プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鈴木伸良

2025-02-27 21:40:00 | 日記
1979年
福島のミットをたたく剛速球がときおり乾いた音をたてた。新しくおぼえた球。周囲から「おやっ」と声があがる。この日、プロ入り初めてシュートを投げた。スピードガンで126㌔をマーク、現在、新浦と並ぶ剛速球とカーブが持ち球。この二種類で昨年はイースタンで9勝をあげ、ファームの新人王となった。一軍扱いの今年、キャンプでは持ち球を一つ増やすことが課題だった。フォークボールに挑戦したが、両指にボールがはさめず、ひとまず断念してシュートに切り替え、この日初めてベールを脱ぐ。「今年一年かかって決め球にする」のがねらいだ。1㍍85、86㌔。投手陣の中で一番の巨体と剛速球にほれ込んだ90番は、紅白第一戦の登板を予定し、今年に「うまくいけば一軍へ」の期待をかける。並の若者ならここで一気にスパートするところだが、鈴木伸は違う。「今年一年はファームでじっくり練習します。一、二軍を往復せず、一軍に定着して新人王のタイトルをとりたい。ぼくはそのときを来年に決めているんです」練習の虫。高橋コーチは「鈴木伸と木下の練習は見なくてもいい。コーチの目が光らなくても絶対手抜きをしないから」という。父親・孝さん(43)は元競艇の選手で、現在小型船舶実技教員。プロ根性を父から植えつけられた。宿舎でもテニスボールをはなしたことがない。投球に大切な指先の力をつけるため、いつも握っている。おかげで右手の握力は70とファーム一だ。マンモスの異名をもつ大型投手が紅白戦のマウンドでどんなピッチングをみせるか。

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中田宗男

2025-02-27 21:30:10 | 日記
1978年
中日は一日午後三時、名古屋・栄の中日ビル内、クラブ倒壊で日体大・中田宗男投手(21)=178㌢、73㌔、右投げ右打ち、ドラフト外=の入団を発表した。今年度の入団第一号で、契約金二千万円、年棒二百四十万円(いずれも推定)同投手は右の本格派で、スライダー、シュート、シンカーなど球種が豊富。とくに落ちる球に威力がある。四年間の通算成績は24勝9敗。発表に立ち会った上平監督は「向こう意気が強いことだし、体力、技術的にも十分やっていけると思う」と語った。


中田投手の話 大学時代は球を散らさず真っ向から勝負してきた。そんな単調なピッチングではプロでは通用しないと思う。これからコンビネーションを勉強して星野さんをお手本にがんばっていきたい。

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平野克明

2025-02-27 21:23:36 | 日記
1964年
巨人に敗れたとはいえ、平野克は新人らしくキビキビとしたプレートさばきで「今シーズンのローテーションにいれるメドがついた」と別所コーチを喜ばせた。初回いきなり王に2ランをかまされながらも、おめずくせず長島と勝負した。川上監督も「初めて見たがいいピッチャーだな。球も速いしホップする。若手では図抜けているよ。とくにどんどん向かってくるところなど大崎などより上ではないか」とその積極的なピッチングをほめた。王に打たれた2本の本塁打は「どうしてだがあのときだけ高めに球がいってしまった」とくちびるをかむ。当たっていないとはいえ、長島を切れのいいシュート、カーブで4打席とも凡打に退けていただけに「なぜなのか」と自分でも合点がいかなかったようだ。「右足を少し痛めてますが、そんなことは負けた理由にはなりません。打たれたのはやはり力がないからです」ときっぱりとした態度。プレートさばきそのままで「ぼくとしてはきょうが精いっぱいのピッチングなんです。とにかく思い切って投げたんですよ」という。「真正面からONと勝負していたし、ベンチからみていても、少しもおじけづいていないのが頼もしい。あれでいいんだ」と別所コーチも合格点を与えており「持てる力をふりしぼって実力どおりに投げた。じゅうぶん使えるメドができた」と三原監督のおメガネにもかなった。あとは実戦の経験を一歩一歩積んでいくだけ「負けたんですから自信なんか…」といいながらも「別に巨人打線をこわいとは思わなかったです。こんどは…」と不敵な笑いを浮かべた。


川上巨人監督の話 大洋の平野という投手はいいね。コントロールもいいし、大きくくずれることはないだろう。大崎、峰、佐々木らより格が上だ。大洋の内野もきょうは失策がなかったが、いつかは出そうだね。しkしあの打線は二線級投手をもっていったらとんでもないことになりそうだ。長島が打てない?そう心配することはないだろう。


