プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

権藤正利

2016-11-30 21:28:58 | 日記
1962年

「ああ、もったいないことを!」三塁側スタンドのファンからタメ息がもれた。二年ぶりの完封勝利を目の前にした九回裏、阪神の攻撃がはじまる直前、権藤は三原監督にたたかれてマウンドをおりてきた。「阪神の攻撃が二番からだから、大事をとって秋山と代えたんだろう」だれの目にもそう思えた投手交代だったが、権藤はベンチにはいるとさっそく小林トレーナーの前へ左手をさし出した。「またやっちゃったんですよ」九回表二死二、三塁で遊ゴロをバットの根もとで打ったため、左手の親指つけ根のスジがしびれてしまったのだそうだ。またと真っ先に出たのは五月十七日の対国鉄八回戦で金田から同点タイムリーを打ったとき、同じところを痛めているからだ。「ほとんどウオームアップなしに出て、ほんまにヒヤヒヤもんだった。でも責任をはたせてよかったよ」みごとしめくくり役をはたした秋山が、息をはずませて権藤のそばへかけ寄ってきた。「ゴンにはずいぶん借りがあるからな。そのうちにチビチビお返ししなきゃあ」最高殊勲選手になった一昨年、何度か権藤のリリーフでピンチを救ってもらった秋山がまず一つそのお返しをしたわけ。「きょうくらい楽に投げられたことはないね。だからカーブはそう使わずにすんだよ。阪神はブリブリ振りまわしてくるからやりいいんだ。シャットアウト?そりゃあしたかったが突発事故には勝てんもんね」うまそうにタバコを吸い込みながら話す権藤の顔にはそうくやしさは出ていない。そんなことよりもっとうれしい記録がまだある権藤だ。防御率NO1と被本塁打ゼロ。「ホームランを打たれたときの味を忘れてしもうたからね。久しぶりに味わってみようかとも思うんだが、ボールは自然と低目へきまって打たれんわ」こんな冗談もいえるほどの権藤。セ・リーグの投手でまだホームランを一本も打たれていないのはこの権藤だけだから当然かもしれないが・・・。
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城之内邦雄

2016-11-30 21:11:25 | 日記
1962年

「ジョー、ジョー」としょっちゅういっている別所コーチが、その城之内がはじめて完投勝利をやったというのにむずかしい顔をしていた。「ダメだ、最後に寺田にホームランを打たれて。2点で押えていれば合格点はやれるが、3点とられたらダメだ。調子がいいと思うと、そう深く考えもしないであんな打ちやすいカーブを投げてしまうんだ。味方が何点とっていても投手には関係ないんだ。1勝4敗と負けているときでもあまりいろいろ考えなかった。考え込むぐらいの方がいいんだ。あれも野放図なやつだ」城之内は完投したあと、だいぶ別所コーチにおこられたらしい。「ぼくはほめられるよりおこられる方がいいんです。まだほんとうの調子じゃないですからね。もっとスピードも出るし、ナイターになったらまあ見ていて下さい」巨人一のむっつり屋として有名だった城之内もだいぶなれたらしく、いろいろ話すようになった。ナイターでの活躍をいまから予告するほどだから、球の速い投手が有利なナイターにはよほど自信があるらしい。投げても投げても勝てなかったときの苦悩物語りを聞こうと思ったら別所コーチのいうとおりこれはムリだった。「打たれたってくよくよしないですよ。だってプロなんですからね。打たれてこそうまくなるのでしょう」とケロリといってのけた。「きょうはぼくがよかったというよりバックがよく打ってくれたから勝てたんですよ。寺田さんに打たれたカーブは肩口にはいってまずかったが、ほかのカーブは悪くなかったでしょう」それから口の中で「これでやっと約束が果たせた」とつぶやいた。城之内をとった巨人の内堀スカウトに、去年の十二月末「四月中に完投して勝ちます」と約束していたそうだ。「あのときは巨人にはいるという感激でついいってしまったんですが、近ごろはたいへんな約束をしたものだと後悔したんですよ。しかしこれで果たせた」といいながら重荷がおりたという顔をしていた。
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権藤正利

