プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

オースチン、アマーン

2017-07-29 17:30:50 | 日記

1974年

阪急のオースチン、アマーン両投手の評価は上がったり、下がったり。初めは「いける」。その後は、肩や腰の故障もあるが、初めて投げた打撃練習(二十二日)での声は「もう一つ」。オースチンは左投げ。193㌢の長身から角度のある投手をし、右打者のひざ元へ食い込むスライダーが武器。アマーンは右投げ。球威はないが、変化球にいいものを持っている。現在はともに六分程度の仕上がり。「日本でも投球のパターンは同じ」(オースチン)「いままでは先発がほとんどだったが、リリーフでもやれる」(アマーン)と張り切る二人だが、正直いって、戦力になるかどうかのメドは立っていない。梶本コーチも「まず、体をつくること。そしてオープン戦でどしどし使い、早く日本の野球に慣れさせたい。すべてはそれからだ」という。かつて阪神へ来て腕を上げたバッキーのように、上田監督が望む梶本の抜けた後の貴重な左腕(オースチン)、中継ぎとリリーフ(アマーン)に二人が育つかどうか・・・。
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オースチン・アマーン

2017-07-29 17:15:06 | 日記
1974年

外人投手をさがしていた阪急は、元大リーガー、リック・オースチン左腕投手(27)(1㍍93、88㌔)と、3Aのユージン・アマーン右腕投手(24)(1㍍78、79㌔)の入団を内定し、七日球団事務所で発表した。オースチンはワシントン州立大時代に完全試合を記録して注目され、1968年プロ入り、1970年と71年に大リーグのインディアンスでプレー(54試合で2勝5敗)大型の速球投手でカーブ、チェンジアップを持っている。アマーンは1970年プロ入り、この年2Aに所属、翌年から3Aに昇格した。ファームの通算成績は92試合で24勝29敗。カーブが得意球で、伸び盛りの若手投手として期待されていた。二人とも今季の所属はアトランタ・ブレーブスのファーム、3Aエバンスビル。
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谷村智啓

2017-07-28 21:47:58 | 日記
1973年

谷村は三月四日、姫路での対阪急戦に二回投げてこの日は二度目の登板であった。姫路のときはただドロンと曲がるカーブだけで別に昨年より進歩したあとは見られなかった。右足首のねんざで安芸キャンプにも参加できず、調整が遅れていたから無理じゃなかった。それから五日後のきょうは、谷村がこんなピッチングができるのかと思うくらいすばらしい出来であった。すばらしいといってもすごく球威があったというのでなく、外角低めぎりぎりを突くストレートと大きく曲がるカーブ、すこし変化するスライダーを主としたピッチングで、そのタマの低めへのコントロールが非常によかったということである。打者が打ち気だと見ればときおりフォークボールで誘いをかけたり、追い込んでからもそれを使っていた。まだフォークボールは覚えたてであるが、これで今シーズンの武器としてあるていどは自信をもって投げられるようになるだろう。昨年の谷村はフラメンコ投法とかいって、バックスイングのときに必要以上に上体をくねらせていた。この投げ方がムダな力を使うことをさとったらしく、ことしはフォームが昨年よりずっとスムーズになった。それだけ腕の振りもシャープになってきている。ゆっくり足をあげて腰をため、そして最後はさっと腕に振り切っているので打者もいく分タイミングが遅れるようであった。とにかく投手は球威も必要だが、いかにコントロールが大切かということをみせつけてくれたようなこの日の谷村であった。柿本コーチはことし谷村を逃げ切り用に仕立てるハラだったらしい。しかし、故障などあってその計算も狂いかけていたのである。この日は上田の先発を予定していたのだが、上田が家庭の事情(父親の危篤)で谷村に切り替えた。ところが、その谷村が思いもよらぬ好投をして、新人の山本和、三年目の上田がまだ使えるメドがたたない今、この谷村をあるいは先発グループに回す気持ちになったのではないか。大学、ノンプロでキャリアもあるから、きょうの好投がいいきっかけになるかもしれない。私はそんな気がする。
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迫田七郎

2017-07-23 20:57:10 | 日記
1971年

中日は六日三時市内中区新栄の球団事務所で、ロッテ・迫田七郎投手(26)=1㍍78、70㌔、右投右打、鹿児島県照国高出、八年目=を、選手プラス金銭の交換トレードで獲得したと発表した。見返りは小山日出夫捕手(22)=1㍍77、70㌔、右投右打、土浦三高出、四年目=。迫田の背番号は未定。

