プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

板東英二

2017-01-30 21:46:10 | 日記
1961年

ゲームは森の一発で決まってしまった。巨人の伊藤投手は追い風のせいもあってかカーブがほとんど高め、ブレーキの鋭さも欠いていた。しかし、このカーブを見事に観覧席にブチ込んだ森の一撃はあっぱれなもので、からだを、さほど開かずにフェアグラウンドに持っていけたのは彼の腕力がモノをいったのであろう。巨人は走者三塁のチャンスを三度も迎えているが、得点に結びつけえなかったのは板東の低めの変化球が打てなかったからである。一回、安原を三塁に置いて長嶋に対した板東のピッチングは、吉沢の好リードもあって、あざやかそのものだった。長嶋に対してはカーブ、カーブとボールを連発して、あたかも四球と見せかけて長嶋のファイトをさけたあお、カーブとフォークボールの連投で捕前ゴロにしとめてしまった。とくに2-3となって長嶋が打ち気に出たところを(歩かせてモトモト)軽い気持ちで外角低めに誘い込んだ変化球は印象的だった。二回の森、七回の国松を迎えたときも、走者は三塁というピンチだったが、板東は低めのカーブで凡ゴロに誘う好投ぶりで、勝利の立て役者となってしまった。巨人の伊藤、中村両投手が高めを打たれたことを思うと、板東低めの勝利というべきか・・・。巨人は板東打てずと見てか長嶋、坂崎、宮本など、さかんにセーフティー・バントを敢行していたが、一打同点、長打逆転のチャンスに起用された宮本がバント戦法に出たことは、どう見てもうなずけない。宮本は器用な選手とは思えないし、足も、そんなに速くないはずである。巨人の弱気は、こんなところにもあらわれていた。
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板東英二

2017-01-30 21:45:14 | 日記
1960年

ベンチの前に出迎えたナインの握手攻めからやっと解放された板東は、流れる頭の汗をぬぐいながらきょうは本当に勝てるとは思わなかったとボッツリいった。調子が悪かったですよ。相手がスランプだったからどうにか完投できたものの、初めから終わりまで苦しかったとのこと。この夜は、シュートとフォークボールをほとんど使わなかったという。カーブと速球を低目にちらすことに気をくばり吉沢の好リードもあって、これがうまく決まったのが成功の主因。大和田に打たれたホームランについて板東はいちばんいけない内角のコースへはいったのですよ。打たれて当たりまえ、これから気をつけますと頭をペコリ。完投勝利は大洋、巨人各八回戦につづいて三度目、杉下監督の期待に答える今シーズンの見事な活躍ぶりである。
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林俊彦

2017-01-30 20:51:43 | 日記
1962年

中日球場近くのささやかな菓子屋が近く金持ちになる。近所の人たちはせん望のまなこでそう信じている。福の神は末っ子にやらせた野球。どこでどうまちがったのか林菓子店が名古屋の名物納屋橋まんじゅうの製造おろしであるといううわさが流れた。「とんでもない。小さなダ菓子屋ですよ。もっともセガレがもらう契約金で商売がえするのかもしれないけどね・・・」林争奪から手をひいたあるスカウトは皮肉な笑いを浮かべていった。なにはともあれ、話題の中心である林投手、不作の年とはいえ十二球団中、国鉄、広島をのぞく十球団のスカウトを動かした選手はほかにいない。左投手でスイッチヒッター。それだけでよだれを流している球団もある。林は習志野を三安打に完封した。しかしスカウトの目は意外に冷たい。大毎の青木チーフ・マネジャーは「これでもまだプロで使えるというヤツの顔がみたい。十球団も働きかけているなんてプロ野球の恥だぜ」とまでいった。もっとも大毎も最初は色気をみせた。巨人の沢田スカウトは「調子悪いね」という話しかけに「そうですか」とそっけない。東京から甲子園にくるとき、名古屋で途中下車したことで、その返事は得心がいくだろう。中日の柴田スカウトはカンカン照りのネット裏でしぶい顔のしっぱなしだった。スカウトの間では秘密情報によれば巨人、公式には中日という定説ができている。林のピッチングがダメになったと悪口するのは、きまって巨人、中日以外のスカウトであるのもおもしろい。日焼けでハナの頭を真っ赤にした林は「調子もよくなかったが、ある程度セーブして投げました」といった。春の大会後に痛めたヒジはもうすっかりいい。しかし、それ以来きりっとした投球をしていないのも事実である。総出で応援にきている林家。その中で一番心配そうなのは父親の宗造さん(64)だった。「しろうとがみても春より数段悪い」むすこが宿舎の庭でスイカにかぶりついているのを横目でみながらつぶやいた。プロ入りについて宗造さんは「むすこは大学へいきたいといっています」と答えた。「大学進学はありえない」といった滝監督の言葉とは正反対。なぜだろう。「たしかにセーブして投げていたようだけど、あんなピッチングではプロでどうだろうか」という成田理助氏の疑問が、そのまま父親の疑問になっているかもしれない。親の心配をよそに林はゴロリと横になった。ヒマさえあれば寝ている。映画はきらい。プロ野球もめったにみない。「プロ入りの話はやめて下さい」口数の多い方ではない。林はすぐ目をつぶった。
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秋本祐作

