プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

羽村起夫・栗崎日出男

2017-03-30 22:14:26 | 日記
1967年

南海は二十二日、羽村起夫投手(21)=倉敷工出、1㍍83、76㌔=と栗崎日出男外野手(19)=柳川商出、1㍍78、78㌔=を二十一日付けをもって任意引退選手にしたと発表した。

羽村、栗崎の二選手は二十一日のウエスタン・リーグ、対西鉄戦(大阪球場)終了後同球場内の球団事務所に呼び出され、近藤球団重役から「君達は練習に身を入れていない。このままプロ野球にいても将来に期待できない。将来のことを考えて別の社会に早く飛び込んだ方が君達のためになると思う。二十一日で任意引退選手とする」と申しわたされた。ウエスタン・リーグでの南海の成績は7勝16敗(22日現在)とまったくふるわず、一軍も低迷しているが、ファームから上がる選手もいない状態。五月下旬に中谷二軍監督以下全コーチが近藤重役をまじえて善後策を協議した。その結果「やる気のない選手を整理する」「でたらめな合宿生活をあらためる」ことを決め、その方針の第一弾として二選手の整理となった。二選手とも引退となっているが、他球団に移るときは自由契約にしてもいいと近藤重役は約束しているので、希望する球団があれば自由に交渉できる。

「いまさらクビといわれても、どこにいくあてもない私には野球以外なにもないので、他球団に移って南海を見返してやる」という栗崎選手だが、さすがに足どりはさびしそうだった。
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久野剛司

2017-03-27 23:45:31 | 日記
1971年

西鉄ライオンズの久野剛司投手(28)の退団が二十日、正式に決まった。身分は任意引退で大阪に帰ってサラリーマンになるという。
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千葉剛

2017-03-27 20:43:13 | 日記
1969年

広島が一位に指名した日鉱日立の投手、千葉剛(22)も本格派の投手だが、だれも第一位に指名されるとは予想していなかった選手の一人である。なにしろ、本人も「ビックリしましたよ。なんでボクが第一位に指名されるんですか」と首をかしげっぱなしだった。千葉は剛という名に似つかわしく186㌢、75㌔と優れた体格の持主で、投げ下ろす速球が、ズバリと決まるときは、大物!という感じを与えるが、それが長続きしない。その速球がバッターにミートされてしまうのだ。それはカーブが甘くコントロール難だからである。正直いって、果たしてプロですぐ通用するかどうかの疑問は晴れない。ある評論家が「広島は千葉の身長で相手をおどろかそうというのじゃないか」と冷やかしていたが、186㌢という巨体は、巨人の金田がやめた今日では外人選手を除いては、プロ球界一、二位を争うもので、この冷やかしも一理はある。だが、広島の実情を見たときは、千葉にかける期待は大きいものがあるはず。「外木場、安仁屋ともに力が衰えつつある。どうしても連投は無理だ。なんとか柱になる投手が欲しい」と根本監督はじめ各コーチはいっている。それだけに一軍入りは間違いなく、来シーズン早くから登板しそうだ。そのチャンスをうまくつかめば、体格のよい本格派だけに一気にスパートするかもしれない。
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片岡建

2017-03-27 20:30:53 | 日記
1969年

東映は、ドラフトの前日までスカウトと監督との間で「だれを指名するか」でもめていた。松木監督は「捕手をとるべきだ」と主張したのに対し、スカウト連は「即戦力の捕手はだれもいない。それよりも、優勝をねらって十勝級投手をとった方がいい」といい張った。結局は、スカウトの意見が現場の声を押えて、リッカーミシンのエース片岡建(23)の指名となった。それだけに、片岡に課せられた使命は大きい。十勝は期待されているのだから大変だが、「前々からプロで力を試したいと思っていました。このチャンスをぜひ生かしたい」と片岡は大張り切り。片岡は速球を武器とする貴重な本格派。体格も177㌢で70㌔、投手としてはまずまずである。しかし、十勝投手になれるかというと、まだ疑問な点が多い。スピードは豊かだが、変化球、とくにカーブが甘く、コントロールも甘い。そのため直球をねらい打ちされる危険がある。そのへんを片岡がどうカバーするか。塚本スカウトは「太田(近鉄が第一位指名)なんかより即戦力になると思います。なんといっても本格派というところが魅力です」という。捕手獲得を主張した松木監督も、あとで「少なくも十勝のプラスは保証できた」といっていたが、それは、少々オーバーな気もするが、とにかく片岡の速球に期待しているのは事実だ。
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岡本凱孝

