プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

近藤真市

2024-11-30 16:41:00 | 日記
1987年
この日の先発は「きょう言い渡されました。ジャイアンツ戦だからはいと答えました」という近藤投手。「最初、マウンドに上った時は、足がふるえていた」というが、ピッチングの方は得意の大きなカーブと140㌔台の直球、そして「二、三球投げた」というフォークボールがさえにさえた。

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太田貴

2024-11-30 16:38:33 | 日記
1993年
二年ぶりに先発した太田の粘り強い投球が阪神を救った。プロ入り初勝利をあげた五年目の投手は感想を聞かれ「めちゃくちゃうれしいです」と声を上げた。五回まで被安打4、1点に抑えた。五回を除いて、毎回得点圏に走者を背負いながら、要所を締めた。力いっぱい投げても135㌔そこそこの直球を見せ球にし、スライダーやチェンジアップを低めに配した。内角をえぐる球が効果的だった。

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郭李建夫

2024-11-30 16:34:59 | 日記
1993年


もう一人忘れてならないのは郭李。フォークボール、スライダー、パームボールの切れが鋭い。だが直球が素直で伸びがない。

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弓長起浩

2024-11-30 16:33:06 | 日記
1992年
「島尾が頑張っていたから、何としてもこの試合をものにしたかった」と好救援の弓長。七回、一死満塁のところ大ピンチで登板し、駒田を併殺打。九回の一死二塁も、大野雄、藤田の右代打攻勢をしのいだ。カーブを軸にしながら、決め球に思い切って速球を使った配球が光った。


弓長は左腕。右打者の外角にスクリューボール、内角にカーブを制球よく決める。「抑え向き。左打者、右打者を問わず打ち取ってくれそうだ」との大石投手コーチの見方は身びいきではない。


リリーフエース候補の方は弓長が一番手。得意のスクリューボールを生かすためにスライダーを覚えた。いま低めの直球に威力をつけることに力を入れている。


1993年


得意のスクリューボールにスライダーをマスターした弓長が当然、抑えのエースだろうが、「もう一人欲しい」と中村監督が言うように山崎、竹内に期待がかかる。


1998年


弓長の沈むシュートに空振り三振。


初球弓長のシンカーをいとも簡単にとらえ二塁打。

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郭李建夫

2024-11-30 13:32:51 | 日記
1993年
この男だからこそ、評価は厳しいものとなる。「もう一つやな。内容的にもう一つや。物足りなさを感じます」第三の外国人・郭李の初の実戦テストに対する中村監督の言葉は手厳しかった。及第点をもらえなかった郭李のピッチングがどんなものであったかー。先発として控えクラス相手に3イニングを投げ、打者10人に対して、ノーヒットピッチング。1四球を与えたものの、結果はピシャリ零封。しかし、指揮官の目から見れば、不合格でないにしても、合格とも言いがたいものだったのだ。今はどのくらいの状態か?練習を終えた郭李を取り囲んだ記者から、この質問が出ると郭李は難しそうな表情を浮かべて考え込んだ。「そんなのは分からない。何割ぐらいなんて言いにくいよ」あえて言った答えは「80」マイナスは20点だったが、そんな様子が、郭李自身まだまだスッキリとしない。本物の状態であることを物語る。「シート打撃の時よりは良かったけど、コントロールがまだちょっと。外角はまあまあだったけど、内角が。いい時は思うとおりに投げられるんだけど」と郭李。確かに初回は、力みが出てコントロールが定まらずボールが先行。桧山にはストレートの四球を与えた。しかし二回からはフォーク、スライダー、カーブと変化球を巧みに操った。フォークで三振に取られた中野に「落差がすごいよ。直球とフォークの2球あれば大丈夫なんじゃないの」と感嘆の声を上げさせたほどだった。それだけではない。郭李の打者を見る目には、山田が驚かされていた。「金子さんには初球から(サインに)首振ってフォーク投げてきたり、打者をよく見てるんです。ピッチングセンスって言うんですかね」と。しかし、まだまだこんなものでは満足できないー。これが指揮官の思いだ。この争いを繰り広げる郭李には、もっともっと高いレベルで競い合ってもらわねば、それだけの能力があることの裏返しが厳しい評価になるのだ。注目のオープン戦登板も三月九日の西武戦にはほぼ決定した。「変化球のコントロールも、球の走りもまだまだ。あんなものではないはずだ」中村監督の言葉に、郭李も燃える。「九日には大丈夫です。前より、もっとよくなっていくはずです」今度こそ、監督をうならせるピッチングをするつもりだ。