2016-11-27 14:59:43 | 日記
1962年

一塁コーチス・ボックスの三原監督は権藤がベースへかけ込むのを待ちかねたように両手を差し出した。「権藤は十人目の打者としての力を十分持っている」かねがね三原監督がいっていたその権藤のサヨナラ・ヒットで大洋は首位を奪い返したのだ。三原監督がいった十人目の打者とは代打としてもりっぱに通用する力を持っているということだ。セ・リーグ初ナイターの五日、広島球場の対広島三回戦に代打として権藤を使ったことがこれを実証している。「いい球がきたら最初から打つつもりでいた・・・。(ニッコリ笑って)きたね・・・。まっすぐが。インコースのシュートかと思ったんだがね」はげしい息づかい、言葉もとぎれがちだ。初優勝の原動力となった一昨年の大洋の首位打者はこの権藤で球団創設以来ただひとりの四割打者である。「ゴンさん、ちょっとバッティングのコツを教えてくれんか」近藤(和)がちょっとスランプ気味になると相談をしに権藤のところへやってくることがあるほどだ。「ことしの初ヒットが野球生活はじめてのサヨナラ・ヒットだからね」という権藤は、本業のピッチングの話は実にあっさりしたものだ。「七回から代わったんだから最後の二、三回投げたら終わりかと思っていたらこんなに長くなってしまってバテだよ」十年目のボーナスを目ざして張り切っている権藤をかげでしっかりささえているのは同郷(佐賀県鳥栖)の先輩、小林トレーナーだ。胃が弱い権藤は食事もこまかく五回にわけて消化のいいようにつとめているがその献立にもいろいろと小林トレーナーはアドバイスをしている。「投げ終わったあと、小林さんのマッサージを受けるとからだの疲れだけでなく、精神的疲労も抜けるような気がする」という権藤。二十八年入団以来弱い大洋で苦労してきた二人のイキはピッタリだ。
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チャーリー・ルイス

2016-11-26 18:15:14 | 日記
1954年

一点リードされていた南海は九回表一死後蔭山が二塁左を抜く安打で出た。蔭山がもし凡退すれば木塚が低調なので種田を代打にたてるところらしかったが、山本監督は思いなおして木塚をよび寄せ、背中をポンとたたいて何か策をさずけた。毎日の投手は八回から逃げ込みを狙って清水をリリーフした荒番である。第一球で蔭山が盗塁すると島田がつられてベースよりに動いたところへ木塚の当たり損ね一打がとんだ。逆をとられた島田は身をひるがえして球に追いつき一塁に投げたもののこれは内野安打。蔭山は一挙三塁を陥れたこれがこの試合の一ばんのヤマ場だったが、つづく岡本はスクイズを警戒されたすえ2-1から遊ゴロ併殺にしとめられ、南海は四連敗、反対に毎日は三連勝した。南海の先発大神はいつになく不調で、横下手から外角に浮いてくる球速変化がなく、一回山内、三宅の四球をはさむ栗木、別当の安打と本堂、ルイスの犠打で三点をとられた。ルイスは剛速球でちょっと驚かせはしたが、直球は真っ向上段、シュート、カーブは横から投げるので南海の打者が球速にまどわされて鳴りをひそめたのはわずかに一回だけ。二回は飯田、森下の四球を足場に松井がルイスの足もとを抜く適時打して一点。三回は内野安打の蔭山、四球の飯田(ともに盗塁)をおいて堀井が中堅右に三塁打してタイに追いついた。ここで毎日はいままで投げていたルイスにマスクをかぶらせるというプロ野球はじまって以来の芸当をやってのけ、清水をプレートに送った。南海はその清水から六回堀井、大戸が安打を奪った二死一、二塁によく当たっている田中を代打に送った。期待にそむかず田中は三塁線を抜く痛打を放ったが二塁を欲ばって南海の得点は一点に終わった。八回からの荒巻はその回大戸に左翼二塁打を打たれ、最終回もまた危ない橋をわたっていた。同点にされてからの毎日は四回ルイスが左中間本塁打、五回には右翼線安打の北村を送ろうとした栗木の三塁バントを蔭山が一度二塁に牽制したのち間にあわぬとみるや一塁に投げたが悪投、北村は労せずしてホームイン。栗木は三塁に達した。大神の無制球も敗因の一つだが、この蔭山の失投がなかったらおそらく南海も黒星を重ねてはいなかったろう。

山本監督談「転戦の疲れがようやくナイン全体に現れ始めた。このためスピーディーなゲームが出来ず、気力も十分でない。大神は球道が荒れてよくなかった」
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江藤慎一