このトレードが決まったのは前日の五日夜。土屋総務がロッテ・近藤ヘッド・コーチに「迫田を譲ってほしい」と申し入れた。その後電話で交渉をつづけた結果、ロッテも昨年のトレード会議でチームにおいておきたかった里見をとられて捕手陣が手薄なことから、小山プラス金銭で承諾した。迫田はスライダーとシュートを武器に、四十年の6勝7敗を最高に、過去七年間に通算16勝22敗の成績を残している。昨シーズンは右ヒジ痛で公式戦には一度も登板していない。中日もこの点を心配していたが、完治しているということで、トレードに踏み切った。もともと弱体な投手陣に星野仙は右ヒジ痛で二軍落ち、田辺も開幕以来不調をつづけていることが、このトレードに拍車をかけたようだ。

中日・中川代表「迫田を譲ってくれという話は、江藤問題のときからあった。しかし、去年ヒジをこわしていたので見送っていた。近藤コーチも太鼓判を押しているし、ウチの塚越スカウトにもピッチングを見させ、どうやらいけそうだという結論を得たのでとった」

水原監督「私が東映時代、スライダーに特徴をもったピッチャーという印象がある。ご承知のとおりウチは投手が弱いうえ、今シーズンは連戦つづきなので投手は一人でも多い方がいい」

迫田投手「きょう(六日)武田代表から球団によばれていい渡された。そのあと中日・土屋総務にも会い早く水になじんでくれと激励された。自分としてはきっかけがつかめない状態だったから、心機一転のいいチャンスだ。中日なら巨人ともやれるし、後輩の川畑(前ロッテ)もいるのでぼくにはプラスになると思う。与えられる登板のチャンスは絶対ものにする気持ちでやっていきたい」
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宮本幸信

2017-07-17 19:54:16 | 日記
1968年

中大のハワイ遠征にも加わらず、阪急の秋の練習に参加したが、いきなり「いまの球威ではプロで通用しない」(真田コーチ)ときめつけられた。東都大学のエースといわれたプライドもありなにくそと反発したが、考えてみると、注意された以上フォームを変えて球威を増すことだと気づいた。宮本は中大時代から何度もヒジを痛めた。捕手が投げるようにヒジを曲げたまま、いわゆるかつぐ投球フォームなのである。真田コーチはひと目見て「これはヒジを痛める投げかただ」とわかったそうだ。腕の振りが悪いから1㍍82の長身を生かしきれない。すぐにフォームの改良をすすめたという。真田コーチは腕を大きく伸ばして投げさせるために、ひとつのアイデアを思いついた。長さ三十㌢、第五㌢のブリキ板にスポンジを巻き、それを宮本の右ヒジの内側に包帯でしばりつけた。これだとヒジを伸ばしたまま投げねばならない。速いタマを投げたいという気持ちをおさえて、いまは新しいフォームを身につけることが先決だと山なりのゆるいタマを投げつづけている。こんな状態だから、いますぐ第一線は望めない。すでに西本監督もファームでゆっくり鍛えるハラのようだ。しかし本人は「あくまで早く第一線に出たい」という希望をすてていない。宿舎の鏡の前で夜おそくまでシャドー・ピッチングをくりかえしている。線の細い高校出の選手と違って、胸幅の厚い、立派な体格の持ち主。新フォームをマスターすれば、比較的早く一軍のマウンドに上がるかもしれない。
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宮本幸信

2017-07-17 19:34:56 | 日記
1968年

でっかい。そばによると圧倒される。182㌢、75㌔もあるのだから当然だが、上体にくらべ、腰のあたりにいま一つ張りがない。「下半身がちょっと弱そうだな」これが宮本の第一印象だった。そこで、気の毒だったが、いきなり「その弱点」を指摘したら「ええ自分でも知っています。だから公式戦までに鍛えます」と、くったくのない笑顔がかえってきた。もう軽い投球練習をはじめている。宮本の投手歴はまだ若い。市神港時代は二年生まで外野手。それが三年になったばかりのある日、当時監督だった清水現報徳学園監督から「投手をやってみろ」と転向させられたのが初めての経験。その年の春、選抜大会で準決勝に進出、下関商の池永(西鉄)と投げあった。中大では四年生の春のリーグ戦で七勝、続いて全日本大学選手権大会優勝の立役者となった。ドロップを身につければ直球がさらに生きてくるだろう。真田コーチの評価を聞く。「上体ばかりで投げている。腰が残るんだなあ。あれでは完投はむずかしい」ときびしい。「目標は十勝。オールスター戦までに。夢は大きいほどいいでしょう。でも本当は背番号の14だけは勝ちたい」とまたほがらかな表情を浮かべた。
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畠中良雄

