プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大西譲治

2014-11-30 22:43:25 | 日記
1968年

大西譲治投手…1㍍86、86㌔、右投げ右打ち、河合楽器

・大西投手は西沢監督が「ワーッ、でっかいなあ」と目を丸くするほどの長身で、いかにも投手というタイプ。松山北高から今春、河合楽器に入社して十月まで野球部に籍を置いた。ボールがすっぽりと握れるため、上手からの速球とフォークボールを武器にする本格派。「高校一年生のつもりで基本から教えてもらい、一生懸命がんばります」と話していた。


ブルペンで大西がピッチングを始めると、大島コーチはもちろん水原監督までが、必ず姿を見せてじっと注視する。投手陣はピッチングを初めてちょうど五日目、調整期間としてはやっとエンジンがかかりだしたていどだ。ところが大西の速球は群を抜いて恐ろしく速い。しかも球質は重そうで、受ける吉沢のミットからはズシン、ズシン。鉛のタマを受けているような鈍い音が出る。「ヨシッ、その調子だ」「首を振るな。肩の力を抜け」大島コーチの声もはずんでいる。長身をのびあがるようにして真上から投げおろすフォームは、まるで二階から球がくる感じさえする。大西が首脳陣に注目されたのはキャンプ前、名古屋の東山周辺で行われた合同自主トレのときである。石段のぼりをやらせてもトップ。ロードワークをやらせても一番。体力づくりの段階で、何をやらせてもとび抜けた強さを発揮する大西を見た大島コーチは、まず強じんな体力にほれ込んだ。それからスピードのあることを耳にすると、実際に合宿所で投げさせて確かめたうえ、水原監督に進言したのがキッカケとなった。大西は昨年、ウエスタン・リーグの阪急戦に1試合だけ登板した。しかし結果は死球2で降板という、さんざんなものだった。それいらい、制球難というラク印を押されたまま、チーム内で相手にされなかった。しかしことしは投手陣再建策の一つとして、若い芽をどんどんのばそうと努める大島コーチの目に、投手の第一条件である足腰、腕力の強い大西がとまったのは、当然なことだった。大西は体力だけでなく、てのひらも驚くほど大きい。親指の先から小指の先まで二十六㌢。フォークボールでならした杉下投手より一㌢大きく、タマがすっぽり入ってしまう。水原監督はこんな大西について「体格はいいが、まだなんともいえん。これからのびるかどうかは、本人の心がまえ一つだ」と多くを語らない。だがそういったあと「コーファックスだって初めはノーコンで、とても使えるとは思えなかったんだ」というあたり、ひそかに第二のコーファックスを期待しているようだ。

では技術的にどうなのか。大島コーチは「まだ上体だけにたよった投げ方をしていてフォームはアンバランス。首も振りすぎて悪い。ヒザを使うコツ、肩の力を抜くことなど、とにかくいまの練習で基本からやらなくてはならないし、本人はむろん、コーチとしても根気よくやらなければならない」と点数はからい。たしかにタマは速いが、ときおりすっぽ抜けて捕手のミットとは単体のとんでもない方向に投げることもある。シロウト目にも荒削りという感じは隠せない。首脳陣のことばとは逆に、キャンプを訪れた評論家の大西評はなかなかいい。鶴岡氏(元南海監督)は「いいじゃないか。立派なからだをしている。鍛えがいがあってたのもしい金の卵だ」といい、本誌評論家の榎原好氏もも「大きいわりにバランスがとれている。基本をみっちりマスターさせたら、案外ものになりそうだ」といっている。大西の国籍は日本だが、父親をアメリカ人に持つ混血青年である。父は朝鮮動乱で行方不明になったままいまだに消息不明。家族は愛媛県の伊予市に住む母親富美子さんと2人きり。性格はまじめで混血という暗い面はどこにもない。中学時代からいやなことがあると、目標を決めてとにかく走ったそうだ。走ることは苦しくても、それで悩みを忘れたという大西は人一倍のがんばり屋でもある。松山北高ーノンプロ河合楽器からとびこんできた異色の大西が、果たしてキャンプでどんな成長をみせるか。中日投手陣のハプニングになるか。とにかく楽しみである。
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富田清吾

