プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

浜崎正人

2019-07-15 13:10:03 | 日記
1962年

九州の南端雄大な桜島のふもと鹿児島でのスカウト合戦は日ましに変化している。今夏の甲子園で県下初のベスト・8入りした鹿児島商高のエース浜崎正人投手(身長175㌢、体重70㌔)をめぐって・・・「中京商の林さんと投げ合ってみたい」と闘志をひめて甲子園に出発した同君の勝ち気な性格がこの言葉に現れている。結果は投げ負けた。だがこれにくじけることなく、国体で雪辱を期して猛練習にはげんでいる。そこで浜崎争奪戦の根拠地といえる浜崎家とその周囲をさぐってみた。

鹿児島市内はまだ真夏の暑さだ。国鉄鹿児島駅から車で10分桜島を正面にあおぐ塩屋町128番地、ここが浜崎の実家で、実兄克巳さんがつけもの、とうふの卸し屋を経営している。兄弟四人の末っ子が正人君だ。浜崎家には実父。兄夫婦と同君の静かな生活がある。その静かなる環境が甲子園から帰って以来一転してにわかにあわただしくなった。ファンレターが四、五百通は越しているだろう。帰った当時は日に二、三十通はきていた。ほとんどが少年ファンや女性からのだ。この手紙も日増しに少なくなり日に二、三通となった今日これと反比例するかのようにプロ球団のスカウトの姿がみられるようになった。父親四郎さんに会ってみると「いろいろうわさされているようだが、まだどこの球団の方ともお会いしていない。すべて学校側におまかせしてありますから・・・」ときっぱりいう。国体終了までは・・・の慎重作戦であろう。しかし浜崎家を訪ねた球団か多くあるのは事実。南海、近鉄、大毎、大洋、阪急、巨人と西鉄から誘いがかかっている。なかでも一番交渉の早かったのは巨人だ。昨秋の九州高校大会のとき、巨人内堀スカウトの目が光っていた。このころから浜崎争奪戦の火ぶたは切られている。今春の九州高校大会では各スカウトの目は浜崎一人にしぼられた感があった。そして六月、南海鶴岡監督が石川スカウトと同伴で九州行脚のおり、浜崎獲得にのり出している。それから相ついで各球団の浜崎廻りがはじまった。左腕投手に悩みを持つのはプロ球団の共通点である。どこもノドから手の出るほどほしい投手だ。近鉄は同校藤井清一郎監督(元近鉄)をコネに本腰を入れた。西鉄は地元の利を生かして強引に獲得にのり出している。また大洋引地スカウトも熱心に鹿児島廻りをやっている。大毎は白川マネジャーが鹿児島商の出身であり、後援会のつながりが強い。篠原、塩津もこの線で大毎へ入っており、あなどれない。一方阪急も某先輩を通じて一千万円程度の契約金を提示しているようだ。そこで実権をもっている実兄克己さんに話を向けると「進学か、就職かはまだはっきりきめていない。国体があるのでいろいろ学校の方からも注意されているし、慎重にやりたい。私の考えとしては進学し、一時都会の野球をやり、それからプロへ行くなり、ノンプロへ行くなり、きめた方がよいと思うが・・・でもこれは本人の気持ち一つで、本人がプロでやりたいといえばしかたないことだ。だが将来をきめる一番大事なときだけに、ゆっくり時間をかけたい」と大学進学を望む態度。しかし言葉をついで「わざわざ九州の端までこられるので門前払いをするわけにもいかないし・・・でももしプロ入りを希望するならば私は第一に投手養成が上手なチームに入団させてやりたい。やはり入った以上は一日でも早く一本立ちでき、立派に投げられるように鍛えてもらえるところでないとね・・それに弟は体力的に恵まれていないので・・・」と話すところ、プロ入り間違いなしとみてよかろう。だが一方、学校関係者に話を向けると「大学へ進学すると聞いています。まだ私はプロの方とも一度もお会いしたことはありません。情報がいろいろ流れているようですが、現在のところ一向に聞きません。国体がすむまではそっとしてやって下さい」と同校伊知地校長は話してくれた。また野球部長の泉氏は「私は浜崎君は進学するのではないかと思っている。早大へ行くとか聞いたこともあったが・・・」とプロ説を全面的に否定しているが、案外この立場の人はツンボサシモにいるのかもしれない。それでは正人君自身はどうなのだろう。すべて兄克己さんにまかせてあるというものの、最後は同君の意思しだい。いまはその時期ではないとばかりにグラウンドへすっとんでいった。十月下旬の国体出場のため、鹿児島商はいま猛練習を行なっている。もちろん正人君も同じだ。そこで監督の藤井さんに浜崎のことを聞くと「プロでやってみたい気持ちは十分持っているようだ。夏の大会が自信をつけさせたのだろうまた勝ち気な性格であるが、テレ屋でもある。研究熱心なところは感心させられるところがある。私のところにもノンプロから多く話がきていますよ。日石、東芝をはじめ有名なところはほとんど・・・でも国体がすむまでは一切おあずけの形になっている。」とすべて国体待ちという。国体まであと一ヶ月。スカウト連の鹿児島廻りは激しくなった。いずれも条件を提示しているようだ。当初もっとも積極的だった南海、近鉄は半歩遅れたようだ。一時は南海有利の線が出ていたが、いまでは薄れ、近鉄また瓜生スカウトの話では「一度肩をこわしているのでね。それに阪急さんあたりの条件はうちは出せないよ」と後退した。だがこれは煙幕戦術かも知れず、内心はあきらめていないとみた方がよさそう。南海、近鉄の一歩後退によって大毎、阪急、大洋の線が強くなった。大毎は後援会筋、大洋は投手養成の巧みさ、阪急は札束と、それぞれ攻め手に特色があるが、鹿児島という土地柄も考えた場合、大毎の義理人情ラインが一番有力の掛が出そうである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1956年阪神テスト生

