片岡投手を紹介されつき合うようになった。いすゞから片岡投手を中日に入れたのも森選手であり、片岡投手も中日が一番安い契約金であったが、森をしたって中日入りした。いわば兄同ようの仲。自由契約になった片岡投手に誘いの手をのばした森選は親身の世話をいとわず、昨年の暮れにはむしろ消極的な片岡を積極的に文京区原町の自宅へ連れもどし、ずっと寝食をともにしてきた。そして森選手は直接森代表にあい片岡投手のテストOKをとった。いま片岡投手も森選手の自宅リキ・パレスへ通い黙々とトレーニングにはげみキャンプでのテストの月をいまやおそしと待っている。森選手は「もう一度かれにやってもらいたかった。かれは家が裕福なので欲がないが、人間は死ぬ気になればあるてい度はやれると思い世話をする気になった」と語り、片岡投手も森選手の友情に感謝しながら「ブラブラしていたのがよかったのか、肩の方はもうほとんどなおった。プロのことは大体わかっているし、これならとやれる自信がわいてきた。お世話してくれる森さんのためにも欲を出し、一生懸命にやりたいと思います」と力強く語っている。森選手の友情といい片岡投手の気迫から考え、テストには上々の結果がでることを祈りたい。
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福沢幸雄、成田秀秋、池谷哲夫

2018-01-30 19:02:55 | 日記
1962年

濃人学校の特待生ー福沢、成田、池谷の三選手が、まだシーズンのなかばというのに突然クビになった。どうやら複雑怪奇な中日球団の内部事情が、いよいよ氷山の一角を現したようだ。

七月十日の朝のことだった。福沢、成田、池谷の三選手は名古屋市中村区のドラゴンズ寮から突然柴田チーフマネに呼び出された。「なんの用だろうな。こんなに朝早くから・・・。一軍にあげてもらえるのかな」と三人は胸をおどらせながら柴田チーフマネの前に出た。だが意外にも柴田チーフマネのことばは死刑の宣告にひとしいクビの通告だった。まるまると太った重役タイプの柴田チーフマネは「キミたちは競輪と女に狂っている。だからドラゴンズにおくことはできない。きょう限りクビだ。十六日までに合宿を出ていってもらいたい。それに給料は八月で打ち切りにする」と太ぶちの目がねごしに冷ややかな表情でいったそうだ。三人がガクゼンとなって念を押したのはムリもない。福沢、成田は濃人学校の特待生なのだ。福沢は濃人監督が日鉄二瀬から中日入りする時に、特にその片腕として一緒に入団契約をした師弟の間柄だし、成田は前田内野手の一年後輩で、九州出身の柴田チーフマネ兼スカウトの金城湯池としている熊本県熊本工業卒業なのだ。池谷は中川政人フリースカウトの口ききで石本ヘッドコーチが兵庫県の育英高から引き抜いてきた投手で、テスト生採用だが右太ピッチングコーチが手塩にかけて育てていた。それだけに三人のクビ切りは濃人ー石本も知らないうちに決められたようだ。ということは高田代表の密命を受けた柴田チーフマネが濃人ー石本に内証でやったことになる。はじめは濃人ー石本ラインに忠誠を誓っていた柴田チーフマネも、濃人ー石本ライン危うしとなっては、保身のために高田代表側に寝返りを打ったととれる。しかし驚くべきことには、これを知った濃人ー石本はほおっかむりをして、見て見ぬふりをしてしまった。腹の虫のおさまらないのは三人だ。池谷は規約の上でテスト生だから泣き寝入りになっても仕方ないが、福沢、成田はちゃんと統一契約書にサインをして今シーズンの契約をしている。「将来の見込みがないからクビにするというならなっとくするが、いきなり競輪や女に狂ったといわれちゃ立つ顔がない。おまけに八月で給料うち切りとはひどい。われわれは年間契約をしたから年棒の十二分の一を月給としてもらっているので、当然一月分までもらえるはずだ」と高田代表にくってかかった。ところが柴田チーフマネは「キミたちはオレが中日に入れてやったのに、オレの顔をつぶす気か」と顔色を変えて怒ったという。それに「二瀬当時の濃人さんは親分ハダの人でグラウンド以外で頼っていったらなんでも聞いてくれたのに、いまは人がかわってしまって頼りにならない」というように秘蔵っ子の福沢、成田のことでさえ相手にしないそうだ。しかし福沢成田にはクビという現実は重大問題だ。再度高田代表に会って統一契約書にもとずき、一月分までの給料の要求をしている。もし高田代表で話し合いがつけなければ大島球団会長、それでもダメなら内村コミッショナーに提訴すると強い態度でいる。合宿にいる二軍の選手たちの間では「あすはわが身」と大きな動揺をきたしているという。聞くところによると中日は六月分のナインの給料が払えないので東海銀行から一千万円借り入れたそうだ。シーズン途中の突然のクビ切り旋風は、そのシワ寄せととれぬこともないが・・・。
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佐藤護

