プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石田真

2018-04-30 17:02:07 | 日記
1972年

矢野スカウトはこの日、第一位に指名した足利工・石田真投手獲得のため栃木県安蘇郡田馬町の自宅を訪れ、父親・義二郎さん(47)=農業=、佐藤野球部長らと一回目の交渉を行なった。この日は指名したあいさつ程度で、二十三日から本格的な交渉に入る。
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ロング

2018-04-30 10:20:51 | 日記
1953年

西鉄は球団強化を目指していたが、十一日キャンプ・東京の投手アル・ロング(二十二才)と契約、パ・リーグに登録した。身長六ウィート二インチ、体重は195ポンドでアグネス・ハイスクール(ミズーリ州)出身でヤンキース、カーディナルスのファーム・チームに所属したことがあり、キャンプ・東京からはカイリー投手に引続いてプロ入り第二号である。
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待井昇

2018-04-30 10:16:05 | 日記
1972年

太平洋クラブ・ライオンズは二十日午後三時、福岡市中央区天神の同球団仮事務所でドラフト第九位に指名していた日大三・待井昇外野手(18)=身長180㌢、体重71㌔、右投げ右打ち=の入団を正式発表した。昨年春の選抜大会で日大三高は大阪代表大鉄を破り、甲子園優勝の栄光に輝いた。待井選手はそのときの三番打者。足が速いのと、打つポイントのつかみ方がうまく、チーム最高の打率で優勝に大きく貢献した。もともと打者としての好素質を持つ選手だが、連続出場となった今春の選抜大会ではマウンドにも立った。主戦は下手投げの小曽根だったが、待井は本格派ということから三試合に先発した戸畑商、諫早らを押さえ込んでいる。この大会は決勝戦でジャンボ仲根(近鉄入り)の日大桜丘高に屈したが、プロ野球スカウト連は、一段とたくましくなった待井の好打に二重丸をつけてマークしたほどだ。この待井に目をつけていたのは東京駐在の渡辺スカウト。「足が速いほかに、肩がめっぽう強い。もちろん投手の素質もあるが、打力を生かしたほうが得策のよう」と外野手としての大成を期待している。ドラフト会議は第九位だったが「ほんとうは、それまでにほかの球団から指名されないかとヒヤヒヤした」そうだ。太平洋クラブが契約金六百万円、年棒百二十万円(推定)の好条件を提示したのは、第九位指名はともかくとして待井の実力を高く評価しだからだろう。この日の入団発表に同席した日大三の鈴木康夫監督は「指名順位など問題でない。待井のよさは足、肩のほかに、けたはずれの馬力があること。将来性という点では抜群の素質を備えている。それに性格的にも冷静さの中に激しい一面を持ち、それがここ一番の勝負強さにつながっている。頼みがいのある選手だ」と評している。待井は「小学生のころからプロ入りを目指していた」そうで、日大三に進学したのも徹底的にきたわれたかったからだ。この待井について稲尾監督は「来春のキャンプで投手としての素質をもう一度見てみたい」という構想を持っている。ライオンズは池永(下関商)いらいの甲子園優勝投手である。

待井外野手の話 仲根君とのライバル意識を燃やして、早く一軍で活躍できる打者になりたい。ベース一周は14秒7ですが、打者としての大成が目標です。
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中村公夫・池田公成

2018-04-29 07:04:18 | 日記
1972年

西鉄ライオンズは十四日午後、テスト合格の中村公夫投手(23)=右投右打、176㌢、74㌔、浪速高ー大経大=と池田公成内野手(19)=右投右打、172㌢、64㌔、西日本短大付属高ー新日鉄八幡=の入団を発表した。両選手は七十人の応募者があった新人テストにパスした逸材。中村が「得意な球はスライダー、大学時代は15勝をマークした。大好きなライオンズの一員になれて幸福です」といえば、池田は「守備には絶対の自信がある。社会人の一年間は軟式しかやってないけど、高校時代は硬式だった。二番打者、ショートで百㍍12秒2で走る。がんばります」と語った。
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山口富夫