2019-07-15 10:19:18 | 日記
1956年

阪神タイガースでは去る十一日新人募集テストを行なったが、第二次テスト合格者を次の通り決定した。

内野手 中山重夫(18)西宮高校、五尺八寸、十八貫、左投左打。
松永満(18)興国商高、五尺七寸五分、十九貫、左投右打。
外野手 河原主尚(19)岡山県津山高校、五尺八寸五分、十八貫、右投右打。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パーム

2019-07-15 09:13:44 | 日記
1963年

三回から初登板したパームキストは球威、球速こそあまりみられなかったが変化球を多投していたのが目立つ。4-0とリードされていたので気楽に投げられたのだろうが、大リーガーの経験もあり、そのキャリアは文句のつけようがない。パームは大リーグでは救援専門だったらしいが、この分なら先発として十分投げられるのではなかろうか。台所の苦しい大毎はもっとうまくパームを使うべきだ。パームのピッチングはあまり威力はみられないがスライダー気味の小さいカーブとドロップ、そして相当威力のあるシュートだ。ことに左打者に対してのシュートとシンカー気味でこれには威力があった。南海打線も初対戦だけにいつでも打てるという気やすさが手伝って粗雑なバッティングをしていたが、パームの投法は好調南海を打ち取る一つの手本を見せていた。ところでこのパームは右打者にもこのシュートをうまく打たせていたのはうまかった。特に南海打者が打ち気になってくればシュートを投げて打ちとっていたのはさすが。もっとも逆からいえば南海打線も相当ボールに手を出していたことにもよる。それにしても当っている南海打線、4イニング投げ1安打で押さえたというパーム株も一挙にあがったということになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間所宏全・山下清次

2019-07-15 08:44:16 | 日記
1956年

パ・リーグ阪急ブレーブスでは二十日つぎの二選手と正式契約したむね発表した。

間所宏全(18)桐生高外野手、右投右打、五尺六寸五分、十八貫、甲子園でその強肩強打と俊足ぶりがスカウト連の目をひき昭和三十年全国高校ベストナインに選ばれた好選手でハワイ遠征にも参加したことがある。