2014-11-30 22:11:40 | 日記
1968年

昨年、十一月十二日に行われたドラフト会議、巨人が指名した十人の選手の十番目に「富田清吾、二十二歳、中大」という名があげられた。報道関係者にとって、首をかしげたくなるような名前であった。中大野球部の部員名簿の中に、富田清吾はなかった。それではと彼の出身校である中大付属高に問いあわせてみた。だが、野球部OB名簿の中にやはり富田清吾はいなかったのである。まさしく彼は覆面選手であった。実はドラフト会議の四日前、十一月八日のことである。巨人の多摩川球場に、一人の青年がやってきた。中尾二軍監督はじめ、北川、木戸ピッチングコーチらはあらかじめこの日、青年がやってくることを知らされていた。巨人二軍コーチングスタッフの熱っぽい視線の中で、青年は落ち着いた足どりでマウンドに歩いた。そして投球を開始した。中尾監督が「フェーッ」と目を見はったほどの太い丸太のような左腕から、彼は実に早いタマを投げた。いけるーコーチたちは目でうなずき合った。テストは即座に合格だった。「十二日のドラフトでは必ず指名されるはずだから、それまではあまり他人に口外しないように」と中尾監督に念を押されて青年は家路についたが、彼はまだ半信半疑だった。「指名されたとしても、巨人にはいれるとは、とても考えられなかったですよ」

ドラフト会議で自分の名が巨人指名選手の中にあったとき、その左腕投手、富田清吾は、複雑な気持ちにとらわれた。彼は両親のいる福島県郡山市から離れて、東京・杉並区の姉夫婦と同居していた。母フ志子さん(50)や二人の兄、姉はすべて富田の考えにまかせるといってきていたが、父兼康氏(62)は野球選手になる事は昔から反対だった。富田がエリートコースから脱落して、草野球からプロ入り、という大きな回り道をしなければならなかった原因は、この父の野球反対にあった。中学から中大付属高校に進んだとき、富田は当時の長谷川監督に入部をすすめられた。少年時代から巨人の選手になることが、富田のささえだった。しかし、父は入部に反対した。「これから勉強しなければならないのに、もし満足に勉強もしないうちにからだでもこわしたらどうするんだ」と、父はいった。富田には、父の気持ちが理解できた。父は自分を弁護士にしたいのだ。富田は入部を断念した。しかし、やはり野球から離れられなかった。同級生たちが夕暮れのグラウンドで猛ノックに悲鳴をあげていることろ、富田は軟式の草野球のエースとして投げまくっていた。彼は軟式野球の、いつか名物男となっていた。「東京中、知らないグラウンドはないですよ」というくらい、あちこちにかり出された。やがて彼は遅々の最初考えていた弁護士をめざして中大法学部法律学科に入学した。このとき、やっと父から「大学でなら、もう好きなことをやれ」と野球許可が出た。しかし、富田は、オレは草野球の方がいい、と思った。そして、やがて彼は藤原審爾氏と会い、今日の運命を切り開くのである。「藤原」に加わった富田は翌年、初めて準硬式の試合に登板、オフシーズンには硬球も握った。吉田氏の「プロ野球選手に育てるため」の、いわば英才教育であった。「生まれながらの強肩で、投げるのが好きでたまらない男だった」と、吉田氏は述懐する。
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真部繁敏

2014-11-30 18:40:27 | 日記

1969年

真部繁敏投手…1㍍82、70㌔、右投げ右打ち

大阪・西野田工業定時制出、日本アルミ
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後藤清

2014-11-30 18:10:05 | 日記
1967年

後藤清投手…ノンプロ電電東海、1㍍80㌢、60㌔、右投げ、右打ち。

・同投手は1・80㍍という長身の割りに、幅がなく、ヒョロヒョロとした投手だが、速球のほかシュート、スライダー、フォークボールを巧みに使い、先の伊勢神宮奉納ノンプロ大会では最優秀投手に選ばれている。
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佐藤一誠