2018-04-29 06:05:38 | 日記
1972年

太平洋クに二位指名された三協精機・山口富夫投手(23)は、長野県諏訪郡下諏訪町の同本社で、磁性事業部製造課製造技術係に勤務している。ドラフト指名の知らせを受けるとまず「何位ですか?」と問い返した。これまで横浜高ー神奈川大を通じてプロから指名されたこともなく、ことしも打診はなかったが、本人は「チャンスがあればプロで投げてみたい」という気持ちが強かった。それだけに、うれしさとともに、太平洋クが自分に対してどのていどの期待度を寄せているのかを知りたかったのだろう。「別に九州のチームだからという抵抗はない。プロで自分の力をためしてみたかった。会社や監督と相談して決めたい」本人ははっきりプロ入りの意思ありを表明した。しかし、同チームの光沢監督は「素質はあるが、まだ実績がない。いますぐプロ入りして果して本人のためになるかどうか。最後は本人の気持ちしだいだが、そのあたりをよく本人と話し合ってみる」と、やや反対の口ぶり。ことしの産別大会後エース玉井を巨人に取られたばかりの三協精機としては、これから期待している投手に抜かれるのが痛いということだろう。山口は恵まれた体格を生かした本格派。その速球は即戦力として大きな期待が寄せられている。
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中村正義

2018-04-29 05:46:56 | 日記
1973年

中村はノンプロ東芝で八年間もマスクをかぶっていた。二十六歳の異色選手。しかも、ドラフトの指名外でプロ入り。何を好んでいまさらという気もしないではない。だが、ぶしつけな質問にも、中村は顔色を変えるどころか、ジッと視線を定めて語り出す。プロへ踏み切った理由は「高校卒と大学卒の将来性に悲哀を感じた」からだそうである。「社会人として八年も勤務すれば、自分の将来がどうなるかくらいはわかる。大社会ほど高校卒はみじめ」-。五年前、同じ東芝から近鉄入りした永淵も、中村と同じようなことをもらしていたものだ。島原キャンプでの中村は、こうした過去を持つだけに、なにかにつけて姿勢が違う。捕球、打撃の一つに熱がこもっている。「だって、ボクにはもう待ったは許されない。ことし一年が、イチかバチかの勝負なんですから」だが、そのプレーには何となく余裕を感じさせるものがある。「見た感じは線が細い。でも、あれで試合になると別人のような活躍をするそうなんだ」と稲尾監督はいう。いわゆる実戦タイプの選手で、そこに期待もあるわけだ。中村はキャンプの初日から主力選手組で打撃練習を続けている。打球はそれほど遠くへは飛ばない。パワー不足の印象だが「そうではない。試合ではいいところで長打の出る好打者」と浦田スカウトは反論する。早鞆高時代は甲子園大会にも出場したし、昨年は社会人野球のベストナインにも選ばれた。内向型の性格、無口なことからもうかがえるが、それだけに「秘めた闘志は人一倍」と自己診断した。ライバル片岡との果し合いの日は近い。
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中野孝征

