プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

松本照夫

2025-01-30 22:40:06 | 日記
1964年
阪急期待の新人松本投手が初登板した。4回2/3イニングスを投げたが、一応3安打も自分のフィールディングのまずさと、永井三塁手の動きの悪さの2安打が含まれており、ヒットらしいヒットは二回土井の1本だけとみてよい。ピッチングの成績はなんら文句をつけるところがない。松本でまず目についたことは、度胸のよさである。新人投手が公式戦初登板、しかも先発投手ともなればマウンド上ではなかなか落ち着けないものだ。それが平常となんら変わらない態度で自分の力を十分発揮した。東京六大学でもまれた実績がものをいっているだろう。それにしても堂々たる試合態度である。近鉄打線に一歩もひけをとらなかった度胸は大いに買ってよい。技術的には外角球が主体のピッチャーである。やや横手から外角いっぱいに直球、スライダーを通した。シュートもときおりまじえたが、この威力はさほどではなく、外角球も球威に助けられている感じであり、これは決め球にならない。スピードそのものはさほどなく、やはりコントロール主体の投手である。三塁側に踏み出して外角をねらうスライダーはある程度の力はある。球威により相手を圧倒する投手ではないが、ローテーションにはいる力は十分あるとみてさしつかえあるまい。

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波山次郎

2025-01-28 20:56:12 | 日記
1961年


巨人は前半こそ波山の鋭いカーブ、ドロップに押えられていたが、六回1安打2四球で二死満塁となり木次の左越二塁打で走者一掃、同点とした。

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大沢勇

2025-01-25 19:58:48 | 日記
1959年
エースの大沢は腰が全治せず、コントロールにやや難があるが、カーブの切れはよく長身から投げおろす重い速球は相当相手を苦しめるだろう。試合度胸もある。

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横山守

2025-01-23 21:51:57 | 日記
1961年
国鉄の先発横山は立ち上がり調子よく、切れの鋭いカーブとドロップで大洋打線を押えていたが、四回一死後太田を四球で歩かせたあと二つの暴投、芝野を四球で歩かせてしまった。

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舟渡光政

2025-01-23 16:35:34 | 日記
1963年
パ・リーグ東映フライヤーズはこのほど兵庫県鳴尾高校の舟渡光政外野手(18)=180㌢、76㌔、右投右打=を獲得した。同選手は兵庫県下で強打の持ち主として評価も高く、今夏の予選では四割七分の高打率をマーク、鳴尾高の準々決勝進出の中心となり兵庫県のベスト・ナインにも選ばれている。すぐれた体格は長打力、脚力もありその大型外野手の素質に東映はじめ南海、阪神、阪急、西鉄が注目していた。東映に入団が決定したのは荒井スカウトの熱心な誘いがあったためで、さる十八日には、目下在阪している水原監督にも会って話がスムーズにまとまったもの。同選手をみた水原監督は、その体格に有望選手の期待をかけている。


舟渡選手の話 野球をやるならプロでやりたいと思っていました。東映は張本さんや西園寺さんと怪力バッターが多いのでボクの好きなチームです。監督さんにもお会いし、その人柄にひかれました。

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野呂瀬義昭・関根勇・野田征稔

2025-01-23 16:26:17 | 日記
1963年
さきに解散したノンプロ「PL」チームの三選手が二十五日、神戸市東灘区青木の川重グラウンドで行われた阪神タイガースの練習にテスト生として参加した。野呂瀬義昭投手(18)=右投げ、右打ち=大阪高中退、関根内野手(19)=右投げ、右打ち=大阪高中退、野田征稔内野手(21)=右投げ、右打ち=PL学園出、の三選手でいずれも綱島新八氏(元松竹ロビンスノンプロPL監督、現PL学園監督)の紹介で河西コーチを通じテストを受けたもの。野呂瀬投手はPLのエースで、沈む球を決め球にする。スピードもかなりある。野田内野手はシュアーな打撃で、大阪のノンプロ球界では随一の二塁手として定評があった。三選手は二十六日も引きつづき練習に参加するが、阪神の決定は二、三日後。