三原大洋監督の話 平野はよくやった。実力のほどをはっきり示してくれた。大熊のピッチングは予想外によかった。ウチのバッティングはいま一つだったが、この三連戦を通じてすべてに順調だった。チームのムードもよくなったし、これで本番への手はずば万事OKというところだ。


大量点があったとはいえ、西鉄打線を三回投げて無失点、4三振と牛耳った。大洋での紅白戦でも、4回投げ被安打1というピッチング。身長1㍍74、体重68㌔ー稲川を少し大きくした体つき、というより藤田(巨人)に少し肉をつけた感じの体つき。投げ方も藤田に似てキビキビしたピッチング。オーバー・ハンドに属するが、大きなカーブ、切れのいいシュート、伸びのあるストレートというのがその持ち球。特徴はすごいという感じではない。まとまっていること。とくに外角低めに投げるストレートの伸びとコントロールはいい。上手から投げるシュートは落ち気味になり、巨人用としても通用するという。もう一つの特徴は、その闘志と心臓である。「プロはこわいと思いました。力いっぱい投げたのをバーマに軽く塀ぎわにもっていかれたですからね。ボクのスピードはこんなものですよ」これが平野の初登板の感想。言葉は一見謙虚だが、その胸の中には、何するものぞがあったに違いない。ノンプロ時代ー弱いせいもあったが、負けてくると、カッカしてくるほうだった。そのため、ヒラカツというアダ名があったほどだが、もっていかれたというその胸の中にはこんどは、もっていかれない球…というのが描かれていそうに感じられる。

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青木政美

2025-02-27 20:56:57 | 日記
1972年
青木と鵜沢。二年生投手同士の投げ合いは鵜沢に軍配が上がった。立ち上がりは青木の方がよかった。低めにカーブ、スライダーを集め打たせてとるピッチング。


青木は打者一巡までが限度かもしれない。先のオープン第一戦、近鉄を相手に先発したときも、ひと回りした三回に連安打されて1点を許している。この日はイニング数こそ五回に伸びたが、ひと回り目であったことにたいした違いはない。五回、五番の伊藤に左翼線を破られると、近藤、松岡にも痛打されており、クセを覚えられるとまずいようだ。打者がジリジリしたくなるほどのおそいタマ。そしてためらうことなくど真ん中に投げ込む度胸。四回までノーヒットの3四球だけに押えることが出来たのはこれらひと味だけ変わった投球術のせいであるまいか。うちのバッティング投手よりもおそいタマや。力というものを感じられないし、三回までが精いっぱいと思う。それも初対面のただし書きつきだぜ」(大洋・青田コーチ)「一軍で投げるピッチャーじゃないでしょう。第一球威が全然ない。ただカーブはいいものを持っていますけどね」(松原)大洋側の目は辛らつだった。だが青木クンは強気だ。「覚えられるといけないようだね?」といったら「いや、そんなことはない。ボールが先行していたのがきょうはいけなかった原因です。それと五回に打たれたのはシュートをねらわれたからだ」だが、一巡でもピシャリと押える投手のいることは心強い。青木クン期待しておこう。

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川村一明

2025-02-24 12:38:07 | 日記
1980年


鋭いカーブは即戦力といわれる高校BIG3の一角。当初の「西武以外はノンプロ」から「よく話し合いたい」と態度を軟化。

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野口裕美

2025-02-24 12:34:03 | 日記
1982年
野口は左腕。立大の四年間で27勝をかせいだ。二年春の96奪三振は、戦後の六大学記録として残っている。球威があり、カーブ、フォークボールの切れもすばらしい。ヒジを痛めて、大学時代の後半は振るわなかったが、根本管理部長は「スカウトが集めた情報だと、心配する材料はなにもない」と自信たっぷりだ。

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関根浩史

2025-02-24 12:31:41 | 日記
1982年
社会人ナンバーワン右腕の関根がとれたのは大ヒット。日産自動車が「今年は出さない」とプロ入りを拒否したため、各球団が指名を敬遠。そのスキをついて2位指名し、粘り強い交渉でついに入団させた。関根は千葉工高時代に19奪三振、ノーヒット・ノーランなどを記録した。社会人になっても活躍し、今年の世界選手権では全日本の一員として、対オランダ戦には完封勝ちを演じた。時速140きろを軽く超える速球と大小二種類のカーブ、それにフォークボールが武器。「ファームは考えていない。新人王が欲しい」という。度胸もよさそうだ。