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沼田浩

2024-11-29 21:15:17 | 日記
1995年
日本ハムのドラフト3位、沼田浩投手(22=デュプロ)が大阪・堺の実家で渋谷、木村両スカウトから条件提示を受け、契約金8000万円、年棒1000万円で仮契約した。背番号は12と決まった。ドラフト会議直前まで他球団に社会人残留を示唆した最速152㌔の「隠し玉」右腕だ。「僕は地道なタイプ。ハングリー精神があります」と自己アピールも怠りなかったが、実は上手、横手、下手と腕が3種類の角度から出る幻惑投法が売り、社会人1年目には上手投げ。「制球を重視し、3年目にアンダースローにかえ、今年4年目は横手で投げてたんです」下手投げでも球速は140㌔を優に超えていたという。今夏の都市対抗予選、本戦では右かかとを骨折しながら、合計6試合を気力で投げぬいた。実家の堺は毒グモ騒動に揺れているが、他球団スカウト陣の目をかいくぐっての日本ハム入りし、スタミナ万全の変幻投法と、何やらクモ男のムードタップリ?「クモですか?うちの方は幸い、騒動も関係ないですよ」と言う沼田は、「プロ入りに不安はないです」ときっぱり言い切る。ドラフト隠し玉の存在以上にマウンドでも他球団を驚かせる上田日本ハムの秘密兵器になりそうだ。




1997年


日本ハム上田監督のかけは吉と出た。どん底のチーム状態、5位転落の危機を今季初先発の沼田が救った。「よう投げた」上田監督の汗ばんだ顔が久しぶりに緩んだ。「すごく緊張しちゃって」と初回か2死から、連打で瞬く間に先取点を奪われた。このままズルズル…が今季の日本ハムの悪いパターンだったが、打線が奮起して3回までに7点を挙げて試合をひっくり返した。「打線に勇気づけられました」しだいに緊張が解け、縦・横のスライダーとチェンジアップで西武打線を翻ろう。4回から7回まで無安打の3安打ピッチングで役目を果たした沼田は「自分をほめてあげたいです」と笑った。150㌔右腕も昨年のキャンプで右肩を痛め、半年間を棒に振った。少しでも肩の負担を減らそうと、今春のキャンプでは山根二軍投手コーチとマンツーマンでフォーム改造に取り組み、スリークォーターからサイドへ腕を下げた。この日は制球を第一に考え、スピードは控えめだったが「まだまだ伸びますよ。今後も先発でやってもらう」と、上田監督はローテ入り合格を明言した。チームも低迷して選手もおとなしくなってしまったが、ひと際静かな沼田が堂々言い切った。「残り試合、オリックスをおびやかす戦い方をしたい」今の日本ハムに必要なのは、これだ。




1998年


粘って粘ってゲームセットまで投げ続けた。日本ハム沼田が、3年目にしてプロ初完投のゴールにたどりついた。3球のチェンジアップを除けば直球とスライダーだけ。派手さはない投球に2年間の苦労が込められていた。入団当時の沼田は、150㌔を投げる剛速球投手だった。「でも速球に頼り過ぎてしまい」(沼田)右肩を壊し、サイドハンドへの転向を強いられた。「速球への未練はなくなりました」とようやく笑えるようになった。直球の最速は138㌔まで落ちたが、緩急と低めへの制球で勝負。この日も五回表の平井の左前安打まで外野への打球はなく、8回には130㌔の直球でフランコのバットを折った。今季2勝目でチームを再び単独首位に導いた沼田。上田監督は「(先発)4人目に計算してもいいだろう」と合格点を与えた。女房役の野口も「低めに投げれば抑えられる。そういう野球を初めて知りました」本塁打攻勢だけでなく、粘る地味な野球が日本ハムに備わってきた。