2017-07-17 14:58:48 | 日記
1959年

二十四日付けで畠中良雄内野手と山下清治捕手を任意引退選手にするむね発表された。畠中は一昨年人見とともに東都(日大)の優秀選手として阪急へ入団、当初は人見以上に期待されていた。しかし瞳が肩の故障にもめげず打力を生かしてレギュラーにのし上がったのにひきかえ、畠中は打力がいま一つ足らず、あたら俊足と好守を生かしきれなかった。いっぷう変わった顔だち、赤みがさして外人を思わす風ぼうだったが、根はいたって人なつこかった。大の風呂好きで合宿では暇さえあれば湯ぶねにつかっていたものだ。「一日に三度」というのが日課で、三度の食事は欠かしても入浴は欠かさぬとひやかされた畠中だ。前二軍監督酒沢氏のいる日本楽器へ就職の予定だが、再出発にあたって、「力の限界を悟った。しかし一度は優勝の感激を味わいたかった。来シーズンからは戸倉さんの下でナインが心機一転、Aクラスに返り咲くよう期待したい」と別れのことばを残して住み慣れた合宿を去って行った。
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KHライト

2017-07-17 10:25:01 | 日記
1974年

ファームの人気者K・ライト投手がついに退団することになった。山下取締役に「プロ野球生活を続けていく自信がなくなった」と退団を申し入れたのは昨年暮れ。寝耳に水の球団側は「そういうことはいわずに考え直せ、君には将来がある」と説得を続けていたが、翻位させることができなかった。ライトはオーストラリア人を父親に持つ異色投手として四十六年秋のドラフト会議で阪急に指名され入団。長身で体力的に恵まれていることから球団側はじっくり育てて、投手陣のスター選手への躍進と期待していた。しかし、ファームの試合にすら登板のチャンスが回ってこないなどライトにとってはプロのカベは厚かったようで「このまま阪急にいても伸びることはない」と将来を悲観、ユニホームを脱ぐ決意を堅めたらしい。テレビのコマーシャルにもチームでただ一人出演するなどタレント性十分のライトも、わずか二年で球界から消える。
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鬼頭洋

2017-07-17 09:57:15 | 日記
1970年

目標にしている投手は?

人並みですが、大投手・金田さんです。野球ばかりでなく生活とかすべての面で。

ライバルは?

そうですね、ボクの場合は左投手、全部がライバルです。

一番苦しかった時期は?

一年目から四年間ファームにいた頃がずっーと苦しかったです。その間もヒジや腰を悪くしたりして、自分でも悩んでいましたし、一時はもうこれきりで野球を諦めて、故郷へ帰ろうかと思ったこともありましたよ。

プロ野球の魅力は?

自分の力でがんばれば、それだけの報酬がもらえるから、たいへんやりがいのある世界。でもひとつ間違えれば非常にみじめな生活を送らねばなりません。男としてはやりがいのあることです。ファームに落とされてもすぐ上がってくる雑草のような強さをもった選手になりたくて、プロにはいったのですけど・・・。

これからの課題

充分走り込んで、いま以上のコントロールをつけること、努力以外なにもないと思う。

目標?

ノーヒット・ノーラン試合をきっかけに、自分にたりない課題をひとつひとつ着実には握っていくのが、目標につながる最大の近道だと思います。

家族構成は?

父(清五郎)母(みつ)と弟二人(孝、久)の五人家族。なんかたよりない長男ですよ。ボクは。(笑)家ではずいぶん心配してるようですね。この三年間、手紙を全然書かないんです。新聞やその他で何かしっているから平気です。それに便りがないのは元気でいる証拠などといわれてますから。でも、この間記録たてたときは電話しておきました。

趣味は?