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井出登

2025-02-24 12:25:28 | 日記
1980年
井出は176㌢、71㌔の本格派左腕。いすゞ自動車では五十三年からエースとなり、三年連続して都市対抗の補強選手に選ばれた。公式戦の通算成績は、52試合に登板、210イニング1/3を投げて15勝10敗。奪三振126、防御率2.1。日本鋼管時代の木田と三度投げ合って2勝1敗。決め球は140㌔を超す速球。ほかにカーブ、スライダー、シュートとと球種もある。

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長谷川勉

2025-02-15 14:02:22 | 日記
1975年
猛打大洋を、ルーキーの長谷川がコロリとひねり倒した。カーブとスライダーを速球に織り込み、がむしゃらに振ってくる大洋のサムライたちを、ていねいなコーナーワークでかわすピッチングだ。二回、三ゴロ失で無死の走者を出し、一死一、二塁のピンチに立たされたのに、米田を遊ゴロ併殺。新人とは思えない落ち着いたデビューぶり。続いて出た阪神から移籍の野上も二イニングを一安打。貴重な左腕に、野村監督にはうれしい収穫だ。大洋は空回り。三併殺が浮き彫りにされ、エンドランは一度も成功しなかった。

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北村哲治 1976年退団選手

2025-02-15 13:59:46 | 日記
1977年
運命の日、街には「巨人優勝、長島監督の胴上げです」アナウンサーの絶叫があふれていた。昨年十月十六日、義父・服部繁さんは、このとき七十四歳の生涯を閉じた。大のお気に入りだった息子に「野球をやめて、茶道を継いでくれ」と短い遺言を残して。困った。迷った。考えた。スポーツ好きで育った若者に、茶道はまるっきり別世界だ。お茶といったら、熱い番茶をすすった思い出ばかり。なのに弟子を持つ師匠になんて…。北村哲治、二十七歳。岡山県の児島一高から関ケ原石材ー松久と転籍。軟式野球で腕前が認められ四十六年中日へ入団した。昨シーズンはバッティング投手。球界では裏街道を歩いてきた男の、たった一つの勲章は四年前の対大洋オープン戦だ。締めくくりの三イニングを投げて勝利投手となった新聞はもう古びている。「きれいさっぱりボールに未練を断ち切って、自分の人生が開けた気がしているんです」野球が「動」なら茶道は「静」そのものだ。けいこは正座からはじまった。走って息が切れる練習ならがまんはできたが、じっと座るのはつらいものだ。一回の茶席は約三十分間。しびれは足から頭の先までたちまちにのぼってくる。お点前(てまえ)を見るゆとりはあるmのか。全身マヒでひっくり返りそう。次は歩いてみろ、だ。入り口でおじぎをして、左足から入る。タタミ一畳は六歩のすり足で歩く、と決まっているらしい。野球出身の大男には少々規格がはずれているらしい。27㌢の大足は「前足でうしろの親指をふんで歩け」と教えられた。いやはや…。「なななんだって」ナインの反応は、わけがわからないといった表情やらゲラゲラ笑い出すまでさまざまだ。中川球団代表は「そんな選手は初耳ですね。風変りといっても変わりすぎている。体力と知名度を生かして、というのが再就職の基本的なケースなのだが…」と目をむいた。チームメートの星野や田尾らも「北村さんは比較的、静かなタイプの性格だったが、まさかねェ。ぼくらならとてもがまんできない」とこれまたびっくり。特訓を積んでいる松風流は、岐阜市民連盟に属し、弟子は四十数人を数えている。義兄の服部孝氏(31)と喜美子夫人のアドバイスで、ようやく初歩の立ち居振る舞いは本格的となってきた。「いくら家元といっても、おいそれと免許は渡せません。辛抱強くけいこをつんでくれないと。さあ、三年でしょうか。それとももっと」と先生役の孝氏は慎重だ。人生の再スタート。北村さんは「運転を覚え、また別の仕事にもついてみたい」と意欲的だ。茶道連盟は長良川で有名な岐阜の鵜飼祭りなど、年三回の茶会を開く。大型茶道家目指す若者デビューはいつの日か。


退団者のその後


巨人 
大竹憲治(26)内野手 スポーツ用具店に勤務中
岡昭彦(21)内野手 医療機械製造会社


ヤクルト
簾内政雄(32)投手 大洋塗装(株)
三橋豊夫(28)投手 立川市役所
水江正臣(23)投手 大分ヤクルト
竹口幸紀(22)投手 不明
長井繁夫(29)内野手 ヤクルト本社