PL学園監督綱島新八氏の話 野田君は、他のノンプロ・チームに行くか、プロに行くかと迷っていた。本人も野球に情熱を持っているので、阪神のテストを受けさせた。立派なものを持っているが精神的な面でどうか、と思うところもある。最後にはPL教団へ帰ってくる人なので二、三年じっくり自分の力をためしてもいいと思う。野呂瀬と関根君は同じやるならプロでやりたいというので受けさせた。


野田選手の話 自分の力を試すつもりでプロの門をたたいた。もしプロでだめだったら、きっぱり野球をやめる覚悟はついています。とにかくプロでやりたい。


関根選手の話 捕手もやっていたが、三塁手としてテストを受けています。根性では負けんつもりです。


野呂瀬投手の話 PLではエースだったがプロで通じるかどうか。

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柴田勲

2025-01-23 08:46:06 | 日記
1962年
イースタン初登板の柴田が注目された。柴田は七回まで4安打に封じた。カーブでカウントを整え、シュート、スライダーを散らし、スピードはないが低目に決めた。三回二死二塁のピンチに、宮原に一、二塁間を抜かれ、これは山本恒の拙走で得点にならなかったがあぶない場面もあった。

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高野一彦

2025-01-23 08:37:54 | 日記
1963年
東映フライヤーズの高野一彦投手(22)=福岡京都高=は二十八日午後、東京・京橋の球団事務所をおとずれ退団の申し入れを行った。あいにく石原代表が不在だったが、砂川管理課長と話し合いを行った。同投手は昨年末、肩の故障でゲームには出ず、ことしも温泉などで治療に専念したが回復の見込みなしということで、この申し出になったもの。同投手は三十三年入団。三十五年には9勝をあげている。プロ六年間の通算成績は14勝18敗。球団としてはまだ正式に決定していないが任意引退選手として近日中に公示するもよう。


高野投手の話 いろいろ治療していることは事実だ。しかし、ことしは東映球団とも契約だしいまはなんともいえない。


砂川管理課長の話 本人がやめさせてほしいと申し入れてきた。肩が痛みその治療につとめたのだがなおる見込みがないとのことだった。本人の話では郷里(福岡県中津市)へ帰り家業(土建業)をつぐか、野球以外の職業につくとのことだ。

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田中(吉川)達彦

2025-01-23 08:25:45 | 日記
1963年
たまりかねた銚子商ベンチはここで三塁の田中達を呼びよせ、マウンドに送った。静岡は前田の中犠飛で1点差と追いあげた。しかし静岡の反撃はこれまで、田中のアウト・シュートに七、八、九回凡打を重ね、結局銚子商勝浦ー田中達のリレーにヒット1本に押えられ、むなしく姿を消した。


田中君は県予選の前、担任の花岡先生に誓った。「甲子園大会が終わるまで就職のことは考えずに全力を尽くします」と。プロのスカウトがねらっている金の卵だから就職とはプロ入りのことだろう。西宮での対柳川商戦に今大会初ホーマーを放って田中株をグンと上げたそれにこの日の活躍だ。六回無死満塁のピンチにリリーフ。中犠飛を打たれたが、あとはピタリ。ノーヒットに押える快投だった。「夢中でしたよ。カーブは自信がないからまっすぐばかり。余裕もなにもなかった」田中君はただ投げるだけだったという。自信があったのはバッティング。「大会にはいってからファウルで粘ると不思議に打てるんです」左翼を守る田中勝敏君とは同じクラス、席も隣同士の大の仲よしだ。「僕と区別してタツ(達彦)と呼んでいる」さしずめ銚子のタツといったところ。応援席でも大騒ぎ。「田中さんてね、快活で明朗でおとなしいし…」同校の女子生徒は手放しのほめようだ。花岡先生は「うちに秘めたファイトがいい。実にいい子です。それに尽きるんじゃないですか」予選から付きっきりの父親、七之介さん(57)は少々てれていた。「家では野球の話をしない子がよくやってくれた」魚商を営む七之介さんは次男坊に甘い。「将来も好きなようにさせてやる」というのだ。町内の少年相撲大会で優勝したのは小学校四年生の時、「体が大きかっただけです」と田中君はインタビューのイスにどっかとすわって答えている。花岡先生との約束を果たすために全力を尽くし切ったのだろう。無心でプレーした疲れがどっと出てきたのか、快い勝利の疲労感を背中の汗に見せていた。