山下清次(18)八代工高、捕手、五尺八寸五分、二十貫。強肩で特に打撃に優れているが未完の大器といわれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西園寺昭夫、島田雄二

2019-07-15 08:11:00 | 日記
1956年

東映フライヤーズは二十日東洋レーヨン西園寺昭夫(19)内野手、島田雄二(21)外野手と正式契約し、午後一時半同球団事務所で発表した。同選手とも熊本工高出身、島田は二十八年卒業後住友金属小倉に入社したが、今春卒業の西園寺とともに今年四日市東洋レーヨンに入った。西園寺は五尺六寸五分、十九貫、右投右打で高校一年生の時添島(現巨人)とともに春の甲子園大会に出場、卒業当時巨人、阪神、西鉄から交渉を受けたほど早くから九州球界では注目されていた。東洋レーヨンでは遊撃を守り、四番打者として今夏都市対抗に出場した。上背はないががっちりとかたまったプルヒッターで、東映では将来の三、四番打者として期待している。島田は左投左打、東洋レーヨンで一番を打っていただけに俊足であり、三十五試合で三割三分の高打率をあげている。

西園寺選手の話 高校卒業のときから一年間ノンプロでやってからプロへいこうと考えていた。どの程度やれるかわからないが、郷土の先輩川上さんを目標に頑張りたい。

島田選手の話 目標は巨人の川上、与那嶺さんだ。なんとかしてプロに入りたいと思っていたが東映といういい働き所を得て幸運だと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相沢進

2019-07-14 21:53:59 | 日記
1956年

さきごろ高橋ユニオンズを整理された相沢進投手は球団事務所の多田氏らの尽力でノンプロへ行くのではないかとみられていたが、本人は「これを機に野球とはエンを切って仕事一本に生きたい」と強い決意を固め、多田氏らの力添えを感謝しながら独力で就職先を探していた。ところがこのほど、相沢選手は池上塚旗ノ台にある坂田製作所に就職することが決定した。この坂田製作所は自動車の部品を製造している会社だが、相沢は紹介者もなく単身坂田邦光社長と面談「真っ裸になって働きたい工員でも給仕でも、守衛でもよいから使ってくれ」と要請した。こうした相沢選手の飾り気のない男意気にほれ込んだのか坂田社長は即座に就職OKを答えたそうな。相沢は十七日から坂田製作所の一工員としてボール握った手で基盤と取っ組むことになるのだが、大森の自宅から午前八時までに入所せねばならぬ彼は朝一番のバスで通勤するんだと早起き訓練に精を出しているとか。すでに同所の軟式野球愛好者が相沢投手に是非加入してもらうのだと勧誘しきりだし、相沢自身も夜学へ通って英語を勉強するんだと新しい道への抱負を語っているファンのみなさん、人生航路の再出発に意気込む相沢君に多大な祝福と期待を寄せてやって下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩上江笠

2019-07-14 20:44:44 | 日記
1956年

八鹿の岩上は立ち上り幾分堅くなって1四球1安打のピンチを招き、内野の連失で2点を失ったが、二回以後は完全に立直り兵庫打線をほんろうした。カーブでカウントを整え、速球で勝負するあたり胸のすくような見事さだった。八鹿は一、四回再度にわたる絶好機を拙攻でツブしたが、五回清水の乱調による5四球に安打、敵失をおりこんで形勢を逆転、六、八回にも小刻みに加点し快勝した。なお八鹿の岩上投手が五回から七回にかけて奪った連続8三振は兵庫県高校のタイ記録である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