中日
井手峻(33)外野手 協和工業
西岡三四郎(28)投手 ヤクルトテスト中


阪神
表浩太郎(24)投手 指圧師
松永知隆(23)投手 佐々木スポーツ
浅野憲一(24)内野手 会社員
玉城正富(23)内野手 輸入販売会社
崎山嗣盛(20)投手 自動車修理工
林真人(20)外野手 競輪学校
吉良修一(28)投手 魚河岸


大洋
長田幸雄(38)外野手 思案中


阪急
池田昭(22)投手 ガソリンスタンド
前川光春(20)内野手 近鉄テスト中
石田芳雄(22)投手 ライト工業


ロッテ
木樽正明(30)投手 自営
江藤慎一(40)内野手 病院経営コンサルタント
菊川昭二郎(32)内野手 自営


南海
野上俊夫(28)内野手 会社員
井口龍三(23)内野手 象印マホービン
山本利一(24)外野手 金融業


日本ハム
藤原真(32)投手 下着メーカー
小坂敏彦(30)投手 宝石商
坂井勝二(39)投手 自営
相本和則(28)内野手 会社員
後藤和昭(33)内野手 スポーツメーカー


近鉄
八重沢憲一(26)内野手 会社員
松村彰士(27)内野手 大和ハウス

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牧重見

2025-02-15 13:29:23 | 日記
1969年
サッポロビール本社庶務課員で社歴二年。白いパリッとしたワイシャツ姿で机上にひろげた書類にエンピツを走らせていた。四階の庶務課にいるときの牧投手は感じのいいビジネスマンである。昨年春、サッポロビール野球部の先輩の紹介で入社したが、毎日六時起床、八時出社、午後はグラウンドでたっぷり四時間はしばられる生活である。仕事と野球でヘトヘトでガールフレンドを捜すヒマはないそうだ。高校時代甲子園出場とこんどは後楽園の夢を実現させたラッキーボーイ。将来の夢は「プロでやりたい」というひそかな希望を抱いている。牧投手の決め球はスライダーとシュート。

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広島衛

2025-02-15 13:22:16 | 日記
1959年
広島はのびのび投げ続けた。八回まで与えた安打はわずかに5本で五回の1点も大津の遊ゴロがイレギュラーしたためだった。ところが最終回、藤本に2点本塁打を浴びて1点差に迫られた。たまりかねた杉下監督はマウンドに歩みよって伊奈の継投かと思われたがそのまま続投させることになった。まだ一度も完投したことのない広島に完投させてやろうという親心からであろう。広島はこのときのもようをどうだ、まだ投げてみるかといわれたのであと一人だから投げさせてくださいといったのですと語っていたが、横山を二飛に退け期待にこたえた。鎌田に右へ二塁打をうけて一死満塁になったとき伊奈がウォーミング・アップをはじめたが、伊奈の救援を仰ぐことなく逃げ切った。杉下監督はあまりよい調子とはいえなかったが、コントロールがよかった。大体コントロールのよい投手だし、他の投手がへばり気味なのではじめから完投させるつもりだったと広島の右腕を信頼していたようだが、広島は藤本さんに打たれたのはシュートのかけそこないです。四月二十九日の対阪神三回戦にはじめて先発した時、緊張したため三日ほど肩が痛かったが、この日は楽に投げられた。いままでシュートがこわくて投げられなかったが、シュートを覚えたのがよかったと思うとさすがにうれしさを隠しきれなかった。広島はこの完投勝利で自信をつけたことだろう。


広島は内角のシュートよりも外角低目へ決めたスライダーがよかった。ことにスピードを落としたスライダーは阪神打者を泳がせ効果的であった。前田は7打球のうち1つエラーをしたがグラウンダーに対するスタート、呼吸の合わせ方、グラブさばきなど、たしかにゲームごとにうまくなっている。ただ五回の大津のイレギュラー安打はほとんで手の出ないものではあったが、たえず自分の守備位置付近の荒れを足でならすという心がけがほしいものだ。名手といわれる三宅はこれを実行している。

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飯田敏光

2025-02-15 13:08:29 | 日記
1975年 

初先発。だが首脳陣の期待にいま一つ添えず予定の3回と持たず降板した。大洋時代からバッティングピッチャーで他球団と試合をするのはこれが初めてとあってチーム一の大男もアガりっ放し。なんとか失点は1に食い止めたが、まだ使いものになるかどうかは目途がつけられない内容。「バッティング投手の癖が出て、ついストレートでカウントをとりにいった」としきりに残念がっていたが、米川コーチは「やはりブルペンのピッチングができていない。もっと腕の振りを大きくしなければ…」とアドバイスしていた。
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若林弘泰