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坪井猛

2025-01-22 22:35:10 | 日記
1962年


名電工
エース坪井は球速こそないがカーブ、ドロップ、シュートをおりまぜる絶好のコントロールで、ストライクゾーンぎりぎりのところをつく好投手。

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醍醐俊光

2025-01-22 22:25:08 | 日記
1962年
大洋は初回ルーキー醍醐を攻めて林の二塁打で先行するなどいせいがよかった。高校時代早実で捕手、しかしその強肩を見込まれ投手としてプロ入りした醍醐だが、スピードはともかくカーブが甘い。五回には二走者を出したところでKOのつき目。しかし大洋投手陣がそれ以上に非力。幸田、峰、平山とみな高目に浮いたので終盤国鉄の長打を浴びるのも無理はなかった。

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三宅孝彦

2025-01-22 21:58:55 | 日記
1962年


大黒柱のエース三宅を中心に攻走守のバランスよく、五指にはいる。三宅はカーブ、シュートのほかにスライダーもつかいこなし球速も十分。

投手は、本格派で速球を武器にますます円熟味をましてきた三宅が一試合平均の失点二~五点。無失点を十一試合も記録している。打線が援護するので、三宅投手の自信も大きい。


1963年


大毎、三宅孝はプロ入り初白星を完封であげた。いつも4イニング程度しかもたず、田中二軍監督も「きょうも二、三回ぐらい」と思っていたそうだが、重い速球に大きなカーブ、シュートをまじえ、散発五安打に押えた。「若いので早めに点を取ってやると、楽に力を発揮できるんだ。これで全員が勝ち星をあげた」と田中二軍監督は大喜び。三宅孝も「できすぎかもしれないが、自信がわいてきました」と目を輝かせる。1㍍70の長身は投手として満足といえないが、力のピッチングにさらにウマ味が加われば、飛躍も遠いことではないだろう。

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嘉勢敏弘

2025-01-22 21:18:24 | 日記
1994年
エースで三番の嘉勢を中心にしたチームだ。左腕の嘉勢はストレートと切れのあるカーブ、スライダーを武器に、大阪大会、近畿大会をほとんど一人で投げぬいた。以前は力で抑える投球が目立ったが、昨年秋からは制球にも気を配るようになって、安定感は増した。


1997年


外野手兼投手として話題の嘉勢が五回、松井へのワンポイントリリーフとして登板。カーブ、速球で2ストライクに追い込んだ後の3球目フォークで、一塁ゴロに仕留めた。見事な投球を見せた嘉勢は「たまたまですよ。前向きに攻めただけ。今のところうまく行き過ぎです」


嘉勢は、28日のナゴヤドームトーナメント準々決勝の阪神戦で、同点とされ、なお二死二塁の九回サヨナラ機で起用されて、代打中村を見逃しの三振に。これでオープン戦通算成績は、打者10人に対し1四球を与えただけで被安打0。最高球速は140㌔ないが、カーブ、フォークを低めに決め、危なげない。


「ピッチャー嘉勢」高校時代(北陽高)、投手として甲子園を経験しているとはいえ、場内アナウンスにスタンドが沸いた。九回二死一、三塁の場面で左翼のポジションからマウンドへ。相手打者は大物新人、井口だ。仰木監督が以前から口にしていたプランを実行した。嘉勢は直球とカーブで追い込み、最後はフォークボールで二ゴロに仕留めた。「失礼のないように全力で投げました。自信?本職が投手なら、そう思うかもしれませんが…」