レコード聞くぐらい。それと海が近かったせいか釣りが好きです。最近はほとんどやってません。

酒、タバコは?

酒は飲むことは飲みます。適度な量を、タバコはやらんです。

自己の性格分析?

よく人から気が小さい、小さいといわれてるんです。監督さんや鈴木さんからも、おとなしく人がいいからプロ向きではないといわれるんですが、これもオヤジがお人好しだから、それがうつったのだと思いますよ。人づき合いはいいですよ。その場の雰囲気にすぐなれます。

好きな言葉?

努力この二字です。

ツキをかつぐほうか?

ツキというんですが、そういったものはやってますよ。この前ノーヒットやったから、そのときブルペンで受けてくれた捕手にまた試合前に受けてもらうとか、靴下は左からはいたほうがいいからとか、食堂で何を食べたとき次の試合のときも食堂でまた食べるというようなことはしてます。平松もアンダーシャツがどうのなどとやってますよ。

ナインによばれる愛称?

目が大きいからでしょうね。出目とか目玉とかいわれてます。そんなに目が出てないのでみんなに文句いってるんですが。

日本や外国で行きたいところは?

行けるものならスイスへ行ってみたいですね。日本はオープン戦などでほとんど回ってますから、山陰のほうへこんど出かけてみたいです。

小遣いの使いみち?

ボクの場合、お金そのものが生活費ですね、アパートの一人暮らしだから外食がほとんですから、わりとかかります。プロですからカラダには金かけなければいけないと思い、しょっ中ピーピーいってやりくってます。今シーズンはひとつがんばって、来年は上げてもらわんといけません(笑)

とくに取るスタミナ食は?

食事は肉類と野菜をたくさんとるようにしてます。栄養剤としてアリナミンをつづけています。外食ですから思うようにいきませんが、肉だけは欠かしません。

ガールフレンドは?

いないといえばうそになるかな。(笑)

初恋の思い出?

学生時代から野球ばかりやってたもので。(笑)中学千年ぐらいになって同級生にちょっと気があった。でも遅かったでしょう。(笑)

適齢期だが、結婚について?

もう二十七でしょ。ナインにヒヤかされるんですよ。でもいままでパッとしない成績だったのでふんぎりがつかなかった。できれば、今シーズンのオフぐらいにはやりたいと考えてます。

好きなタイプは?

やっぱり健康な女性がいちばんいい。ヒッピーみたいな恰好をしているハレンチは好かんです。心の優しい女性がいいですね。そんな子がいたら、いますぐにでもプロポーズするのですがね。(笑)

野球はどのくらいまで?

とにかくプロの世界です。一年でも長くやっていければいいと思っております。

ー将来のユメは?

将来のユメとえがいているのは太く短くではなくて、できれば太く長く野球人生を送ることです。
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鬼頭洋

2017-07-17 09:33:22 | 日記
1970年

ノーヒット・ノーランを達成したときの感想?

勝ったときは完封できたということがうれしかった。なにしろ初完封ですから、ゲームセットした瞬間はそんなに考えなかったが、あとになってどえらいことだったなあと思ったです。試合中もボク自身はノーヒットを意識しなかったです。フォアボールを出してランナーも三塁までいってました。しかし、七回ぐらいから、スタンドのお客さんがわいわい騒ぎはじめたので、意識はしなかったが、やってやれという気持ちでした。多分にツキもあったですよ。それにバックのみんなが助けてくれましたし、特に捕手の大橋さんのリードがよかったです。一球一球投げるごとに声をあげて励ましてくれたし、近藤昭さんも後から声かけて、がんばれよといってくれました。とにかくナインみんなのおかげです。それまで一勝五敗で、大事なときポカばかりやってましたのでこの試合に先発させてくれた監督さんに感謝してます。この日の登板は、北海道から帰ってくる飛行機の中でいいわたされたんです。あくる日も球場についたとき、鈴木さんに「こんど変なピッチングしたらファームに落とすゾ」とハッパかけられ、それがかえってよかったです。そしてこのノーヒット・ノーランをひとつの契機として、これから出るたびにいいピッチングをしたいです。

昨年オフに米国に野球留学したがその成果のほどは?