2017-03-26 13:58:24 | 日記
1966年

飯田監督が巨人戦を前にして考えたことは、ON分離のほかに柴田、土井の足封じだった。塁に出したら必ずかきまわされるうるさい足。これを阻止するにはー。ほぼ力のそろった岡本、根来、島野の三捕手のうち、モーションがすばやくて肩の強い島野が浮かびあがった。だが、この日飯田監督はあえて岡本を先発メンバーで出場させた。「負けがこんできたときこそ打力本位の打線を組まなくては、強いチームに反発できない」というわけ。七回、岡島が打席に立っているあいだ中、岡本はずっと「きっとヒットしてくれるように」と祈ったという。「もしあそこで岡島さんが打てなかったら、次の回にはぼくの打順は先頭でまわってくる。そうしたら、代打を出されたと思うんです」ホームランは内角低め。先発の城之内の球がめっぽう速かったため宮田の球は速くみえなかったという。「宮田は内角ばかり攻めていた。岡島さんに投げた六球のうち、四球までインサイドの球だった。だからきっと内角球を攻めてくると思った」念のために次打者にいた須崎に「森が内角へ構えたら教えてくれ」とたのんで打席に立った。一球目にその須崎からサインが出た。宮田の一球目はねらいどおり内角へ。試合後岡本は「長島さんが八回に三遊間安打した球と同じだったそうだ。内角低めのボールくさいコースだってね。ぼくはあそこだけしか打てないんですよ」と大喜びだったが、実は須崎は森のかまえをみて外角というサインを出していたのだ。岡本はこれをてっきり内角のサインと勘違いしたわけだが、宮田の球も森のかまえと逆に内角へ走った。岡本は勘違いに助けられたわけだ。「この前の後楽園(五月六日・三回戦)で宮田からだいぶファウルを打った。あのときいけると思っていた」という。「岡島さんが同点打したとき監督に自由に打てといわれた。それで自信をもった。オレがそんなに信用されたかと思うとうれしくてね」いつもはみのがす初球から打ち気に出たとき、すでに宮田に打ち勝っていたようだ。ちゃめっ気があり、向こうっ気が強い。投手リードも強引。この日、フリー・バッティングをみながらマークするのは長島ひとり、王はだいじょうぶだときめてかかっていたが、「長島さんにはウラのウラをかかれた。当ってますね」と頭をかいた。
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中田昌宏

2017-03-26 13:40:58 | 日記
1964年

走者を一、二塁において中田が十二回裏一死、打席にはいったとき、時間は連盟規約の廿一時三十分(をすぎたら新しいイニングにはならない)を三十秒オーバーしていた。山下球団営業部長に三十秒オーバーをきいた岡村が中田につめ寄ってなにか二言三言。うなずく中田を西本監督もよび寄せた。「落ちついていけ」それだけだったそうだが、中田のこのひとことでそれまで力のはいっていた肩が急に軽くなったそうだ。お祭りさわぎの阪急ベンチがしずまり、うす暗い裸電球の下で西本監督と中田が報道陣につかまった。「時間切れでしょう。楽に勝てている試合を引き分けてみろよ。ワシは最初から思いきりたたこうと思った。初球をひっぱたいたらファウルや。だがあのファウルでいけるぞという予感がしたな。打ったのは真ん中にはいってくる速球やったな」一足先にベンチを出る中田を西本監督は呼びよせて握手した。「近鉄には自信があったからな」思わず二人の口から出た言葉は同じだった。中田はことし近鉄戦には不思議によく打つ。これで近鉄からの打点は17。「別に近鉄だからという気持ちはないんだが・・・。だれだって好きなチームはあるもんだよ」ゲーム前「とにかく接戦になったら、スペンサー、石井晶の一発と、中田を警戒すればいいんだ。あいつらには痛い目に合わされているからな」といっていた近鉄・今久留主スコアラーの心配したとおりの結果になった。「とにかく、相手はどこでもいい。打てるときに一本でも打っておかなければ、それこそおまんまの食いあげだ。ウチの外野を見なさいよ。何人でポジションを争っていると思う。いくら調子がよくても、きっかけがつかめにゃ、出られないんだ」ことしは外人もはいった。それに早瀬、衆樹、梁川、石川、山本と息を抜くヒマもない。「ウチが今シーズン優勝を争えるようになったのも、内外野ともこれだけの競争相手ができたからやで」とプロ入り八年目で初めてハッスルしている。昨年の秋季練習からこれまでのゴルフ・スイングを水平打法にかえた。西本監督は「とにかくまじめだし努力家だ。もうチームでも古参組に数えられるが、自分でも納得のいくまでフォームの欠点を聞きにくる。若手に中田のツメのアカでもせんじてのませたいよ」と殊勲打を当然のようにいった。
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田辺修

