プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

1970年 戦力外

2017-09-28 21:25:58 | 日記
1970年

ところで、二十四日の柳田選手に自由契約申し渡しは、たまたまベテラン選手ということで注目を集めるわけだが、実力だけがものをいう勝負の世界には、いずれやってくる宿命。たとえ巨人の看板コンビONであろうとも、さけることができない時の流れである。しかし、同じ現役引退でもぜんぶが柳田選手のようなケースとはかぎらない。第二の人生へのはなむけにすることもあれば、すでに引退した十九年選手・山内一弘氏(前広島)のように、コーチや解説者としてひくてあまた、はなやかにスポットライトをあびる例もある。球団関係者の声を集めてみると「選抜会議にリストアップされた選手は、同時に自由契約選手になることを意味する」という。見送られた選手が、こんご、ふつうのトレード交渉のルートにのることは、まず考えられない。これからつづくと思われる自由契約選手のおもなところをあげてみると、実績のある選手では、一時エース的活躍をみせた中日・山中投手。巨人キラーのサウスポー、ヤクルト・渋谷投手。阪神では好守備をみせた広島・朝井三塁手。王二世というふれこみだったヤクルト・奥柿一塁手。堀内と同期で大リーグキャンプに特例参加したこともある巨人・宇佐美投手。四十一年の盗塁王、阪急山本外野手。三十九年に防御率トップのロッテ・妻島投手ら。このなかには新人補強の関係から、たんなる員数選手として再契約となるケースがでてくるかもしれない。だが、給料は大幅ダウンをまぬかれない。なぜならば、いったん不必要ときめた戦力外の選手にムダ金をつぎこみほど、球団は甘くはないからだ。十一月末といえば、サラリーマンにとって、まもなくフトコロにはいってくるボーナスの皮算用にひたれる、年に二度の楽しい時。だが、来シーズンの契約更改が絶望的になったプロ野球選手にとっては、ひときわ寒さが身にしみる時なのである。
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柳田利夫

2017-09-28 20:33:45 | 日記
1970年

きょう二十四日午後一時、南海は大阪・ナンバの球団事務所に柳田利夫選手を呼び、来シーズンは契約する意思がないことを伝え、自由契約選手にすることを申し渡す。「いちおう、方針がきまった選手たちを二、三日のあいだに呼んで、話し合いをもつ」(近藤重役の話)という顔ぶれは、柳田選手のほかに合田投手、中礼投手、梅村捕手、中村内野手、唐崎外野手、山本外野手、山田外野手、坂外野手ら。球団との話し合いしだいで、スカウトが球団職員への転向もあるかもしれないが、いずれにしてもユニホームとの絶縁が宣告されるのは決定的だ。このなかで、もっとも実績があるのは柳田選手。ことし34歳。福島・内郷高出身。地元のノンプロチームから三十三年、オリオンズのテストに合格してプロ入り。三十五年、大洋との日本選手権では当時、ミサイル打線といわれたオリオンズ打線のトップを打ち、大活躍。三十八年、堀本投手との交換トレードで巨人へ移り、さらに四十二年開幕直後、南海へトレードされた十三年選手のベテラン。南海移籍がきまったとき、「最後の働き場所と思ってがんばる」といった決意どおり、二年目の四十三年には131試合に出場、打率2割7分5厘でリーグ打撃成績十一位、ホームラン15本、打点68。いずれも自己最高記録をマークする大ハッスルをみせた。ところが、翌年の昨シーズンは72試合で1割4分2厘。そして今シーズンも数字こそ2割4分8厘を記録したものの、ほとんどが代打か守備要員で56試合に起用されたのみ。二年目の大活躍がウソのように後退、レギュラー・ポジションはむろんのこと、戦力の中心になる主力選手の地位からはずれた。加えて野村監督が打ち出した若返り作戦により、もはや力の限界にきた柳田クラスのベテラン選手の存在価値は薄くなる一方。こうした事情もからみ、さきの第一回選抜会議に提出されたトレード提出選手十二人のなかにもリストアップされた。ここで他球団の指名を受ければ来シーズンもプレーできることが保証されたのだが、十一球団はそろって見送り、これで自動的に柳田選手の自由契約が決定したわけだ。「球団からは午後一時に出てこいという連絡だけで、正直のところ、どんな用事があるのかわからない。しかし、十一月いっぱいは契約期間中だし、拒否する理由もない。プロ野球選手といったって、球団に使われている点では会社づとめのサラリーマンと同じ。とにかく球団の方針にはしたがうほかない」柳田選手は二十三日よる、大阪・阿倍野の自宅で、たんたんと心境を語っていたが、テスト生からスタートして両リーグのAクラス三球団でプレー。その間、日本選手権にも出場、最高の桧舞台をふんだ充実感があるせいか、サバサバしたムードがうかがえた。
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簾内政雄