2018-01-30 19:01:53 | 日記
1962年

スカウト合戦で話題をまいた選手とくらべ、佐藤君のプロ入りは、新聞の片スミにちょっと発表されただけである。だが、話題になった選手たちと技術面をくらべれば、佐藤君の技量が劣っているわけではない。愛知高時代から、そして愛知学院大時代でも、スマートで堅実な守備ぶりは天下一品という定評だった。もし佐藤君が東京六大学の選手として出場し、そのプレーをみせていたら巨人軍の広岡遊撃手を思わせるようなプレーが話題になったことだろう。愛知大学リーグ戦で佐藤のプレーをみた阪急の丸尾スカウトは「定評どおりみごとな守備だ。左右のフットワーク、肩といい、脚力といい、申しぶんない。この守備なら、いますぐでも通用する」とほれ込んだ。ことしの九月ごろに丸尾スカウトから入団の交渉があった。「プロを目標に一生懸命に野球をやってきた」という佐藤君は、阪急入団の誘いを心よくうけた。だが、母親敏子さん(52)の願いは、平凡なサラリーマンになってもらいたいということだった。「護が小学校六年生のとき父がなくなりました。いま家庭は私と長女美智代(19)の三人ですが、護を大学へ進学させたのは会社へ就職してもらうためだった」と母親徹子さんは語る。ノンプロの三重交通、西濃運輸はじめ、多数の会社から入社を誘われた。むすこのプロ入りについて、おかあさんは学校へ相談にでかけたそうだ。「むすこさんはもうりっぱに一人前ですよ。心配いりません」現国鉄の金田投手をはじめ幾多の名選手を生み出した芝野球部長の激励に、おかあさんは「むすこがその気なら・・・」とプロ入りを許したそうだ。母一人、妹一人の佐藤君がおかあさんといっしょにくらしたのは中学の三年生まで、高校からずっと合宿生活である。それだけに卒業後はともに楽しい家庭生活を夢みていたおかあさんにしてみればさびしいにはちがいない。佐藤君は愛知県弥富中学では速球投手で鳴らした。近くの蟹江中学には同じく中京大から阪急入りする早瀬君がいた。いまでも二人はよきライバルである。愛知高に入学した佐藤君は、芝野球部長の目にとまった。投手では大成しないとみた芝さんは内野手なら一流になる素質を見抜いて鍛えあげた、選手作りの名人芝さんの指導によって、練習を重ねるごとにうまくなった。大学へ進んでからますます上達し、ベスト・ナインに三度選ばれ、打者としても三番を打った。今秋のリーグ戦はしばしば好打でチャンスをつくり、またいいところでタイムリーを打つなど、リーグ戦第二位進出の原動力だった。「佐藤は一見弱弱しい感じをうけるが、あれで試合になるとずぶとい根性を持っている。野球人はこれでいいのだ」芝さんの佐藤に対する批評である。「プロへはいった以上はやはり第一線選手として、バリバリやりたい」という佐藤君は、いまキャンプ・インに備えて、木曽川でトレーニングに励んでいる。佐藤君は身長1㍍78、体重67㌔、スマートで、映画俳優の高倉健とよく似ている好男子とあって、某映画会社の関係者から「俳優にならないか」と誘われたことがあるそうだ。球友たちにも「野球選手よりも、映画俳優になったほうがいいぞ」などとひやかされるそうだ。昭和十五年七月二十九日生まれ。右投げ、右打ち。現住所は名古屋市南区六条町一ノ九。