2016-11-26 16:57:05 | 日記
1962年

昨年暮れの二十五日、江藤は新人の自主トレーニングに参加してびっくりしたそうだ。若手選手たちのからだがすでにできあがっていたからだ。そしていずれもやる気になっている。「これはいかん。いままでと違うぞ。まごまごしていられない」と江藤はその日から張り切っている。入団してから目標にしていた森は大洋に移ったが、新しい競争相手がはいった。南海からはいった寺田だ。寺田はノンプロの日鉄二瀬ですれ違いだったが先輩である。江藤は「寺田さんは寺田さん、ぼくはぼくと立場が違う。だからライバル意識は燃やしていない」と口では否定するが、ファイターの江藤がそんなはずがない。「それよりことしから大変ですよ。女房ももらったし、弟(省三君、中京商の三塁手で今春慶大受験)は進学するしね。だから費用も相当かかるだろう。三月には家も新築にしたい。そのために一銭でも多く給料をもらうようにしなくてはね。たしか去年ぼくは三割を打つなんて大きな口をたたいたと思う。しかしことしはそんなうわっ調子な考えではいられない」江藤の目標は本塁打二十五本と打点王だ。「いきなり打率三割を望むのはムリだと思うが、打点王のタイトルだけはなんとかとりたい。毎年いいところをうろついているんだがね。去年だってだいぶ差はあったものの三位だったんだから」濃人監督も「江藤はスイングが大きくなってきたからホームランがもっとでるだろうし、打点王も望める。江藤はいままでボールを打つ欠点があった。このボール打ちがすこしでもへれば、それだけ打率も上がるんだ。去年以上の成績はまず絶対だね」といっている。「外野に定着できるのもぼくにとっては大きい。気分的に楽だからね。いままでのように内野だ。外野だとポジションがかわると、なんとなく落ちつかない。とにかく全試合無事故で出場したい」といいながら江藤はベンチの中央にある火バチでヘルメットをあたためた。「頭を冷やすものだぞ」濃人監督がいうと「いや、こう底冷えのする日は頭もあたためんことには働きがにぶりますよ」と笑いながらグラウンドにとび出した。打席に立った江藤は右左に大飛球をおもしろいほどとばしていた。
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徳武定之

2016-11-24 21:38:37 | 日記
1962年

逆転の満塁ホーマーを打った徳武はムッとしたような顔でホームをふんだ。「三振したときはニコニコ。ホームランを打ったときはおこったような顔というのがぼくのモットーで・・。ほんとうをいえば満塁ホーマーになって自分でもびっくりぎょう天していたんですよ」最近の徳武はとぼけることをおぼえた。試合前もションボリした顔をしながら「ダメですよ。当たりないから野球をやめたくなっちゃう」などといっていたものだ。ところがゲームのあとになると「決して当ってないとは思っていないんですよ。しかしぼくは精神が悪いんです。はじめに一本打つとなんか安心してしまってたいていヒット一本で終わってしまう。だから一本も打ってないときは、こんどこそ打たんといかんと真剣になっていいんです。きょうもホームランまでは二打席ノーヒットでしょう」とすました顔をした。徳武にいわせるとだんだん気合いがのってきた結果が満塁ホーマーということになったのだそうだ。「試合がはじまったときは雨で中止するんじゃないかと思ったりして気合いがはいってなかった。それがあの五回ごろは、この回に点をとらなければ負けてしまうという気にもなったし、ファウルを打つごとにだんだん打てそうな気分になってきて・・・。2ストライクになったときも大石が全然こわくなかった。高目のストレートでしょうね、あの球は大和田さんがぐんぐん走るし、とられるんじゃないかと思った。ヘイにでも当ってくれれば上出来だという感じだったですね。しかし、もう満塁ホーマー二本目なんて気味が悪いな。なんか起こるんじゃない?このごろ王のヤツがボンボン、ホームランを打つでしょう。あいつもオレを意識しているし、早実の先輩としてのこっちも負けるわけにはいかないや」二十二日から徳武は魔法びんに自家特製の飲みものを持ってきている。「暑くなってきたのでなま水を飲むといけないと思って・・・」魔法びんの中は母親心づくしのカルピスとハチミツのカクテル。逆転満塁ホームランのもとは案外これだったのかもしれない。
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河野旭輝

