プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大宮勝男

2019-07-15 16:59:36 | 日記
1960年

大河原高、宮城、1㍍83、75㌔、右投右打。昭和16年4月17日生。

無名だが身長、体重とも投手として十分。二軍で精進すれば第一線への進出も可能。

まだまだ未完成なところを持っているが体も大きく将来を見こまれて今春入団した。

大河原高のワンマン選手。速球が武器だ。
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飯尾為男

2019-07-15 14:01:15 | 日記
1960年

飯尾対バルボンの二度にわたる対決がこの試合の勝敗の分かれ目となった。立ち上りの飯尾は外角を切るカーブで人見を三振にとった。しかしながら飯尾の調子は決してよくなかった。直球にもカーブにも切れがないのだ。飯尾の武器は外角への鋭いカーブである。このカーブにスピードがないときは直ちにリリーフを要することを意味する。立ち直る型の投手ではないからである。すべり出しから好調のときはそのままあざやかに九回を投げ切るが調子の悪いときはあっさりカブトを脱ぐ、ねばりが足りないのだ。一回2-0からバルボンにまん中のカーブを投げて三遊間を割られた。このときすでに今後に不安を感じさせた。不調であることはあきらかであるし、カウントが有利なだけにもう少し投球にくふうが必要ではなかったか、あっさり投げる飯尾の悪い面が出た場面である。この回2点の先行点をあげて阪急はきわめて有利となったがバルボンの一撃がその遠因となっていた。さらに五回勝敗の行方を明らかにしたのも、飯尾対バルボンの一投一打にあった。無死一、二塁、投手は当然内野ゴロ併殺をねらって低目に変化球を投げるのが常道である。飯尾がシンカーで内角低目を攻めたのはよいが、三球続けて同じボールを投げたのはどうしたことであろう。それもコーナー一ぱい低目をつくものであれば効果はある。スピードを落とした手ごろの高目球とあっては長打されるのも当然であろう。一回にカーブを打たれたからといって内角攻めにするのはピッチングの方針としても平凡である。いずれにしてもこの試合バルボンの2本の長短打で決まったといってもよかろう。
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浜崎正人

2019-07-15 13:10:03 | 日記
1962年

九州の南端雄大な桜島のふもと鹿児島でのスカウト合戦は日ましに変化している。今夏の甲子園で県下初のベスト・8入りした鹿児島商高のエース浜崎正人投手(身長175㌢、体重70㌔)をめぐって・・・「中京商の林さんと投げ合ってみたい」と闘志をひめて甲子園に出発した同君の勝ち気な性格がこの言葉に現れている。結果は投げ負けた。だがこれにくじけることなく、国体で雪辱を期して猛練習にはげんでいる。そこで浜崎争奪戦の根拠地といえる浜崎家とその周囲をさぐってみた。

