プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

河野俊一

2023-11-30 22:06:21 | 日記
1956年


南海ホークスでもつぎの選手の入団を内定、近く契約する。


投手 河野俊一(18)=鹿児島商高、五尺七寸五分、十八貫、左投左打。
同チーム野母投手の後輩に当たり若さに任せた速球を生命としている。

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甲斐和雄

2023-11-30 22:02:37 | 日記
1966年
西鉄ライオンズは十一日、宮崎・日南高の甲斐和雄内野手(17)=1㍍77、70㌔、右投げ右打ち=と契約した。今季同球団の新人契約第2号。同内野手はさきの第一回新人選択会議で西鉄が第二位にリストアップして交渉権を獲得、城島チーフスカウトが交渉にあたっていた。中央にはあまり知られていないが、九州では屈指の大型遊撃手で、西鉄のほか、東映、広島もリストアップしていた。

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近田豊年

2023-11-30 21:57:23 | 日記
1988年
南海のミラクル投手近田がやっと勝ち星をマークした。さる5月8日、蒲郡で行われた対中日4回戦で先発、初回いきなり1点は取られたものの、2回からは得意のカーブ、フォークをうまく投げ分け、6回を2安打1失点に封じる快投をみせたのだ。「やっと勝てた」と近田はほっとした表情を見せていたが、即一軍と見られていた投手だけに、二軍首脳陣は「一日も早く一軍にいかせてやらなけれないけない投手」と決めており、この白星をひとつのきっかけにして、どんどん投げさせていく方針を立てている。

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村越稔

2023-11-30 21:51:36 | 日記
1969年
産経はこのほど第九位に指名した神奈川大・村越稔捕手(22)=184㌢、78㌔、右投げ右打ち=の獲得に成功、十日、東京・日本橋のヤクルト本社で先に入団が内定している藤原真投手とともに入団を発表する。新年にはいって宇高スカウトが千葉県印旛郡印西町浦部の同選手実家で交渉、入団がまとまったもの。八日夜同スカウトは横浜市内で神奈川大鈴木監督、村越と会い大学側の了解を取って最終的に話が決まった。パンチのある大型捕手として田淵(阪神)についで早くからプロ入りの評判が高かった。

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田中辰次

2023-11-29 22:10:59 | 日記
1966年
球団首脳部が浜村(高知商)についで期待をかけている田中辰次内野手(21)=鷲宮製作所=が二十日から個人トレーニングを始めている。十九日に来福し、中西監督の顔を見ての第一声が「監督さん、これでいいのですか。他の球団はみなトレーニングにはいっています。西鉄は二十七日(全員参加)からと聞きましたが…」だった。これにはさすがの中西監督も目を白黒。「うーむ、評判どおりの根性男だ。これならスター間違いなしや」とほめることほめること。田中辰はその翌日から個人トレーニングを行ったが、合宿では浜村と同室。これを知ったときも一言「浜村君と同室ですか。彼は有名だから二十四時間、野球と同居…いいですね。ぼくの趣味は野球だから」とニヤリ。ノンプロ時代から「人に負けたくない。プロにはいって負けるくらいならプロには行かん」といっていた田中辰らしい言動に中西監督またびっくり。

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小林義治

2023-11-29 21:59:47 | 日記
1965年
新入団の小林義治投手(18)=松阪商高=の両親、栄太郎さん(65)ゆきえさん(56)が、初日から毎日スタンドで、わが子のトレーニングをしている。末っ子なので、心配して、わざわざ松阪からついて来たそうだ。栄太郎さんは「あの子は負けずぎらいなので、がんばってくれると思う。早く第一線で活躍する日を楽しみにしています」と話していた。

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吉成昭三

2023-11-29 10:50:34 | 日記
1966年
昨年末巨人を自由契約になった吉成投手(秋田商出)がテスト生として東映のトレーニングに参加した。同投手は左右両ききという異色投手として話題をまいたが、二年間で整理された。「もう一度なんとかして再起してみたい」と水原監督にテストを申し出たものだが、巨人での先輩坂崎にハッパをかけられて懸命に汗を流していた。伊東キャンプも自費で参加するという。


サンフランシスコ・ジャイアンツのキャピイン・原田スカウトは二十五日、当地で昨年、巨人を自由契約になった吉成昭三投手(20)=秋田商、1㍍78、70㌔、右左投げ右打ち=が、カルフォルニア・リーグ(A級)のフレスノ・チームと試験的に契約したと語った。吉成投手は右左両方で投げられる、スイッチ・ピッチャーという珍しい存在、昨年、巨人を自由契約になったが、ジ軍の極東担当スカウトである原田氏がテストした結果「コントロールがいいし、カーブ、スライダーなど変化球がいい。アメリカで勉強したら…」と勧誘したもの。吉成投手は三月十日、渡米、アリゾナ州カサグタンテで行われるサンフランシスコ・ジャイアンツのキャンプに参加する。


