プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山下律夫

2017-05-21 14:55:13 | 日記
1967年

六日、西宮市・甲子園近くのグラウンドで山下投手は軽くピッチングした。見つめる秋山コーチはきびしい表情、大器だけにかなり注文も多いらしい。アドバイスにひとつひとつうなずく山下の姿が目をひく。スリークォーターとアンダーハンド。二種類のボールを投げわける。重く打ちにくそうなボールがコントロールよく、土井コーチのミットに吸い込まれる。秋山コーチは首脳陣の「「山下登板はいつか」の質問にはいっさいノーコメント。「だんだんよくなっている」とだけいい、微妙な発言を続けている。本人に聞いてみると「コンディションは上々。いつでもマウンドに上がれる姿勢」と強気な構え。控えめな山下が投げまくりたいというのは珍しい。そのことばからは「登板OK」の姿勢がうかがわれる。三原監督は「まだオープン戦に登板していないが、練習より実戦派投手のような印象を受ける」という。慎重な発言の裏にはシートバッティングですでにテストずみの含みがあるからだ。土井コーチは「フリーバッティングとシートバッティングとではマウンドに上がったときの態度が違う。打者との駆け引きは堂にいっている。変化球と速球のコンビネーションがうまい」とほめている。草薙キャンプ入り当時の周囲の空気とはがらり変わってきている。というのはキャンプ入りごろの山下は試験のせいもあって、スローテンポ。一時は評判倒れの声が出始め、フォーム矯正か、とさえいわれたこともあった。ところ、そんな雑音には耳をかさず、じっくりとマイペースで整調をあせらなかった。これは彼の非凡さを示す一面だろう。いまでは「オープン戦で投げて自信をつけ、本番に備えたい」とひたすら登板チャンスをうかがっている。
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三井雅晴・松尾格・新谷嘉孝

2017-05-14 22:49:20 | 日記
1972年

ロッテは二十二日午後四時、東京・新宿区西大久保の球団事務所で、ドラフト会議で二位指名した半田商・三井雅晴投手(18)=1㍍80、70㌔、右投右打=三位の長崎海星・松尾格投手(18)=1㍍77、70㌔、右投右打=、六位の三重新谷嘉孝外野手(18)=1㍍79、72㌔、右投右打=の三選手の入団を発表した。三井は甲子園にこそ出場していないが、愛知県下ではNO1投手と評判をとっていた。スリークォーターからの速球とシュートに威力があり、元東海地区担当のスカウトだった高木二軍監督は「森安(元東映)そっくりのタイプ」といっている。松尾は昨年、ことしと二度、夏の甲子園大会に出場。ことしの大会は二回戦で明星に敗れたが、速球を中心にしたピッチングにはまとまりがあり、スカウト連の評価は非常に高かった。新谷は高校二年のとき、投手から外野手に転向、変化球打ちもうまいスラッガーで、三年間で15ホーマーをマーク、ことしの三岐大会では五割四分の打率を残している。
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横山晴久

2017-05-14 21:04:11 | 日記
1976年

24年10月24日生
小倉工ー法大
妻=光子 長男=岳
1㍍84、88㌔、右投右打

でっかい体。重い速球、球威は十分。「あの体をいかせないもんかなあ・・・」と大沢監督。昨年のプロ入り初勝利で自信さえつけば10勝はかせげるはず。46年のドラフト一位の名にかけて、ことしこそ勝負。
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大島明佳

2017-05-14 13:30:50 | 日記
1965年

「ウチのスカウトはどうかしとるで」と某コーチが驚いたというエピソードがある。三十八年春の選抜大会に出場、リリーフ投手としてスカウトの注目を集めたが、数百万円の契約金を積んでプロ入りさせるほどの力はなかった。丸尾スカウトが阪急入りさせたものの一軍戦で登板する機会は全くなく、二軍で細々と暮しプロ入り二年目で整理された。人間的にはおとなしい選手で野球選手には珍しく整ったフェイスの持ち主、チームメートから「大島は道をあやまった。俳優座か新劇かで俳優になった方がいい」とよくかわかわれてた。高い契約金をもらいながら、わずか二年で首になったのは阪急では珍しいことだ。
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井置博文