2018-04-29 05:34:54 | 日記
1967年

「サンケイがボクをまっさきに指名してくれたって?本当ですか・・・」真っ黒に日焼けした童顔を一瞬緊張させた中野は、次の瞬間、目をパチクリさせた。サンケイから第一回目に指名されたことを知ったのは午後七時少し前、浜松市池川にある日本楽器野球部合宿所で夕食をとっている最中だった。「ことしあたりドラフト会議でボクの名前が出るとは思っていましたけど、最初にあげられるとは・・・、その点がわかんないな」自問自答をくり返しながら考えぶかげ。森口哲夫監督に「いいじゃないか、光栄なことだ。喜べよ」といわれて、やっと白い歯をみせた。作新学院三年の三十七年に八木沢(現東京)、高山(現サンケイ)加藤(元中日・故人)を率い、主将として春、夏の甲子園大会に出場、史上初の連続優勝をやってのけた勝負運の強さ。作新学院卒業と同時に岩崎電気(四十年に野球部解散)、四十年から日本楽器のユニホームを着て、ことしの春の選抜東京大会で5割3分7厘を打って首位打者、夏の都市対抗では久慈賞に輝いた打撃の実績。さらに社会人野球界で抜群といわれる守備力などあげればきりがない。森口監督もその技量については絶賛する。「ことしの都市対抗で、雨や引き分けで3連戦やった日立製作所との試合で、かれは左右に2ホーマーを記録している。からだのわりに腕っぷしが強いから、バッティングが実にシャープだ。性格は内向的だが、勝負根性はみあげたものをもっている。俊足で守備も的確だ。昨年は中央大会に出るとき、ウチに武上(当時河合楽器、現サンケイ)を補強したが、二人で万全と思われる二遊間コンビを組んでいた」作新の四天王といわれながら、プロ野球から注目されなかった原因は小柄なからだにあった。森口監督は「体力さえつけば、オニに金棒だ。技術的にはプロでじゅうぶんやっていける」とタイコ判を押し、プロ入りについては、「ウチとしては痛いが、あくまでも本人の希望しだい」と強調する。中野の実家は栃木県宇都宮市にあり、母親フミさん(52)と観光バスの運転手をしている兄雅美さん(50)のほか兄一人、弟一人の四人兄弟。父親は中野がもの心がつきだした三歳のときになくなっている。「オフクロをはやく楽にさせてやりたいのが、夢なんです。ノンプロにはいって五年目、プロにいくとしたら、いまがちょうどいい時機ですネ。高山や八木沢ともう一度野球をするのもいいし、別所監督のようなこわい監督のもとでプレーをやるのも貴重な経験だと思います。これからスカウトの人がみえたら話をよく聞いて結論をだすつもりです」森口監督と同僚に囲まれながら中野は人生の転機に立った心中をたんたんと説明した。
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奥田敏輝

2018-04-28 10:35:36 | 日記
1966年

大阪・桜塚高の奥田敏輝投手(18)の獲得に当たっている阪神は、十四日午後六時四十分すぎ、河西スカウトが豊中市宮山町二の三の同投手宅を訪れ、奥田投手と両親の元一郎氏(49)正枝さん(39)と三度目の対面交渉をした結果、同投手をはじめ両親もこれまでの明大進学希望からプロ入りに大きく傾き、阪神入団は決定的となった。奥田投手は東京、関西六大学のほとんどから勧誘を受けているが、明大進学を希望していた。しかし十四日よる、両親の兄弟など親族が同投手宅に集まり親族会議をひらいて話し合ったところ、ほとんどがプロ入りに賛成、本人も阪神でプレーしたい気持ちがあることをほのめかしたため、河西スカウトが訪問した。この日、奥田投手はプロ入りの意思表示はしなかったが、十七日ごろ再度親族と相談して態度をきめることになっており、周囲の情勢から同投手は進学を断念、近日中に阪神入りの意思表示をするものとみられている。
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簾内政雄

2018-04-28 09:23:39 | 日記
1967年

簾内はこの日も午後三時三十分まで、練習に汗を流した。日立市白銀町のグラウンドは、ちょっとぬかっていた。白いバックシューズをはいた簾内は走っても、とんでもこころなしか遠慮しているように見えた。話し合いが心のどこかにひっかかっていたのだろうか。だが、さすがに体力は抜群。右翼のボール下から外野のへいぞいに走る足どりは、ナインの中では一番がっしりしている。心もち、重心を低くしたランニングスタイルは迫力がある。筋肉がよく発達した両肩、まるでラグビーの選手のようだ。軽いキャッチボールもした。モーションを起こしてから軸足に反動をつけて投げ込む。バネの強さをはっきりと見せつけるフォームだ。簾内の球速の秘密がここにある。快足ぶりはチーム随一。百㍍の最高タイムは11秒9。コンスタントに12秒3はだすという。そればかりか、長距離を走らせたら、もっとすごい。この春の選抜東京大会で全試合を一人で投げきったスタミナがこれだ。この日の練習で、15㍍ほどの距離を片足でとんでいく種目をやっていた。三十人近くの野球部員のうちで、簾内の跳躍力は群を抜いていた。沢本監督もこの点を大きくかっている。「あの有数のバネを、ピッチングにどう生かしていくかがカギ」という。野球部の合宿のある日立市白銀町は、町の中心からちょっとはずれたところ。それでも簾内はヒマをみつけては西部劇の映画をみにいく。愛読書は宮本武蔵。いま武蔵が自ら勝負の道を説いた「五輪書」を本格的に読破しようと計画している。「プロ野球という勝負の世界はなみたいていのことではダメだと思います」サンケイ入りを表明したあと、簾内は小山スカウトと食事をした。注文したのはステーキ。とたんに沢本監督が笑った。「簾内君はもったいないな。こいつは牛肉も豚肉も区別がつかんのだから・・・」日鉱日立にきて四年。簾内はまだ秋田生まれの純朴さを失わぬ好青年である。

