プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

レイ

2016-02-25 19:00:47 | 日記
1974年

日本ハムはレイの力投でこのカード最終戦をものにした。三回一死後、八重沢の三飛を落としたビュフォードのエラーを日本ハムは逃さなかった。制球に苦しむ河原は島津を歩かせた一、二塁で末永に中越三塁打されて2点。さらに千藤の左前タイムリーがつづいた。レイはノーワインドアップから力のある速球を決めて四回まで三人ずつ。五回無死から2四死球を出し、伊原に左前に打たれ1点をとられたが踏みとどまった。太平洋打線はスピードのあるレイの球を大振りして、結局伊原の一安打だけ。7三振を奪われ、つけ入るスキが全くなかった。

日本ハムのレイがあわやノーヒットノーランの快投を見せた。許したのは一安打で、その伊原に打たれたタマは「スライダーだった」という。しかし、少しも残念がらずに完投を喜ぶだけ。「記録なんて全然考えなかった。みながよく守ってくれたおかげだ。キャッチャーもうまかったし・・・」捕手大沢はファウルフライを落としたり、キャッチングでも不安だったが「ハッピー」を連発するレイは「捕手のおかげ」と、盛んにほめあげていた。
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加藤英治

2016-02-07 16:05:34 | 日記
1966年 PL学園・投手 1㍍82、73㌔、右投右打、3年

昨春の選抜で甲子園のマウンドを踏んだ加藤英。上背こそあったがモヤシのような感じだった。それからまる一年。夏休み中は、練習時間以外でも走りまくった。大阪の丘陵地羽曳野にあるPL教団本部の約千坪の敷地にはゴルフ場というアップ・ダウンの激しい恰好のトレーニング場があり、ここで汗をしぼった。合宿研志寮の寮長も兼ねる上原監督は「上級生がいたころは、遠慮がちなところがあったが、新チームになってから、自分がやらなくてはという気になってきたとうれしそうだ。この一年で5㌔も体重がふえ、肩まわりがぐっと大きくなり、たくましいからだになった。「昨年はカウントを整えようとしていかれたケースが多かったが、最近はコントロールに自信らしいものがでてきました。目下スライダーを研究中です」日焼けした顔は自信にあふれている。昨秋の近畿大会では一回戦で伏兵の県兵庫高に2-1で敗れている。最終回、一死満塁に死球のサヨナラ負けで「いい勉強になりました」と頭をかく。やる気を出してきたのは、控えの左腕・加藤秀がものすごいピッチで追いかけてくるからだ。「ライバルは水谷君(三重高)仲田君(育英高)などほかの学校の投手ではありません。秀司(ひでじ)ですよ」全力投球三百球、レギュラーバッティングと快速球を投げ込む。静岡県榛原郡榛原町にある川崎中三年の途中でPL中に転向した六人兄弟の末っ子。好きなようにやれといわれています。野球をとことんまでやってみたい」そうだ。そして「優勝ですか?もちろんやってみたいですね」ともいう。上原監督は「あれだけの上背があるんだから、ピリッとしたドロップをマスターしたら鬼に金棒なんだが・・・」と注文をつけている。
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東出康博

2016-02-07 15:48:32 | 日記
1968年(高校時代) 星林高・一塁手

プロ野球選手の中には、得意のノドを披露したり、ギターをかなでる選手が多いが、東出も音楽好き。しかもこっている。作曲までやっている本格派だ。音楽科目で作曲の宿題がでたのがキッカケだ。「なんの気なしに作った曲が、自分でいうのもおかしいけどうまくいった」それが作曲のやみつきになる。作詞はむずかしいため、現在は気にいった歌詞を拝借して、すでにレパートリーは四曲にのぼる。ほとんどフォーク調だが、グループ・サウンズのタイガースのファンで、これからはテンポの速い曲も作るという。「うちは女生徒が多い関係が全般的に男生徒がおとなしい。東出も気はやさしくて力持ちです。しかしファイトは一番ですね」というのは木津野野球部長。父親喜好(きよし)氏(43)が鮮魚仲介業を営み、冬のオフ期間を利用し、毎日朝三時に起床、いせいのいい魚屋仲間相手に家業を手伝う。ユニホームを着ると生きがよくなる。バッティングは豪快そのもの。ポジションから体格、フォームまで元阪神の藤本氏にそっくり。新チーム以来14試合に54打数23安打、打率四割二分六厘をマーク。打点17、2ホーマーでチームの三冠王。和歌山県から共に甲子園に出場する箕島高にはファイトむき出し。「甲子園では箕島以上の成績をあげたい。東尾と当ったら絶対打ってやる」1㍍78、78㌔、右投右打、三年生。
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松村彰士

2016-02-07 15:36:27 | 日記
1968年(高校時代) 御所工・内野手

エース山口の成長で昨年夏の大会後、投手から三塁にコンバートされた。体格に恵まれた大型三塁手だ。「成長株の№1.研究熱心でだまっていてもひとりで練習しますよ」と小林野球部長はいう。投手時代は高田市の自宅にかえると毎晩シャドー・ピッチングをやっていたが、練習で納得がいかないと、とことんまでやる努力型。「ノックのときなどよく泣きますが、最後までついてきます」新チームになってから61打数10安打、打率二割二分九厘はいい成績ではないが、長打力はある。練習後にはティー・バッティングでたっぷり打ちこみ、最近では左、右に打ちわけられるようになった。父親弘邦氏は高田市でクスリ屋をやっているが、むすこの練習ぶりをみるため御所市へ日参しているほどの野球好き。学校では一番レベルが高い電気科で成績もよく、クラスの五番以下に落ちたことがないそうだ。「投手から野手に転向したのがよかったと思います。まだ打つとき右のワキがあまくなるが、甲子園大会までにはたっぷり打ちこんで直します」未完の大器というにふさわしい選手だ。1㍍80、75㌔、右投右打、三年生。
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