2017-09-28 19:39:50 | 日記
1963年

開校いらい最強のチームといわれ、今大会の優勝候補の一つにあげられている。エース簾内は長身からくりだす快速球がすばらしく、カーブも鋭さを加え、最近はシュートもマスターしたのが心強い。今春いらい登板した試合はほとんど完封。打たれても一点以上許したことがなく、今大会屈指の好投手である。
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松尾裕二

2017-09-27 23:21:25 | 日記
1975年

九州工の松尾(十一勝四敗三分)も180㌢の長身から繰り出す速球とカーブに威力があり、チームの勝ち星を一人でかせいでいる。シード校の小倉南と昨秋は1点差の好試合を演じており、調子にのればおもしろい。

松尾はオーバースローで、カーブが決めダマ。内外角への直球にも伸びがある。

九州工 甲子園出場(四十五年)の経験校。ことしはやや戦力不足だ。松尾はカーブが決めダマ。下位打線が弱い。上位打線の少ない得点を確実に守れるかどうか。
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浜名敏幸

2017-09-27 19:19:58 | 日記
フォーム・・高校時代本格派だがプロ入り後アンダースロー。 球種・・・ストレート、カーブ、シュート。

1975年

大阪・難波の球団事務所で、ドラフト会議3位指名の浜名敏幸投手(18)=180㌢、75㌔、右投げ右打ち、臼杵商=の入団を発表した。背番号53。同投手は高校時代1試合平均13三振を奪うなど、速球が主武器の本格派投手。

1974年

エース浜名は現在三年生だが、一年生のときからマウンドに立っており、試合経験は豊富。長身からくり出すタマはスピードがあり重い。最近は一段と球速を増し、変化球にもコントロールがついた。しかし、ピンチになると崩れて集中打を浴びる傾向があるので、練習試合を多くして精神面の強化に努めている。

1973年

投手陣は二年生の浜名と三重野。エース浜名は180㌢の長身から投げおろす速球が武器。カーブの切れもよく重い。練習時の力をそのまま試合でも出せれば、かなり期待出来そう。しかし、若いだけに精神面ではいま一歩のところがあり、大試合やピンチに面したときはくずれずに投げれるかが問題。

臼商のエース浜名が第二戦も完封勝ちした。制球に多少甘さがあるものの、内、外角いっぱいに食い込むカーブ、速球は威力があった。七回まで11三振を取る快投ぶり。まだ二年生なのでさらに伸びる投手だ。

投手はむしろ臼商の方が上で、津久見は浜名の速球とシュートに手こずっていただけに貴重な三塁打だった。

1972年

リリーフ浜名は身長178㌢。長身からくり出すタマは一年生にしてはスピードがあり、重いタマを投げる。
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川内八州男

2017-09-27 18:11:44 | 日記
1971年

三ヶ月を終わるのを待ち受けていたようにトレーニングを開始したのが近鉄から中日へ移籍した川内投手である。鈴子夫人、長女真由美ちゃん(五ヶ月)といっしょに佐賀県嬉野へ帰郷していたが、とんぼ返りのようなあわただしさで帰阪するや、かつてのチームメート岩木捕手とペアを組んでのトレーニングに入った。伊藤竜との交換トレードで中日移籍が決まったのは年も押し詰まったころだった。それまでウワサは聞いていたが、いざ現実になると自信と不安が入り混った複雑な心境のようだった。「昨年の夏ごろから体調はいいし、カーブもよく切れている。その調子を持ち続けたらやれそうな気がする。だが半面セの打者の欠点や長所を知らないのが不安でもある」中日には近鉄次代、肩を並べて投げ比べていた田辺投手がいる。川内の一年先輩だ。その田辺が移籍で心機一転、主力投手の一員に成長したのだから「オレだって・・・」という気が起こるのは当然であろう。昨年の川内は、ウエスタン・リーグで百五十一回三分の二登板して十勝八敗、防御率2・01。強力な近鉄投手陣に食い込めぬ不運な面があった。「チャンスとつかんだ以上、一からやり直す気で思い切ってやる。仕上がりは早い方だからキャンプ、オープン戦で認められて・・・」中日首脳陣も、田辺の活躍に刺激され、川内に夢よもう一度と期待をかけている。
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小坂佳隆・安東功・門谷昭