巨人・菅原投手の話「そうですか、よかったですね。簾内君のことは気になっていたんです。会って握手をしたいくらいです。彼とは高校時代(秋田・鷹巣農林)からのライバルでした。学校は違いましたが、一年生のときから県では注目されていましたね。一番印象に残っているのは、三年のときの甲子園大会県予選でした。彼のところとは準決勝でぶつかったのですが、3-2でボクのところが逆転負けをしてしまった。くやしかったですね。いつも彼のところとは1点差のせり合いを演じたので、彼のことは一番よく知っています。彼はタマも速いし、ドロップもいいものを持っていましたね。簾内君にお互いにがんばろうといってください」

サンケイ・小山恒希知スカウトの話 「やっと入団の承諾をもらった。サンケイの投手陣には本格派の速球投手が少ないから、からなず活躍してくれると思う。簾内投手の速球はやたらには打てぬほど威力があるとわたしは思う」

日鉱日立・渡辺光明コーチの話 「タマの速さは社会人でも右へでるものがいないだろう。とくにボールの切れがいい。調子のいいときの球威はナンバー・ワンだ。一本調子になる欠点はあるが、プロでもじゅうぶん通用するだろう」
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簾内政雄

2018-04-28 08:34:06 | 日記
1967年

サンケイアトムズが、新人選択会議で交渉権を獲得したノンプロ日本鉱業日立の簾内政雄(すのうち・まさお)投手(22)=1㍍77、74㌔、右投げ右打ち=は二十九日アトムズ入りの意思を表明した。正式契約は十二月十日ごろ、簾内投手が上京し、有楽町の球団事務所で行なわれる。サンケイが交渉権を持つ新人で、入団の意思表示をしたのは、九州工の奥宮種夫捕手についで二人目。

サンケイの小山恒希知スカウトは、同日午後四時三十分、茨城県日立市宮田町の日本鉱業日立鉱業所大雄院営業所を訪れ、簾内投手と約一時間話し合った。この結果アトムズ入り表明となった。この席には竹本高二野球部長、沢本長一監督も立ち会った。簾内投手は三十九年、秋田県・能代高から日鉱日立入り。今春の選抜東京大会では4試合全部に完投勝利をおさめ、優勝投手になるなど、上手からの重い速球が低めにコントロールされた本格派投手。サンケイは十一月九日に行なわれたドラフト会議で簾内投手を二番目に指名して交渉権をとるほどその力量を高く評価。担当の小山スカウトが四度にわたって直接交渉し、獲得に成功した。簾内は、はじめからプロ入りの意思を抱いていた。十一月九日よる、ドラフト会議でサンケイが交渉権を得たことを知って、さっそく「プロ野球でやってみたい」と語っていたほどだ。小山スカウトが日立市に簾内を訪れて初交渉したのが十四日。それから十五日間でアトムズ入りとなった。簾内の気持ちが固まったのは二十五、六日の両日。秋田県山本郡二ツ井町天神の実家で行なわれた三度目の交渉だった。空路秋田入りした小山スカウトが、簾内投手、父親・喜三郎さん(50)、母親ヨシさん(48)をまじえて二日間にわたって話し合った。このとき、スカウト仲間では無口で通っている小山スカウトのねばりに簾内投手、家族らが根負けしたような感じだった。したがって、この日、日鉱日立での話し合いはむしろあっさりと終わった。竹本野球部長、沢本監督ら会社側の了解をとりつけることに重点がおかれた。小山スカウトとの話し合いを終えた簾内投手は「一度はやってみたいと思っていたプロ野球です。まだ実感がわきませんがプロ入りの決心をしたうえは、だれにも負けないようにがんばります」と闘志いっぱいの表情。なお簾内投手は正式契約がすみ次第、東京・杉並の佼成学園のグラウンドで自主トレーニングをはじめることにしている。