2016-11-24 21:20:27 | 日記
1962年

河野の打球が右翼席に消えた瞬間、一塁コーチス・ボックスの濃人監督はおもしろいかっこうをした。左手をふり上げ、小さなからだをちょんととびあがらせた。まるで小学生がバスケットボールのシュートをしたようなポーズだ。この瞬間を権藤はこう説明した。「ゾーッとしたね。このリードを死んでも守らないといけないと思って・・・」ゲームが終るとマイクが一本、河野の前に突き出された。江藤によると河野は中日きっての理論派だそうだ。マイクの前で河野は静かにしゃべり出した。「まっすぐだと思います。真ん中寄りだと思うけどコースははっきりわかりません。当っていないって?そうでもないと思います。いい当たりをしてもここのところ野手の正面が多いんです。あせってもしようがないですよ。のんびりやってます」かえってアナウンサーの方が声が上ずっているようだ。理論派の河野は当っていないといわれたのは心外だといわんばかりに説明を加えた。「去年の方が活躍したとよくいわれるけど、けっして中日二年目の生活に安心しているわけではない。このところいい当たりが十本ほど正面へとんでいます。そのうち半分の五本でも右か左へはずれていれば二割五分の打率になっているはずです。去年のいまごろのぼくは二割二、三分のアベレージでした。そうすると去年よりことしの方がいいという計算になります。ちょっと運がないというだけだと思いますが、どうですかね」この計算は本多コーチも認めているそうだ。理論派であると同時に温情派でもあるらしい。最後は敗戦投手の城之内をほめた。「五回ごろまですごいピッチングだった。あまりにいいんで、ぼくは審判の人にすごいですね。打てませんねと聞いたくらいです。しかしその城之内を打ったおかげで、ことし初めてといっていいくらい記者の人に囲まれましたよ」河野がバスへのったとき先にすわっていた濃人監督が黒い顔をほころばせて、一塁コーチス・ボックスでとびあがったときよりももっと目ジリが下がっていた。
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ジェームス・マクマナス

2016-11-24 21:08:05 | 日記
1962年

「ずいぶんスマートになったじゃないか」マックの横顔をみたネット裏のファンがいった。一ケ月ぶりに後楽園に登場したマックのホオはややこけ、胴mわりもひとまわり小さくなっている。「やっと汗がどんどん出るようになってね、ゼイ肉がとれてきたんですよ」人なっつこい目もちょっとくぼんだ感じだ。試合前「サウスポー・カネダ」と口ずさみながらロッカーの前にある大鏡の前で真剣な構えで素振り・・・。完調でないだけに準備運動は慎重そのものだ。そんなマックが久しぶりに報道陣にかこまれた。開幕戦にやられた金田から二安打、そして十回には鈴木(皖)から右前へ決勝打。三本とも右へ引っぱったものだが猛打賞は四月二十二日、下関での対広島二回戦(五打数四安打)以来二度目だ。「決勝打?まっすぐか、スライダー。いやシュートかな・・・(ちょっと考えて)よくわかりません」決勝打よりもよくおぼえているのが金田からの二安打だ。「ファースト、カーブ。セカンド、ストレート。二つども真ん中よりやや外角寄り」手まねでくわしく説明したあと「うまく攻めてきたね」と金田の配球をほめた。-日本の野球にだいぶ慣れた?「うん・・・。でも内野がローン(芝)じゃないからね。まだ面くらうこともあるね」三原監督は「外人にしては珍しく神経質できちょうめんなところがあるんでね。どんどん慣らしていくことが力を引き出すいちばんの方法だと思うね」といっている。報道陣をちょっと見渡したマックは腰を浮かして「モウイイデスカ」単語集で一日一つずつ覚えたというタドタドしい日本語だ。マックがいま一番望んでいるのはチャンピオン佐田の山の優勝(マックは佐田の山のファン)とロング・ヒットだそうだ。
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榎本喜八