2017-01-29 21:55:27 | 日記
1961年

「秋本さまさまだね」試合が終わってダッグアウトから出てきた戸倉監督はごきげんだった。秋本はムッツリしていた。低目低目をねらったシュートがうまくはいらなかったためらしい。いまの西鉄を4安打、1点におさえたのは、さしずめ大関を倒した銀星くらいだ。「もし九回田中(久)にホームランされなかったら、シャットアウトだったのにな。田中(久)に打たれたのは外角の落ちる球だった」秋本は残念そうだった。今シーズン初の完封勝利をかざれなかったが、これで4勝目。そのうちこの夜の1勝を含めて銀星は三つになった。その1は五月三十日南海に完投勝利した2勝目。これで南海に15連敗からチームをすくった。その2は六月六日大毎に完投勝利した3勝目。これで対大毎10連敗をすくった。4勝のうち3度が完投である。「負け出したら秋本にたのめ」というのが阪急ナインの合い言葉になっている。秋本が中西を二ゴロにしとめてダッグアウトに帰ってくると、梶本が握手をしてはずかしそうにロッカーへもどっていった。秋本は小さいからだの胸を張って大きくみせながら「中西さんはスライダーを打ってくれた。きょうは徹底的に低目をついてまかり間違っても高目にいかないよう注意した。西鉄はいま当りが出ているし、豊田さんがいなくてもとにかくヒットが2本つづいたらおしまいだから神経を使った。落ちるボールがよかったね」ゆうゆうとした受け答えだった。「阪急投手陣がみな秋本のような強心臓主だったらもっと成績が上がる」と伊勢川コーチがいっていた。秋本は阪急の3連敗をくいとめ、西鉄の4連勝をはばんだ。
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斎藤喜

2017-01-29 21:11:28 | 日記
1970年

選抜会議で中日に指名された阪急・斎藤喜投手(22)は十九日午後、宝塚市光明150の三幸マンションで「プロ野球から足を洗うつもりなので中日へは行かない」とトレードを拒否した。二十日・大阪・東阪急ビルの球団事務所で渓間代表と会い、退団の決心は変わらないことを伝える。同選手は十七日「これ以上プロでやっていく自信がない」という理由で退団を申し出ていた。
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泉嘉郎

2017-01-29 19:51:14 | 日記
1970年

南海・新山代表は八日午前、大阪・浪速区蔵前町の球団事務所に泉嘉郎投手(26)を呼び、任意引退選手にすると通達した。同投手は昨年のオープニング投手をつとめたりして期待されていたが、その後パッとせずほとんどファーム生活。今シーズンは野村構想からはずれ、一試合に登板しただけで、早くから引退を申し入れていた。
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吉沢岳男

2017-01-29 19:07:18 | 日記
1971年

十八日午前十時ごろ、名古屋市中村区名楽町二、荻野荘アパート一階二号室の元プロ野球中日球団選手、吉沢岳男さん(38)の部屋で異臭がするので、同アパート経営者があけてみると、吉沢さんがふとんの中で死んでいた。中村署で調べたところ、死後五日ぐらいたっており、外傷もなく脳出血による病死とわかった。吉沢さんは長野県の松商学園を卒業後二十九年に中日にはいり、三十七年に近鉄へ移籍、中日に戻って四十四年退団するまで捕手として活躍、オールスター戦にも二回出場している。プロ球界から引退後はトラックの運転手をしていたが、奥さんと離婚、最近は四畳半の同アパートで一人暮らし、たこ焼き屋の店員として働いていた。
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マンコビッチ

