プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

市原稔

2013-12-30 00:10:36 | 日記
・銚子商業や習志野などの名門校がズラリ揃った千葉県下では無名の千葉東高で甲子園を目指し、進学したのは早大。だが、野球部には籍を置いてない。先生になることを目指し教育学部で体育を専攻している。しかし、ある日の新聞に出ていた
「南海、新人選手募集」という記事が目についたからたまらない。「やはり野球が好きだったのでテストだけでも受けてみようと思って・・・」こうして入団テストに合格、1969年に南海のユニフォームを着てしまった。運命はまだまだイタズラをしていく。市原内野手は、その年のオールスター明けに一軍ベンチに入った。と、いっても当時、15連敗を記録するなどドン底のチーム状態。「使える者は、どんどんテストしていく」という実情の中で市原もテスト台に使われたのだ。「忘れもしませんよ。近鉄戦、あれが最初で最後ですから」当時をいまわしそうに思い出す。飯田徳冶監督に「出てみろ」といわれ、8回の守備に就いた。ところが皮肉なもので、いきなり土井「現・西武」の打球が飛んできた。巧くこのゴロをさばいたまではよかったが、一塁への送球は肩に力が入りすぎた。「忘れません。一塁手のはるか上をゆく大暴投でした」このゲームが
生涯ただ一度の公式戦。打席記録はなしで失策1だけを残し2年間のファーム暮らしの末にユニフォームを脱いでいる。
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溝口健二

2013-12-29 15:22:31 | 日記
1966年

九州経営高校時代

高校時代は4番、遊撃手、主将

守備も特に欠点はなく、畑中、溝口の三遊間は県下一といわれている。

ことしは傑出した選手はいなかったが、打者では長崎工の宮崎(4割)中原(3割3分3厘)海星の島(5割5分5厘)、九州経営の溝口(5割)佐世保工の佐藤(4割2分8厘)大会第二号のホーマーを放った4割4厘の長崎商早川らが光っていた。守備では海星の橋口中堅手の強肩、九州経営の溝口遊撃手の好守備が印象に残った。
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川口敏春

2013-12-29 15:21:35 | 日記
1966年

九州経営高校時代

フォーム・・記載なし(ノーワインドアップ) 球種・・ストレート、カーブ

エース川口は身長176㌢、体重70㌔の大型投手でコントロールに難があるが、球速とカーブに自信があるだけに失点は平均1失点。ただ精神面にもろさがあり心配される。
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飯田敏光

2013-12-21 21:46:45 | 日記
1974年

・12月11日、大洋球団事務所に呼ばれ自由契約を申し渡されたのが飯田敏光投手だ。192センチという長身を活かしきれず、ほとんど打撃投手で過ごした2年間だった。ところが、しょんぼりしていた飯田のところに舞い込んだ朗報は、
太平洋クラブの江藤監督が、飯田のクセ球を買って採用するかもしれないという話。「バッティング練習でアイツの球を打つときは苦労した。変な回転をしてバットをよく折ったよ」といっている江藤監督だが、この話が正式に決まったアカツキには、大洋で鍛えられたものを生かし江藤監督の期待に応えてもらいたいものだ。
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石川晃

2013-12-21 21:07:35 | 日記
ファーム成績
1986年・34試合・打率156・本塁打0・打点2・年俸360万
1987年・47試合・打率186・本塁打1・打点4・年俸360万
1988年・5試合・打率333・本塁打0・打点1・年俸370万


1986年・ホークス入団時

・念願のプロ入りがかなった石川は晴れ晴れとした顔。「契約の席で大阪は暑いから、夏場は気をつけるようになどと言われましたが、もう夢見心地ですよ」午後2時半から約1時間、球団事務所での契約を振り返った。石川は道都大から1983年春、日産サニー札幌入り。2年目の1984年のシーズンにレギュラー定着。打撃が売り物のスイッチ・ヒッター。173センチ、71キロと小柄だが野球センスに光るものがあった。南海サイドからアプローチがあったのは昨年12月中旬。日頃、仕事「車の販売セールス」と野球の両立に悩んでいた石川。「上でやってみよう」とプロ入りを決意。12月下旬には日産サニー札幌を退社。1月9日からは体慣らしに沖縄へ行き、5日間みっちりと走り込んだ。13日に帰道、14日午前の飛行機で大阪入り、契約を済ませた。昨季、日産サニーでは打率345、本塁打3本。本人としては不本意なもので、本当のところ
プロからの誘いにはビックリしたという。合宿所では拓銀からドラフト2位で入団した中村弘道投手の隣部屋。夕方、顔を合わせて「オッ、変なところで会ったな」とお互いニヤリ。きょう14日はチームメイトと恒例の住吉神社に優勝祈願。いよいよ16日、自主トレに合流する。「スピードが全然違うと思う。じっくりやる」シンデレラボーイは地道な努力を誓った。
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玉城正富