2000年


雨天中止が決まった千葉でのロッテ戦。室内練習場のブルペンには嘉勢敏弘外野手の姿があった。「監督から体のキレを出すように言われました。昔よりスピードはあったと思いますが、コントロールはバラバラです」直球だけでなくカーブ、フォークを織り交ぜ、約40球投げ込んだ嘉勢は笑顔だった。北陽高時代はエースで甲子園出場。97年には二刀流に挑戦し、公式戦2試合に登板していた。


プロ入り初先発で初勝利のオリックス・嘉勢は「こんな短期間で1勝できるなんて、とても幸せです」と声を弾ませた。1995年、北陽高から外野手としてドラフト1位で入団して6年目。97年に投手で2試合に登板したが、本格的に投手に取り組み始めたのは今年の7月からだった。今季は救援の16試合で0勝2敗。この日の先発の7回1/3で5安打、3四球で4失点。最高144㌔の速球にカーブ、スライダーの変化球をまじえて安定した投球を見せ、4番でエースだった高校時代からの投手としての非凡な才能を実証した。

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パークル

2025-01-15 21:19:34 | 日記
1997年
196㌢、101㌔の巨漢助っ人に、隠された顔があった。ここまでオープン戦で打率・295、3本塁打とパワフルな打撃を披露しているパークルだが、実は昨年、3Aタコマで抑えとしてマウンドに上がった経験があった。成績は申し分ないものだった。2試合に登板し通算6イニングで被安打1、無失点、2奪三振、MAX150㌔を超えるストレートとスライダーは威力満点。実はハイスクールまでは投手をやっていたのだ。この秘めた右腕の球歴を、王監督はただ指をくわえてみてはいなかった。昨シーズンのチーム防御率は、パ・リーグ最低の4.04。特にリリーフ陣がピリッとせず、大量失点を招いた。今季も、抑えで獲得した新外国人選手のニコルズが、オープン戦でここまで防御率7.71の期待外れの成績で、依然としてコマ不足は解消されてない。だから「打撃も大いに期待しているが、投手としてシーズンで使う可能性がある。窮余の策になるかもしれないからね」と、王監督も期待するのだ。さらに内野手登録をしていても、投手で起用することはルール上問題ない、とパ・リーグに確認済みだ。指揮官の言葉は、決してジョークではない。その証明として、ナゴヤドームトーナメントの空き日となる二十七日の練習試合で、1イニングをめどにして「登板させる」と断言。相手はトーナメントの勝敗で左右されるため未定だ。二刀流は公式戦ではないが、昨年のオールスターで、オリックスの外野手イチローが登板。今年はオリックスの外野手嘉勢がオープン戦で既に登板している。王監督は「イチローはシーズンで使う気がなかったが、こちらはシーズンで使うことを考えているからね」と本気そのものだ。開幕まで十日余り。いくら実績があっても、来日して打者相手に登板していない不安は確かに残る。果たしてこの秘策が十九年連続Bクラスから脱出できる武器となり得るか。初登板が注目される。

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宮崎元忠・栗本光明

2025-01-15 15:43:04 | 日記
1963年
初登場の大洋は宮崎(三年)が先発した。得意のドロップがよく決まり、コーナー・ワークもうまくなったが、スタミナ不足。五回同点とされたあと、二死二塁で栗本にうまく右前に合わされて逆転。七回には斎藤に2-2から右翼席にたたき込まれて敗戦投手となった。大毎の栗本もプロでは宮崎同様三年目だが、ノンプロ(倉レ岡山)で七年という経験の持ち主。スライダーがよく決まり配球も群を抜いていた。四回味方のつまらない失策で点を許したが、被安打2本と大洋打線を押えた。「二十一日の巨人戦ではリリーフに出てさっぱりだったが、きょうは彼本来のピッチングを見せた。さっそくあすは一軍に送り込む」とは三浦コーチの話。栗本は三十六年七月十日に大毎入り、翌三十七年十五試合に登板して1勝4敗。六月三日の対南海戦で1勝を記録している。

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