松川はやせ型の投手だった。滝川中学から二十二年、南海の前身、近畿グレートリングに入団したが一年で退団、カープの結成とともに参加した。スピード不足で登板回数こそ多かったが、大成しなかった。
1950年
巨人は四回川上の二塁打と手塚のヒットで一点を先取したものの、その後はカーブ、内外角を衝く直球とコントロールよく投げる松川の好投の前に反撃を絶たれ、僅かに七回二死後、川上が三塁キャンバスの上を抜くヒットに千葉を二塁から迎えて一点をむくいたのみでもろくも広島の軍門に屈した。
1950年
巨人は四回川上の二塁打と手塚のヒットで一点を先取したものの、その後はカーブ、内外角を衝く直球とコントロールよく投げる松川の好投の前に反撃を絶たれ、僅かに七回二死後、川上が三塁キャンバスの上を抜くヒットに千葉を二塁から迎えて一点をむくいたのみでもろくも広島の軍門に屈した。