プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

木村悟

2024-06-28 21:54:23 | 日記
1983年
ドラフト外、プロ2年目で売り出した木村外野手の実弟。189センチの長身もウリふたつ。ちがっているのはポジションだけだ。大学3年の終わりごろ、近大・松田監督のすすめで投手から一度、野手に転向し、リーグ戦の実績はほとんどないが、やはり投手への未練は捨てきれなかった。「どこまでやれるかわかりませんが、早く兄貴に追いつき、追いこせの気持ちでがんばる」という弟。長身、左腕、そして地肩の強さが武器だ。


1984年


一軍の打撃投手でみっちり投げ込んだ努力が実ってフォームがまとまってきた。手首と肩の強さだけでぶっきらぼうに投げていたのがうまくヒジをつかえるようになった。下半身を強化し、さらに投球に威力をつけたい。多摩川でも後楽園でもギャルの声が一段と高いハンサムボーイだ。


1985年


マイクを持った時の堂々たる態度、チーム№1の美声の持ち主が、いざ先発、を言われるとなかなか寝つけない。まだまだ経験不足だが、たとえワンポイントでも、プロの修羅場をくぐりぬけていくいがいに度胸をつける手段はない。貴重な長身の左腕。マイクを握ったつもりでドーンといこう。

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津村潔

2024-06-28 21:51:55 | 日記
1982年


ドラフト外。練習生として入団、かつてリトルリーグで荒木(早実高)とともに活躍したことがある。




1983年
昨年は練習性扱いだったが、ことしは晴れてメンバー表にはいった。阪急の松永のようなケースもあるし、頑張ればやがては一軍入りも可能だ。


1984年


打撃投手から晴れの正選手としてスタートし1年。実戦のマウンドに立っていろいろな経験をしたことだろう。打撃投手時代、自慢だったコントロールがここ一番で微妙に乱れたのもそのひとつだ。リキんで当然、ひとつひとつ課題に挑戦していこう。


1985年


くせのない流れるようなフォームも、相手打者にとっては絶好の餌食だ。もっとも一軍の打撃投手としてスタートしたのだから無理もないが、いわゆるクセ球が欲しい。少しづつであるが、昨年の春先から挑んでいるフォームの変化もそのためだ。格好のいいスタイルと同様、ピッチングでもいいところを見せて欲しいな。

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飯山正樹

2024-06-28 21:48:32 | 日記
1973年
南海は十一日、飯山正樹投手(19)を任意引退選手にすることにし、パ・リーグへ手続きをとった。再三にわたる無断外泊など私行上の乱れが理由で、新山代表は十日、父親・光明さん(52)=鉄工所経営=と本人をまじえて話し合い「このままチームにおくわけにはいかない」と伝え、光明さんも了承した。

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衛藤雅登

2024-06-28 21:40:45 | 日記
1973年
大東大から四十二年日拓に入社。上手からの大きなカーブが得意で、大学時代四年間で18勝をマークしている。四十一年のドラフト会議で西鉄に指名されたことがある。背番号45。

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福本万一郎

2024-06-28 21:35:49 | 日記
1973年


須賀川高から全常盤に入り、静甲いすゞを経て昨年日拓に移籍した。フォークボールとシュートを武器とする本格派。背番号44。

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松山和吉

2024-06-28 21:32:22 | 日記
1983年


ドラフト外、バッティング投手として入団。腕を磨きながら、いずれは一軍入りを夢見るのだ。


1984年
ドラフト外。昨年一年間、打撃投手としてくる日もくる日も投げ続けてきた。はじめて打撃投手としてマウンドに立ったとき、打線のおめつけ役、矢頭コーチが「コントロールもいいし、球質も重そうだ」と満足そうだったが、リーグ2位のチーム打率の上昇にも大いに貢献してきた。晴れてファイターズの一員となった喜びは、言葉ではあらわせないものがあるだろう。重いストレートにさらに威力をつけ、一歩一歩前進していこう。

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太田勝正

2024-06-28 21:16:06 | 日記
1989年
野球では無名の愛知県三河高からプロの世界に飛び込んだ。一見物静かだが、闘志は内に秘めている。強肩だが、目標はまずプロとして通用する総合的な体力をつけることだろう。それから一軍への夢の実現へ向かっていく。外角のストレートを得意球としてさらに磨き、右の本格派として育つことを期待。