2017-01-26 23:09:37 | 日記
1962年

大毎・阪急戦で、二十六日契約したばかりの大毎マニー投手が初登板した。四回三浦に代わって出た同投手はレインズを三振させたあと中田に初球を左翼席ホーマー、太田にも左翼線二塁打された。七回まで四イニングを投げたが、毎回走者を出すピッチングだった。奇跡を呼ぶ男(永田オーナー)にしては、たよりないというのがスタンドのおおかたの声だった。

マニー投手「第一ゲームなので思うように投げられなかった。こんどはもっといいピッチングをお見せする。中田に打たれたのは高目にはいったスライダーだ。スライダーのほかにはシンカーとナチュラルにシュートする球を投げた。阪急はいいチームだ」

杉下コーチ「まだ完調ではない。調子がよくないので第一ゲームでアガったなんていってるんだろう。しかしもう少しスピードはある投手だ。シンカーと自然にシュートする球が武器だ」
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堀本律雄

2017-01-26 21:55:40 | 日記
1963年

堀本が投げると奇妙に大毎は点をとらない。「タイムリー・エラーはでるし、小野が投げるとよく点をとる。ワシのときはどうして点をとってくれへんのやろ、と堀本は泣いとったよ」試合前こういっていた本堂監督は二回にイヤな予感がしたそうだ。一回三安打しながら無得点。そしてすぐ高井良のエラーがでた。堀本がチラリとベンチをのぞきこんだときやはり同じ予感があったそうだ。「堀本がワシの顔みたのは知っていた。だからすぐ高井良をかえた」本堂監督のこの心づかいを堀本もよく知っている。最後の打者張本から二つ目の三振をとってベンチに戻ってきた堀本は本堂監督に「ありがとうございます」まるでルーキーのようにていねいにお礼の言葉をのべた。ていねいな言葉といえば堀本は報道陣に対しても妙にルーキーくさい応対ぶり。「四回張本を歩かせたときは1点差ですし、最初から勝負するつもりはなかった。前半はラクに投げられた。七回が苦しかったけれど・・・。張本を三振させた球?内角の直球です。きょうは球に伸びがあったですね。吉田(勝)を三振させたのはドロップ。きょうの東映はどうもおかしかったですね。迫力がなかった」こんなぐあいである。堀本らしい威勢のいい言葉がでてこない。試合前もいまはまだ使っていない酸素ボンベのそばにボンヤリすわっていた。ロッカー・ルームでもほとんど仲間としゃべらない。「いま何時?」六時過ぎとこたえるとグローブをもってだまってブルペンへいった。堀本の負けずぎらいは南海戦でしたたか打たれたとき「こんどはハドリや野村の顔にぶつけたるワ」と真っ赤な顔で語ったことでもわかる。堀本がいまでも酒をたちつづけ、練習が休みでも東京球場でひとり汗を流していることは「なんとか早く5、6点とってやりたい」というナインの声を生んだ。勝ちたい気持ちが堀本を無口にしたようだ。だから、こんどは東映が好調のときに勝ってやる?という質問がでたとき「なんでも勝ちゃええやないか」堀本は大きな目玉をむいてこう答えた。佐々木信也氏は「巨人と一昨年ベロビーチにいったとき、堀本の内角球をド軍のオルストン監督はスニーキー(すうっとしのびこんでくる球)で打ちにくいといっていたが、東映打者はこのスニーキーにやられた。しかし伸びがあった。カーブもコースいっぱいにコントロールされていた」と95点の採点。本堂監督は「2ストライクとってからのピッチングに不安がない。実にうまい。堀本のツメのアカでものませてあの投球術を若生や西の身につけさせたい」とベタぼめ。もうひとつ、ゴンドラ・シートで観戦の永田会長は大きくうなずいたり、白い歯をみせたり忙しいことだった。
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鈴木隆