鹿児島市内はまだ真夏の暑さだ。国鉄鹿児島駅から車で10分桜島を正面にあおぐ塩屋町128番地、ここが浜崎の実家で、実兄克巳さんがつけもの、とうふの卸し屋を経営している。兄弟四人の末っ子が正人君だ。浜崎家には実父。兄夫婦と同君の静かな生活がある。その静かなる環境が甲子園から帰って以来一転してにわかにあわただしくなった。ファンレターが四、五百通は越しているだろう。帰った当時は日に二、三十通はきていた。ほとんどが少年ファンや女性からのだ。この手紙も日増しに少なくなり日に二、三通となった今日これと反比例するかのようにプロ球団のスカウトの姿がみられるようになった。父親四郎さんに会ってみると「いろいろうわさされているようだが、まだどこの球団の方ともお会いしていない。すべて学校側におまかせしてありますから・・・」ときっぱりいう。国体終了までは・・・の慎重作戦であろう。しかし浜崎家を訪ねた球団か多くあるのは事実。南海、近鉄、大毎、大洋、阪急、巨人と西鉄から誘いがかかっている。なかでも一番交渉の早かったのは巨人だ。昨秋の九州高校大会のとき、巨人内堀スカウトの目が光っていた。このころから浜崎争奪戦の火ぶたは切られている。今春の九州高校大会では各スカウトの目は浜崎一人にしぼられた感があった。そして六月、南海鶴岡監督が石川スカウトと同伴で九州行脚のおり、浜崎獲得にのり出している。それから相ついで各球団の浜崎廻りがはじまった。左腕投手に悩みを持つのはプロ球団の共通点である。どこもノドから手の出るほどほしい投手だ。近鉄は同校藤井清一郎監督(元近鉄)をコネに本腰を入れた。西鉄は地元の利を生かして強引に獲得にのり出している。また大洋引地スカウトも熱心に鹿児島廻りをやっている。大毎は白川マネジャーが鹿児島商の出身であり、後援会のつながりが強い。篠原、塩津もこの線で大毎へ入っており、あなどれない。一方阪急も某先輩を通じて一千万円程度の契約金を提示しているようだ。そこで実権をもっている実兄克己さんに話を向けると「進学か、就職かはまだはっきりきめていない。国体があるのでいろいろ学校の方からも注意されているし、慎重にやりたい。私の考えとしては進学し、一時都会の野球をやり、それからプロへ行くなり、ノンプロへ行くなり、きめた方がよいと思うが・・・でもこれは本人の気持ち一つで、本人がプロでやりたいといえばしかたないことだ。だが将来をきめる一番大事なときだけに、ゆっくり時間をかけたい」と大学進学を望む態度。しかし言葉をついで「わざわざ九州の端までこられるので門前払いをするわけにもいかないし・・・でももしプロ入りを希望するならば私は第一に投手養成が上手なチームに入団させてやりたい。やはり入った以上は一日でも早く一本立ちでき、立派に投げられるように鍛えてもらえるところでないとね・・それに弟は体力的に恵まれていないので・・・」と話すところ、プロ入り間違いなしとみてよかろう。だが一方、学校関係者に話を向けると「大学へ進学すると聞いています。まだ私はプロの方とも一度もお会いしたことはありません。情報がいろいろ流れているようですが、現在のところ一向に聞きません。国体がすむまではそっとしてやって下さい」と同校伊知地校長は話してくれた。また野球部長の泉氏は「私は浜崎君は進学するのではないかと思っている。早大へ行くとか聞いたこともあったが・・・」とプロ説を全面的に否定しているが、案外この立場の人はツンボサシモにいるのかもしれない。それでは正人君自身はどうなのだろう。すべて兄克己さんにまかせてあるというものの、最後は同君の意思しだい。いまはその時期ではないとばかりにグラウンドへすっとんでいった。十月下旬の国体出場のため、鹿児島商はいま猛練習を行なっている。もちろん正人君も同じだ。そこで監督の藤井さんに浜崎のことを聞くと「プロでやってみたい気持ちは十分持っているようだ。夏の大会が自信をつけさせたのだろうまた勝ち気な性格であるが、テレ屋でもある。研究熱心なところは感心させられるところがある。私のところにもノンプロから多く話がきていますよ。日石、東芝をはじめ有名なところはほとんど・・・でも国体がすむまでは一切おあずけの形になっている。」とすべて国体待ちという。国体まであと一ヶ月。スカウト連の鹿児島廻りは激しくなった。いずれも条件を提示しているようだ。当初もっとも積極的だった南海、近鉄は半歩遅れたようだ。一時は南海有利の線が出ていたが、いまでは薄れ、近鉄また瓜生スカウトの話では「一度肩をこわしているのでね。それに阪急さんあたりの条件はうちは出せないよ」と後退した。だがこれは煙幕戦術かも知れず、内心はあきらめていないとみた方がよさそう。南海、近鉄の一歩後退によって大毎、阪急、大洋の線が強くなった。大毎は後援会筋、大洋は投手養成の巧みさ、阪急は札束と、それぞれ攻め手に特色があるが、鹿児島という土地柄も考えた場合、大毎の義理人情ラインが一番有力の掛が出そうである。
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1956年阪神テスト生