ドラフト6位。契約金2500万。甲子園出場の経験は無いが、140㌔のストレートは愛知県下でも一、二を争う好投手といわれた。コントロールもよく、大きく崩れることはない。昨年夏の愛知県予選ではベスト16に進出した。

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津村潔

2024-06-26 13:31:28 | 日記
1983年
「1年は長かった」と日本ハムの津村潔投手が語った。荒木大輔は調布リトル時代のチームメートだが、津村の方が1年先輩。実績でも荒木を一歩リードしていた。51年にアメリカで開かれた世界選手権で津村は日本チーム優勝の原動力となる。荒木はこの時、第二投手だった。その後、荒木は早実のエースとなり日本中を沸かせたが、津村は明大中野高でくすぶっていた。「大輔と自分の距離がこのまま開くばかりなのかと思うとたまらなく不安になり、日本ハムに飛び込みました」打撃投手にて採用され、背番号66をもらうことになる。自分でもビックリするほど制球力がついた。一日400球の投げ込みはムダではなかった。「体(178㌢、74㌔)の割には球威があり、球種も主力投手に比べそん色ないほど豊富」と植村一軍投手コーチにいわせるまでになった。そして晴れて日本ハムの一員になる。「やっと大輔と同じ立場。これからが本当の競争ですよ」


日ハム津村潔の父親、和四郎さんはうれしくて仕方がないというような声を上げた。バッティング投手から、今年は選手契約となったのだ。津村の名が新聞の片すみに載ったのは七年前。調布リトル時代、世界選手権の西独戦で奪三振15の完全試合を記録した時だ。控え投手に荒木大輔。津村が日本ハムのテストを受けたのは昨年の春。明大中野の池田監督に連れられて、三沢スカウトに見てもらった。島田誠や岡部を発掘した三沢氏のお眼鏡にかなっての入団、丸尾スカウトも「フォームのバランスが実にいい」と期待をかける。昨シーズンは試合前のフリーバッティングに投げた後、スコア表を持ってベンチとの連絡役など雑用に追われた。高橋里が打撃投手上がりなのも、よく工藤から食事に誘われ、「俺も下で三年間がんばったんだ」と励まされたりしたことも心強かった。かつての控え投手荒木は契約金六千百万円、対する津村の契約金は三百五十万円。「契約金なんて関係ないですよ。両親に全部あげました。イースタンで荒木と対戦したら負かしてやろうと思ってます」高校時代、練習試合では6-1で投げ負けているだけに、津村の闘志は燃えさかる。


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太田勝正

2024-06-25 15:24:08 | 日記
1988年
太田は右の本格派。コントロールがよく、カーブ、スライダーもコーナーいっぱいに決める。スタミナも十分で、大きく崩れる心配はない。一年生からのエースで、マウンド経験も豊富。


「きょうはストレートに伸びがあったので、変化球は使わず、ストレートだけで勝負しました」10奪三振で九回を完封した後、冷静に試合を振り返る。「実際はカーブ、スライダーも得意だし、覚えたてのシュートも試してみたかったが初戦ぐらいストレートだけで抑え切らないといけないと思った」と強気な性格がのぞいた。小学生時代はソフトボール。中学一年生から野球を始めて以来、ポジションはずっと投手。「やはり打者を三振に打ち取った時が、一番気持ちいいですね」高校入学後も一年生の秋からエースの座に。以来約二年間、マウンドを守ってきた。高校生最後の大会に備え、肩の負担を考慮し、投げ込みは軽めに。短距離ダッシュを中心とした走り込みで、スタミナ作りに専念してきた。二回戦の相手は強豪・愛知「今度はストレートだけではいけないと思うけど、昨年の秋の大会で負けた相手なので、全力を出し切り、借りを返したい。ベスト4が目標」と闘志を燃やす。エースで四番打者と文字通りチームの大黒柱。その右腕が三河の浮沈のカギを握る。175㌢、70㌔、右投げ右打ち。