2016-11-23 17:23:59 | 日記
1962年

トウヘイ先生ーいまの榎本は好調なバッティングを説明するとき、その名前をくり返してばかりいる。トウヘイ先制、それば榎本が私淑している合気道の先生だ。「合気道とはなにか?といわれてもぼくは説明できないけれど、いまよく打てるのはとにかくトウヘイ先生のおかげです。この前もいいヒントをもらった。バットをもったとき、重心が下にあると思えば右ヒジは決して上がることはないといわれた。要するに精神を集中できればいい。だから最近はできるだけバットをためて、ふところにボールをいっぱいに呼び込んでおいてガッと出る集中力が強くなっている。公式戦にはいったばかりのときは足が前に出てスローカーブには手が出なかった。気持ちとからだがバラバラになっていた」トウヘイ先生の指導を自分で立ち上がって実演してみせた。「トウヘイってどんな字?」といわれると、しばらく考えて首をかしげた。「どう書くのか、わかんないや」藤平光一八段のこと。結婚二年目。まだ無邪気でひたむきだ。「去年はとにかく打たなければならないという意識ばかり先に立っていた。いまはここで打とうとか打たなくちゃいかんという義務感みたいなやつがないからいいんだ」この日三本塁打で二十三試合連続安打。「連続安打のことも逆転打ということも全然考えなかった」そうだ。だからこんごも「その日その日、あきらめているみたいなさっぱりした気持ちで打っていく」とあっさりしたもの。無精ヒゲをはやして毎日鷲宮から南千住まで約一時間電車のつり皮にぶら下がってくる。ホームランの説明もしごくていねいで低姿勢。理論的で細かい。「第二試合を例にとって説明しましょう。一本目はインハイのボールです。杉浦さんが不調でのびがないので打てました。これはうれしくもありません。打者としてボールを打ったことがはずかしいんです。二本目はカーブ。カーブの間が合わないので最後の打席は一番前に立ってみた。すると杉浦さんはカーブを投げない。すぐ2-0と追い込まれたのでこんどは一番うしろに立った。そこへカーブがきたわけです。腕に力がはいらず、腰でもっていった理想的な打ち方でした」まるでやさしい学校の先生にさとされるようなふんい気になった。
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ニューベリー

2016-11-23 12:54:41 | 日記
1952年

黒人二塁手はさっそうとデビューした、一回二死後左ボックスに入ったブリットンは外角高目の第一球を叩きつけるように中越大三塁打して冴えたバッティングの片鱗を見せた、そればかりか次打者戸倉の1-2後に全く意表を衝いてはいたが、無謀としか思えぬ本塁を敢行無論アウトになったが、確かに毛色の変わった野球にファンの目をみはらせた。一方ニューベリー投手も球速といい多彩な球道変化といい申分なく、毎日は三回一死後四球の長谷川、五回無死左前初安打の本堂と二人の走者をニューベリーからは出しただけ、球速に打棒が押され、ほとんど二塁、ライト方面に行き、外野に打上げ得たのは呉一人といった有様だった。阪急の守備のときブリットンはほとんど一動作ごとにカン声をあげる、例の浜崎監督の野次り声の三倍ぐらいの大きな声だからいやはや賑やかなこと、両選手とも名物男になりそうだ。阪急はニューベリーが毎日を完封した前半やや制球難の守田をよく攻めたが二度の併殺もあって得点できず六回1四球、一敵失のチャンスにブリットンは前進守備の一、二塁間を抜いてリードした。しかしその裏阪急がニューベリーを休ませ、天保に代えたため毎日は代打大舘の三ゴロ失をキッカケに別当の安打と三宅の三塁打であっさり逆転した。七回からは双方投手を末吉、原田と代えたが、七回二死満塁を切り抜けた末吉は八回植田に三塁打され、一点を献じただけで阪急の追撃を食いとめリリーフ投を見事にはたした。

吉田要氏談 ニューベリー投手は毎日を相手に五回までだけだが非常にいいピッチャーだ、球勢は豊かで、打者を抑えるカンどころをよく知っている、はじめてぶつかった毎日を一安打、1四球に抑えたことは何よりの証拠である、ことにいいのはインコースの低目に垂直に落下するドロップ、これは日本の投手では投げられない球である。プレートはもっぱら一塁側を踏んでいたようだがアウトコースの低目も比較的よくコントロールされてる。

ニューベリー投手談 日本は寒いと聞いていたのにきょうぐらいだとむしろアメリカよりずっと暖かい、向こうでは日曜は外の試合は全部ナイターだったので楽に試合を進めることが出来た、まだ調子が出ていなので十分には投げられなかった。毎日はパ・リーグ切っての最強チームというだけにグッドヒッターが揃っている、選球眼の鋭さには少なからず驚いた。ちょっとでもインサイドやアウトサイドにいった球は打ってくれないきょうはつとめてインサイドに投げた、私のきめ球はインコースにはいるドロップだ、日本の観客が紳士ばかりで大変嬉しかったことを伝えてほしい。
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森安敏明

