1992年
ドラフトで中日が指名した唯一の左腕投手がこの井手元。昨夏の甲子園で松商学園・上田(日本ハム)と延長16回の死闘を繰り広げた末に敗戦したが、孤軍奮闘で投げ抜いた姿は多くのファンに感動を与えた。5位指名という下位順の指名には本人も意外だったようだが、そのくらい負けん気がなくてはプロの世界で生きていけない。「これからは自分の力次第」と、気合を込めている。
契約金4000万。昨年夏の甲子園出場。延岡学園に完投したあと、上田(日本ハム)の松商学園と対戦。両投手の投げ合いが続いたが、16回裏一死満塁でサヨナラ四球を与えてしまい涙を飲んだ。しかし三振をとれる投手で東海のドクターKと呼ばれた。
1993年
一昨年夏の甲子園、松商学園上田(日本ハム)と延長16回の死闘を演じた左腕も、1年目はひじ痛との戦いに明けくれた。同じ四日市の高校からプロ入りした小倉(グランパスエイト)は1年目から活躍し「刺激になる」と井手元。負けるわけにはいかない。
1994年
ことしに期待がかかる、若手左腕の成長株だ。いつもニコニコと笑顔を絶やさない左腕も、マウンドに上がれば別人。140キロ台の速球に大きく割れるカーブも交えて、打者をほんろうする。1991年の夏の甲子園では延長16回の投げ合いも演じ、大舞台での度胸も満点。入団1年目は左ひじの故障に泣いたが、昨年はファームの中心投手としてチームの勝ち頭の11勝を挙げる活躍も見せた。「まずは一軍で投げること」と、目標を掲げる。
1995年
昨季は悔しい思いをさせられた。野口、佐々木らと、一軍予備軍と期待されながら 同じ左腕の野口に出世レースで先を越されている。秋季キャンプでは、井手元の童顔が厳しくなった。本来は負けず嫌い。その性格がムクムクと頭をもたげてきた証拠でもある。今年の目標は、もちろん「開幕一軍」野口ばかりではなく、キク山田、北野ら先輩も、関門となって立ちはだかる。今度は野口との初勝利レース。もう負けるわけにはいかない。
1996年
期待が高い左腕である。昨年は英才教育の一環としてアメリカへ野球留学した。帰国後、4試合に登板して中継ぎながら2勝をマーク。防御率1.93が光った。「勝ち星はラッキーだっただけです。実力でつかんだとはとても言えない」いたって謙虚に本人はいう。四日市工高時代は上田(松商学園高ー日本ハム)と延長十六回の死闘を演じた左腕も5年目。おとなしい男だが、一軍定着へは闘志を前面に押し出すことも必要だろう。
1997年
郷土(三重県)から注目のルーキー小山が入ってきた。プロ6年目を迎える先輩の井手元が、大きな刺激を受けているのは確かだろう。昨季の秋季キャンプでは、フォークボールの完全マスターを目指し、ブルペンで投げ込む背番号51がいつも見られた。昨年オフは5年間の合宿所を無事、卒業。いよいよ今年が、独り立ちの年ともなる。「ある程度自信がついた分、よけい、しっかりせんといかんと思う」左腕王国。その一角をになうハラだ。
1999年
台湾球界行きの要請を断った。昨春に左ひじを手術。もう1年、日本で勝負したい という井手元の強い気持ちが、球団を押し切った。「もう状態は戻った。左投手の中では出遅れているから、アピールしたい」おとなしい男が珍しく声を大きくする。フィールディングのよさはチームでの一、二を争う。足も速い。抜群の野球センスで左腕争いに参戦だ。
2000年
プロ入り9年目で中日ドラゴンズから移籍。鋭いフォークを武器とする技巧派左腕で、意地にかけても存在感の誇示に燃えている。「チーム全体がとても明るいので、早く溶け込めました。とにかく今年一年が勝負という気持ちでシーズンに挑みます。大事な場面で投げることが多いと思いますから、いつでも投げられるように準備しています」