技術的にどうというような学んでくるものはなかった。細かいボールの握りとかは習いましたが、これは二本でも毎日練習していることですから、向こうの若い選手の野球に打ち込む真剣さと野球にのぞむ姿、バッターボックスに立って打てなければ、くやしいとヘルメットを投げつけ、ピッチャーも打たれるとくやしがって、こんどこそ打ち取るんだという気迫、これらは絶対見習うべきだと痛感しました。一球一打が真剣勝負というのがありありうかがえた。こっちからいかなければ教えてくれないようでしたね。そしてこっちのいい特徴を生かしたアドバイスをしてくれました。日本でもその選手にあった特徴を指摘してくれるんですが、ひとつの型をきめつけてしまうようです。しかし、この米国留学があったので、今シーズンはよけい大変ですよ。球団が、ボクを指名して教育リーグに参加させてくれたのですから。

今季とくに重点をおいた事?

今シーズンは勝ち星を幾つというのではなく、平岡が欠けて左がボク一人になったので、監督、コーチに信頼されるピッチングをしようと心がけました。でもシーズン初めがパッとしなくて、気持ちばかりがあせって、それについていけず、カラ回りの状態だったです。

野球歴?

小学校四年でソフトボールをやり始めたのが野球やった最初でした。正式にやるようになったのは中学(伊勢市立厚生中)からでしたが、中学一年の一学期の中間テストの成績が悪く、一時オフクロにやめさせられてしまったこともあったが、学校の先生が説得してくれ、夏休みにはいってから夏の練習から参加しました。それから名古屋商科大の付属高に進み、そこの大学へそのまま行きました。ポジションはずーっとピッチャーをやってました。当時で思い出に残っている試合は、大学二年の春のリーグ戦で対南山大学戦で六回までパーフェクト、七回にヒットを打たれてしまったが、十七奪三振の記録をたてました。その試合ぐらいですね。

プロ入りの動機は?

ボクはちょっと変わってるんですよ。最初は大洋の藤井さんが大学へ来て、そのときは高井(現ヤクルト)を見に来たんですが、ボクがとなりで投げていてそれが目にはいったらしいです。そして春のシーズンに望むとき、話があって入るようになったのです。しかしオフクロは大反対したですよ。三年で学校をやめ、プロへ入るのが気にいらなかったらしいんです。大学もちゃんと出ないで、カネのためにプロへはいったなどと世間体を考えてのことだったらしいですが、ボクは強引にオフクロを口説いたんです。

決めダマは?

変化球は全然ダメ。内角にくい込んでくるストレート一本。あとはフォーク・ボール。これはここぞというときだけであまり投げない。ストレートで押していくだけです。それが打たれたらしょうがないです。

相性のいい打者、ニガ手は?

短くバット持ってコツコツ当ててくる大塚とか東条みたいのは嫌いですね。大塚などファーム時代からニガ手。力のあるバッターは攻め易いです。

球場の好き嫌いは?

川崎球場が投げ易いです。それから東京球場、時々大洋のゲームなどもやりますが、ここも好きですね。後楽園は嫌いです。あとの球場は、まあまあです。

初先発、初勝利は?

入団三年目の年のオールスター前、七月の巨人戦が初登板。初勝利はやはり同じ年の八月。いつだったか日付は忘れましたが、東京球場の対阪神戦で五回と三分の二を投げて勝ちました。
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宮田征典