愛知学院大部長の話 佐藤は真面目な男だ。それに親孝行でもある。きびしいプロ野球の世界でも立派にやっていくだろう。左右のフットワークは申しぶんないが、前進守備にちょっと難がある。常に出足をよくすることだ。プロはまず第一に打力がなければならない。かれにホームランは期待できないが、チャンスにつよくしぶといバッティングを身につけることが大成への道であると思う。脚力、肩もいいし、早く第一線に出場できるようにがんばってもらいたい。
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渡辺博文

2018-01-30 19:01:00 | 日記
1962年

加茂川の流れを横目にトレーニングに励むその顔に汗がじっとにじんでいる。京都の風は冷たいのに・・・。天気もすぐに変わる。いままで日がさしていたかと思うともうしぐれてくる。そうした中の川原を突っ走る渡辺投手の顔は無表情である。「先輩のみなさんがいっているようにぶつかってみなくてはわかりませんよ。自分の力なんか・・・とにかくやるときはやっておかなくては・・・」と黙々と毎日三十分の練習を欠かさない。十一月末に立命館大の合宿を出て下宿住まいをしているがやはり寂しそう。ひとりぼっちで走っているとよけいに社会のきびしさを感じるそうだ。これまでの倉敷工ー立命館大とエースの座を歩んできた彼にとって、こんどの阪急入りは、その人生における最大の難問だろう。「一年間やってみて、ダメならばそれから考えますよ」とドライに割り切ってはいるが・・・。彼と同じ左投手、岩本(豊浦高)浜崎(鹿児島商)が入団しているので、うかうかしておられない。大いにがん張らなくちゃあ・・・と決意はかたかった。渡辺のピッチングの持ち味は、コントロールの良さと打者のふところに食い込む切れのいいカーブだ。「プロに入ったからといって特別な工夫は考えていません。ただこれまでよりもいっそうコントロールをよくしようと思っています」これは藤井(関大ー阪神)など関西六大学の先輩にきいたのちの意見である。もちろん自分の特徴を自覚したうえのもので堅実な性格をにじませている。倉敷工から立命館大の二年までスイフトとカーブだけだったが、三年からシュートをマスターしてピッチングに幅をました。そして第二の人生であるプロ入りした以上は、投手としてコントロールにいっそうのみがきをかけて、投球の充実を計ろうとしている。これまで野球一筋に打ちこんできたので大した趣味もないので、シーズン・オフほど退屈なことはないという。「ひとりで練習していてもなんだかハリがない。正月には実家の岡山に帰りますが、早くトレーニングを始めてもらいたいです」とあまり太くない左腕をさすって笑っている。上背もなく貫禄がないようだが「十九貫のからだが春を待ちわびているんですよ」と冗談口も飛び出す。快活な青年である。明るく、おっとりした態度は、二男坊のせいだろうか。とにかく二男坊が思い起こす喜びも苦しみも野球を離れては何もないという。最高に惜しかったのは今秋の対関学一回戦で延長戦になったために完全試合を逃したこと。「関六初の記録でもあるし、自分の野球生活の上においても、まだ忘れることができない気持ちです」と青白い紅潮させ答辞のもようを語ってくれる。それにシーズンに10勝をマークしたのも見事な成績だ。とりたててハデなタイプではないが、倉敷工時代二、三年生のときに室山(一年先輩、阪神)三宅博(先輩、阪神)らとセンバツ大会へ連続出場。関六で昨秋、今秋の二度も立命館大を優勝させるバック・ボーンとなった実力と豊富な経験は、彼のピッチングのチ密さとなってあらわれている。持ち前の強さは実戦向きの男である。「西宮のマウンドは経験もあるし、できるだけ早く出て投げたいこと、そして左投手ということで案外早く登板のチャンスがくると思うのだが、岩本、浜崎両君のような強敵がいるのでね、負けたくありません」とすでに勝負意欲のさかんなところをのぞかせていた。昭和十五年七月四日生まれ、岡山市出身、現住所、京都市北区鞍馬口通り寺町西入、身長1・74㍍71㌔、左投げ左打ち