簾内投手の略歴

秋田県能代高三年の三十八年に、夏の全国高校大会へ出場、エースとしてマウンドにあがったが、一回戦で岡山東商に敗れた。翌三十九年、日鉱日立に入社、持ち前の真っ向から投げおろす快速球で、すぐ第一線に起用された。その素質は早くからプロのスカウトの目にとまり、四十年秋には東京がドラフト会議にリストアップ、交渉権をとったが、プロ入りはしなかった。中央球界にクローズアップされたのはことしの春の選抜東京大会。このとき四試合全部を一人で投げまくり、日鉱日立の優勝に大きく貢献した。生まれは満州だが、すぐ日本に引き揚げ、秋田県山本郡二ツ井町天神で育った。昭和二十年五月十二日生まれの二十二歳。
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植村秀明

2018-04-28 07:05:36 | 日記
1967年

郡山高・植村秀明投手(18)=の広島カープ入りが決まった。同投手はさきのドラフト会議で、広島から第二位に指名を受け、三度にわたる交渉の結果、条件面の話しあいがついて入団へ踏みきったもの。入団発表は来月四日、広島で行なわれる予定。植村投手は右投げ右打ち。1㍍86、82㌔の巨漢、真っ向から投げおろす速球は重くて角度がある。昨夏は郡山高33年ぶりの甲子園を実現させたし早くからプロ向きの本格派と注目を集めていた。県選手の広島入りははじめて。郡山高校では溝部(旧姓中田)片岡、杣田、速水、松本、山田に次いで七人目。
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山口富夫

2018-04-24 21:06:52 | 日記
1973年

新人といっても横浜高、神奈川大、三協精機で鍛え上げている。二十四歳。タバコは日に20本、アルコールのほうは「たいして強くないが、ウイスキーなら半本ていど」の落ちついたふんい気を持つ男。最初に第一線へ出てくる新人とみられている。九州の土を踏むのは今度が初めて。「とても遠いところと思っていたが、飛行機に乗ってきたら意外に近かった」そうだ。それに、ライオンズには高校時代の三年間をいっしょに野球やった米山内野手もいるので「住みよいところのような感じ」がしてきたそうだ。「ドラフトで指名されるのを待っていたわけではないが、学生のころから一度はプロで投げてみたかった」のが、大学出のエリート・サラリーマンからライオンズ入りした理由。「これといった趣味は持たないし、この一年間は野球一本に全力で取り組んでみたい。どんな結果が出るかわからないが、自分の将来についてあるていどの見通しはつくだろう」という。一昨年は13勝2敗、昨年は8勝して負けはなし。「スピードとコントロールをつけて早くローテーションに入りたい」と公式戦開幕が待ち遠しそう。河村ピッチング・コーチは「体格はいいが、まだプロとしてのからだができていない。どのていど活躍するかまだわからぬ」といいながらも「ノンプロ時代にそれほど投げていないので、使い減りはしていない」と特訓でしぼりあげている。
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1957年 毎日オリオンズ 就職先