2017-05-14 13:25:13 | 日記
1965年

兵庫県下では高校時代鳴らした選手。播磨高校時代投手で四番を打ち近鉄、阪急、阪神の間で激しいスカウト合戦がくりひろげられた。当時別当氏が近鉄の監督、播磨高の監督が同氏の実弟だったことで近鉄入りが有力視されていたが、阪急が強引に入団させた。プロ入り後は鳴かず飛ばずの生活をつづけていたが、野手に転向後、一軍でもときどき代打として登場していた。腕力もあり鍛えれば将来が楽しめると見られていたが、やる気をなくしたことがつまづきのもと、心気一転やる気をもてばまだプロの世界でも十分通用するだけの素質はある。
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鵜狩道夫

2017-05-14 13:19:13 | 日記
1959年

「いつこんなピッチャーが広島に入団したんだい」のんきなファンは、こんな愚問を発するかも知れないが、選手名鑑をくってみると、意外なことに気がつく。鵜狩は同じ広島で今をときめく大和田外野手といっしょに、昨年、西鉄からトレードされた選手の一人なのである。昨年は6勝7敗、防御率3・06という成績は、まだ海のものとも山のものともわからなかった。だが、今年の後半戦における彼のピッチングは、実にすばらしかった。阪神打線を相手に、今シーズン二度目の完投勝利を飾ったりしてすばらしい出来だった。鵜狩のピッチングは、重い球がその身上である。オーバー・ハンドからの速球が低目に決ると、相手チームの打線は、ちょっと手が出ないkるあいに威力がある。しかも、内、外角のコーナーに投げ分けるコントロールも絶妙だ。本格的な右腕投手だけに、やがてはエースの座にすわる可能性も十分にある。その上、カーブのコンビネーションがいいから、鬼に金棒である。備前、長谷川につづいて10勝ラインを突破した日、白石監督はボーッとしたような表情で、こう語るのだった。「今シーズンのはじめに、もういつまでも備前、長谷川にだけ頼っている様なピッチング・スタッフでは困る。はやく来年、更来年の広島を背負って立つピッチャーが出なくては・・・。若手の投手にその点をとくに強く望んでおいたんですよ」それを、第一番に鵜狩がかなえてくれたのが、やっぱりうれしかったのだろう。よろこびをかくし切れぬ白石監督だった。長谷川に体力的な限界が見え、備前もこれからぐんぐんのびていく投手ではない。だから、若手投手のなかから、一日も早くこの二人に代わる投手の出現が望まれていたわけである。橋本、拝藤、大石など未来の広島のエースを争うレースに、鵜狩がいちばん近づいたということははっきりいえるだろう。鵜狩は前にも書いたように、西鉄からトレードされて広島入りした。西鉄から広島入りして芽を出した選手に大和田がいるが、彼をトップとするなら、鵜狩はその二番手といえるだろう。西鉄時代の彼は、二年間でわずか22試合、41イニングスに投球しただけであった。持てる力をフルに発揮するチャンスを与えられなかったのだろう。現在の鵜狩から考えたら、想像もできないくらいである。それだけに、広島で一軍の試合に出られるのは、うれしかった。勝利投手になったあの感激を思うと、からだ中がぞくぞくするほど、うれしくなってしまうのだった。「一戦一戦を懸命に投げぬくだけです。どれだけ勝ちたい、といったって、いくらでも勝ちたいです。でもそんなこと、あまり考えないことにしているんです。西鉄時代の苦しみを思えば、どんなことでも耐えていけると思うんですよ」鵜狩は、現在の進境をこう語るのである。鹿児島県伊集院高校出身だが、九州男子らしからぬ、謙虚な態度である。話はもどるが、甲子園で阪神を相手に完投勝利を飾った試合のあと、押し寄せる記者団の質問にも「バックのおかげですよ。カーブが決まらなかったので、苦しいピッチングでした。バックの人たちがぼくを助けてくれたようなものです」と答えて、かえって恥ずかしいそうな表情さえのぞかせていたものである。「鵜狩のピッチングは、どちらかといえばオーソドックスな投球だ今までの広島には、あまり類を見ない本格派だけに、大いに期待はしている。長所は低目にものすごいいいコントロールをもっていること、球が重いので、打たれても飛ばない。また反対に欠点は球のスピードが今ひと息ほしいと思うな。球が重いから現在の状態で満足するならそれでもいい。しかしエースとなるには、どうしてもスピード・ボールがなくてはね」とコーチ陣は、彼のピッチングを批評している。「しかし、彼は十分やってくれますよ。若いピッチャーにとって10勝ラインを越えたことは、大きな自信をうえつけますからね」と白石監督は目を細める。今年でプロ入り四年目。そのピッチングは充分注目に値するだろう。そうして、長谷川、備前に次ぐ第三のエースの座につくことが期待されている。
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島田雄二・橋詰文男・柴田晃

