プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

及川宣士・日下正勝

2018-02-28 22:13:13 | 日記
1961年

セ・リーグ大洋ホエールズは六日、東京銀座の球団事務所で東北高(宮城)の及川宣士投手、日下正勝外野手ら4選手の入団を発表した。及川投手は1㍍80、78㌔と体格にも恵まれ、巨体から投げ下ろす剛速球は東北球界屈指の呼び声があった。また日下外野手は二年生当時から同チーム不動の三番打者として活躍、通算打率4割3分をマークした強肩強打の持ち主。

及川宣士(17)東北高、1㍍80、78㌔、右投げ右打ち
羽場勇二(17)国士舘高 1㍍78、79㌔
内野手
佐古良雄(17)徳山商工、1㍍77、72㌔、右投げ右打ち
外野手
日下正勝(17)東北高、1㍍74、73㌔、右投げ右打ち

及川投手の話 大洋には若生、波山、伊藤さんら先輩がいるので心強い。これからランニングで下半身を鍛え、一日も早く投げられるよう努力します。

日下外野手の話 最初進学かプロかでまよった。大洋には森さん、近藤和さんなど力のある人がいるが、入団したからには一線をめざしがんばります。
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新山彰忠

2018-02-28 21:29:27 | 日記
1961年

東京六大学野球秋季リーグ戦で優勝した法政大学の新山彰忠投手(22)は九日夜、神戸で南海ホークス入りを表明した。同投手は九日朝、神戸市長田区御蔵通三丁目の自宅に帰ったあと、阪神藤本監督、巨人沢田スカウト、南海鶴岡監督と最終的に話し合い、さらに実父友一氏、実兄義雄氏と話し合って南海入団を決めた。同投手はこのあと「南海にお世話になることに父兄も同意してくれましたが、前川さんの承諾を得ていませんので!」と語ったのち、姫路市広畑の恩師前川八郎氏(元兵庫工高教諭、現富士鉄広畑野球部監督)を訪れ、南海入りを報告、前川氏もこれを快諾してここに新山投手の南海入りがはっきり決った。正式契約は十一日東京で行われる法大優勝祝勝会に行われる。

新山投手は今季ストーブ・リーグでは六大学選手中最もその行くえが注目されていた。主将となった今年の健投ぶりは見事でとくに秋季リーグ戦では7勝無敗の好成績を残し、母校を完全優勝に導き、入学以来初のベストナインにも満票で選ばれた。同投手に食指を動かしたのは十二球団全部で、秋季リーグ戦の始まるころは南海、、巨人、阪神、大洋、近鉄などにしぼられていたが、リーグ戦の終った今月六日ごろには南海、巨人、阪神の三球団になった。南海は鶴岡監督が法大の先輩であり、法友会(大学のOB会)の一員であることと、山下投手は兵庫工出身であることから、巨人は前川氏が元巨人の投手であったこと、阪神は藤本監督と前川氏の線などが有力な新山獲得へのルートと見られていた。リーグ戦までは巨人最有力とまでいわれ、さらに早慶戦が終ったころには南海入り確実のうわさまで一変した。しかし今季ストーブ・リーグで六大学選手獲得に全力を注いでいた阪神が球団をあげての追い込みをかけたので、南海、巨人、阪神の三球団は全く互角の状態だった。巨人はそのあと新山投手が在阪球団にはいりたい意向があったため、やや後退したと思われたが、南海、阪神のいずれかは予断が許せなかった。新山投手が最後に南海を選んだのは鶴岡監督自らの熱心な勧誘によるものと思われるが、やはり法友会の動きが最も大きな役割りをはたしたといっていいだろう。最有力といわれた巨人が脱落したのは柴田(法政二)城之内(日本ビール)らの入団決定から、新山投手の心が他球団の方へ傾いたと予想される。その点、南海は柴田を巨人に奪われて以来新山獲得に全力を注いだのが好結果を生んだものと予想される。しかし、リーグ戦終了までプロ球団といっさいの交渉を持たず、帰神後のわずかな話し合いで、はっきりと自己の意思を決めた新山投手の態度は、さすが優勝校の主将らしく立派だった。新山獲得に乗り出した鶴岡監督は、九日夜正式に南海入りの表明をうけ、さっそくその成果を神戸新聞社から橘球団社長に電話で報告した。

鶴岡監督の話 補強の中心は投手においていたが、二人のうち一人の新山君がきてくれることになった。本人も他のチームからの誘いがあって大分迷ったらしいが、それにしてもこんなうれしいことはない。きょうはツイているよ。朝は樋口君が契約してくれたし、夜は新山君が・・・。まあこんな日もなければやりきれんよ。

新山投手の話 父や兄と話し合った結果、南海にお世話になることにしました。南海を選んだのは鶴岡さんの人がらが好きだったこともありますが、そのほかのことについては今はいえません。