立命館大太田監督話 特徴のないようなタイプだが、倉敷工で二年も甲子園に出ているし、今秋、昨秋と立命大優勝の立て役者になったのだから実力はある。そうした豊富な経験をつんでいるのも彼のいいところだしマウンドではほんとに根性のあるピッチングを見せてくれる。少しスピードの点にくい足りないものはあるが、センスもいいし早くプロの水になじんでくれると彼の根性は高く買えると思う。バッティングもアベレージは悪いが、勝負強いし、打者としてもいい素質を持っている。
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西三雄

2018-01-30 19:00:01 | 日記
1962年

大毎先発西は、六回豊田、和田に連打され菅原にバトンを渡したが、ノンプロ球界の一級品だっただけに、まとまったピッチングをしている。とくにとりたてるほどの球威はないが、速球、変化球の制球力も一応よくととのっている。投手としてのバネがいいし、球威のわりに変化球、とくにシュート、シンカーの切れのいいのもそのためだろう。大きな期待はかけられないだろうが、大毎投手陣になって一段かえるだけの力は持っている。
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大崎隆雄

2018-01-29 21:35:14 | 日記
1960年

大崎のピッチングをはじめてみたのは、ことしの夏の甲子園大会だった。フォームがぎこちない欠点はあったが、高校生ばなれのした体と、とてもいい素質を持っているように感じた。フォームがぎこちないのは腕の振りが堅いからで、体格のわりに球にウエートがのっていなかった。ところが先日大洋入りがきまって京都衣笠球場で実際に大崎の球をとってみて、体が非常にやわらかくなっているのに気がついた。昨年夏肩を痛め、昨秋から今春にかけて坂本(立大志望)にマウンドをゆずったがこのときのニガい経験が彼を人間的にも技術的にも成長させ、今夏の大会で活躍できたのだろう。「野球をやるために平安にはいったのに肩を痛めて野球ができなかった。眠れない夜がつづいたし、本当に目の前がまっくらになりました」と当時を語っている。いまは肩の痛みがすっかりとれ、腕の振りも非常にスムーズになっているが、グローブを持つ左手の使い方がまだまずい。そのため体が大きいのにフォームが小さくなっている。左手を大きく使えば打者に威圧感を与える。また球速も豊かになり、いっそう有利になる。そういうフォームの欠点はあるが、目標を定め、よくねらって投げていたのには感心した。大崎は上から投げおろしたときにスピードがあり、コントロールもよく球が生きていて申し分ないが、ときどき投げるサイドからの球はスピードが落ち、球が死んでいる。サイドから投げては1㍍82の恵まれた上背を殺してしまう。大崎がプロの投手としてやっていくにはまず三つの欠点をなおさなければならない。第一は球の軽いこと。第二は腰の小さいこと。第三に体に似合わず気が小さいことだ。球の軽いのは正確なコントロールをつけることである程度カバーできる。腰まわりをもっと大きくするにはランニングで鍛えることだ。腰から下が細いから腕だけにたよろうとするところがある。腰を張って腰で投げるピッチングをすれば下半身も大きくなるだろう。下半身の小さいことがカーブにも影響して、手先だけで投げようとしている。カーブはストレート以上に腰で投げなければいけない。シュートもカーブもいちおう投げられるのだから、変な球種もおぼえることはない。いまのまますぐ第一線はムリだろうが「二、三年二軍で勉強したい。いますぐ一軍のユニホームを着ようとは思いません」というとおりみっちり鍛えて将来にそなえる気がまえが大事である。