2014-11-30 17:47:10 | 日記
1967年

「おや、こんなところに近藤和がいるぞ」-うすら薄い一日の昼下がり、巨人・多摩川グラウンドでは足を止めるファンの間からこんなささやきがもれた。話題の選手は先輩の近藤和にそっくりの打法で注目を集めた大洋の佐藤一誠左翼手(1㍍77、74㌔)。打席にはいると、まずバットを大上段にふりかざして投手をにらみつける。ワインドアップと同時にバットをねかせて、左手をずらして得意のタイミングポーズをとる。この変則打法が近藤和二世を思わせるほど似ている。「先輩をマネたわけではないんですが、タイミングをとるのにこれが一番いいのでー」これがリラックス打法にきりかえたいつわらざる気持ちだという。この佐藤が一日から開幕した巨人X大洋の教育リーグ一回戦でガンガン打ちまくった。巨人の第一線投手菅原から一回にはカーブを右翼打して先取点をたたき出し、四回にも直球を右中間三塁打して追加点の足がかりをつくる大活躍ぶり。カーブめくらといわれた佐藤だけにその進歩は目を見はらせる。球歴は八王子高ー神奈川大中退ー産経ー大洋というかわったジプシー男。ことしでプロ生活四年目の二十二歳だが、一昨年産経を整理されたあと昨年は巨人のテストをうけ、ことしは草薙キャンプから大洋のテスト生として参加した。不得手なカーブ打ちをみごと克服して、ことしはイースタン・リーグのベストナイン(打率3割6厘14位)。「やはりうれしかったのは川崎球場でのホームラン」これは大洋選手として初登場の公式戦で、古巣の産経、半沢から左中間本塁打を奪った思い出(十月十七日)をさしている。ダイヤモンド1周は14秒3という大洋一の快足。機動力野球をひとつのスローガンにかかげて再スタートを切ろうとしている別当大洋だけに若いにない手として今後の期待は大きい。
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若生和也

2014-11-30 17:31:34 | 日記
1968年

塩釜高校時代には鉄砲肩を誇る捕手だった。ところが三十九年にノンプロ仙台鉄道管理局に入社し、同年夏自衛隊東北との試合ではじめてマウンドをふみ、しかも完封勝ちした。それ以降は投手にコンバートされ速球投手として鳴らした。立正佼成会のエースとして活躍した今シーズンの全成績は20勝10敗。今秋の東京都支部大会決勝の対リッカ―ミシン戦では決勝ホームランも打っている。昭和十九年十一月十六日生まれ、23歳、宮城県塩釜市出身。三十八年塩釜高校卒業。仙台鉄道管理局入社、三十九年十月岩崎電機に移り、四十三年三月立正佼成会に入社。今シーズン夏の都市対抗野球で活躍し、プロから入団を薦められていた。速球とスライダーが武器の本格派投手。
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前田四郎

2014-11-30 12:24:20 | 日記
1968年

高岡商・前田四郎投手(18)=1㍍76、72㌔、右投げ左打ち、第6位指名=の南海入団が十七日正式に決った。南海の新山球団社長は同日午後二時三十分大阪・難波の球団事務所で父親彦太郎氏(71)に付き添われた前田投手と正式契約。同三時「本格派の前田君を獲得した」と発表した。前田投手はことしの春・夏の甲子園大会に出場、武器の速球が注目されていた。二年の秋からエースとなり30試合を越す登板で3敗を記録しているだけ。球速は速球のほか、カーブ、シュートだが通算5本塁打を記録した左打ちのバッティングでも素質があるという。「三振が取れる速球で勝負ができる投手が目標」と前田投手は抱負を話していた。同投手は住友金属に就職が内定していたため契約が遅れていたがプロ入りに難色を示した彦太郎氏、学校関係者の意向を押し切ってまで南海入団を希望したところに同投手の決意と自信がうかがわれる。