太田投手は速球派投手。交渉にあたった鈴木スカウトによると「変化球に頼らなくてもストレート1本で勝負できる投手」と指名した理由を説明している。

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1992年のプロ野球退団者

2024-06-23 11:28:06 | 日記
1992年
上岡良一さん(26)は日本ハム4年間の球界人生から一転、宇都宮市にある女性の下着販売会社に今月1日から出勤。若い女性社員をまとめる上役に華麗なる転身。西武退団の城土大治郎さん(27)は故郷の熊本市で「カラオケ・ドレミ館」をオープンさせた。「何年かかっても、プロゴルファーを目指す」広島を自由契約になった片平哲也(25)さんはクラブを握る毎日。銚子商のエースで甲子園に出場、ドラフト2位で中日に入団。野手から広島ではまた投手に再転向したが、1軍定着はならず。福島・会津若松の中学時代はゴルフの天才少年といわれ、25歳でかつての夢を追う。「いつかは青木功さんのようになる」まずは関東のゴルフ場でキャディーから再出発。実家が自営業なら、再就職にそれほど苦労しない。ヤクルトにいた忰田(かせだ)幸也さん(27)は群馬の「忰田米穀店」で、近鉄退団の福井努さん(24)も大阪で建築業とそれぞれ家業を手伝う。天才打者として騒がれながら大輪の花を咲かせられなかった藤王康晴さん(中日ー日本ハム)は家業ではないが、父親の仕事(繊維関係)の関連会社、地元・愛知県の「大和ウール」に就職内定。27歳での転機だ。

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関根浩史

2024-06-22 14:03:20 | 日記
1985年
138キロから140キロ程度しか出さない関根。関根はカーブ、スライダーをまぜて打ち気をそらしながら、決め球は低めへよく制球されたストレートをビシリ。


関根はシュートと速球の組み立てがよく失点を2で抑えて完投した。


130キロ台の速球と120キロ台のカーブ、スライダーを投げ分ける関根に、巨人打線のバットがまるで合わなかった。

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グスマン(広島)

2024-06-22 13:27:30 | 日記
1997年
広島は27日、ドミニカ共和国のカープ・アカデミー出身のレイビー・アントニオ・グスマン・ペーニャ投手(20)=195㌢、84㌔、右投右打=と推定年棒400万円で契約した。登録名は「グスマン」背番号は72。同投手は22日に来日しており、テストを経て入団が決まった。長身から投げ込むMAX150㌔の速球が武器で、チェコ(現レッドソックス)に代わる助っ人として期待を寄せられている。なお、広島の今季の外国人選手は6人目。


ドミニカ共和国のカープアカデミーから二十二日に来日した広島のテスト生、グスマン投手(19)=が二十三日、大野屋内総合練習場であった主力の練習に初参加した。真新しいユニホームにそでを通したグスマンは、緊張した様子で投球練習場へ。三村監督や川端コーチが見守る中、195㌢の長身から速球を主体に約30球を投げ込んだ。三村監督は「ファームの若手と同じように育ってくれれば」と話していた。


1998年


球の出所が見えにくい投球フォームで長身から投げ下ろす直球に威力。足腰の強化をはかれば、将来が楽しみな素材。

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ハンコック

2024-06-21 21:52:42 | 日記
1998年
新助っ人、ライアン・ハンコック投手が、変幻自在の投法で、首脳陣をアッと驚かせた。王監督、黒江助監督らが見守る中、ブルペンで80球の初投げを披露。入団前の情報にはなかった、上手、スリークォーター、横手投げと次々と変わる投法に、首脳陣はビックリ。上手では直球、スライダー、カーブ、チェンジアップの4球種を操り、横からはスライダー、直球の2種類を投げる。「知らなかったよ。ビデオで見た時はサイドはなかったからね」と思わぬ誤算?に苦笑いの王監督だが、「右打者には打ちづらいだろうね。球持ちも長そうだし」と上々の評価だった。