2016-11-23 11:56:20 | 日記
1970年

バックの援護が2点しかなかったこともあって、最後までハラハラするピッチングだった。とくに一死一、二塁とされたどたん場の九回裏には、森安をはげまそうと東映ベンチは大さわぎ、松木監督を先頭に、田宮、土橋らコーチ陣が「がんばれ、がんばれ」とだみ声の大合唱。これに愛宕マネジャーまでが加わって、町内会の運動会のようなにぎやかさだった。それだけに森安が最後の打者阪本を打ちとると、首脳陣の方が「ああ疲れた」とがっくりしていた。三四回を除いては毎回走者をだした森安ももちろんクタクタ。「ここ一週間ほど休養の関係が短かったせいかとても疲れた。スピードもいつもほどなかった。阪急打線がうまくスライダーにひっかかってくれたのと、シュートが割合いコースにきまったので助かった」ほっとひと息という顔で森安はニガ笑いしていた。高橋君が右ヒジ痛で倒れたうえ十日ほど前には金田、高橋直が突然の右肩病からつづいて欠場した。そのため投手陣の負担が一度にこの森安にかかってきたが、この重労働に十分こたえてきた。この日もヨレヨレだったとはいえ今季二度目の完封勝ち。近鉄・鈴木と並ぶリーグ最高の4勝目をマークした。「投げることは大好き。かえって中三日きちんと休まされたりすると調子が狂う。勝てば疲れなどふっとんでしまうさ」ということはいつもきまっている。案外、気の小さい一面もあるが、鼻っぱしは相当強い。だからたまには失敗もある。一昨年の契約更改でも、こんなことがあった。球団側との話し合いの席上で「三年連続10勝したのにアップが少ない」と文句をつけたのだ。「尾崎が三年連続20勝してそんなことをいったことがあるが、三年連続10勝という記録をひっぱりだした選手はいまだかつていない」とつっぱねられたが、森安らしい勇み足のエピソードと評判になった。だが、最近はすっかり大人になったといわれている。今秋には郷里の岡山で待っているフィアンセ羽納幸子さん(24)と結婚式をあげる。なんとしてもがんばらなくてはならない年だ。東映のエースとよくいわれるが、過去四年間で一昨年の16勝(23敗)が最高の成績ではあまり威張れない。「ことしは意地でもやります。きょうだってウチがにが手な阪急に勝ったじゃありませんか」真剣な顔でいった。森安のこんな顔は以前なら実に珍しかったが、ことしはトレード・マークのふてくされ顔の方がめったに見られなくなった。そういえばことしの伊東キャンプも宿舎(伊東スタジアム)の従業員がこういってびっくりしていた。「森安さんが実にまじめで外出さえしないんですよ。どうしたことなんでしょう」
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小淵泰輔

2016-11-23 10:48:23 | 日記
1967年

東京・目黒区鷹番町の自宅では、二男の浩徳君がテレビの前で「パパがんばって・・・」と声援を送っていた。ことしから森村学園の初等部に入学した浩徳君の悩みは、パパの成績がもうひとつパッとしないこと。チームが負けつづきだったうえにパパがあまり試合に出ないのでは学校でも肩身がせまいのだろう。七回の第一打席、久保の落ちる球に三振したときは「パパ、もっとボールを見なくてはだめだよ」ときびしい評論家ぶりを発揮していたという。照子夫人は逆転3ランをこのかわいい評論家から聞いたそうだ。「パパがでっかいのを打ったよ。ホームランだ」小淵一家にとって名古屋は二年間二軍生活を送ったにがい思い出の地。小淵は「じわじわ照りつける太陽の下で毎日、このままで終わってなるものかと歯を食いしばりながら若手とグラウンドを走りまわっていた」と当時をふりかえる。昨年まで中日戦には張り切りすぎてかえってパッとしなかったこともある。なんとか昔の仲間に力を見せようという気持ちが心の底で強く働いていたからだ。「ホームラン?外角から真ん中寄りのシンカー。落ちなかったようだな。前の打席で落ちる球にひっかかって三振したので低めは捨てたんだ」よみは当たった。そのうえボックスにはいる前、飯田監督に「強振するな。当てるだけでもお前のパワーだったら一発ほうり込めるぞ」とアドバイスを受けた。「大きいのをねらっていたが、監督のアドバイスで振りをシャープに、とだけ考えていた」報道陣の質問に答えながら、ベンチをキョロキョロとみまわしていった。「忘れものがあるんだ」この日使わなかったグローブ。投手以外はなんでもこなす器用な男だけに、ことしも豊田の控えの一塁のほか、外野も守る。「だから荷物が多くてね」そのうえ持っていたバスにつくと盛りだくさんのホームラン賞。「でもね、こんな荷物だったら、いくら多くてもいいよ」ちょうどそのころ「パパのホームランみたら、安心したのでしょう。こどもたちはもうやすみました」と照子夫人。浩徳君の夢の中にでるパパは、王よりも野村よりももっとすばらしいヒーローにちがいない。
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鵜飼克雄