2017-07-12 20:46:54 | 日記
1965年

「ミヤタ、しんどい。ノー・スピード」三回、トップの広瀬を中飛に打ちとった宮田のピッチングを見たスペンサーが、審判室にもぐりこんでいた顔見知りの記者にかたことの日本語をならべた。読めはしないのだが、日本語のスポーツ新聞までスクラップしているほど研究熱心なスペンサーは宮田のすべてを知っていた。それだけに、余計宮田の不調がピンときたようだ。大本塁打ー宮田は「0-2になったので、内角にシュートを投げてつまらせ、そのあと外角で勝負しようと思ったんだ。計算通りつまったんだが、もっていかれてしまった」と、いった。この試合では、宮田は四回から登板することになっていた。そして先発村山が打たれた場合のリリーフは、城之内の予定だった。だが、イザとなると、藤本監督も、いつも手痛い目にあわされている宮田にたよる気になったのだ。そのため、宮田はわずか15球ほどブルペンで投げただけで、登板しなければならなかった。このへんが、混成チームの悲劇ともいえるだろう。それに宮田は、十八日の対中日戦で3イニングをノー・ヒットにおさえている。それやこれやで、宮田のタマは、いつもより20㌢も高かったー。いつも火の手をあげる城之内が、宮田の火消し役を果たして、公式戦の恩返しができたのも、せんじつめれば、藤本監督のお呼びがないばかりに、十分な肩ならしができたからというのは皮肉である。女房役の森捕手は、しかたがないという表情で「宮田は全然ゼロやったな。タマが死んでいたし、落ちるタマが落ちんかった。高木の本塁打、堀込のヒットは、二本とも落ちよらんで打たれた。連投のうえに、アップ不足だもんな」といっていたが、そのころ、藤本監督も「宮田には気の毒なことをした」と、ホゾをかんでいたのである。宮田が打たれて、オールスター・ゲーム第一戦のユメは消えた。だが、宮田が、このままで引きさがるわけがないことは、打ったスペンサーがよく知っていた。「ミヤタは、もしあす投げれば、いいピッチングをするだろう」その宮田は、ロッカーに引きあげると、小守トレーナーの入念なマッサージをうけたあと、こんな冗談をとばしながら帰っていった。「いつもの時間に、きょうは帰るよ」時計の針は八時半をさしていた。普通なら、宮田が拍手をあびながら登板する時間だ。
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宮本洋二郎

2017-07-12 20:21:14 | 日記
1964年

「目方だけは、どうやらプロなみなんだけど・・」という宮本は、1㍍73しかない自分の身長をだいぶ気にしている。しかし、ことばとはうらはらに不敵なつらだましいをを持っているのはたのもしく、会うものに、ふてぶてしささえ感じさせる、根性の持ち主である。米子東高から早大に進んで、すぐにエースといわれたその夏、自動車事故で、重傷を負ったにもかかわらず、見事カムバックしたのだから、なみなみの根性ではない。右の側頭部を強打したため、右目の視力がゼロになったが、毎日のように目の玉に、注射をしていたころは、さすがの宮本も、もうダメかとさえ思ったそうである。しかし、野球をやりたいという気持ちを、どうしてもおさえ切れず、包帯をグルグル巻いたまま、医者の目を盗んで病院の庭におり、石を投げて、右肩のだいじょうぶなことを確かめたという。性格の強さは、当然、彼のピッチングにもあらわれる。ピンチになっても、顔色ひとつ変えないばかりか、堂々と投げ抜く気力となるわけだ。入団を勧めた内堀スカウトも、この度胸の良さを高くかったのである。巨人の選手のなかにはいって、異色の存在となるに違いない。といっても、宮本には、神経の細かい一面もある。早慶戦の前の日に、コップいっぱいのナマ水を飲むのさえ、ピッチングへの影響を考えたという。ことピッチングになると、細心の注意をはらうのである。もともと荒っぽさから、大まかなピッチングをしていたかれに、決定的なショックを与えた試合があった。それは三十五年春の選抜高校野球での決勝戦。山口(高松商ー現阪急)にサヨナラ本塁打を打たれてしまったのである。肩口に得意のシュートを、自信たっぷりに投げたところ、真ん中にはいってしまったのだが、それ以来、マウンドに立って、一球もおろそかにできない、ということが身にしみたのだそうである。「悪夢のような、あのタマ」と、いまでもいうが、マウンド上の宮本は、苦い経験から自分なりに考えに考えたうえで投げる習慣がついたのだという。広島の池田や、大洋の稲川のように、小さくすばやいモーションで、直球、変化球を一球一球たんねんに投げる。低めへのストレートは速く、落ちるシュート、カーブ、スライダーをうまいところへ決める。左右のコーナーワークもいいが、欲をいえばこれという決めダマがない。コントロールと配球のうまさで、はじめて威力を発揮するタイプ。六大学では、先発型として使われたが、プロでは、持ち前の度胸とコントロールを生かしてリリーフに案外多く使われるかもしれない。この点、投げ込んで、徐々に調子をあげていく習慣を身につけている宮本にとって、リリーフはいくぶん苦手といえるかもしれない。それに大事な場面で投げるには、ひねくれたクセダマを持っていないという不利な面もある。しかし、宮本には、それ以上に、スピードとコントロールの利点に加え、ド根性の長所が大きく生かされるのではないだろうか。小柄とはいえ、全身ハガネのような筋肉につつまれた、がっしりしたからだの持ち主だけに戦力としての期待は十分といえよう。

