1962年
山口富士雄内野手…三十五年春の第二十二回選抜高校大会で優勝した高松商の当時主将だった甲子園の花形選手。立大経済学部2年、1㍍74、73㌔、右投右打
山口選手は三十四、五年の第三十一、二回選抜高校野球大会に連続出場、しかも三十五年には米子東高と激戦の末優勝をなしとげた。この決勝戦でサヨナラ・ホーマーを左翼ラッキー・ゾーンへたたき込む劇的な場面を生み出した。三十三年夏の第四十回大会にも一年ながら代打要員として戦列に加わり、すでに大器の片リンをのぞかせ、二年生から正遊撃手に抜てきされた。三年生になって主将の重責にありながら高松商優勝の大立役者となり、三十六年には立大に進み、いきなり同年の春季リーグ戦からベンチ入り、秋の東西対抗では正遊撃手として大型内野手の真価をいかんなく発揮した。昨春からは二塁にコンバートされたが、常時一、二番を打ち、六大学切っての好リード・オフ・マンといわれ、攻、守、走三拍子そろったプレーヤーである。ところが昨秋来、家業の理容業が極度の不振でこれ以上学業をつづけることが困難となって冬季休暇で帰省した際、再三家族会議をもった結果、大学中退にふみ切った。当然高松商というところから一時東映入りともみられていたが、山口選手自身、どこまでも在阪球団を強く志望したため、高松商OB藤井道夫(スカウト)立大OB西本監督両氏の線もあって阪急入りを決意した。
父親山口菊市氏の話 いろいろと家庭の事情があって富士雄をこれ以上大学へ通わせることが苦しくなった。年末に帰省したときにいろいろと話し合ったのですが本人も家のことをよく考えて中退することにふみ切ったようです。プロ入りについては高松商OB会などにもよく相談しなくてはなりませんが、本人はプロに行くなら在阪球団で、先輩のおられるところでやりたいと希望しております。