2013-12-19 22:59:50 | 日記
1975年

阪神は、玉城正富一塁手(21)(兵庫育英高ー大東文化大)の入団を発表した。1㍍84、78㌔、右打ちで、ドラフト指名外の入団。荒削りながら長打があり、外野もやる。
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及川洋治

2013-12-17 21:56:31 | 日記
1967年

フォーム・・記載なし 球種・・・ゆるいカーブと鋭いシュート

定時制軟式野球

黒沢尻工3-2東海大実業

黒沢尻工は一回、制球に苦しむ大木投手をとらえ2点を先取試合を決めた。トップの本宮の四球を足がかりに高橋謙、千田芳が連打して無死満塁、続く菊池節、及川洋が凡退したものの六番小原潤が1-1後、高目の直球を左中間に適時打した。味方打線の援護を受けた及川洋は連戦の疲れも見せず好投、四試合を投げ抜いた。
ゆるいカーブと鋭いシュートを投げ分け、決めダマの低目の速球がビシビシ決まり、9三振を奪う快投。黒沢尻工は七回にも滝沢が右前に巧打、村上三振のあと川辺が送りバントで送り二死二塁、続く本宮の右犠飛を右翼手が落球、だめ押しの1点を加えた。
東海大付は三、七回に1点をあげて1点差に迫ったが黒沢尻工は及川洋の力投で1点のリードを守りきり念願の初優勝をものにした。

最優秀選手に選ばれた及川洋治投手は、北上市花園町で農業を営むツカさん(64)の五男。及川さん一家は五人兄弟そろって黒工の野球選手だったという野球一家。この大会には初日目から一家をあげて応援。総勢は十一か月のめいを含めて二十八人。全試合を応援し、優勝のうえに及川投手は最優秀選手に選ばれたので、応援しがいがあったというもの。母親のツカさんも「洋治はふたごだったのですが、一人は早く死に、この子が二人分活躍してくれました」とニコニコ顔。表彰式で表彰されるわが子を見つめるツカさんの目には涙が光っていた。

東京神宮球場で行われていた第十回全国高校定時制軟式野球大会で、北上市の県立黒沢尻工校が見事初優勝を飾った。ナインは昼は畑に出たり、町の工場で機械に取り組み、わずかな時間をみて野球練習、夜は学校で机に向かうという働きながら学ぶ尊い生活の中から勝ち取った紫紺の優勝旗だ。試合終了後、織笠監督を胴上げするナインの顔は感激でぬれていた。
最優秀選手になった及川洋治選手はアルバイトに機械工、働きながら学んでいるまじめな青年ばかり。
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佐々木茂

2013-12-16 23:26:08 | 日記
投球フォーム・・・上手からダイナミックなフォーム 球種・・・快速球をビシビシ決める

1968年

軟式野球
大船渡パイレーツ(岩手) 1-0 大和商事(山梨)

大船渡は佐々木茂の投打にわたる活躍で、大和障子を破り、準決勝に進出した。大船渡は、終始押し気味に試合を進めた。初回は一死後後藤が左前安打して二塁、二回にも同じようなケースがあったが、決定打を欠いた。五回一死後代打今野が左前安打、川畑が送られた二死二塁から投手の佐々木茂がうまくためて三遊間を鋭くゴロで突破した。今野のスタートは良かったが打球が早く、左翼手からワンバウンドの好返球が捕手のミッドに戻った。しかしタッチをあせった捕手が大きくはじいた。結局、これが決勝点となったが、佐々木茂のピッチングが良かった。上手からダイナミックなフォームで快速球をビシビシ決め、大和打線を寄せ付けない立ち上がりにやや球が高めに浮き、四球、安打の走者を出したが、いずれも巧みなけん制で刺し、二回の一死二塁も無難に切り抜けたあとは快調なテンポでポンポン投げ込み、散発四安打に押えた。
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松本芳之

2013-12-12 22:17:11 | 日記
1978年「年俸・280万」1979年「340万」

・野村克也・元監督のようにテスト生上がりの捕手。合宿では親分株で若手のよき指導者でもある。

1979年・ファーム成績
58試合・138打数38安打・本塁打2・打点11・三振12・打率275
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青山忠司