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益川満育

2024-11-26 20:50:39 | 日記
1974年
「ことしもファームだ」という気持ちで、湯之元入りした益川。ひとよりも5㌢ほど長い腕をぶらぶらさせながら、仲のいい小林、永尾と組んでトスバッティングをやっていた。キャンプ初日からこんな気持ちでキャンプ入りしたのはわけがある。投手陣の軸となっている安田や渡辺などより上位にランクされながら入団したが器用貧乏。二年間はきょうな内野、あすは外野というのその日暮らしの連続で、田口二軍監督にクレームをつける毎日だった。本人ももうべんり屋がしみ込んでいた。ところが、益川の長い腕が注目された。目をつけたのは広岡コーチ。直感なのだろうか「いける」だった。からだのこなしもグラブさばきも日本人ばなれしている。一人、沼沢コーチも、ハッとしてそうだ。「広よ、あれおもしろいな」「うーん、赤坂コーチにきいたら100㍍を11秒台で走るという。二、三日様子をみようか」キャンプ前の予定では永尾を育てることにし、東条とポジションを争わせるつもりだった。ところがその永尾の相手をしていた益川が、突然に浮かび上がった。イタリア系アメリカ人の父親、ポール・ペチュタさんは朝鮮戦争で益川が一つの誕生日を迎える前に死んだ。それからはおばあちゃんのテツコさん(68)の手で育てられた。時代が時代だけにアイノコとからかわれ、けんかの連続だった。父親を恨み、母親の民子さんにも文句をいった。その民子さんは益川が五つの時に再婚した。小学校、中学校に入ってもけんかで明け暮れた益川の前に現れたのが、秋山武一さん(現初芝高校野球部長)だった。「マイク、ひとつ野球をやってみないか」親身になって話しかけてくれる人がいなかった益川は有頂天になって野球ととり組んだ。それが実って興国時代には四番バッターとして五十回大会に出場。四割四分と打ちまくって全国制覇の王役になった。野球をつづけるつもりで進んだのは近大。ところが、病院の給食係をやりながら学費をねん出するおばあちゃんの姿に耐えられず退学。日本熱学に工員として入社した。ヤクルトのスカウト陣に発掘されたのは、それから二年目。「ヨシ、一流になっておばあちゃんい家を買ってやろう」と意気込んだ夢も、徐々に崩れかかっていたやさきに広岡コーチの目にとまった。「こんな気持ちで野球に取り組めるのははじめて。楽しいもんですねえ」とマイクはいう。父親からゆずり受けた長い手と強肩にものをいわせ、目の前に飛んでくる猛ゴロを受け止める。一塁への送球も矢のように速い。腕が長く、ふところが深いから少々のイレギュラーもこたえない。「うちの堯にあのうまさと肩があったらなあ」と、いまでは荒川監督をうならせるほどだ。「みんな広岡さんのおかげ。この気持ちをわすれずにやります」益川はホリの深い顔に笑顔をうかべる。だが、問題はバッティング。リストの強さは山下に次ぐものを持っているが、いまはまだ、それを生かし切れない。二十日は左翼場外にとてつもないホームランをとばした。「うん、きっとモノになる。これはうちの…」広岡コーチのこの話、あとには「スター」とつく。

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幸田優

2024-11-26 20:34:32 | 日記
1959年
大洋の先発幸田は既にオープン三度目の登板、森監督も三回までなら安心してみておれると期待している若手投手だがこの日もシンカーとシュートを武器に五回まで国鉄打者に二塁を踏ませぬピッチングを発揮した。ただ回を重ねるにつれ打者に対する投球数がふえてゆくのはスピードが減退するためで、いま一息のスタミナをつけることが大切だろう。

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浦西美治

2024-11-26 20:33:53 | 日記
1959年


中日では七回から登板した浦西が大きく割れるカーブにも制球力を増し、西鉄の田中喜とともにピッチングに自信を加えていた。

スピードはそれほどでもないが、くせのあるボールを投げる。ことにカーブは中山伊奈より大きいのでほとんど打たれない。このカーブが右から左への強風によってさらに効果をまし、南海打線を屈服させた。外角へはいるのがはずれているようにみえるし、内角はボールでもつい手を出してしまう。天知ヘッド・コーチは「いままではあのカーブがみなすっぽ抜けになっていた」と語っていたが、まずは好投の部類に入れてよさそうなできだ。ただしストレートに威力がないので、こんごはシュートをうんと研究する必要がある。はじめのうちはウンウンと声をあげていたが、これは力がはいりすぎてよくない。「新人では板東、河村、成田のほかに浦西をうんと使ってみたい」という杉下監督の期待にこたえるようがんばってほしい。初勝利おめでとう。