大崎投手の話 「同僚に坂本君といういい競争相手がいたことは幸いだった。ことしの夏の大会では堅くなったが、動揺しない精神力をつけることが第一だと思っている。技術的には疲れてくるとステップが大きくなるので、腰が落ちて力を使うわりに球が切れなくなるのをなおしたい。土井垣さんに聞いてみたら「踏み出す左足のツマ先が内側に向かないからだ。日常歩行のときも少しくらいかっこうが悪くても内またで歩くようにつとめなさい」といわれました。下半身を鍛えて一日も早く公式戦に出たい」

大崎投手略歴 高野中(京都)出身。中学二年までは捕手、三年から投手に転向したが中学時代は大きな大会に出場していない。昭和三十三年平安高入学、藤野(東映)卒業のあとのエースとなった。今春の選抜では昨年痛めた肩がまだ回復せずスランプ、高松商にKOされた。しかし夏の予選ではあざやかにカムバック、坂本に代わってエースとなり西舞鶴高(七回コールド)を一安打、16三振。東山高を11三振、ノーヒット・ノーランにおさえるなど五年連続甲子園出場の立て役者となった。甲子園大会でも金沢市立工を1安打、14三振に押えたが、鹿島高戦には自分の暴投(スクイズを警戒したウエスト)で惜敗した。平安高野球部はじまって以来の長身投手で、高校球界きっての本格派。

出身校 平安高。 身長、体重、きき腕 1㍍82、75㌔、右投右打。
生年月日 昭和十七年四月二十三日。
現住所 京都市左京区高野蓼原町三一。 背番号 未定。
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竹屋三郎

2018-01-29 20:35:34 | 日記
1962年

プロ野球の各球団から好投手としてプロ入りを進められていた社会人野球協和酸酵(山口県防府市)のエース竹屋三郎選手(20)=岡山県井原市高屋町=は三日中日ドラゴンズに入団する意思を表明した。中日球団では近日中に同選手と正式契約をする。身長1㍍78体重78㌔、左投げ左打ち、福山工高出身。

福山工時代は投手兼四番打者として活躍した。昭和三十五年ノンプロ協和酸酵に入社、この年に、巨人軍の監督だった水原(現東映)が入団を誘ったことがあった。それから一年一年、進歩をみせる同投手にことしの三月ごろから各球団がマーク。阪神、巨人、中日、広島、阪急、西鉄、東映、南海の八球団が激しい争奪戦を演じた。はじめは水原監督の関係から東映、地元の西鉄に有力という見方が強かったが、阪神は有力者某氏を仲介に西鉄有力をくつがえし、阪神への入団はほとんど成立していたようだ。竹屋投手は上段から投げおろす本格派左腕投手で、社会人球界の各関係者は「竹屋投手のインコース低めをつく速球はノンプロの打者ではちょっと打てなかった」といい、また「インドロップにいいコントロールを持っているのが彼の絶対的な強みだ」と評価している。

柴田スカウトの話 竹屋君は早くから左腕の好投手として注目を集めていた選手だ。彼のいいところは左腕投手特有のインコース低めをつく速球、切れのいいドロップだ。私は後半戦に活躍してくれることを期待している。左の権藤になってもらいたいと願っている。
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菅原紀元