周囲もあ然のブルペン初投げから四日。幻惑投法の主・ハンコックがフリー打撃に初登板し、その神髄をチラリと披露した。サイドスローは1球だけながら、オーバーとスリークォーターで内之倉、城島、坊西に対して計80球。低め、低めに球が来る。しかもほとんど変化球。オーバーフェンスは1本もなかった。ヒット性の当たりは22本。「打ちにくい。スライダーがいいみたい。スピードはそうでもないけど、キレがある」と内之倉。城島も「低めの球が変な回転している。まだ分からないけど、打ちづらそう」と第一印象はまずまずだ。「球が重そう。面白そうだね。オープン戦で多く投げさせて、試したいね」古賀ヘッドは実戦デビューが楽しみといったところ。マウンドでは打者との距離感をつかむことと、低めに投げることが課題だった。「今は肩の出来は80㌫くらいかな」と快汗に満足げなハンコック。「三週間すれば100%の力を出せるようになるよ」と開幕は十分OKをアピールだ。「速球が売り物じゃないから、派手さはないけど打ちにくそうだった。実践で見たいよ」王監督もまずはOKサイン。ハンコックは一度二軍で調整して再度、一軍に合流する。十一日からのオープン戦では、福岡ドーム5連戦の中で登板予定。幻惑投法が鷹を救うか。もうすぐベールを脱ぐ。


これぞ変なおじさん投法だ。ダイエーの第四の新外国人・ハンコックが初めてでブルペンで80球を投げたが、オーバーハンド、スリークォーター、サイドハンドと3種類の投球フォームを披露、触れ込み通り軟投派投手であることをアピールした。王監督の大きなひとみが一段と大きくなった。練習二日目で早くもブルペンで捕手を座らせたかと思うと、フォームが見るたびに変わっていくのではないか。獲得前のビデオでは2種類のフォームはチェックしていたが「横から投げるのは知らなかった。色々工夫をしているみたいだね。」と幻惑投法に驚いた。通常のオーバーハンドも右ひじを後ろに張り、上体で投げる変則フォーム。指揮官は「変なおっちゃんが投げているみたい。投げ終わった後も色男じゃないけど思わずニヤッとしてしまいそうな感じだ」とフィニッシュの顔までチェックしたくなる奇妙な白人に興味深げだった。4種類の球種を持つが、フォームが変わることによって10数種類の球種を投げる。古賀ヘッドも「面白いかもしれないな」と実戦派に目を見張った。本人は「ブルペンで数多く投げ、ゲーム感覚で養えばシーズンでやっていける」と頼もしいセリフ。一昨年はメジャーで4勝。球速は140キロそこそこだが、打者を惑わせてそのまま抑える可能性はある。


二十二日にキャンプに合流した第四の外国人・ハンコックが、キャンプ最終日にフリー打撃に初登板。「いい感じで投げられた」と変幻自在の投法で打者をほんろうした。直球はナチュラルで変化し「打ちにくかった。(横手投げ)怖い」と対戦した城島。王監督は「速球派じゃないから派手さはないが、低めに丁寧に投げていた」と目を見張った。オープン戦序盤はチームに帯同せず、三月十一日のヤクルト戦から合流する予定。

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マルチネス

2024-06-20 15:25:13 | 日記
1997年


2月上旬に来日し3月に登録の見込み、全体にまとまった投球フォームで、元中日の郭投手タイプ。昨年、右ヒジの手術をして実戦からは遠ざかっているが、伸び盛りの選手で楽しみ。

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グスマン(広島)

2024-06-20 15:21:52 | 日記
1998年


背番号72→68。回転数の少ない重い速球には魅力がある。実戦経験積みたい。
長身を生かして投げ下ろす投球は魅力十分。二軍で実戦経験をつみたい。背番号72→68。


昨シーズン途中で登録された。9月20日野近鉄戦で8安打されたが完投で初勝利。今季は一軍入りを目指すが第二のチェコになれるか。


昨季二軍を経験し今年で2年目。意外なほど真面目な性格で、選手が嫌がるランニングも積極的に取り組み下半身強化を続けてきた。武器は何といっても195㎝の長身から投げ降ろす角度あるストレート。相手打者にとっては脅威となることは間違いない。秘密兵器として今年は一軍で活躍してほしい。


来日して二年目。着々と力を蓄えてきた。長身を生かして投げ下ろす投球は魅力十分。回転数の少ない重いストレートを武器としている。西武のブロス型で、今年は一軍戦出場を狙っている。

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