ー巨人を選んだ動機は・・・。
プロで野球をやるなら、巨人以外ないと思っていました。藤田さんのような、うまいピッチングをぜひ身につけたいと思います。
ープロへはいっての目標は。
からだは小さいが、どんなきつい練習にもくっついていく自信があります。六大学で投げられたからといって、すぐプロで投げられるというわけにはいかないでしょう。下半身をもっときたえて、スピードと、変化球の切れを鋭くしなければ、プロのバッターには通用しないと思います。
ーリリーフで使うという話もあるが・・・。
いまではほとんど先発、完投として使われ、リリーフは数えるほどでした。それも失敗ばかり。だから、自分には、苦手意識がないことはありません。しかし、投げる以上、先発でも、リリーフでも、同じはずです。先発の第一球と、リリーフの第一球と、ぜんぜん違うはずはありません。とにかく、一軍で投げるというのが、目標ですから。
ー見えなくなった右目はだいじょうぶか。
右の視力は0.8まで回復しています。左が1.5なので、かたちんばですが、バッティングの距離感をみたり、バッティングで、ボールをとらえたりするのには、さしつかえありません。
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倉田誠

2017-07-12 19:32:54 | 日記
1972年

「いかん」と自分でも思った瞬間、倉田は降板への道をまっしぐらにすべり落ちていた。7点のリードを背負った五回、先頭の加藤を2-1と追い込んだ4球目、ゆるいフォークボールが真ん中やや低めに落ちたとき、打球ははじかれたように左中間深く抜けていた。東映反撃のきっかけとなった貴重な二塁打である。倉田は加藤のヤクルト時代、試合でときどき顔を合わせている。「あそこは加藤の好きなコースなんだ。でもフォークならなんとかなるだろうと、ファッと投げてしまった・・・」と倉田はいう。相手のツボへ、しかも甘いタマ。倉田のもっとも得意なフォークボールであってもこの日は肝心の切れが悪かった。しかも「ファッと・・・」では打たれるのも当然。倉田の失投というより「相手は下位」という過信が生んだ落とし穴といったほうが適切のようだ。倉田はこのあと簡単に二死をとりながら、阪本以下に連続4長短打されて4点を失ったが、張本には2-2と追い込んだあと「真ん中にストレート」を投げて傷口をひろげている。六回にも阪本に2-2から3ラン。倉田が浴びた9安打のうち、カウントを追い込んでから打たれたのが全部で6本もあった。「なにを考えて投げているのか」川上監督は人前でめずらしく語気を鋭くして倉田の甘い心をなじったのもムリはなかった。四回までの倉田は、テキサス1本を含む2安打を許しただけ。スピードもあり、自分でも「完投」を考えていたという。それが、加藤への一投を境に、あっけなく沈没。問題の五回1イニングだけで、実に31球も投げ、投球数はこの回で100球を越えていた。当然、疲労からスピードも鈍ってくる。その結果「押え込もうという気が先走って、気持ちに余裕がなくなった」という通り、決めダマであるフォークボールに切りかえたが「低めのキレがよくなかった」のが、五、六回の大量失点につながった。藤田コーチは試合後「すっかり自分のペースを乱してしまった。力はあるのだが、おのれを忘れるのでは、まだまだ一人前とはいえない」と手きびしい忠告を与えた。倉田は、今シーズン、堀内、高橋一とならんで、新三本柱と期待される一人。それが精神的なモロさから、ポキリと折れてしまったのでは、首脳陣も頭が痛い。
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宮田征典