2013-12-12 13:59:21 | 日記
1978年

みずからの腕を信じて、入団テストを受けてプロの世界に飛び込んだ若者も多い。南海に入った青山外野手。法大を中退ト後、広島の常石鉄工の四番打者として活躍していた。報徳時代は、巨人の松本と同期。昭和二十九年生まれの二十四歳。二歳になる子供がいる。そんな青山がテストを受けたのは、11月、中モズで行われていた秋季練習だった。ポンポンとサク越えを連発する青山を見て、南海首脳陣は、即座に入団を決めた。もちろん契約金はなく、年棒も二百万円(推定)。それでも青山は「入団が決まってうれしい。契約金がなくてもいいですよ。最高峰のプロ野球で自分の力をためしてみたいんです」と胸を張った。
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松枝三男

2013-12-11 20:20:12 | 日記
1966年

松枝は183センチの大型投手。GK杯後、肩を痛めていたが、二週間前から本格的に練習を始めた。重い速球と落差のあるカーブがいい。最近、シンカーをマスターした。制球に少し難があるのと、試合経験不足が心配だ。
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大沢勉

2013-12-10 20:52:04 | 日記
1971年

・種茂をおびやかす大型捕手として期待されているルーキー大沢が、オープン戦3月28日の中日戦で待望の初安打を右前に放った。「あまりに期待をかけすぎて一度にあれこれ教えすぎた。少し混乱しているようだ」・・・田宮監督・・・
という事で、関西遠征には行かず多摩川で二軍暮らし。「これが、よかったです。久しぶりにキャッチャーとしてのカンを取り戻せましたからね」と本人は一挙に消化不良を解消したようだ。20日からの中日戦から一軍に帯同、マスクも5度被った。
しかし、打つ方はからっきしダメだった。それだけに、この日の初安打には大喜び。ニコニコと顔はゆるみっぱなし。
毒島コーチも「あれくらい余裕あるバッティングをやってくれれば、いうことなし」と、愛弟子の打ちぞめを喜んでいた。
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藤倉一雅

2013-12-10 20:51:01 | 日記
1980年
・「ハイ、このヒットは生涯忘れません」。プロ入り初打席が感激の初安打。チームメイトの大型新人・岡田でさえ果たせなかった夢を堂々とやってのけた。10月5日、ヤクルト25回戦「甲子園」8番ショートで名を連ね、3回に先頭打者として、左腕・神部に向かった。「いい球だったら、初球から思い切っていこう」と自分にいい聞かせた。ハッシと叩いた打球は三塁左を破りレフト線へ。「ヒットとわかったのは、一塁ベースを回った瞬間です」藤倉は興奮気味。「まっすぐ・・・いや、
スライダーかな」球種も定かでないあたりが、ルーキーらしくていい。藤倉の一軍ベンチはタナボタ的だった。掛布、真弓、
渡辺純が相次いで故障。内野陣が払低してチャンスがきた。加えて榊原もダウンし待望のスタメン、そして会心のヒットである。4回には加藤とのコンビで併殺も鮮やかに。「ヒットも打てたし、守りもボロが出ず・・・。安心しました」とニッコリ。10月11日出発の米フロリダ教育リーグのメンバーにも選ばれ目を輝かす。中西監督も「きょう1番の収穫は藤倉」と手放しで喜んだ。
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大島郁将

2013-12-09 21:23:32 | 日記
・名商大付属高校出身者でプロ入り当時、最も期待されたのは大島郁将だろう。高校時代から強肩の大型捕手として知られたが、神奈川大学で、俊足を買われ内野手に。神奈川5大学リーグで首位打者、打点王、盗塁王。1974年に阪急入り、ウエスタンリーグでも打ちまくった。だが、一軍のカベはあまりにも厚過ぎた・・・・。

1978年「年俸230万」
・なかなかの大型三塁手なのだが、打撃の方が技術的にもう一歩なのが残念である。
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広政秀之

2013-12-08 15:12:19 | 日記
1988年

経歴が一風変わっているのは、「草野球のエース」から近鉄に入団が決まった広政秀之投手(幸福相互商事、二十一歳)。大阪商高から東北福祉大へ進んだが、二年生の五月、父の病気のため帰阪。その後、「野球選手求む」の新聞広告を見て商事会社へ入社、軟式野球チームのエースに。併せて大阪市内の草野球チーム「新橋ジャコー」にも入り、スポーツ紙主催の関西地区での大会でチームを優勝に導いた。無理のないフォームとがっしりとした体、伸びのある右腕からの速球が目に止まり、五日、契約金千二百万円、年棒四百万円(推定)で仮契約した。河西チーフスカウトによると「特に下半身がしっかりしており、腕の振りがいい。制球力もある正統派。球種を増やしていけばおもしろい」という。
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