2016-11-22 23:16:15 | 日記
1974年

「そうなんです。ボクの同期生は、そうそうたる人たちなんですヨ。高校から比較すると、8年遅れのプロ一年生やけど、いい励みになりますワ」12球団のなかで、たったひとつ左投手が1勝も出来なかった日本ハム(旧日拓)に、カネとタイコで迎えられた左腕鵜飼の評判が良い。それも道理、プロ入りには遠まわりしたが、高校(徳島商業)までの球歴は、立派なものである。「幼稚園からボールをにぎってましたネ。ボクは、佐古小学校、城西中学、徳商、同志社と、ずっと一年後輩で、鵜飼先輩と同じ道を歩いて来ましたから、良く知っていますが、子供の頃は、毎日毎日、野球をやって遊んだものです。すばらしくうまかった」家が近所で、徳商時代、いっしょに甲子園にも出場した福井さん(現在、徳島市で食堂経営)は語る。「特に肩が良くて、小学校6年のとき、ソフトボール投げで90㍍も投げて、先生方がびっくりした出来事がありました」実家は、甘納豆などお菓子の製造販売業、母の操さんは、きょ年まで小学校の先生。経済的にも恵まれているし、家庭のしつけもきちんとしていた。「真面目で、ものごとに対する集中心というか、練習も熱心でした。徳商の練習は、放課後から夜の八時九時までやるんですが、いつも一番遅くまでやってました」と福井さん。この鵜飼は、高校時代は投手ではなかった。一塁手、五番打者である。「エースの利光さん(現日生)が肩をこわして、投手もしたんだけど、タマは早いけど、ノーコンで、どこへ行くやら、前にまわってボールに聞いてみないとわからんくらいの出来で」落語の「うなぎや」である。しかし打者としては一流で、40年の選抜では良く打った。「鈴木(育英・現近鉄)から3安打したけど、まぐれですヨ。準決で平松(岡山東・現大洋)にやられましたから」度胸がいい。いまをときめく大投手も、年齢は同じ。呼びすてて表情も変えなかった。「投手は大学に入ってからなんです。監督(渡辺博之氏・元阪神の五番打者)が、目をとめられて、それからです」それでいて、一年の春のリーグ戦に登板したのだから立派。以来、大学とノンプロ(四国電力)で八年の投手としてのキャリアがある。「大きいフォームで重い。投げ方が鈴木隆(大洋コーチ)で、球質は鈴木啓(近鉄)ですヨ」山根コーチの口は、こと鵜飼に関しては軽い。「千恵子夫人との交際も、そうでしたけど、執念の人ですからネ。徳島の病院の事務をしていた奥さんと知り合ったのが、大学の2年のときで、それからは合宿から毎晩電話ですヨ。かけたり、かけられたり。小づかいは全部電話代でとんでたでしょう」と、福井さん。同じ徳商ー同大の二年先輩の村尾さん(現瀬戸内海テレビ勤務)も語る。「きょ年の六月に、高松競輪でひょっこり逢いまして、肩をこわして、もうアカンですわなんていってましたが、その秋、産別で好投してプロへの道を開いた。ちっとやそっとで弱音をはくようなヤツじゃないと思っていたら、子連れでプロへ行きました。あのきかん気な顔を見てくださいよ」パ・新人王候補鵜飼克雄、26歳、扶養家族、妻1、子1、計2名。
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佐藤進