2017-07-09 22:58:30 | 日記
1964年

延長にはいった十回、中日は宮田に二死後、河村が左前安打を浴びせたあと、高木守、中の連安打でサヨナラ勝ちを収めた。試合は宮田ー河村の息づまる投手戦が続いた。宮田は外角のスライダーと、内角ギリギリいっぱいのストレートのコースがよかった。河村はストレートに伸びがあるので勝負どころで使う落ちるタマが効果的だった。二回、互いに1点ずつとった。巨人は森の中前安打と広岡、須藤の連打によるものだが、会心の当たりは内角直球をたたいた森だけで、広岡の打球はアスプロのスタートがおくれてその右をゴロで抜き、須藤はバットが折れた中前打だった。一方、中日も真ん中の低めからさらに落ちるシンカーを、右翼にたたき込んだマーシャルの一発だけだった。宮田は三回にも中に、シンカーを痛烈な一直されたように、左打者へ落ちるタマに威力がなかったことはいなめない。しかし四回から左打者には外角球で勝負する投法にすぐかえた。そして、この均衡は容易に破れず、延長にはいった。巨人は三回以後、九回王が三塁前にバント安打するまで無安打が続いた。それでもチャンスがなかったわけではない。しかし、五回一死後四球に出た柴田がみずからの足におぼれて大きくリードを奪い、再三にわたる投手けん制の末に刺されたのは痛かったし、六回無死四球の長島を置いて、王の左中間痛打が江藤の攻守にはばまれたのは惜しい。しかも、このとき一塁走者長島が二塁を越えながら、二塁を踏まずに一塁に帰って併殺されるボーンヘッドが重なった。しかし、巨人はよく守った。五、六回に再度二盗を刺した森の好送球をはじめ、七回無死一塁の二ゴロを須藤が判断よく、まず一塁に送球してから併殺したプレー。また八回、小川敏の右中間を破るかにみえた難飛球を好捕した柴田の超美技など、中日の追加点をがっちりとはばんだ。しかし、先発三度目の宮田はスタミナ不足で、試合後半から回を追って球威が落ち、なんとか気力で持ちこたえていたが、十回。刀折れ矢尽きた感じであった。
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倉田誠

2017-07-09 21:59:34 | 日記
1968年

身長1㍍85、体重75㌔。この二十二歳になる大男について、巨人の中尾二軍監督が親心をもらしたことがある。「倉田って男は、すごく速いタマを持っている。捕手のミットにずしりとくるようなタマを投げる。速いといえば、堀内も速い。堀内のタマは、ホームプレートの所で、グーンと伸びる。倉田のは、もっと重い感じで、グイグイ押してくる。タマの速さだけなら十分一軍で使える。しかし、倉田本来の実力からみると、一軍入りした当時は、70点台の出来で、もう少し手元においておきたかった。七月の半ばごろ、完全な姿の倉田を送り出したかった・・・」かわいい子には旅をさせろ、という。中尾二軍監督は、非力な投手陣に悩む川上監督の要請で、予定より一ケ月も早く倉田を旅立たせたが、子は親が心配するほど弱くなかった。中尾二軍監督はテレビとラジオの二本立てで倉田の活躍を知り、いまホッと胸をなでおろしている。6回1/3を投げて、1安打6三振。五回、ジャクソンに2点本塁打されているが、中尾二軍監督が太鼓判を押したスピードは最後までおとろえなかった。登板は三回表、二死二塁のピンチ。金田を救援してマウンドに立ったとき、打席には豊田が薄笑いを浮かべていた。だが倉田の右腕から飛び出したストレートはいきなり豊田をから振りさせ、1球ボールの1-1から、一邪飛に打ち取っている。以後、倉田は「悔いのない投球をしよう」と念じながら、長身からストレート、カーブ、フォークボールを投げおろした。「グラウンドにきて、二番手投手をいわれた。それからは、思い切り投げることしか考えなかった。あとで、ああすればよかった、と後悔するのはいやだった。ボクたち、若いのだから、失敗を恐れたらいけないと思った・・・」試合後、倉田は悔いのない投球を強調している。エース堀内の3試合連続KOで、お先真っ暗だった巨人の投手陣に、いま一条の光がさし込んだ。さる四十年に一度、そして六日前の十一日、大洋戦に一度登板しただけの倉田が、巨人の8連敗を救った。二十歳の堀内、この六月には二十二歳になったばかりの倉田。金田と城之内のベテランに代わって、またイキのよい投手が誕生した。二軍の北川コーチによると「悪い日とよい日が極端」だそうだから、まだまだひどいパンチをあびて立ち往生することがあるかもしれない。しかし、8連敗の危機に直面した巨人をささえたこの日の自信は、倉田の心の中に深く刻み込まれているはずである。巨人は若い二人の投手を押し立てて、きょう十八日から中日、広島を相手に再出発を期している。
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