2017-09-27 17:53:27 | 日記
1966年

各球団とも整理選手を発表しているが、このチームは発表していないのが慣例。球団側のいい分では、「いいことでもないのに発表しても意味がない。それが親心というものだ」という態度をとっているが、自由契約選手にされた連中にはいい分がある。「強化練習の最後までつき合わされて、ハイ、サヨナラとはあまりにひどい」というのだ。大物の任意引退選手小坂あたりになると働き場所にも困らず、東洋工業課長待遇で入社することも内定しているらしいし、安東、門谷らは傍系の販売会社へ就職した。勝負への世界だけでなく、人生にも明暗がある。球界から去っていった者に浮き世の風は冷たい。
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カルバー

2017-09-27 17:37:24 | 日記
1975年

「2点差ならなんとかなる。投球数が百になるまでがんばってほしい。それ以上は無理だろうな」三回表、カルバーをマウンドに送り出す中西監督は、期待と不安の入り混じった複雑な気持ちだった。当人も「二、三回のつもり」だった。それがどうだろう。先頭の門田博を遊ゴロ失で出塁させたが、そんなエラーを気にする様子もない。スイスイと投げ続け、九回まで被安打1のあざやかなピッチングでいきなり勝利投手になった。外人投手特有の、腕力を頼りにして上段から投げ込むタイプではない。オーバースローだが、そのモーションは内野手のように小さい。「五種類の球を投げた」というが、いずれもが低めに集まった。直球は十球のうち二、三球であとはシュート、カーブ。中でもシュートの切れ味は威力があった。「練習も十分やったし、涼しかったので疲れなかった。ベストのピッチングだ。二塁打された球は内角シュート。悪い球ではなかった。打った方が上手なのだ」とカルバー。淡々とした口調だ。外人には珍しく控え目で静かな男といった感じがする。二歳のとき父親をなくし、今年春のキャンプ前には、母親も去っている。こんな不幸が尾を引いているのだろうか。日本に来るまでの間フィリーズのファーム、トレードでは一勝六敗の不振。口にこそ出さないが異国の地で「心機一転」を期しているのがわかる。球威は打者を威圧するほどのものがなくても、その落ち着き払ったマウンドの動作、シュートを勝負球にした低めへの変化球は、日本ハムの戦力をグイと押し上げる力になるのは間違いなさそうだ。野村監督は「確かにスピードは乏しいが、打者とのタイミングを考え、うまく投げてくる。さすがに大リーガーだな。彼とぶつかるときはストライクゾーンを低めに置かないとダメだ」自分が三打数無安打に抑えられたこともあってか、警戒の色を濃くしていた。
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マイナープロ野球選手 生年月日

2017-09-25 22:10:58 | 日記

河合礼爾 大洋 昭和13年5月30日生
船山稔雄 中日 昭和17年4月19日生
川内工一 阪急 昭和18年10月15日生
小玉英昭 南海 昭和17年5月26日生
久保田稠 東映 昭和17年7月30日生
松田守 東映 昭和17年7月6日生
渡辺賢二 東映 昭和17年7月17日生
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林善輝

2017-09-25 00:09:21 | 日記
1955年

大映は四回東映三船の直球を痛打、二死後中前安打の小林を木村が右中間三塁打してかえした。六回には代わった安田、加藤に百々、小林(二塁打)木村、畑谷、日吉が五本の安打を浴びせ、その間捕手のボーン・ヘッドによる重盗もあって三点を加えた。さらに八回2四球と敵失で一点とゲームをワンサイドに進めた。大映林(善)は上手、横手からの二種類のカーブをコントロールよくきめて東映をシャットアウトした。東映は二十二人の選手をくり出し躍気となったが四安打の散発に終わった。
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林秀樹

2017-09-25 00:03:35 | 日記
1955年

一軍と二軍の間をしばしば往復しているので厳密な意味では二軍選手とはいえないかもしれないがすでに大映林(秀)投手がいい。法大次代すでにみせていたシンカー(彼はナックルだといっている)カーブ、シュートと三種類の球を持ちその配合でさすがに二軍ばなれしたキメのこまかいピッチングをする。しかし強振する打者に対してことに効果をあげているが一軍の打者に向かったときなにかまだ一本の強い線が欠けているようにみえる。巨人添島投手は期待にそむかぬいい素質をもつ。重い速球と切れのいいカーブが武器だがその彼がときどき打ちこまれているのはやはりまだ投球が単調なため。ジュニア・ジャイアンツ新田監督は「彼がチェンジ・オブ・ペースをマスターすれば大きくのびる」といっている。
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1955年 2軍選手