新山投手の横顔 三十年苅藻中学(神戸)から兵庫工に入学。中学時代は陸上競技しかやっていなかったが、当時同校の監督をしていた前川氏に見い出され、野球を始めた。その後は投手経験十分な前川氏の好指導から著しく台頭、三十二年夏の県予選では優勝候補の筆頭とまでいわれたが準決勝で県尼崎に敗退、甲子園出場はならなかった。法大入学後も藤田部長に指導されて腕をあげ、一年生春の新人戦では明大を4安打に完封して認められ、リーグ戦には一年生秋の東大戦で水津をリリーフして初登板した。今春は主将という重荷もあってあまりよくなかったが、秋のリーグ戦では62イニングスに登板、7勝無敗、被安打34、与四死球7、奪三振42、自責点6、防御率0.87と好成績で文句なしに六大学の№1投手だった。球質は重みのある速球とシュートカーブのコントロールもいい。また打撃もよく秋の打率は3割9分1厘。身長180㌢、74㌔、右投げ、右打ち。法学部を専攻している。
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山口喜司

2018-02-28 20:51:27 | 日記
1968年

広島東洋カープは十七日、陸上自衛隊の山口喜司(よしじ)投手(22)=178㌢、68㌔、左投げ、左打ち=の入団を発表した。同選手は宇佐市長州地区江須賀出身、旧中津東高(現中津商)時代は外野手で、四十二年陸上自衛隊西部方面隊に入隊、昨年から投手に転向した。広島球団のドラフト順位は第3位。手首が強く、球速があり、武器は速球、シュート。今季14勝4敗、防御率2.00、三振奪取1試合平均7。

山口選手の話 プロ野球の一員としてがんばる。巨人入りした小平捕手とバッテリーを組んでいた。平和台、後楽園などでナマのプロ野球を見て闘志が沸いた。失敗してもはい上がる精神でやるつもりだ。
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牧野潔

2018-02-28 20:33:38 | 日記
1936年

名古屋軍大敗の跡を辿るならば投手力にいちじるしい遜色が認められる、牧野投手には外角より内側に流れこむインシュートにかなり見るべきものがあったとはいうものの肝賢の球速なく正に打ち頃であった、セ軍が一回十人の打者を繰り出したことを見ても非力の一班が知れる。更に二回には六人の打者に二点を奪われるなど散散たる苦戦ぶりであったが名古屋のベンチにこれを救援する気配が見られなかったのは逸早く試合を断念したものと見られても仕方があるまい。
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高橋孝明

2018-02-28 20:17:09 | 日記
1959年

県下随一の剛球投手高橋の存在は大きい。平和球場のマウンドも三年目、すっかり貫禄もつきエースとしてチームの主軸となっている。柔軟なフォームからの速球にはウエイトが乗って重味があり、威力がある。カーブ、ドロップの切れもよく、やや荒れ気味でも四球の連発はない。
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久野勝美

2018-02-27 22:35:52 | 日記
1948年

中部久野は手許に食込むシュート・ボールで巨人打線を押え、八回駄目押しの三点を加えて大勝した。

久野はカーブをよくきめて阪神の網打線を七安打に止める好投で七回藤村と安居の安打で一点を与えたにすぎなかった。一方攻撃の中日は一回坪内の二塁打でまず一点を先取し、四回には野口の右翼線三塁打で堂々たる一点を追加してみごと逃げ切った。
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安田永輝

2018-02-27 22:18:15 | 日記
1961年

神戸商高の安田永輝遊撃手=三年=(18)は七日、大毎オリオンズ入団を表明した。同選手は一、二年当時は投手をしていたが、三年になってから遊撃手に転向し、強打強肩の好選手として注目されていた。また脚力にもすぐれ、高校時代の打率は4割3分。最初はノン・プロ球団からも話があったが、安田の選手の実力を高く買っていた大毎倉橋スカウトの熱心な勧誘から大毎入りとなった。身長174㌢、体重73㌔、右投げ右打ち。

安田選手の話 どれだけやれるかはわかりませんが、力一杯がんばるつもりです。同じ兵庫県から押田君(篠山鳳鳴高)も入団しますので、なにかと心強いです。
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寺本勇

2018-02-27 21:36:17 | 日記
1961年

大毎オリオンズは二十五日午後一時、東京・有楽町の大毎球団で立大の寺本勇選手(22)と正式契約した。同選手は芦屋高から立大にはいり、今秋の東京六大学野球リーグ戦では打率四割一分でベストテンの二位となった。177㌢、74㌔、右投げ、右打ち。
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福田信夫