父親・彦太郎さんの話 就職先を断ってまで入団したいまの決意をいつまでも忘れないで、将来を安定できるような選手になってほしい。
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石井清一郎

2014-11-30 12:04:21 | 日記
1968年

石井清一郎外野手(17)…大宮工、1㍍74、70㌔、左投げ、左打ち

・同選手は、大宮工のトップ打者としてことしの春夏甲子園大会で活躍、その巧打と俊足は、格好のリード・オフ・マンとして注目を集めていた。
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吉沢秀和

2014-11-30 11:47:34 | 日記
1968年

巨人は五日、吉沢秀和投手(23)を任意引退選手にすると発表した。同投手は三十八年北海高からプロ入りする際、巨人ー阪急間で二重契約問題をひき起こし、コミッショナー裁定で巨人入りしたので有名。左投げの本格派として将来を期待されていたが、プロ生活六年間で1勝をあげただけ。引退は本人の希望で今後は家業に従事する。同球団の退団者は山田、三平、矢ノ浦に続いて四人目。
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川野雄一

2014-11-30 07:29:37 | 日記
1968年

西鉄ライオンズは六日午後三時、新人川野雄一捕手(臼杵高)の入団を正式発表した。川野捕手は身長1㍍78、体重70㌔、右投げ、右打ち。今春遊撃手から捕手に転向してからぐんぐん伸び、強肩と正確なスローイングは定評があった。打撃もシェアで高校時代の通算打率3割8分。ランニングもベース1周14秒台の俊足。西鉄の和田外野手(元捕手)の後輩。ノンプロ丸善石油の就職が内定していたが、玉木球団課長の説得で西鉄との間で円満解決した。
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武内国夫

2014-11-29 23:49:24 | 日記
1968年

武内国夫外野手(19)…今春大分県日田林工高を卒業、八月テストして俊足を買い、見習いとして採用したが、代走要員として正式契約。1㍍72、67㌔、右投げ、右打ち。
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岡元勝幸

2014-11-29 23:46:22 | 日記
1968年

岡元勝幸一塁手(23)…三十九年鹿児島高卒、ノンプロ立正佼成会で三年間五番を打ち、ことしは大京観光の四番打者。60試合で打率3割5分2厘、本塁打6本、打点40を記録した。1㍍77、72㌔、左投げ、左打ち。
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落合勤一

2014-11-29 23:41:28 | 日記
1968年

落合勤一。二十一歳。今シーズンは23試合に登板、1勝2敗といっても、ご存知でない方が多いであろう。つまり、これから伸びそうなおもしろい投手である。初勝利は、九月十二日(小倉)の西鉄戦。たしか初登板も、西鉄戦(平和台)だったと思う。あれは、ちょうど暑くなりだした六月末のことであった。スピードもコントロールもよくて、コーチ連中は口をそろえて「楽しみなピッチャーだ」といっていたのを思い出す。当時、期待されていた尾崎がさっぱりダメなことも手伝って、この落合は桜井、松本などとともに大下監督の救世主的青写真のなかにはいっていた。南海戦に突然先発して、途中まで南海打線を手玉にとったこともあるのだ。わたしに強く残っている印象は「落ちるタマ」の魔力であった。「落ちるスライダー」といっていいのか、それとも「鋭く落ちるカーブ」と呼んだほうがいいのか非常にまぎらわしいタマである。これなどたいへん期待できる武器だが、できることならコンスタントにこのタマを使いきってほしい。そのための補助手段として、インシュートで打者の横っ腹をえぐるか、あるいは高めのつりダマをおとりに活用することを工夫してみるがいい。もし、この攻めかたが一つの型にはまってくると、あとはピタピタときまって、投球が楽しくなってくるにちがいない。4コマの連続写真を圧縮したこの投球フォームなかなか味わいがある。ポカーンと口をあけるのではなく、真一文字に結んだ口元は「食うか食われるか」の戦いをいどんでいる男の表情そのものだ。ただ、それにしては、いきさが眼光に鋭さが欠けている。まったく惜しい。球界には毛深いおひとよしがかなりいる。クマソを連想させながら、その実、打者との勝負になると「逃げてばかり」の投手もいたものだ。この落合も見たところ、九時十五分のマユがりりしいが、さて気性はどうなのか。この投球フォーム、手首が思う存分かえっているのが目につく。そのせいかボールが指先によく粘っているのが、うかがい知ることができる。顔をかくして腕だけみると、小山(東京)と間違えそうだ。それほど、まとまりのいいスイングである。