2017-05-14 11:41:57 | 日記
1965年

東映の第一次整理選手は、島田、橋詰、柴田、阿左美、伊東、芦刈の六名。ことしはすべてファームで暮らした人たちばかりだが、島田、橋詰は昨年まで第一線で働いた選手で名も通っていた。ことしこそ坂崎、宮原、長南と、代打陣も一変したが、昨年まで東映の代打№1といえば島田外野手。能面のような無表情な顔、メガネをキラリと光らせて打席に足を運んだ姿はまだ記憶に新しい。水原東映のスタートに欠かせない代打者だった。橋詰もまた同じ。スター作りの巧い水原監督が、橋詰左腕投手を実にたくみに使ったものだ。左打者用のワンポイント・リリーフに何回橋詰で成功したかわからない。先発、また多くの回数を投げる力には乏しかった彼を、水原監督は実に巧く活用した。しかし、しょせんは球威のない悲しさ。昨年からは打力を生かして一塁手に転向、一度は急造三番打者としてペナントレースに出場したこともあった。だが、時の流れ、実力の世界はきびしいもの。坂崎ら巨人からの移籍、宮原、長南の成長は、ベテラン島田をファームに追いやり、橋詰もまた、むつかしい打者転向を乗り越えられなかった。まだペナントレースも終わらない十月初め、球団からの通達があって任意引退選手という名を着せられてしまった。「どうせ整理をいい渡すなら早い方が本人のため」という球団の親心だったという。が、シーズン中に自由契約にするには手続がこみ入っているため便宜上の「任意引退」、シーズン終了後は自由契約に切り替えられるだろう。島田はもう一度でいい。どこかで野球をやりたいと恥も外聞もなく巨人川上監督にテストを申し出た。川上監督は熊本工の大先輩なので、後輩の願いを聞きいれた。いま島田は、多摩川をひとつへだてた向こう岸の巨人の練習場へ毎日通って汗を流している。採否決定は、来春のキャンプまでかかるかもしれないという。橋詰はその持ち前の明るい性格で、クビのショックを支えたようだ。そうして、二十八歳という年齢も彼はひとつの転機だと考えたようだ。大阪の実家に帰ってプロパンガス業を営む実家を手伝っている。誰からも好かれた好人物だっただけに、名残惜しい橋詰の引退だ。もうひとりの柴田投手は、くる日もくる日もユニホームを汗みどろにして、試合前のバッティング投手をつとめた。東映には数少ない下手投げとして期待もされ、昨年、ことし前半戦、火の車の投手陣の中で第一線にかり出されたこともあった。しかしくせ球のなかったのが欠点で、惜しいところで苦杯をなめた。ついに陽の目をみぬまま、消えて行くことになった。
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武本次郎