2018-02-27 20:11:07 | 日記
1961年

中日ドラゴンズは七日名古屋氏中区の同球団事務所で福田信夫投手(19)=立大中退=と正式契約した。福田投手は兵庫県育英高から立大に進学、身長177㌢、体重75㌔、左投げ左打ち。巨人、国鉄、大洋、東映、大毎などが同選手を勧誘していた。

福田投手の話 一時は巨人にも心が動いたが、熱心にさそってくれた中日に決めました。それに中日には石本コーチがおられるので、自分の未熟な点もいろいろコーチしていただきたいと思っています。巨人の村瀬君に負けないようがんばります。
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押田令三

2018-02-27 20:06:06 | 日記
1961年

兵庫県高校野球界で有数の好投手として知られていた篠山鳳鳴の押田令三投手(三年)は、このほど大毎オリオンズ入りを決定、近く正式契約する。押田投手は一年生の夏から早くも県予選に出場、同年秋の県大会対県尼崎で好投していらい注目されていた。大毎のほか二、三の球団からも誘いがあったが、倉橋スカウトの熱心な勧誘もあって大毎に決った。得意は長身から低めにコントロールする速球、1試合平均10個以上の奪三振を数えている。身長180㌢、体重71.2㌔。

押田投手の話 六月ごろから中日と大毎から父の方に誘いがあったようだが、私が正式に聞いたのは高校野球のすんだ八月ごろで、大毎の倉橋スカウトがこられた。まだ正式に入団が決定したわけではないが、今月下旬ごろには決まると思う。私の高校野球歴でいちばん印象に残っているのは昨年夏の県予選で優勝候補の滝川を破ったことです。甲子園のマウンドに立てなかったことが非常に残念ですが、プロ入り後は大いに勉強して早く一人前になりたいと思っています。
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斎藤勝博

2018-02-27 19:55:38 | 日記
1961年

福崎高校野球部の斎藤勝博捕手(17)は、このほど巨人入りが決まった。同捕手は一年生夏の県予選から早くもレギュラーとして出場、五番を打ち、二、三年生のときも四番を打ち常に中心選手として活躍していた。今春ごろまでは大毎入りが有望視されていたが、今夏の予選であまり振るわなかったため大毎が手を引き、巨人の新人テストを受けて合格となったもの。強打強肩を誇り、夏の県予選三年間を通じての成績は29打数9安打、打率3割1分。身長170㌢、体重73㌔、右投げ、右打ち。
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徳久利明

2018-02-25 16:50:30 | 日記
1961年

ようやく大器の片リンを見せはじめた・・・というのが実感である。徳久のスタートは不運であった。近鉄の開幕第二戦、小倉で行われた西鉄戦。8対6とリードしていた四回二死から徳久は火消し役として登場した。千葉監督はここで西鉄の強打線を抑えると自信がつくだろうし、徳久なら何とか押えきるのではないかという望みを持っていたのだろう。それに近鉄の投手陣には力のある投手がいない。ミケンズの来日がおくれていたので、この急場を切り抜けるのは徳久以外にはなかった。だが、あっさり田中久に三点本塁打され負け投手となってしまった。当時の西鉄は当たりに当たっていたし、徳久はこの打線を何とか押えようと力んで投げたがやはり無理だった。経験と力の差である。新人投手の第一戦はどの監督も慎重になるものだ。何とかして勝たせ自身をつけさすためである。近鉄の場合はこのような余裕もなかった。弱小球団の投手がおわされる宿命だが、徳久の場合も例外ではなかった。その後もよく使われたが、勝ち星が出ない。五月二十日の対南海五回戦まで六連敗を記録、ちょっとくさり気味だった。「自分が投げる時は不思議にバックが打ってくれない。こんなことはプロ一年生がいえないのだが・・・」とこぼしたことを聞いている。しかし惜しい試合を逃がしたこともあった。四月三十日の対阪急五回戦。七回まで三安打に押えて2対1と優勢に試合を進めていたが、急に左足の筋肉痛を起こし降板しなければならなかった。この日は投げおろす速球をコーナーに散らし、スライダー、シュートの切れも素晴らしかっただけにこれも不運といえよう。徳久が待望の初勝利をあげたのはさる四日対阪急十一回戦である。2対4と負けていた六回から江崎をたすけて力投、九回に1点を失ったが、6対5と一点差を守り切った。千葉監督も「新人投手はなんかのきっかけが必要なのだ。この一勝はきっと彼を立直らせる」とよろこび、キャンプ中からつき切りで指導していた大友コーチも「負けていた時に救援して逆転、わずかの差を守り通したのだから立派だ。自分の力でつかみ取っただけに貫禄がある」と表情をほころばした。事実、十日の対大毎十回戦と二十三日の対阪急十三回戦にそれぞれ勝ち投手となった。今月にはいってからの近鉄は四勝十五敗、このうち三勝までが徳久のあげたものである。身長1㍍80、75㌔と恵まれた体から投げおろす本格派。大型投手には珍しくフォームも柔軟だし、腰もバネも良い。まだまだ伸びる素質のある投手である。欠点はふみ込む足がやや突っぱり、体重が完全に乗り切らないし、肩や腕に力がはいることだ。また捕手にも責任はあるが打者とのかけひきのまずさである。今後の課題であろう。二十六日現在の成績は二十一試合に登板、うち完投一、先発四、救援十六で三勝八敗、被安打六十四、三振五十三、四球二十一、被本塁打十、投球回六十、自責点二十五、防御率三・七五である。防御率三・七五はちょっと気になるが、十勝ラインを越えるだけの力を持っている。高知商から今年近鉄入り、大阪で母親とアパート暮らし、十八歳。

