1975年
南海・難波孝将投手(26)に、ようやく正月がやってきた。年棒が五十万円アップして十一日の里帰り。だが、まともならはずむ足が、もう一つ重かった。球団にクビを宣告され、一ヵ月後に「間違いでした」と、頭を下げられての再契約、「うれしいような、悲しいようなとは、こんなことでしょうかねえ」笑いかけてこわばった顔が、複雑な心境を語っていた。
ショックに打ちのめされたのは、昨年の十二月七日。難波にとって、予想もしないクビの宣告だった。そのつい二日前の秋季練習では、首脳陣から「来年はうまく調整してキャンプへこい」と励まされたばかりだった。昨年もほとんどを一軍のバッティング投手で過ごした。勝ち星はまだない。だが、合間を見て登板するウエスタン・リーグでは、自分でも力がついていくのがわかってきた。「これでは、田舎に帰れんなあ。カッコ悪くて・・・」が、ショックのつぎに浮かんだ実感だった。岡山・久世中から南海へ入団したのは十年前。めずらしい中学出のプロ選手。クラスメートや、町内の人に、英雄扱いされての南海入団だった。新年をふるさとで、とうれしそうに帰る同僚とさびしく別れ、就職口を探し歩いた。だが中学出身の学歴しかない難波には、世相はきびしかった。がっくりして思案にくれているところへ、ヤクルトをはじめ二、三の球団から打撃投手としての契約申し入れが舞い込んだ。ところが、この話を耳にしてあわてたのが、クビにした南海。こんどは手のヒラを返したように、再契約を申し出た。自分のところも、調べてみたら、打撃投手がいない。おそまつな話だが「こちらの手違いで・・・」と頭を下げた。おわびのしるしに・・・と五十万アップして、年棒二百万円になった。こんな球団のやり方に、むろん難波はカッとなった。こうなったら、誘ってくれる他の球団へ行くことに一度は決めた。だが、野村監督と穴吹二軍監督に「お前が必要なんや」とくどかれて、決心がぐらついた。難波は十一日、遅い正月を迎えるために、新幹線に乗った。「まずはハラいっぱいモチをくって・・・。いままでノドを通りませんでしたからねえ。それから十八日の自主トレめざして、からだをつくって・・・」一ヶ月の間に、殺されたり、生き返ったり。「ボク与三郎ですね」と苦笑する男は、また打撃投手を踏み台に一軍をめざす。