2025-02-15 13:01:12 | 日記
1991年
指名順位にはこだわっていません。テレビ中継も終わったのでもう(指名は)あきらめていたのです。指名されたことはすごくうれしい。喜んで中日に行きます。中日は打線がいいので投手には安心感があります。自分の球種はまっすぐ、カーブ、スライダー、シュート。どちらかといえばまっすぐで押して行くタイプです。


「大喜びで入れてもらいます。順位にこだわりはありません」と、4位指名の若林弘泰選手は声を弾ませた。テレビ中継が終わった段階では自分の名が出てこず「あきらめかけていた」ところへ入った朗報の感激は格別。「来月十五日に結婚式を挙げるんです。フィアンセも、好きなようにって言ってますし」とまで言う。東海大三年の夏、右ひじを手術しているが、それは過去の話。打者にガンガン向かっていくタイプで、今年の都市対抗では145㌔をマークしている。「変化球がちょっと甘いので、それが課題。目標は先発完投ができる投手になること」と早くも課題と目標を掲げた。


東海大相模高ー東海大時代から本格派投手としてプロからマークされていた。日立製作所に入社して3年目。肩痛に不安があったが、力の投球からかわすピッチングへ変ぼうして、安定感を増した。都市対抗には3年連続出場。


1995年


ロッカールームに郭の声がこだました。「若林、若林はどこ?」いったん囲まれた報道陣の輪から抜け出し、若林弘はプロ最初の勝利球を郭から受け取った。プロ12試合目は、おそらく最も緊張した場面でのマウンドだった。1-1の八回裏二死三塁、打席にはこの3連戦打ちまくって、まさに手がつけられないという状態の落合。「あの八回が始まるところで、ピンチで落合さんがきたらいくぞ、と言われてました」もちろん一塁が空いている。落合には「四球でもOK」という条件があった。1、2球目、外角のきわどい直球がボールになると事実上の敬遠。だが若林弘は一つ工夫をした。「中途半端な力で投げると次に悪影響を及ぼすといけないから」と全力で外角ボールを投げたのだ。二死一、三塁で迎えた広沢にはファウルで粘られ四球。満塁にとピンチは広がったが、続く後藤を平凡な中飛に仕留めた。持てる力を全部ボールにつぎ込んで、サヨナラ負けの危険を背負った九回は簡単に三者凡退。流れをグッと引き寄せ、延長十回表の大量点を呼んだ。即戦力の期待を受けてプロ入りするも、昨年まで三年間は一軍経験ゼロ。米・アリゾナキャンプに抜てきされた今季、五月十三日の阪神6回戦(ナゴヤ)、0-5と大量リードされた三回二死満塁がプロ初登板の場面だった。ところが最初に対した投手・葛西に押し出し四球の痛恨デビュー。六月二日に出場選手登録抹消、同二十九日には再登録されたが三日後の七月二日にはまた二軍行きを命じられた。「三度目(の降格)となると、もうチャンスはないでしょうからね」プロ4年目とはいえ二十九歳。社会人・日立製作所勤務時代に知り合った祐美子夫人との間に二人の子供もいる。中山の腰痛によって八月五日に巡ってきた三度目の一軍は、生活をかけたものだった。「これまではきわどいところに投げなきゃと思いすぎて自分を苦しくしていた。でもきのう(9日)の野口なんかを見てても、ストライクさえ入ればそんなに打たれるもんじゃない、と分かった」過去の失敗を生かして、若林弘は白星をつかんだ。その目には感激の涙などない。生活のためには、四年目の初勝利に浮かれているわけにはいかないのだ。

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井手元健一朗

2025-02-15 12:40:21 | 日記
1991年
井手元投手は、午後三時半から四日市工高の会議室で葛山博次校長らが同席して記者会見。「地元であり、自分の好きなチーム。監督、両親と相談して決めたい」と語った。井手元投手は左投げの本格派。140㌔前後の直球とカーブ、スライダーを武器に今夏、四日市工を悲願の甲子園初出場に導いた。現在は野球部を離れ、ランニング、ウエートトレーニングを中心に毎日二、三時間の基礎体力づくりに励んでいる。「プロではストレートで押していけるような投手になりたい」と話していた。

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