徳久投手の話 どうにかプロ野球の世界にもなじんで来た。これまで足の故障などで苦しんだが、最近は体の調子もいい。勝ってくれると自信もつき思いきって投げられるようになった。これからは変化球の研究が第一だ。例えばスライダーにしてもスピードと切れ、さらに他の変化球との配合など研究することはいくらでもある。これからですよ。

阪急衆樹選手の話 彼は体が柔軟だ。これは野球選手、特に投手にとって大切な要素である。球も非常に速く、低目の変化球は威力がある。しかし何といっても若い。投球が単調で、ムキになって投げて来る。もっとタイミングをはずさなければいけない。これから真価を発揮してくると思うが、素質は高く買える。
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徳久利明

2018-02-25 16:26:35 | 日記
1967年

近鉄のトレード要員、徳久投手が巨人、中日、西鉄についで二十七日、またもお断りを食った。近鉄が売り込んでいた広島の根本監督から電話で正式に通知してきたのだが、同監督は近鉄コーチ時代に徳久をスカウトした人。拾った人にまで捨てられるとは、まさに悲劇というほかない。徳久は、その電話がある直前まで球団にいて「自由契約にしてくれ」と頼んでいたが、球団は「トレードが成立しなければ任意引退」の方針を変えていない。十一月二十一日に中日とのトレードがいったん成立したとき、徳久が文句をいわずにサインしておれば、こうまで追い詰められることもなかったのだが・・・・。
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徳久利明

2018-02-25 16:20:53 | 日記
1961年

近鉄は一回矢ノ浦の左翼2点ホーマーをはじめ、コントロールのない阪急二線級三投手に好打を浴びせ快勝した。近鉄の新人徳久は八回の1イニングだけに初登板。気おいすぎて腰の開きが早く、低めのストレートが内角に集まりがちだった。しかしカーブの切れは鋭く軽く三者を打ちとって大物ぶりをのぞかせた。このほか二番手の福原がはやいシュートを決めて中盤好投したのが収穫だ。

高知商時代から好投手として鳴らし、昨年九月十七日近鉄と正式に契約、今春期待のうちにデビューした。しかし近鉄という非力のバックを背負っていたため、なかなか勝ち運に恵まれず、初勝利はシーズンも三分の一をすぎた六月四日の対阪急十一回戦だった。2-4と2点をリードされた六回からリリーフとして登場、結局6-5と押し切ったものだが、その後次第に実力を発揮対東映戦に3連勝したこともある。斜め上から新人ばなれのした速球を投げ込み、パの強打者を相手に堂々と立ち向かって負けなかった。今シーズンの戦績は15勝24敗。十八歳、右投げ、右打ち。

徳久は近鉄という最下位球団がチーム唯一の看板に仕立てようと大金を投じて買った投手だが、なるほど球威、球速があって、最近は近鉄の看板になるだけの頭角を現してきた。5勝8敗(八日)という勝数は、たとえば中日の権藤とは比較にはならないが、66試合で18勝47敗1分け(八日)のチーム成績からみればこれもやむを得ない。がっちりしたからだから剛球を投げ込み、シュート、カーブも切れるようになった。風格からいってもエースに似た感じで、成績にあまりこだわらず新人王をやるとしたらまずこの徳久が一番ちかい選手ということになるだろう。
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徳久利明

2018-02-25 10:15:26 | 日記
1965年

五連敗の徳久は外角低めにスライダーをていねいに決めて西鉄の追撃を押え、児玉の3ランもあって三度目の完投勝利。

1965年

南海の本拠地での連勝記録は19でストップした。スタンカは立ち上がり安打、2四球の一死満塁から高木の中犠飛で先行を許した。しかし、その裏南海は広瀬、野村がいずれも左翼本塁打を浴びせてすぐ逆転した。これでまたも南海のペースかと思われた。だが、南海は二回以後立ち直った徳久の低めに決まるシュート、フォークボールに手をやいた。それにいつでも打てるという安易感が雑なバッティングとなった。
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