吉成昭三投手の話 「契約書にサインして、はじめてうれしいという実感がわいてきた。むこうには巨人でいっしょだった古賀さんがいるので心強い。スイッチ・ピッチャーでいくつもりだが、どちらで投げても確実味のあるピッチングをしたい」

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辻善之

2023-11-29 10:32:49 | 日記
1963年
大洋の辻は一回日下の二塁打で1点、四回松原の左越本塁打でとった1点をバックに、ていねいにボールを散らし東映を寄せつけなかった。カーブが外角にうまくコントロールされ、ボールも重い感じ、四安打で三塁を踏ませず初の完封を記録した。

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東条文博

2023-11-29 10:26:16 | 日記
1966年
昨年暮れ、南海から移籍して湯之元キャンプははじめての東条がスター並みの歓迎にホクホク顔。グラウンドでの歓迎会では選手のなかでただ一人花束を受ける光栄にあずかった。というのは東条の出身地がこの湯之元。正確には東市来町字美山でグラウンドへ車で十分とかからぬ隣町。グラウンドに両親の姿こそ見えなかったが「東条さん、しっかり」の声援に大いにハッスルした。「ヒマなときには必らずウチに帰る」と東条はいっているが、うれしいキャンプ・インだった。

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金島正彦

2023-11-23 15:38:19 | 日記
1974年
十五日、大人に仲間入りしたなかに川崎市・菅のよみうりランドで自主トレを始めた巨人の金島正彦内野手の顔もあった。テスト生で巨人に採用され、正式に一員になったのが昨年のドラフト会議だった。足かけ三年目でつかんだ57の背番号。金島にとって数字の重さなど気にもならない。「野球をやれるだけでいいんです。」-。成人の日、晴れて一員と文字通り金島にとってはスタートである。午前だけのトレーニングを終えた選手たちが昼食をすませたとたん、食堂の扉がピタリと閉ざされた。扉越しに鈴木ランニングコーチの大きな声がひびいてきた。「小林、罰金五百円、西村も同じ」-。名前をあげられた選手の小さな返事が、すぐ同僚の大きな笑声にかき消される。のっけから鈴木ランニングコーチの雷。罰金を取られた理由は、約束違反だった。正月休暇で選手が帰る前、全員、ハカリの上に乗っている。「のんびりすごせば体重が増える。休みといえどもトレーニングは欠かすな」というわけだ。名前をあげられた小林が3㌔減、西村が逆に2㌔も増えていた。やせたのは不摂生とみられたのか、それが五百円の罰金の対象になった。鈴木コーチのユーモアをまじえた話が終わると、金島はホッと胸をなでおろした。正月休暇中、金島は神奈川県・茅ヶ崎の海岸で走り込んできた。ハカリは合宿を出るときと、ピタリ同じだった。「ボクなんか、遊んでいる身分じゃありませんヨ。やっと半人前なんですから…」テスト生で巨人に採用されたのが一昨年の十月、昨年十一月二十日のドラフト会議でリストアップされるまで背番号なし。むろんメンバー表にも載せてもらえず、金島がいうとおり半人前だった。武相高時代の堅実な守備とシャープなバッティングは関東では光っていた。ところが、専大に入って一年でやめている。「大学野球は肌に合わなかった」というが、それ以上に、あこがれていたプロの希望が強かったのだろう。中尾ピッチングコーチの紹介で巨人入り。昨シーズンはタマ拾いなど一軍の手伝いのまま終わっている。同じ選手でありながら、イースタン・リーグの試合にも出られない。何度、背番号のついたユニホームにあこがれただろうか。ドラフト会議の翌日、新聞に「内野手、金島正彦、19歳」の名前が載ったとき飛びあがった。「57番」-正式にもらった背番号である。ミーティングの後、同僚の板東、庄司、新谷とならんで立った。「成人式おめでとう」-。国松二軍監督の音頭で、温かい拍手と祝いの言葉を受けた。「成人式といっても…。きょうはこれから午後十時まで合宿の電話当番なんですヨ。好きな野球をできるんですから、何もいうことはありません」月給も八万円から二万円アップした十万円になった。「鶴見に住んでいる家族が十九日集まって入団祝いと成人式を兼ねて祝ってくれるんです。すぐ一軍といかなくても早く一軍のレベルになりたい」-。笑った顔にはまだ幼さが残っていた。

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高須正美・大西忠

2023-11-23 15:21:40 | 日記
1970年
九日のプロ野球ドラフト会議で土浦日大高の高須正美一塁手(18)と大西忠中堅手(17)の二人がともに阪急から指名された。高須選手は身長1㍍78、体重80㌔、左投左打で、パンチ力と足が早く、練習試合を含めてここ一年間に三十数本のホームランを飛ばしている。千葉県佐原市新島中学出身で、同中学の先輩にはロッテの市原明選手がいる。大西選手は堅い守備と打撃を買われたもので、身長1㍍75、体重73㌔で右投右打。三年間の公式試合に四割二分の高打率をマークしている。日立市立泉ヶ丘中学出身。二人とも成績がよく日大文学部に進学する予定でいたが、阪急からは十三日に入団交渉に来るというので、それまでに父兄や野球関係者と話し合って態度を決めるといっている。