2017-05-14 11:09:06 | 日記
1965年

テスト生から養成選手となり、バッティング・キャッチャー専門で二年間を過ごした。技術的なものはなにもなく、プロ選手としてはあわれをとどめた。十九歳という若さが第二の人生を切り開くことだろう。
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田辺修

2017-05-14 10:52:14 | 日記
1965年

1㍍87、90㌔、大洋切っての巨漢である。入団当初、中部オーナーが「これはいける」と惚れこんだ。しかし、文字通りの大器晩成。とうとう温情の大洋でもその成長期間は許されなかった。立教大学を中退してノンプロ立正佼成会に入り、夏の都市対抗でも強打をうたわれたがついにその技術は開花しなかった。日本人ばなれした体格を買われて「プロレス入り」を噂されているが、肝心の本人が乗り気でない。
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笠崎壮夫

2017-05-14 10:47:27 | 日記
1965年

三十八年暮、ノンプロ八幡製鉄のエースとして鳴り物いりで入団した。三十八年暮の秋季練習では、シート・バッティングでピッチャーを努め、一軍選手を牛耳った。そのときにこういったものだ。「プロの打者は低目にさえ投げていれば絶対に打たれない。こわがることは全然ないね」この度胸に着目したのが、別所ヘッド・コーチ。「笠崎はプロ入り一年目で10勝はかせぐだろう」と語っていた。ところが、春のオープン戦に登板してもコントロールがない上に、球威の冴えがみられず散々のデビュー。「口ほどのピッチャーじゃないな」というのがチーム内の評判になった。その後ファームで内外野を守ったが、いずれも成功しなかった。宮崎二軍監督は「器用な選手だからなんとかものにしたかった」といっているが、しょせんは器用貧乏に過ぎなかった。まだ就職は決まっていない。
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戸口天従

2017-05-14 10:34:14 | 日記
1966年

若手重点主義の前に、ベテランの大半が、ユニホームを脱いだ。厳しい師走の嵐、河野、衆樹、戸口、柿本、昨年までチームの主力だったこれらのベテランも、時の流れ、若さの前には無上の姿をさらけ出した。西本監督がブレーブスの監督になって今年で4年目。その間、年、一年と選手に対する厳しさは深まっていった。監督二年目でチームを二位に引き揚げた実績が、一層監督の自信に拍車をかけたのだろう。ところが、昨年四位。今シーズンは五位に終わった。監督のチームに対する考え方が大きく変化したのは、今年の春先から。昨年の四位で改めてチームの方向をはっきりと打ち出したのだ。今シーズンはじめ、監督は若手重点主義をほのめかし、将来チームの行くべき方向をはっきりとさせた。「ベテランにはベテランとしてのよさもあるが、その力を借りるより、若手の力を伸ばすのが得策だ。古い選手には気の毒だが、チームのためには根本的な姿勢を保つべきだ」この言葉通りのことを実行した。やっと開幕してから一ケ月が過ぎた五月。西本監督は戸口と衆樹の両選手をファームに落としている。「あのとき監督は、二軍と一軍の交流を活発にするためファームで調整してこい、というので、その気で二軍にいったら、それが最後だった。もっともファームに行けといわれたとき薄々そんな感じもしたのだが」と戸口はこう語る。おとなしい者ばかりのベンチの中にひとり相手チームをやじり、ナインにハッパをかけていた戸口も、西本監督の目には老醜しきった選手にしかうつらなかったのだろう。貴重な代打者、使うチャンスさえ考えれば、まだまだ戦力となると思われた戸口も、ことしの五月上旬を最後としてとうとう一軍にはカムバックしてこなかった、社長(戸口のニックネーム)がベンチにいれば活気があったのが・・・。戸口は今シーズン限りで任意引退選手。こうして、ほうり出された戸口に、他の球団から声はかからなかった。近鉄の小玉新監督と親しいところから、一時近鉄入りというウワサもあったが、近鉄としても、一度トレードした戸口を、再度迎えるほどの余裕もなく、このウワサはウワサのままで終わってしまった。本人は知人を頼ってどこかマスコミ関係で仕事がしたい希望をもっているが、いまだにはっきりした就職も決まっていない。現役時代から酒好きだったし、かなりの浪費家だっただけに、それほどの貯えもないという。寂しいかぎりだ。「第三者からみればのん気に構えているようにみえるが、内心はワラでもつかみたい心境や。どこでもええから就職口はないかいな」いつもは、陽気な太っ腹の戸口も、さすがに憂鬱な今日このごろである。
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田中調