2017-09-24 23:33:24 | 日記
1955年

毎日で藪崎(藤枝東高)大工(桃山高)に伊藤(則)(津島高)が好投した。藪崎は左投手特有の内角低目の速球と大きなカーブのコントロールが よく、大工も重心の低いフォームから投げる重い速球が低目にきまり、伊藤(則)はやや荒れ気味ながら快速球をもつ。国鉄の深沢(甲府一高)はサイドからの速球、カーブ、それに最近マスターしたシュートと多彩な投球をみせた。巨人三浦(五戸高)はよく伸びる速球で前半四勝したが後半さっぱり、むしろ添島(熊本工)の低目の速球の方があざやかだがもう一息投球に変化がほしい。トンボの大庭(佐世保北)はマウンド度胸がよくシュート、カーブのコンビネーションもみごとだった。柴原(宇都宮高)もチェンジ・オブ・ベースに見どころがある。大映林(秀)(法大)はイースタン・リーグの投手としてあつかうのはおかしなくらいだが、カーブ、シュートに落ちる球がみごとで、調子のいいときは一軍戦でもめったに打たれない。体のないのは惜しいがよく投げた。大洋では川内(尾鷲高)がしばしば登板、シュートに進歩をみせたが、体がないためか球に伸びがなくなるのは惜しい。鈴木(滋)はこれといった特長はないが、両サイド低目に速球をコントロールし、ひざ元にくいこむカーブで巨人一軍を完封したこともある。東映の福島は球道の荒れがかえって幸いしたかっこうで得意のインシュートをきめ球に活躍し、後半は一軍戦に出場した。毎日の佃(早実)に巨人の森(岐阜商)山崎(辰野商)がいい。佃はすっかり昨年の不振を克服、3本塁打5二塁打を含む四割一分二厘の高打率はりっぱなもので、しかしインサイド・ワークでは森の方がいい。打撃は三割二分でベスト・テン五位だが一時は佃と並んで四割を打っていた。東映小野寺(宮城農高)の肩の強さは群をぬいている。一塁では毎日の大村(名古屋西高)巨人の井上(明大)に東映の高木(亨栄商)か。大村はスケールの大きなバッティングでベスト・テン二位。井上もつねに巨人の三・四番を打ちつづけた。一塁をのぞく内野では東映斎田(横浜日大高)が平均してよく打ち、とくに打点の22は群を抜いて光る。それに大映の丸山(熊谷商)喜吉(滝川高)八田(鳴門高)が後半腕をあげ、攻守に軽快なところをみせてきた。巨人工藤(北海高)の守備はいいがバッティングが振わない。いずれにせよ内野はスケールが小さかった。内野よりはるかに粒がそろった。なかでも毎日の橋本(函館西)水野(駒大)萱原(堺商)のトリオがよく働いた。シャープなバッティングでベスト・テン第三位の水野が右、一軍でも三番を打った萱原が中、3本塁打の橋本が左、そして毎日一の巨漢小田(天草農)に池田(榛原高)を控えにもとった外野陣が攻守とも毎日の優勝に大きく貢献した。一軍から落ちた国鉄初岡(専大)のシャープなバッティングはさすがに捨てがたい。大洋の友川(大宮高)は今シーズンの本塁打王が確定的。四月二十六日大映一回戦(川崎)に森口投手から第一号を奪ってからしばらく鳴りをひそめていたが、八月に入って当たりをとりもどし九日の対巨人戦に添島投手から第二号を奪い、つづく十日の対トンボ戦に大庭投手から連続二打席右翼本塁打を奪って一挙にホームラン・ダービーのチャンピオンになった。
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大石弥太郎

2017-09-24 21:40:56 | 日記
1977年

37年に阪急入り、42年広島へ移り、一躍主力投手の一員へのし上がった。サイド気味の独特のモーションから、両サイドへ散らすクセ球は粘っこい。50年阪急に返り咲き、3シーズン目の今季中日の一員となる。セの打者のクセを知っているのも強味だ。
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松盛茂

2017-09-24 21:37:20 | 日記
1977年

高校を出てから、東京都の軟式チームでボールを握り、テストで大洋へ入団というケース。肩はいい。センスもある。
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高泉秀輝

2017-09-24 21:32:18 | 日記
1977年

大きなカーブとシュートが武器だがコントロールがない。昨年はアキレス腱を切って前半戦全くだめだった。
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