2017-03-26 10:55:02 | 日記
1970年

名古屋の三連戦に三試合とも1点差。それが東京にまでつづいて連夜の逆転劇。中日ナインはムシャクシャがいっぱいにつまっていたところ。試合前にベンチで一枝が「巨人を意識しすぎるんだ」とはがゆさをぶちまけていた。最近の巨人は順調に勝星を重ねているが、先発投手はこの夜の城之内を含めて九試合連続KOされている。打線も主に十一試合本塁打が出ないなど完調とはいえない。それなのに勝負強く勝っているところは一枝のいうように他球団が巨人は強いという虚像に幻惑されているようだ。その巨人のバケの皮を六試合ぶりにやっとはいで悪循環を断ち切った立役者は、ことし近鉄から移籍した田辺だった。田辺は三十八年近鉄に入団。最高の勝星は四十年5勝で、七年間にわずか10勝。昨年一昨年と0勝を続けていた。ところがことしは投手難の中日でたよりにされ、今夜の勝利で8勝目。星野仙についで二番目の働きぶり。玉のような汗をぬぐいながら田辺は「きょうはインコースがよくきまった。そんなことをいうと今度はインコースをねらわれるかな。ONどころかどのバッターもこわいですよ」と勝率までの不成績が頭に残っているのか、威勢のいい営業はきけなかった。しかし根は気の強い田辺のこと。口とはうらはらにどうしてどうしてONに真っ向から立向った堂々たる勝利。王には3回、左にうまく流されて二塁打。これがきっかけで1点をとられたが、長島には4打数無安打。「ランナーをためたらダメだと思ったので・・・」と無四球を説明していたが、王をこわがり、たいていの投手は四球を出すもの。その王のいる巨人相手の無四球試合は、田辺の言葉とはうらはらに「ONなんてこわくない」という強気のピッチングを物語っていた。
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野村克也

2017-03-26 10:38:09 | 日記
1966年

鶴岡監督が放心したような顔で引きあげてきた。野村が息を切らせながら話すのもめずらしい。興奮して、夢中で走った証拠だろう。バック・スクリーンに打ち込んだのに、スタンドの中段ぐらいだろう、と間違っていった。「満塁でサヨナラなんて、まさかね。ピッチャーでいえば完全試合みたいなもんや。もちろん今シーズン最高の当りや。まだドキドキしているわ」無理もない。この8号で通算三百二十四本、満塁ホームランは六本になるが、決勝満塁は初めてだ。ふつうの息づかいになるまでに二分ほどかかった。野村らしい細かい分析が出てきたのはそのあとだ。「1-3になったとき、ヒットは打てると思った。いつもならスナップをきかせて投げてくる石井茂の手がカチカチにこわばっている。絶対ストライクがくるという確信もあった。外角低めのスライダーだったが・・・」ヒットを打てば同点になる。歩くつもりはなかったそうだ。「きょうもフリー・バッティングでは悪かった。半田コーチからグリップがさがっている。胸のマークよりまだ下だといわれた。そういえば最近高めの球が打ちづらくなっている。グリップに気をつけて打ったのがよかったのかもしれん。打ったのは低めだが、高めが打てない、打てないと悩んでいるとほかの球にも手が出なくなるんだ。四、六回にヒットが出たし気分もよかったな」九回の攻撃が始まったときベンチで冗談をいった。「ワシまで回ったらサヨナラ・ホームランを打ったるで」その通りになった。期待もしていなかった勝ち投手になった村上がわざわざ握手を求めにきたとき「お前大もうけやな」と手を出した野村の顔は晴れやかなものだった。あすは日曜で幼稚園が休みの長男・陽一君(5つ)が久しぶりに正子夫人と観戦していた。この陽一君の手を引いて引きあげる野村に黒だかりになって待っていたファンが「バンザイ」を連呼していた。
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川畑和人