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永本勲二

2023-11-23 15:04:52 | 日記
1964年
昨年の呉キャンプでのこと。ひょろっとした高校生が柚木二軍監督につれられてテストを受けにきた。呉港高の永本勲二。「コントロールはないけど、とにかく球が速いから…」という鶴岡監督の話で採用になった。それから一年、ことしの呉キャンプで中原ピッチング・コーチからカーブの投げ方を教えられた永本は急速に腕をあげファームのエースにのしあがった。ウエスタン・リーグで阪神との優勝決定戦に敗戦投手となって初黒星を喫して勝率第一位のタイトルを失ったが、9勝1敗。この実績を買われて今度のオープン戦のメンバーに加えられた。「一軍で投げるのははじめてでしょう。やっぱり二軍戦と違って感じが違いますわ。カーブばかり投げましたけど、ストレートが全然低目に決まらないんです。いつもはあんなことないんですがね。だけどカーブには自信があるんです」内角には低目、外角には大きく流れるカーブは確かに威力がある。和田、仰木、ロイ、バーマといった老巧な打者も、はじめからカーブを予測していてもものの見事三振したくらだから切れもいい。ところが肝心のストレートは高く浮いてもスピードがない。玉造、高倉に打たれたのもみんな高目の威力のないやつで、低目に決まったというのは四回の仰木のときの1球だけ。そんなことで中原コーチの採点も辛かった。「まだまだや。カーブばかりだったが、あれを意識してコースをかえているのならいいけどどうかな。それよりストレートが低目に決まらないのだからまだ時間が必要だ」ファームのエースもちょっと雰囲気にとまどったが、南海の若手には合田というカーブ投げの名人がいる。永本がこの合田に追いつくにはもう少し経験を積まなければならない。

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緋本祥男・稲垣正夫

2023-11-23 09:29:45 | 日記
1964年
東映は寺田陽介、稲垣正夫両内野手と緋本祥男、渡海昇二両外野手の四人を自由契約選手にすることが七日決定、京橋の球団事務所で田沢代表からそれぞれ個別に申し渡された。寺田、渡海の両選手の就職は未定だが、緋本は奥さんの父親が経営する電話工事の会社を手伝うことになっている。また東映本社の出向社員だった稲垣は、東映本社に戻り社員として再出発する。これは第一次整理選手として自由契約になったもので、十六日行われるパ・リーグ理事会でらいシーズンの選手のワクが討議されるので、その結果いかんでは第二次整理選手がでるかもしれない。

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嵯峨山幹雄・山下皓

2023-11-23 08:42:03 | 日記
1964年
さる十一月三日、甲子園球場で新人テストを行ったがそのうちから嵯峨山幹雄投手(18)(神戸若葉学園中退)と山下皓外野手(18)(山口県長門高)の二人の選手採用がきまった。なお、あと三人がキャンプ・テスト生として採用される予定。

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山下皓

2023-11-23 08:36:20 | 日記
1964年
阪神タイガースの新人テストが三日午前十一時から甲子園球場に二十五人のテスト生が参加して行われた。参加選手は遠いところで西は山口、東は東京が一人ずつあったていど、異色選手はことし十月東京を退団した清水投手ぐらい。ほとんど近郊の者ばかり。藤本監督も早くから姿を見せ無心に観察。河西スカウトがリーダーとなり白坂、古川、梅本三コーチの見守る中、午前の走力テストからさらに投手、野手に分かれてそれぞれテストを行ない、ふるいにかけた結果、山口県長門高の山下皓捕手(18)=1㍍78、80㌔=をはじめ、野手二、投手六の計八人が午後の二次選考に戻り、再びピッチング、バッティングの重点テストを行った。そのあと河西スカウトと各コーチが慎重に協議した結果、野手二、投手三の計五人に一応の合格点をつけ戸沢社長に採用方を申し入れた。なお最終決定は藤本監督ら各コーチがもう一度話し合い、本人の了解を得てから近日中に正式発表される。


河西スカウトの話 時期的にもおそいし、これほど情報網が行きわたってきては昔のような無名の掘り出しものということはむずかしい。ここ二年ほどウチはテストをやっていないので、またはじめようということになった。人数も質もだいたい予想していたていどだったが、体格の面では比較的いいのがそろっていた。とくに目立った選手といえば、長門高の山下君ぐらい。大洋からの誘いもあったというが、きょうのテスト生のなかではよかった。体格はいいし、捕手というポジションだけに採用候補の一番手だろう。

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