2018-01-29 20:15:36 | 日記
1962年

「神宮はどうもいやですよ。何かおはらいでもしないと・・・」この夜試合前、暗い通路から明るいグラウンドに出た瞬間、大毎白川マネがおはらいのまねをした。過去神宮で大毎は東映に2勝9敗、バッテリー間千八百、内外野千七百ルックスと日本一明るい球場とはうらはらに大毎ナインにはいやな神宮のムードがしみついている。それを突き破ったのが菅原。四回一死満塁でディサをリリーフ。代打稲垣の中犠飛で1点は許し3-2とつめられながらとにかく虎の子の1点を守りきった。これで8勝目。六月十七日の南海戦に勝ってから八十六日ぶりの勝利だ。「必死だった。張本を三振にとったのは二回ともストレート。打たれても元々と思って投げました。まあやぶれかぶれで投げたのが成功したんです」汗びっしょりだ。グレーのユニホームだから余計に汗がしみ通っているのがわかる。杉下コーチは「いまのフォームがバラバラでボクとしては投げさせたくなかった。とにかくよくやってくれたよ」と手ばなしのよろこびようだ。そんな菅原に「スガおめでとう」ナインの手がつぎつぎにさし出される。「ありがとうございます」いちいちていねいに、頭を下げる菅原。菅原は父親源十さんと母親花子さんとの間の一人っ子。現在でもことしの正月に母親が成田山で買ってきてくれたお守りをしっかりとズボンのポケットに入れ、また毛糸であんでもらった肩当てをつけている。「最近は投げても投げてもポカばかりでしたから、きょうは格別のうれしさです」ともう一度ポケットのお守りにそっと手をのばす。ことしで四年目だが菅原とはそんな純情な男である。
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大庭清

2018-01-29 19:46:52 | 日記
1962年

重松=アンダースローに投法を変えたが、トレーニング後半でみなについていけるようになった。努力しだいではおもしろい存在になる。

武末=短期間でアンダースローをなんとかこなせるようになったのだから素質はりっぱなもの。くせのあるタマも投げる。アンダースローの特異性からみて、一軍におどり出るチャンスは大いにあるのだから、ファイトをたぎらせてほしい。
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松本照夫

2018-01-29 19:45:33 | 日記
1965年

4年間の長い春に終止符を打って、松本照夫投手が去る十日東京のホテル・ニューオータニで岡野代表夫婦の晩酌で結婚式をあげた。新婦は東京都千代田区神田須田町二の一九船木猷夫氏長女三津子さん(立教大学在学中)で、学生時代からの交際がやっと実を結んだもの。立教中退、物議をかもして阪急入りした松本は、プロ入り1年間を無意味に過ごした。入団が決まった時、西本監督は、「外人選手をひとり獲ったのと匹敵するだけの投手だ。5勝は期待してもよいのではないか」と大きな望みを松本にかけていたが、プロ入り1年目は水に慣れなかったのか、そのほとんどがファーム暮らし。1勝すらあげることが出来なかった。「本当に寂しい1年間だったが、この苦しみに耐えられたのも三津子さんのカゲからの激励があったからだ。いままでのような安易な気持を改めて真剣に野球と取り組みたい」結婚の決意を松本はこう語っている。
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三浦清弘

2018-01-29 19:44:38 | 日記
1962年

最終回、2四球を出して一死一二塁のピンチを招いた三浦を鶴岡監督が呼び寄せて何ごとかをささやいた。気を取り直した三浦は当たっている和田を三振に切っておとして井上忠を遊ゴロにうちとり1点差を守り切った。相好をくずしてんナインの祝福にていねいに礼をいう三浦はこれで13勝、いまや押しも押されぬ南海のエースだ。「初回の二死三塁で豊田を一邪飛にうちとったのが大きかった。西鉄が打ち上げていたのはシュート。ゴロはスライダーだったがきょうはスライダーとシュートをうまいぐあいに使い分けできた。この前の大毎戦あたりから調子があがってきたのです。まだまだこれからがんばらなくては・・・」と静かな口調で語る三浦はこれが調子づいた西鉄をおさえた投手か?と思いたくなるほどのやさ男。鶴岡監督も「三浦はこのところ酷使気味で疲れているがよく投げてくれた。ピンチで二回ほど呼びよせたのは注意でもなんでもない。もうけもののリードだから同点になってもともとやといったまで・・・」とうれしそうだった。
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