2017-01-26 20:46:38 | 日記
1960年

開幕以来不調に悩んでいた鈴木が今季初の1勝を巨人からおさめた。投げては5安打散発に押えてシャットアウト、打っては先制打と追加点のホームラン、投打にわたる大活躍だった。五回右翼席に打ち込んだホームランはプロ入り三年目の鈴木自身の初ホーマーであった。巨人はこの鈴木一人に振り回された形で、三塁にまで走者を送れなかった。三原監督の喜びはひとしおであった。ただひとこと「鈴木がよくやった」というだけ。風向きを考えてカーブをよく使った。それにうまくタイミングをはずしたというのが成功した原因だそうだ。女房役の土井は鈴木は三回まであまりよくなかった。四回あたりからよくなった。八、九回ちょっとへばったようだが、なかなかよかったとそのピッチングをほめていた。巨人戦になると土井さんとピッタリ息が合うのですよ。あの人の思うとおりに投げていれば、間違いないですねとことばもはずむ。そしてここまで投げたのは自信ですよ。ぼくは巨人には絶対の自信をもっていますからね。まったく鈴木の巨人に対する自信というものは恐ろしいほどだ。鈴木の異名は「巨人ごろし」まったくこの日の鈴木にとっては得意の日であった。
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小畑正治

2017-01-26 20:07:02 | 日記
1955年

反撃を期する南海の先陣となった小畑は強打の巨人を相手に実にあっぱれの快投をやってのけた。八回半ばで中村の救援を受けはしたが打撃の虫川上を始め、ひとくせも、ふたくせもある巨人の打者をして困惑焦燥に追い込んで一歩も寄せつけなかった。でかしたり小畑。冒頭南村に四球を与えて前途多難を思わせたが、平井を投ゴロに打ち取って1-6-3の併殺に退けた。小畑にとってこれが唯一つのピンチだった。二回先頭の川上を三振に切って落としたのに勇気百倍、以後中村と交代するまで与えた安打わずかに2本、与えた安打わずかに2本、与えた四球こそ五つで、やや多きを数えたが、この適度の荒れがかえって打気満々の巨人打者の呼吸を乱す要因ともなった。ことにもっとも効果的であったのは内角に鋭く落ちるシュートで、これには巨人はほとほと音をあげたようである。外角を襲った鋭角的なドロップの切れも申し分なかった。ボディ・スウィングから投球完了までが鋭く速いという独自のフォームが成功の一因ともなった。この点、フォームは異なるが阪神の西村とよく似ている。ただこの一投のみをもって今後のゲームに絶対安全のレッテルをはるのは危険であろう。この日は荒れが成功したが、これがいつも通用すると思うのは早計だ。きょうはのびのびと投げられた。監督からは楽な気持ちで投げろといわれた意外は別に特別の指示はなかったと記者連中にもみくちゃにされながらぼつぼつと語る彼はまだ紅潮の少年。
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小川康雄

2017-01-26 19:45:26 | 日記
1961年

香椎で行われている西鉄の練習に、小川康雄捕手=(19)=が加わっている。小川捕手は昨年菊池内野手とともに東北高から入団した二年生だが、昨年秋の健康診断で肺浸潤と診断され、昨年十二月からことしの四月まで専大国立病院に入院していた。そのご自宅療養にきりかえ静養していたところ、完全に回復したのでかけつけたもの。一年前とは見違えるばかりにふとり、元気をとりもどしている。聞いてみると当時は66㌔、いまは77㌔もあるそうだ。「もう飛んでもはねてもなんともない」という同選手は、他の選手たちと同じような練習。むしろ「オレはいまチームでビリケツです。十カ月間のブランクは大きい」と人並み以上に真剣な表情でボールを追い、バットを振っている。
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高山邦男