2016-11-21 21:01:02 | 日記
1970年

水原監督も大島コーチも驚きを通り越し、ただただあきれるばかりだった。「きょうはヤツのひとり舞台。打って守ってシャットアウトときたんだからいうことなしだ。うんとほめてやってくれ」と水原監督。首脳陣がたまげたのも無理はなかった。昨年暮れヤクルトを自由契約になり、一度はユニホームをぬいだ男。しかもことし中日に拾われたあと、右肩痛を再発させ、キャンプではピッチングのピの字も出来ない状態だった。それがこの夜、初先発し、六安打の完封勝利。四十一年七月三十一日の大洋戦以来実に四年ぶりの完封勝ちだ。勝ち星の方も四十三年九月十日の対中日戦以来約二年ぶりと久しい。さらにもう一つ監督をあきれさせたことが重なっている。「きょういってくれるか」と試合前監督から先発の意向を打診された際「まだちょっと・・・。かんべんしてくださいよ」と一度は断っている。まるで地震がなさそうだった。それが「いけるところまででいいんだ。いってくれ」という監督の苦しい胸のうちをちょっぴりみせられて引きうけたマウンドで大活躍。試合後、いきなり出てきた感想が変わっていた。「ぼくは不思議な男。ウエスタンへ行くとウエスタンなりの投球をするのに、一軍へくると一軍の投球が出来る」わかったようなわからないような振り返り方。しかし、そんなムードに酔っているような感だけでなくちゃんと計算された内容もあった。「このつぎまた使いたいのでどんな球かいえないが、一球だけ自信を持って投げられる球があった。(村山監督は「フォークボールだろう」と見ていた)その球は不利なカウントからも平気で投げられた。それがきいたんだと思う。阪神はむかしと変わっていない」いまから四、五年前のサンケイ(現ヤクルト)時代、佐藤は阪神キラーという異名をほしいままにしていた。プロ入り通算49勝のうち13勝までが対阪神からの勝ち星だ。おっかなびっくりであがったマウンドだったが、投げる方も往年の自信がよみがえってきて、気がついたら完封勝ちしていたということらしい。打の方でも決勝の右中間タイムリー二塁打。「ちょっとヘッドアップ気味だったが、外角やや真ん中寄りへはいってきた」と投手らしからぬことば。こんな人をくったような男だったが、最終打席、カークランドの打球が中堅中のグローブに吸い込まれた瞬間、マウンドで二度とびあがり、涙をボロボロこぼしてよろこんでいた。
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三沢今朝治

2016-11-21 20:44:05 | 日記
1967年

同点となったあとの九回一死三塁。三塁コーチ・ボックスから「代打・三沢」とつげた水原監督はそのままベンチまでトコトコ帰ってきた。三沢へアドバイスするためだった。「外野フライでいいんだぞ」何度もこう念を押されたそうだ。だが三沢はこのとき、十七日の対南海七回戦(大阪)で今シーズンの初ヒットを打ったときのことを思い出して、そうかたくなっていなかった。そのときも駒大の先輩萩原のつぎに代打で出たのだった。それに米田とは昨年一度顔をあわせ、中飛を打っている。こわいという印象はなかった。0-2から一球から振りした四球目。「内角高めのストレート。打ったとたんにはいると思った」(三沢)というサヨナラ・ホーマーが飛んでいった。打たれた米田が「こんなやられ方をしたのはあまり記憶にない」というほどの、みごとな一打。これはまだ三沢にとって、五年目でやっと出たプロ入り初アーチでもあった。「から振りしたのが低めのへんな球だったでしょう。だからつぎは高めにマトをしぼって持っていったんです」米田のフォークボールをへんな球とすましていう。後楽園より多摩川グラウンドにいる方がずっと多い選手なのだからムリもない。駒大時代は東部のスターだった。三年秋と四年春にはつづけて首位打者。四年秋も末次(中大ー巨人)とせり合って二点差で負けている。「もう入団五年目です。こんな場面がチョイチョイ出てこなくてはウソなんです」興奮はだんだんさめてくると、こんな反省もした。一昨年結婚し、昨年生まれた長女なおみちゃんはもう九ヶ月。東京・自由ヶ丘のアパートから通うときも、途中で合宿のマイクロ・バスに拾ってもらう質素な生活だ。「この調子でがんばってなんとかことしの暮れに給料をあげなくちゃ・・・」ネット裏でみていた大川オーナーは「いやあ、すばらしいホームランだった。りっぱりっぱ」とひとりで感激していた。
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