2019-07-15 10:19:18 | 日記
1956年

阪神タイガースでは去る十一日新人募集テストを行なったが、第二次テスト合格者を次の通り決定した。

内野手 中山重夫(18)西宮高校、五尺八寸、十八貫、左投左打。
松永満(18)興国商高、五尺七寸五分、十九貫、左投右打。
外野手 河原主尚(19)岡山県津山高校、五尺八寸五分、十八貫、右投右打。
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パーム

2019-07-15 09:13:44 | 日記
1963年

三回から初登板したパームキストは球威、球速こそあまりみられなかったが変化球を多投していたのが目立つ。4-0とリードされていたので気楽に投げられたのだろうが、大リーガーの経験もあり、そのキャリアは文句のつけようがない。パームは大リーグでは救援専門だったらしいが、この分なら先発として十分投げられるのではなかろうか。台所の苦しい大毎はもっとうまくパームを使うべきだ。パームのピッチングはあまり威力はみられないがスライダー気味の小さいカーブとドロップ、そして相当威力のあるシュートだ。ことに左打者に対してのシュートとシンカー気味でこれには威力があった。南海打線も初対戦だけにいつでも打てるという気やすさが手伝って粗雑なバッティングをしていたが、パームの投法は好調南海を打ち取る一つの手本を見せていた。ところでこのパームは右打者にもこのシュートをうまく打たせていたのはうまかった。特に南海打者が打ち気になってくればシュートを投げて打ちとっていたのはさすが。もっとも逆からいえば南海打線も相当ボールに手を出していたことにもよる。それにしても当っている南海打線、4イニング投げ1安打で押さえたというパーム株も一挙にあがったということになる。
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間所宏全・山下清次

2019-07-15 08:44:16 | 日記
1956年

パ・リーグ阪急ブレーブスでは二十日つぎの二選手と正式契約したむね発表した。

間所宏全(18)桐生高外野手、右投右打、五尺六寸五分、十八貫、甲子園でその強肩強打と俊足ぶりがスカウト連の目をひき昭和三十年全国高校ベストナインに選ばれた好選手でハワイ遠征にも参加したことがある。

山下清次(18)八代工高、捕手、五尺八寸五分、二十貫。強肩で特に打撃に優れているが未完の大器といわれている。
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西園寺昭夫、島田雄二

2019-07-15 08:11:00 | 日記
1956年

東映フライヤーズは二十日東洋レーヨン西園寺昭夫(19)内野手、島田雄二(21)外野手と正式契約し、午後一時半同球団事務所で発表した。同選手とも熊本工高出身、島田は二十八年卒業後住友金属小倉に入社したが、今春卒業の西園寺とともに今年四日市東洋レーヨンに入った。西園寺は五尺六寸五分、十九貫、右投右打で高校一年生の時添島(現巨人)とともに春の甲子園大会に出場、卒業当時巨人、阪神、西鉄から交渉を受けたほど早くから九州球界では注目されていた。東洋レーヨンでは遊撃を守り、四番打者として今夏都市対抗に出場した。上背はないががっちりとかたまったプルヒッターで、東映では将来の三、四番打者として期待している。島田は左投左打、東洋レーヨンで一番を打っていただけに俊足であり、三十五試合で三割三分の高打率をあげている。

西園寺選手の話 高校卒業のときから一年間ノンプロでやってからプロへいこうと考えていた。どの程度やれるかわからないが、郷土の先輩川上さんを目標に頑張りたい。

島田選手の話 目標は巨人の川上、与那嶺さんだ。なんとかしてプロに入りたいと思っていたが東映といういい働き所を得て幸運だと思っている。
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