2017-03-25 21:25:54 | 日記
1966年

東京オリオンズが新人選手選択会議で交渉権を獲得していた鹿児島実・川畑和人投手=1㍍79、72㌔、右投げ右打ち=と東洋大三高・五島長登志遊撃手=1㍍78、75㌔、右投げ右打ち=の入団が内定した。また三島南・井深均投手、三重・水谷清仁三塁手は、進学を希望しているため、入団交渉を見合わせることにした。川畑は1㍍79という長身から速球を投げ込む本格派で、その速球の威力は超高校級の折り紙がつけられていた。川畑自身も早くからプロ入りを希望し、自宅を訪れた白川スカウトと二度の話し会いでオリオンズ入りをきめた。なお、契約は二十六日午後、青木チーフ・スカウトが鹿児島県・川内市の川畑の実家を訪れて行なう。また、五島も三浦スカウトが甲府の東洋大三高を二度訪れ、交渉をしていたが、五島から「プロ入りします」と内諾をとっているので正式契約は二十九日以降になる。
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高垣義広

2017-03-22 20:56:17 | 日記
1966年

近鉄バファローズは、ことしの第一回新人選択会議で交渉権を獲得した高垣義広投手(鳥取西高)との交渉権を放棄することになり近くコミッショナーに届け出る。高垣投手は右投げの本格派投手で、中国地区では屈指の好投手といわれ、九月の第一回選択会議で巨人、阪神、大洋、広島、南海、近鉄の六球団がリストアップしていた。

1967年

雪どけのため、ここも三十分遅れて練習開始、卒業試験で帰郷していた新人高垣投手(鳥取西高)が母親といっしょに姿をみせた。他の投手陣と同じようにハッスルしていたが「むこうでやっていなかったので、バテますヨ」といいながらもさっそくブルペンでピッチングをはじめた。これをみた三原監督は「あまりムリをするなヨ」と声をかける。だが、タマを受けた小川はびっくり。「北角(中日)みたいなフォームだ。いいピッチングをする」と感心していた。
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田尻茂敏

2017-03-22 20:49:05 | 日記
1966年

サンケイアトムズは、二十一日、さきの第一回ドラフト会議で交渉権を獲得、小山、宇高両スカウトが入団交渉をつづけていた熊本一工高の田尻茂敏投手(18)=身長1㍍74、体重68㌔、右投げ右打ち=の入団が内定したことを発表した。これは十八日午前十時三十分、熊本空港着の全日空機で熊本入りした宇高スカウトが、熊本県宇土市本町になる同投手の実兄、田尻清司さん宅で、本人、母親の要(かなめ)さんらと話し合いを行ない、二十日に入団の承諾を得たもの。田尻投手は、速球と外角に食いこむカーブが武器の本格派。上手から投げこむ直球は、高校球界では屈指の好投手といわれた。今夏の甲子園大会地方予選では、県予選で3試合完封勝ち、中九州地区大会決勝で、惜しくも津久見高に2-5で敗れはしたが、九州一と評判の高い別府鶴見ヶ丘高の大場投手(中日入り)に投げ勝つほどの力をみせた。サンケイは、九月の第一回ドラフト会議で交渉権を獲得すると、小山スカウトが熱心に入団を勧誘。一時は専大進学説もあったが、宇高スカウトも乗り出しての熱意ある入団交渉が実を結んだ。なお、田尻投手は、三十日に、母親要さんとともに上京、身体検査をうけたのち正式契約する。

田尻選手の話 「家族もプロ入りに賛成してくれましたので、アトムズのお世話になることになりました。ぼくは上から投げる正統派のピッチャーですが、すぐ第一線でやろうというような欲は出さず、二、三年先を目標に、みっちり練習するつもりでいます。村山さんや小山さんのようなピッチャーになるのがぼくの夢です。いまは、もっぱらランニング、体操でトレーニングをつづけていますが、春のキャンプには最初から参加して一日も早くプロの水になれたいと思っています」
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木原義隆

