プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

渡辺孝博

2024-09-14 11:14:54 | 日記
1971年
渡辺は二十五歳、東海大学卒業のときに大洋の指名をけり、考え抜いた末のヤクルト入り「ここ二年のノンプロの実績から自分でプロのレベルに達したと判断してプロ入りに踏み切った」と社会人三年生らしく足下を見つめた抱負。紺のスーツに同系色のタイ。あくまで落ち着いた物腰だ。ノンプロの通算が22勝6敗「なんでも投げられます」というとおり、サイドから直球、カーブ、スライダー、シュートと多彩な球種が持ち味。「勝負ダマは?」の質問に「…」とノーコメント。徳永代表の「それは極秘だなあ」という助太刀を待つまでのタイミングを心得て、あとは笑いでごまかしてしまう、なかなか頭脳的ピッチングを身上とする渡辺らしいところを見せていた。

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西村省三

2024-09-14 11:13:09 | 日記
1967年


長い下積み生活だった。三十六年近大二年中退して南海へ入団。三十八年素質を認められ村上、田中とアメリカ留学もしたが、芽はなかなかふき出さなかった。今シーズンもウエスタン・リーグのエース。まじめな性格が黙々と暑い太陽のもとでハダを焼かせていた。前半戦最後の七月二十二日、対阪急戦にプロ入り初登板。さわがれて入団した西村がやっと六年目で一軍のマウンドをふんだときだ。過去のプライドもなにもかもかなぐりしてた毎日を送っていた西村の「一軍で投げられ、こんなうれしいことはない」のひとことにほんとうの実感がこもっていた。うれしいのだろう、マウンドをおりて野村と握手したときから目が赤くうるんできた。鶴岡監督に「よくやった」といわれると、肩にかけたタオルをさかんに目にもっていった。そして「野村さんのミットをめがけて投げただけです」といったときはもう涙が遠慮なくほおをつたわって出る。野村は「十五日の西鉄戦(八回三分の二まで二安打)のときより悪かった。だが不安がなかった。カーブとストレートのコンビネーションがうまくいき、張本、大杉をストレートで三振にとれた。やっと西村も本物になってきたな」と自分もうれしさをかくせないのだろう、いつも無口の野村にしては珍しくよくしゃべる。張本、大杉の三振を西村はフォークボールといった。喜びが涙となってしゃくりあげるたびにインタビューが途切れる。「西村がよく投げた。だがバックの援護も大きい。まだまだや」口ではきついことをいっている鶴岡監督も内心はうれしさでいっぱいなのだろう。ロッカーからバスまでの間、笑顔がそれを物語っていた。南海の投手陣は苦しい。三浦の肩の故障がいつ直るかわからない。渡辺も原因不明の不調。たよれるのは皆川、合田。そこへ西村が脚光。自然とほおをゆるめるのも当然だ。先日大阪球場の練習で「ニシ(西村)たよれるのはオマエだけやからな。しっかりせいよ」と鶴岡監督がいったのはこのことを予想していたのかもしれない。「第二の合田になってくれれば・・・」との願いが実現しつつある。だが中上氏は「こじんまりした投手。コントロールはいいがカーブ、シュートに威力がない。若ものらしい荒さがもっとほしい。常に肩の力を抜いてスナップ主体のリラックスなフォームになれば、もっとよくなるんだが」と注文をつけている。エース・ナンバー18をぐっしょり汗ににじませバスにのった西村。いっせいに拍手で迎えられ、生まじめに入り口で一礼した。

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