2017-01-26 19:21:51 | 日記
1955年

両チームを合わせて10本の長打が飛出すという打撃戦に終始した。このゲームも長打力の上回った中日が、後半大洋を大きく引き離してこの対戦18連勝を飾った。初回二死後西沢、杉山の連続二塁打で1点、二回には牧野が中堅左を破る二塁打を放ったあと河合の遊撃ゴロの後逸で1点を追加した。大洋の先発大石はスピードもなくいずれもボールが高目に入り過ぎていた。大洋は高山の外角低目に決るシンカー気味のボールと手元に食い込むシュートに手をやいて一、二回は凡退、三回一死後、引地死球のあと友川が内角球を右翼線に二塁打、そのあと目時の遊撃内野安打でこの回2点を返し試合を選出しに戻した。しかし中日は五回本多が中日五本目の二塁打を右翼線に放ったあと杉山が2-1後外角寄りの高目の好球を中堅越しスコアボードに直接当てる三百八十フィートの大本塁打を放ち2点六回には2四球と井上の中堅二塁打を含む3長短打を続投の大石に浴びせて決定的な4点をあげ試合を決めた。大洋は五回二塁打の友川を目時の左前打で還し1点を加点したのみで、六回から石川緑に切りかえられ連敗した。
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佐藤玖光

2017-01-24 22:27:43 | 日記
1970年

昨年暮れの第一次、第二次テストで、ともにトップの好成績。「あのテスト生は見どころがある」と、審査員の意見が一致して採用と決まった。新人とはいえ社会人生活五年を経験している。「いまさらという気もしましたが・・・何もかも清算して人生プロ野球に徹するの強い信念で西鉄入りを決意した」そうだ。だが、ポッと出のテスト生というわけではない。その素質は高校時代にも芽をもたげていた。三十八年夏の高校野球「九州工は左腕佐藤投手を擁して福岡県北予選を勝ち進む。南北のベスト8が争う県大会に出場。あと一押しで甲子園。だが、クジ運に恵まれなかった。八回まで0-0、その九回表に橋本に打たれて決勝の1点を奪われた」-相手は博多工の好投手橋本(近鉄)「橋本は近鉄でくすぶっている。できれば彼よりも早くプロで1勝したい」と佐藤は反骨精神をむき出しにする。西鉄入りまでの五年間、佐藤は東京で腕をみがいていた。ノンプロ丸井クレジットでは東映の大杉とプレーをしたこともある。林建設に移ってからは、エースとして真価を発揮した。昨年夏の都市対抗では三回戦で電電関東に惜敗したが林建設に佐藤ありの印象を強めている。「プロで投げてみたい、そう思った瞬間、西鉄のテストを受けようと決心した。このツキを逃がしたくない。ぼくにとっては死活問題です」こう言い切るプロ野球選手は、ざらにはいない。昭和二十年生まれ、二十四歳だ。
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佐藤玖光・阪口忠昭

2017-01-24 21:31:51 | 日記
1971年

三輪が左ヒザ負傷、河原は二軍落ちと、西鉄は主力投手を欠いて、ただでさえ苦しい台所はこのところの火の車。そういった中で起用された佐藤、阪口という二年目の新鋭投手が第一試合で好投。沈滞ムードの中に光明をもたらした。佐藤は7試合目の登板だったが、この日がプロ入り初の先発。三回まで好調に三人ずつで片づけたが、四回、3安打を浴びて2点を取られ降板。この日、球場入りしてから先発をいわれたという佐藤は「何回でも行けるところまで行けといわれた。三回まではカーブと落ちるシュートがよく決まったが、四回、有藤に内野安打されて力んでしまった」貴重な左腕投手だけにこれからも登板の機会はふえるだろう。「カーブなら絶対ストライクを取る自信がある。与えられたチャンスは何とか生かしたいですね」といっていた。この佐藤を救援したのが阪口。佐藤は一軍入りして一か月以上になるが、阪口は今月上旬の東京遠征のときファームから引き上げられたばかり。登板数もこの日で5試合目。4イニング投げたのは初めてのことだった。六回、バックのエラーがからんで2点を取られたが、自責点はゼロ。「打たれたのはど真ん中にはいったタマでどうも真っすぐのコントロールがよくない」といいながら「きょうのようなピッチングなら自分でも納得がいきました」181㌢81㌔という長身投手の阪口だが「ぶっつけるのがこわくてシュートを投げるのにびびってしまう」というところを見ると、気が強い方でもなさそうだ。ウエスタンリーグで4勝1敗の好成績をあげたのが認められて一軍入りしたが「やはり一軍で投げるのは楽しい。しかし一発があるだけに恐ろしい気もします」これからの課題を「下半身を鍛えることと、ストレートのコントロールをつけること」というが、将来が楽しみな本格派投手である。
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