2017-05-14 10:17:09 | 日記
1969年

東映の左腕エース田中調投手も今年で7年目のシーズンだ。プレーにハデさはないが大きくくずれることがないピッチングは高く買われている。昨年美智子さんと華燭の典を挙げ心身ともに充実した。開幕前の3月には二世康二ちゃんの誕生と田中にとっては益益ハリがでたことだろう。「今年は20勝はなんとしてもあげる」と新たな決意を燃やす田中である。
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水谷茂雄

2017-05-13 23:26:22 | 日記
1985年

およそ野球界とは縁遠い職に就くものもいる。南海から中日に移籍し、昨季は1試合も登板することもなく去った水谷茂雄氏(投手)もそんな一人だろう。四日市にある魚の仕入れ問屋の魚丸市場で、魚と氷にまみれて働いているのだ。少年野球時代から世話になっている恩人の紹介で、「ヒジ痛が治らず、引退が決まる前から、やろうと決めていた」朝は早く午前3時前に出勤。トラックで運ばれてくるサワラなどの一般家庭向け小魚を水で洗って箱に詰める作業に従事するが、魚は氷詰めになっていて冬の寒さも手伝い、手には厳しくこたえる。「現役時代は手を大事にしていたけど、今はそんなこともなく、ときには手の感覚がなくなります」たまに、事務所で計算の仕事がある。「そんなこと今までやったことないでしょう。これが一番いやですね」と、別世界で生きる厳しさをしみじみと語る。しかし、この4月には高校時代からの女友達との結婚が決まっていて、「野球に未練はない。結婚もするし、頑張ってこの仕事を続けます」と同氏の前途は洋々としている。
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安藤治久

2017-05-13 21:45:11 | 日記
1964年

阪急は八月三十一日付けで安藤治、井置、大島の三選手を任意引退にしたが、さらに首脳会議で少なくとも二軍から十名内外の整理選手が出るものとみられている。トレードが活発に行われる模様なので、中堅投手陣の放出も考えられるし、内野手獲得のためには主力投手のトレードもありうる状態だ。安藤治久投手(沼津市高)。米田、石井茂、足立、梶本につぐ投手として、ここ二、三年大きな期待をかけられてきたが、とうとう報い少ない実績しかあげられず、今シーズン途中任意引退選手となった。球団としてもまだ働ける実力を認めながらも精神的なつまづきから見放してしまった。阪急を任意引退になってから中日のテストを受けていたが、まだ入団するかどうか決まっていない。阪急当時は「アンちゃん」の愛称で呼ばれていた。酒が好きな投手だった。
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坂上惇

2017-05-13 21:26:30 | 日記
1955年

毎日は七回無死代打奥が安打に出たあと西本、沼沢、ルイス、三宅と持ゴマを総動員して代打をくり出したが1点もとれなかった。そのほかの三度のチャンスも五、六番の打者が坂上の低目のカーブとスライダーに押えられシャット・アウトを食った。大映は三回植村が力を抜いて投げた高目の第一球を滝田が右翼越三塁打し投手の暴投で生還、八回には坂上の二塁打でダメ押し点を加えた。
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