2017-03-20 17:09:31 | 日記
1974年

広島投手陣のなかでは最年長、三十二歳の木原が、ことしは巨人のように燃えている。四月二十四日の大洋戦で、チーム初のセーブポイントを獲得した。二十七日の阪神戦ではテーラー、中村の一発を貰って失敗したが、救援の切り札として貴重な存在である。制定されたばかりのカムバック賞にも希望のふくらむ木原だが、再起の原因はいったいどこにあるのだろうか。二十四日の大洋戦は、ことしの木原を象徴していた。1点差に追いつめられた大洋の一死二塁。ここで木原が出た。相手はリーグでも最強のクリーンアップ。が、木原はシピンに四球を与えただけで楽に逃げた。以後は6安打だけ。先発金城に今季初の勝ち星をプレゼントした。昨年は肩を痛めたこともあって、連日バッティング投手をやらされた。そのなかで球威の衰えを知った木原は、力から技への転換を図った。ことしのオープン戦8イニングで防御率1・13も大きな自信となった。しかし現在の木原が形づくっているのは精神面だ。昨年、広島の監督に迎えられた別当薫氏(現評論家)と木原はどうも合わなかった。皮肉なことに近鉄、大洋、広島と木原がチームを代わるごとに別当さんが後からやってきた。同時に木原の出番は失われていった。昨年は大洋3回戦で2イニング投げただけ、最後まで別当さんの口から「木原」の名前は出なかった。別当さんの好みは力で押す本格派である。木原は対照的なタイプ。しかも肩を痛めていた。木原は人一倍意気に感じる男だ。少々方が痛くとも信頼されているとなれば望んで連投もやる。それだけに戦力外に置かれたときの苦しみは並みでなかった。「てっきりクビだと思っていた。そうなったらテストを受けてもセ・リーグのチームに入り、意地でも広島に恩返ししてやろうと思っていた」そうである。もとより、ことしも広島の監督さんを別当さんと見てのうえだった。クビがつながったばかりか、キャンプのさなか森永監督から「きみのようなベテランがうちには必要だ」と聞かされていた。木原の血が燃えた。「ことしはランニング一つにしても、力の入れ方が違うんですよ。ぼくっていうのはそういう男です」と木原は言った。対大洋戦でセーブを得たときの木原は素直に喜んだ。そこに一年間の苦悩が感じられた。「最も大事な場面で起用してもらった。その喜びは口で言い表せない。だって投手にとって一番やりがいのある仕事だもの」救援は地味でしかも責任は重い。木原はその仕事をあえて望んでいる。首脳陣が「貴重」という意味はここにあるのだ。「肉体的にはまだ二十四、五歳。脂肪のない体で、どちらかといえば衣笠の体質ですね」とは福永トレーナー。「試合に出してもらえるだけでうれしいんだ。それなのに救援の切り札として扱ってくれるんだから・・・」と木原の言葉には辛酸をなめ尽くし、損得を超越した男の味が感じられる。勝ち星への執念はすでにない。「ただ自分の持ち味を出すピッチング。チームへの貢献を心掛けているだけ」目下5試合、11イニング1/2で自責点は2・08の好成績。体調に狂いさえなければカムバック賞も望める。
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阿部良男

2017-03-20 15:34:51 | 日記
1974年

太平洋ライオンズから阪神に移った阿部外野手が、二十九日、甲子園球場で練習しているナインに合流した。福岡市のトレーニングセンターで体を強化していたとはいえ、広々としたグラウンドでの始動は感じがまったく違う。ましてや新天地のライバルを目の前にすれば自然に気合もはいる。強化体操、ランニングと取り組む顔にそのファイトがにじみ出ていた。「福岡でかなり動いてきたつもりだが、みんなと一緒にやるとやはりきつい。それにライオンズ時代はランニングが主体の練習だったが、阪神は体操の時間が多い。しんどい体操だし苦しいですね」トレーニング方法の違いに戸惑ってはいたが、佳代夫人と今月の四日に誕生したばかりの幸恵ちゃんに飛躍を誓って、前日、大阪入りしたばかり。きびしい練習にも歯をくいしばってがんばっていた。その表情には今シーズンにかける意気込みもあらわれていた。「もうしばらく福岡へ帰ることはないでしょう。合宿に荷物が届くまでは姉のところから球場通いしますが、外野の一角を目標に勝負してみます」この日は、田淵、藤田平、上田らがゴルフで欠席したため、主力との顔合わせはなかったが「心機一転に」と買い込んだ赤い新しいグラブを手に「なにか目だつことをしないと忘れられるといけないからね」と冗談をいっていた。練習後の顔色はよく、体調は万全のようだ。こんな阿部の印象を梅本トレーニングコーチは「体はナマっていないし、動きはなかなかいい。まだ一日だけで評価は出来ないが、バネもあるし、かなりやりそうだ。期待してもいいんやないかな」といっていた。トレーニング初参加で阿部のシャープな動きは早くも目にとまった。だが、きびしい戦いはこれからである。彼の実力、立場からみても勝負はキャンプからオープン戦にかけての二ヶ月間だ。左腕攻略が優勝のカギを握っている阪神。左投手を得意とする阿部には明るい材料が待っている。
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阿部良男

