1954年
中村投手は終始ノンプロ愛知産業で野球を学んだ。社長宮下悟氏が野球の育ての親というわけである。今度の国鉄入りにも宮下社長もずいぶん骨を折ったものらしい。昭和二十三年三月名古屋の東海高校を卒業、その後瀬戸市の軟式野球瀬戸クラブにはいった。東海高出はほんの一試合か二試合の登板、むしろ卓球の選手としての名が高かった。ところが瀬戸の軟式時代に現中日木下選手らにすすめられて愛知産業入りしたのである。その頃の彼は荒けずりではあったが、球速もあり、カーブもよく将来を非常に楽しませた。この年の都市対抗名古屋予選では五試合を完投してわずか一点を与えただけ。しかしその後足踏み状態が続き、ようやく二十七年ごろから再びみごとなピッチングをするようになった。二十七年の都市対抗では愛知産業は第一戦に東京代表熊谷組に0-1で負けた。この時宮下社長はむろん彼を登板させる腹であったらしいが、どういう風の吹き回しか東海電通から補充した黒柳を登板させたのである。これが黒柳投手が今日大昭和製紙のエースとなった契機である。中村投手はこの試合には代打で出たに過ぎない。二十八年は愛知産業が戦後初めて都市対抗名古屋代表を名鉄にゆずった年である。しかし中村投手は名鉄にピックアップされ第一戦に東北代表の釜石と対戦、鋭いドロップを武器として釜石の小武方、高田両新鋭に投げ勝ち2-0とシャット・アウトした。第二戦の岡鉄に対しては彼は途中からリリーフしたが五回の登板で安打4。二十三歳、五尺八寸五分、十九貫と恵まれた身体で真っ向から戦いをいどんでいく右投げの大型投手である。大体上手投げで、ウィニング・ショットはドロップ、時に外角へのスライダーをまじえる。難をいえば腰が弱い。ランニングで腰を強くすることが必要である。精神面では少し気の弱いところがうかがえる。投手としてはもっと線の太いことが大切。彼は打撃もよくしばしば快打しているが、あくまでも投手として大成してほしい。堂々相手打者と正面からぶつかり四つに組むピッチングこそ彼の本領であるべきだ。
中村は高校を出てから五年間私の手もとで育てたが、性格が非常に素直、野球選手としてはこれがマイナスする事もあるほどいい人間だ。おとなしくそれにまた若いのでピンチに急に崩れるようなことがあった。最近はだんだんその欠点が改められてはいるが競争の激しいプロのこと、まず気を強く持っていくべきだ。身体が細いとよく人にいわれるが肩幅が広いので投手として最適のスタイルだと思う。技術的には小細工に走らず真っ向からスピードボールを投げこみ、シュート、スライダーも投げ分けられるのでこのままのびていくべきだ。打者の欠点をすぐのみ込むなど研究熱心もおう盛なのですぐ国鉄の中堅投手として活躍するものと期待している。