落合投手の話 はじめてペナントレースで投げたので、はじめはビビッてしまった。それでもスライダーはよくきまった方だと思う。残念なのは、ストレートが思ったより伸びなかったことだ。握力が弱いので、スナップがきかないからかもしれない。それにスタンスを大きくとるので、どうしても右足が折れるよう曲がってしまう。だから、タマが出るところが、それだけ低くなるから、角度はなくなるし、スピードも死んでしまう。来春の伊東キャンプではこの点の是正に努めるつもりだ。

土屋コーチの話 落合はあれだけ上背に恵まれていながら、それを十分生かしきっていない。投げるとき、どういうわけか、右足が折れてしまうのだ。腕を大きく振っても、タマはそれだけ死んでしまうし、角度もなくなる。これを直すのには、スタンスを小さくすることも効果的だが、足腰をより強くすることだろう。キャンプではみっちり走りこませる。
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柏熊克美

2014-11-29 22:04:31 | 日記
1968年

西鉄にまた新人投手が入団する。千葉県小見川高のエース柏熊克美投手(18)だ。二十日、東京駐在の渡辺スカウトが千葉県香取郡東庄町笹川の自宅を訪れ、両親と本人をまじえて話し合い、正式契約を完了した。同投手は身長1㍍79、体重73㌔。右投げ、右打ち。ことしの夏の大会では県予選一回戦で敗退し、中央ではあまり騒がれなかったが、長身から繰り出す速球にはかなり威力がある。すでに先月末テストを兼ねて西鉄の秋季練習にも参加したことがあり、球団では同投手の将来性を買っている。
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上地英満

2014-11-29 21:42:25 | 日記
1969年

産経の佐伯キャンプに安仁屋二世をめざす沖縄出身の上地英満投手(18)=1㍍78、80㌔、右投げ右打ち、中部農業高=がテスト生として二十三日参加する。上地投手は沖縄中部・具志川村中部農業高の速球本格派投手で昨年甲子園予選には二回戦で敗れたが陸上砲丸投げでも高校の第一人者。沖縄ヤクルトの嘉味田社長の紹介で産経のテストを受けることになったもの。二十二日午後一時三十分佐伯着の急行「青島」で到着する。

第二の安仁屋投手と沖縄島民期待の沖縄中部農業高校三年、上地英満投手(17)=1㍍78、80㌔、右投げ右打ち=が、産経の入団テストを受けるため、二十二日午後、鹿児島からの列車で同球団のキャンプ地、大分佐伯市に到着した。同投手は甲子園大会沖縄予選で、昨年は二回戦で敗退した無名校の選手。昨年のドラフトでも無指名だったが、オーバーハンドの本格派速球投手として鳴らし、四番を打っていた。同校野球部・我如古(がねこ)監督ー沖縄ヤクルトの嘉味田社長を通じ、球団に話が持ち込まれていた。この日はちょうどキャンプの休日のため、テストは二十三日から練習と並行して行われる。
上地投手は「本土は長い間の夢でした。産経へ入団できればもうこっちでずっと暮らせる」とテストにかける意気込みを見せていた。なお同投手の入団が決まれば、沖縄出身者のプロ入りは金城(元東映)安仁屋(広島)に続き戦後三人目になる。
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