浦西投手は今年入団した新人左腕投手。オープン戦では新人離れしたクソ度胸で目を見張らせるピッチングを演じた。その球威を認められて今シーズンはすぐ一軍入り。開幕後は絶えず一軍選手たちと行動をともにして、練習に励んでいた。いままでは、つなぎ投手で7試合に登板、さあいよいよこれからという矢先にきき腕の左肩を痛めてしまった。六月の二十三日、中日球場で行ったウエスタン・リーグの対阪神戦で先発に登板、ゲームで投げている最中に突然、左肩に激痛を感じたので、すぐ交代した。その後痛みが減るどころかついにヒジまで痛みはじめ、左手をふってもビーンとくる始末。上京して小森トレーナーのもとで治療に専念しているが、原因は不明。キャンプでは腕と腰がバラバラのピッチングで制球力も悪かったが、最近では投球もスムーズになり、得意のカーブの制球力も安定してきただけに、本人は気の毒。チームの幹部たちもガッカリしている。

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江崎毅

2024-11-26 20:17:48 | 日記
1981年
高校時代は硬式だが、ノンプロでは軟式という変わりダネ。下手投げからシュートとシンカーが武器で、C級だったチームを強チームにのし上げた。うまく育てば大野(広島)級になれる。萩原健一の大ファン。

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津野浩

2024-11-25 18:52:22 | 日記
1993年
津野は阪神戦7イニングを無失点に抑えており心強い。前回の対戦でも、中継ぎで好投。勝利につなげた。復活したSFF(スプリット・フィンガード・ファストボール)と二種類のフォークで猛虎打線をかわす。

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嶋田哲也

2024-11-25 18:49:51 | 日記
1993年
三年目の嶋田哲が再び株を上げた。紅白戦に続いてこの日、状況設定のシート打撃で快投を披露。切れ味鋭いフォークとスライダーで10打者をノーヒットに抑え込み、ポスト野田へ強烈アピールした。「バッターがまだ振れていないだけですよ」と謙そんしたが、本音は違う。昨オフに結婚したばかり。今キャンプではブルペンエースの名を返上しようと、とにかく実戦で結果を出すことに取り組んできた。「マウンド度胸の弱さ克服が課題だけど、先発五人目へ大きなチャンスだよ」と指揮官も評価し、二十八日、高知・春野での対西武オープン戦の先発も決定。その内容次第では、以後の登板機会も当然増えてくる。

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竹内昌也

2024-11-25 18:43:11 | 日記
1992年
阪神から2位指名された竹内はMAX145㌔のストレートが武器。中村監督も「即戦力の抑え候補」として熱い視線を送る本格派右腕である。秋田県出身。本荘高校二年の夏に甲子園出場。1回戦で八幡商に0-6の完封負けを喫した。NTT東北に入社してからは三年間で公式戦17勝1敗。速く、重いストレートにスライダー、カーブを交え、この秋の日本選手権ではベスト8進出の立役者にもなった右腕だ。

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郭李建夫

2024-11-25 18:34:33 | 日記
1993年


注目の新外国人選手、郭李がシート打撃に初登板した。木戸、久慈ら打者十二人に対して被安打2、四球1で、三振2を奪った。2本の安打も会心の当たりではなく、また、萩原のバットを折るなど球の重さを印象付けた。「感じとしては結構よかった。気持ちよく投げられた」と郭李は満足そう。最高141キロの直球のほか得意のフォークボール、カーブ、スライダーを多彩に投げ分けた。