2018-04-22 07:55:57 | 日記
1957年

旧毎日オリオンズの整理選手(十六名)の就職先は五日現在つぎの通り。

投手 和田勇(23)リッカーミシン
同 長平良功(20)東海電通
捕手 鵜飼昭雪(23)東京電々
同 金子満夫(19)立大受験
同 佐藤寛二(19)東北電々
内野手 河井学(21)川崎製鉄
同 橋本基(24)日鉄二瀬
同 黒田幸夫(20)富士鉄釜石
同 大谷進(19)川崎製鉄
外野手 指方輝雄(24)大村ビニール

=以上十名。
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平林二郎

2018-04-21 20:41:06 | 日記
1966年

中京商高・平林二郎三塁手の阪急入りが十二日、正式に決まった。阪急・丸尾千年次スカウトは十二日午後五時から名古屋市中区栄町二の旅館「金竜」で、平林選手と父親、謙三さん(53)の二人に会い、条件面の細部の話し合いをしたあと、最高の条件(契約金一千万円、参か報酬百八十万円)で、入団することになった。正式契約と入団発表は十四、五日に、大阪の球団事務所で、岡野社長立ち会いのもとで行なわれる。これで第二次ドラフト会議でリストアップされていた中京商高の四選手=伊熊(中日)加藤、矢沢(いずれも進学)=全員の進退が決定した。先月二十一日、一度は父親、謙三さんからはっきりプロ入りを断られた丸尾スカウトだったが「阪急の内野ビジョンをつくり上げるために、短気を起こさず、根気よく交渉してくれ」という西本監督に励まされ、さらに九日には岡野社長の出馬を仰ぐなど、計十一回にわたる交渉で実ったもの。平林選手は中京商高の三塁手として、一番を打ち、100㍍11秒7の俊足と、勝負強いバッティングには定評があった。とくにことし春夏連続優勝をとげた甲子園大会では、かつてない通算8盗塁を記録、プロのスカウトの注目をあびた。また、夏の愛知県予選でも、西脇選手と一、二番コンビで、計27盗塁を奪っている。

平林選手の話 「将来はプロでやるハラは決めていたのですが、大学を出てからプロへ行くか、いますぐプロ入りするかで迷いました。結局、同じやるなら早い方がいいと思い、家族の意見もよく聞いて決めました。プロでは自分の持ち味を生かした選手になりたいと思います。自主練習は同僚の伊熊君といっしょにやりたい」

丸尾スカウトの話「平林君は、プロですぐ使える足を持っている。とくにスタートダッシュは、専門家がみても、10秒台にまで成長するほどのものといわれている。平林君の加入で、阪急の西本構想ができ上がった」
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1967年 新人選手公募テスト

2018-04-21 17:40:09 | 日記
1967年

サンケイアトムズの新人選手公募テストは、一月十五日、東京・杉並区大宮町の大和証券球場と、二月十九日、鹿児島県日置郡東市来町の湯之元球場の二か所で行なわれるが、それに先だち、十二日、応募申し込みがしめ切られた。東京・有楽町の球団事務所に集まったハガキは総数三百十八通、そのうち二百八十二人は大和証券球場のテストを希望、三十六人は湯之元球場でテストを受ける。球団事務所では、すでに十二日すぎから準備に追いまくられっぱなし。ハガキの整理やら、テスト種目のデータを記入する用紙をつくったり、テンヤワンヤ。応募するほうも必死。十二日午後四時ごろになって「いま八王子市にいるんですが、申し込みにいきたいと思います」と泣きついてくる若ものもいた。東京都の西部の八王子市から一時間二十分はかかるから、午後五時のしめ切りには間に合わないことになるわけ・・・。元プロ野球選手の応募者は二人。東映を自由契約になった岩切正男投手、元国鉄(現サンケイ)の小林誠内野手で捲土重来を期している。そのほか航空自衛官、タクシー運転手、牛乳配達人など、あらゆる種類の職業の人がいる。田中稔代表代理も「こんな大人数になったら、一日でさばききれるかな」と、早くも悲鳴をあげている。テストの当日は合宿住まいの若手はもちろん、佐藤進など大和証券球場の近くに住んでいる選手も手伝いにかり出されるとあって、このテストは、文字どおり球団の総力をあげて行なわれることになる。
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