2017-03-20 15:20:22 | 日記
1974年

野球から解放された時、いつも頭に浮かんでくるのは長女幸恵ちゃん(一か月半)の顔。「今ごろ何しとるやろ思い出しては一人ニヤ。もう一ケ月近くご対面していないのだから無理もないが、わけのわからない者から見れば「こいつ、アホかいな」と思うだろう。だが、ことしの一月四日に誕生したばかりの一粒種幸恵ちゃんの顔を思い出している時には、周りのことなど全く無関心。親バカという言葉があるが、阿部もその一人だ。「生まれてから一緒にいたのは一ケ月足らずだが、風呂へ入れたこともあります。でも、まだ目の見えない時だし、笑いもしなかった。いま三日に一度くらい女房に電話して状況を聞くんですが、最近、笑うようになったらしいです」練習後、それも特訓が終った直後にこの話に触れたのだが、疲れなど一気にすっ飛んだような顔。表情はゆるみぱなし。そして「外出して同じ年ぐらいの赤ちゃんを見ると無性に会いたくなる」つい相手になりたいような気持ちになるらしい。現在奥さんの実家、福岡市東区箱崎でスクスク育っている幸恵ちゃん。「一か月近くも会っていないから、もう大きくなっているだろうなあ、顔も変ったやろか」プロ生活の勝負をかけている厳しいキャンプだが、このひとときが阿部に安らぎを与え、英気を養ってくれる。「まだ目も見えない時別れてきているし、今度会ったら、どこのおっさんが来よったのかと思われるんじゃないかな」自信?は持っているらしいが、真っ黒に日焼けしたいかつい顔の阿部だ。こんなことを心配しながらも、大きくなった幸恵ちゃんとの再会を待ちわびている。
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井洋雄

2017-03-20 13:32:39 | 日記
1958年

日鉄二瀬のエース井洋雄投手(21)の入団は広島カープにとってことし最大の収穫だった。ノンプロで技巧派ナンバーワンの定評ある井は、夏の都市対抗では久慈賞に輝き、今秋の産業対抗大会で優勝投手となり有終の美を飾った。濟々黌から日鉄二瀬に入社、わずか二年半でノンプロ球界屈指の巧投手にのし上がった。頭脳的ピッチングとプレート度胸は見あげたもの。経験、技術ともに信頼できる。ピッチングはいわゆる頭脳投法だが、これは彼の体力からきたもので、1㍍75の身長に反し体重はわずか65・5㌔と軽量だ。体力の消耗が激しい投手としてはいささかものたりないウエイト。巨人の藤田投手に似かよったからだつき、やや球は軽いが、最大の武器は外角に決まるカーブと快速球だ。またその球のコントロールがよく威力を増している。いわゆるウイニング・ショットとなるわけで、配球の妙は抜群。しかし欠点はある。シュートに力がなく、またときたま大きくくずれることだ。スタミナ不足にも起因しているようだ。ノンプロの三井田川炭鉱の野口正明監督がいっているように「調子のいいときは手がつけられない。彼の長所は外角球のスピードとコントロール、シュートに研究の余地があるが、打者との駆け引きなど新鋭とは思えない。欲をいえばバネがほしい。十五、六勝はできる」しかし藤田同様球が軽い。これとスタミナが井投手の課題となろう。長身から外角低目いっぱいをつく速球はカミソリのような切れ味がある。オーバーハンドからスムーズなフォームだから角度もあるわけだ。ノンプロからプロ入りしたなかでは北川(日本ビールー国鉄)と肩を並べる存在だ。同僚の江藤捕手とともに今月で日鉄二瀬を退社するが「家庭の事情で大学志望をとりやめたが、いずれにしろプロ入りする決意には変わりなかった。幸い二瀬の濃人監督の暖かい指導で、一人前としてあつかってもらえるようになり、こんなうれしいことはない。この恩に報いるにはまず、プロ入り第一歩の新人王を獲得することだと思っている。希望はできるだけ大きく持ちたいですよ」と喜びを語った。
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