郭李の投球にスピードガンが持ち込まれたのは、この日が初めてだ。捕手の後ろで、三宅チーフスコアラーが構えた。その直前には捕手を務めていた有田コーチがミットをほうり出して、西口捕手と交代していた。「怖くなって代わった。手元でものすごい変化をするんだ。巨人で捕ったことのあるサンチェのような感じだ」とケンプボール(ムービングファストボール)の威力に、改めて驚かされていた。しかし郭李自信はケンプボール以上に、実は「速さ」にこだわっている。そんな中で三宅チーフのスピードガンは「145㌔」を記録した。もちろんまだ全力投球ではない。本人は「全体では60%の出来」と言うのだ。「平均で140㌔前後です。まあ145㌔ということより、初速と終速のスピードの差が少ない、いわゆる伸びのある球というのが特徴です」と三宅チーフ。中村監督は「楽しみだねえ」と連日、ただただ褒め言葉を並べるしかない。台湾時代の最高が、バルセロナで記録した153㌔。「もちろんまだまだ速くなる」と郭李自身は言い切る。


揺れる、シュートする、スライドする…。「いまのはパームだろう?」「いや、スライダーじゃないの?」ネット裏に陣取った首脳陣も球種選定に戸惑うほど、そのボールはさまざまな変化を見せた。本邦初公開だ。これがウワサの七色中華フォーク。この日、シート打撃に初めて登板した郭李が披露したウイニングショット。「勝負どころでも平気で…あれは絶品だよ」トラの銀腕の本領発揮に、思わず嘆息した指揮官である。「きょうはフォークの出来が良かった。でも、困ったらフォークってこともないよ。台湾時代にもいろんな変化球をミックスして投げていたからね」MAX141㌔。本人も速くなかったと認める通り、ストレートには依然バラつきが多い。「ストレスもたまっているだろうし、何より体中が張ってる状態じゃないの」途中からマスクをかぶった木戸も「仕上がり50%」と位置付ける。だが、このウイニングショットだけは別だ。見逃し三振に仕留められた関川が「佐々木(横浜)よりすごい」とうなる。木戸の打球を右足甲に受けた後も、平気な顔でマウンドへ。1、2球のカウント球からどんどん配してくるフォークに、どの打者もアキレ顔だった。加えてケンプ・ボール(ムービング・ファストボール)に「こっちの方がいい」と山田が言う高速タテ割れスライダー。それに上田投手コーチからリリースポイントのアドバイスを受け、低めへ決まるようになったカーブと、すべてのボールが判別しにくく打ちづらい。ボンヤリとしていた郭李の神髄が、これで中村監督の目にも明確化したはずだ。「やっぱり実戦派なんだなあ」二十四日の紅白戦を経た後、早ければ三月九日、甲子園での対西武オープン戦で七色中華フォークが対外試合先発デビューする。
 
1999年


今季、阪神からCPBL和信に入団した郭李建夫投手が、3月16日の対三商戦に先発し、8回を投げて被安打6、奪三振8、四死球3、2失点の好投で、初勝利をマークした。6回まで完璧なピッチングであったが、7回から球威が落ちて2失点。しかし、中学、高校とバッテリーを組んでいた黄釣瑜捕手は「ストレートとチェンジアップが良かった。これから投げ込んでいけば、もっと良くなる」と語り、李来発監督も「見通しが立った。これで五輪時のフォークが投げられれば、二ケタいける」と大喜びであった。

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山崎一玄

2024-11-25 16:35:39 | 日記
1994年
阪神の山崎がプロ初完投、初完封勝利を挙げた。山崎はフォークボールを多投して、うまく打者のタイミングを外した。6安打、7三振、4四球の内容。1か月ぶりの2勝目を挙げた。


「落合さんや松井などを特別意識しないように投げた」気持ちで絶対に負けない。投手として最も大事なものを持ち、それを実践できる技術もあった。最高でも140キロの速球。これはフォークボールをはじめ変化球を絡めるが、制球が抜群にいいわけではない。しかし、山崎は松井、落合の主軸に対しても堂々と勝負だ。


山崎を見てて気付いたんだけど、彼のストレートは普通の日本人のようにスーッと来る真っすぐじゃないね。アメリカに留学(二年前)したことがあるそうだが、向こうのピッチャーが投げるカッティングファストボールを投げている。この球は微妙に変化しながら打者に近づいてくる。巨人打線に内野ゴロが多かったのは、しめたっーと思って振っても、バットのシンを外されていたからだ。

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