プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

本間勝

2020-11-29 08:57:09 | 日記

1960年

最近一本調子になりがちな大石の速球を阪神は四回みごとうちこんだ。横山の中前打を平山が処理しそこなって二塁打としたあと、並木が右中間深いところへワン・バウンドで入る大二塁打を放って1点、二死後藤重が一塁ベース右、鎌田は三塁頭上と打ち分けて大石攻略に成功した。本間は立上り不安定だったが、後半はカーブとシュートがよくきまり、六回無死一、二塁のピンチをかわして今シーズンはじめて完封勝ちを飾った。

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本間勝

2020-11-21 20:28:47 | 日記

1957年


本間は中京商で超高校級の投手と折り紙をつけられていたが、長身から投げおろす速球とドロップはすぐにプロでも通用しそうだ。

 

1964年

本間が今シーズン初の完投完封の初白星。おそまきながらの感じはするが、この大事な時にベテラン渡辺とともに阪神四連勝の立役者となったのは大きな収穫。藤本監督も「よく投げましたねぇ」とこれを認める。本間はニコニコ顔で「きょうは直球とカーブを多く投げた。その配合がよかったのでしょう。三回のピンチを切り抜けてから落ち着いたが、完投を意識したのは味方が三点を取ってから」という。いつも好投しながら途中でポカをやっていた彼だが、この日は制球力も一段とさえていた。

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呂建剛

2020-11-13 12:48:59 | 日記

2001年


中国から初めて日本のプロ野球界に飛び込んだ、中日の呂建剛(ル・チェンガン)投手(22)が、一時チームを離れ、ナショナルチーム(天津)のカナダ、米国遠征に同行している。2008年の北京五輪に向け、中国がチーム強化策の一環として企画した。「中国はコーチの数が少ないし、細かい技術を教えてもらえない」と来日し、三年目になる。練習態度はまじめで、独学で日本語をマスターした。今では監督、コーチとの会話にも不自由はない。中日のコーチ陣の指導で来日時よろ体がひと回り大きくなり、直球とカーブしか投げられなかったが、フォーク、スライダーを覚えた。

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サムソンリー

2020-11-13 12:39:16 | 日記

1998年


今季2度目の先発となったサムソンに、横浜打線がほんろうされた。「(5月に対戦した)前回より、直球、スライダーとも断然良かった」(高木打撃コーチ)といい、三回まで、中根の一発だけの1安打、6三振に抑え込まれた。しかし、球速の落ちた五回には3安打で2点を奪いKO。高木コーチも「前半は驚いたが、スタミナ不足。あと少しで攻略できたんだが」と、中日の早めの継投に、無念さをあらわにした。

 

1999年

 

安定感のある投球を見せた中日のサムソンは、「去年は球が高くて打たれた。低めに投げることだけを考えたのが良かった」、1点を失い、なお無死一、二塁のピンチが残った七回も、鋭いフォークで大村、立川を連続三振。中継ぎ、先発と「いろんなバリエーションで使えるな」と、星野監督から合格点をもらった。

 

中日・星野監督 サムソンはリズムが悪いが、カーブがよく入っていた。(5番目のローテーション投手が固まったか、という問いに)3番目からはクジや。

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マレット

2020-11-01 14:00:43 | 日記

2003年


近鉄はブライアン・マレット投手(28)=180㌢、84㌔、右投右打=前ドジャースの入団を正式に発表した。契約金込みの年棒5000万円(推定)の1年契約で、背番号は42。中日に移籍した大塚に代わるストッパーとして期待している。

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ライス

2020-11-01 13:54:42 | 日記

1986年

養成選手として注目を集めたウォルシー・ライス投手(23歳)が7日、ハワイへ帰国。慣れぬ日本の生活に体調を崩し、静養のために母国へ帰った、と球団側は発表したが、まず再来日することはないだろう。同投手は4月下旬にテストを受けるため来日。合格して、5月下旬に再来日し、合宿住まいをしながらファームで練習を続けてきた。わずか1カ月半足らず、どうも朝起きてから夜間練習までの野球づけ生活になじめなかったようだ。猛牛番としては、ライスの挫折もさることながら、球団そのものの挫折が残念でなりません。当初は「1年や2年かかっても・・・」(梶本取締役)と日本での育成に力を入れていただけに、こんなに早く…と少々の驚きもあった。

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