並木輝男

2019-07-14 18:31:25 | 日記
1956年

日大三高の並木輝男選手(18)の大阪タイガース入りが内定した。同選手は日大三高の投手兼4番打者として昨夏と今春の甲子園大会に出場、左腕からのインドロをウイニングショットに度胸のよいピッチングをみせたほか、毎日の榎本を思わせる豪快なバッティングで注目されていた。身長五尺八寸、体重十九貫の引き締まった体にも将来性があって各球団が交渉に当り、特に一時は阪急入りのウワサもあったが、本人はセ・リーグを希望し、大阪タイガース田中代表の誘いに応じたものである。なお正式契約は後日行なわれる。

並木輝男選手の話 まだ正式契約をしたわけじゃないんですが、一時希望していた慶応進学を課程の都合で断念して、タイガースへ入団したいと思っている。早くから話のあったのは阪急で、そのほか中日や国鉄からも話があった。現在学校で練習をしているのですが、プロに入れば投手としてよりも打撃を大いに伸ばして一塁か、外野をやりたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲垣正夫

2019-07-14 17:39:12 | 日記
1956年

東映フライヤーズでは稲垣正夫(21)三塁手(鶴見高ー千葉大)と八日正式契約したと発表した。同選手は二年まで投手をつとめ三年から打力を生かして三塁手に転向、三番を打ち当時鶴見工の黒田投手(現近鉄)から二本のホーマーを奪うなど強打を振った。二十八年千葉大入学後も常に四番打者として三割五分以上の高打率をあげ、特に今春の関東甲信越大学リーグで四割二分の猛打を振って首位打者にもなった。東映入りの話は鶴見高時代にもあったが、大学卒業をまって正式に話がまとまったものである。

稲垣選手の話 プロ野球はよく見ていましたが、努力すればついていけると思います。ただ監督さんにもいわれたのですが、守備の練習をうんと積まなければと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂木忠之

2019-07-14 17:29:38 | 日記
1963年

国鉄は茂木の完封勝利で連勝した。大毎は5安打の散発、やたらに大振りし三塁を踏んだものは一人もいないというみじめさ。茂木はスロー・カーブとシュートをうまくミックスして大毎をほんろうした。「直球と変化球の組み合わせとピッチングの間のとり方が非常によかった」と谷田コーチもニコニコ。ことし七年目の茂木は1㍍82の巨体を折り曲げて新人のように勝利をはにかんでいた。なお完封勝利は今シーズン初めて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂木忠之・荒井譲吉

2019-07-14 17:22:50 | 日記
1956年

さきに国鉄入り内定と報じた群馬県伊勢崎高の茂木忠之投手が本決まりとなった。同投手は六尺の長身、しかもサウスポーとあり、早くも「金田二世」の前評判が高い。今夏の予選では太田高を相手にノーヒット、ノーラン・ゲームを記録している。また同じ群馬県から前橋工高の荒井譲吉投手(18)が大映入りするが、同投手も今夏の群馬県下高校野球予選の対沼田高戦でノーヒット・ノーランを記録している。同じ群馬の出身で、投手としては最高の球歴ノーヒット・ノーランを記録している二人の競争がみものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野正一

2019-07-14 17:15:53 | 日記
1955年

毎日オリオンズ補強のオネスト・ジョンといわれる清峯伸銅の小野正一投手は十七日東京毎日本社で正式に契約を完了した。

別所監督談 きょうテストして見たが、素晴らしいスピードを持っている。ことしの狙いは速球投手ということでこれさえ満たされれば南海、西鉄と対等に争えると考えていたので、さきの若生君とともに喜んでいる。何しろ僕と比べてこんなに指が長い。金田、前岡級ですよ。

黒崎代表談 今年の補強ぶりを名より実といわれていますがこれは何も他球団が名のみの選手にとらわれていることではありません。しかしこの小野君はオリオンズ創設以来の掘出しもの中の掘出しものと期待しています。彼の実力については来シーズンの蓋をあけないことには何ともいえませんが、さしずめ投手の榎本だといえましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入部久男

2019-07-14 17:10:07 | 日記
1955年

ノンプロ鹿児島市電、入部久男一塁手(25)=加治木高の=大洋入りが決定した。五尺八寸、十九貫、左投左打、藤井監督が強打を買ったもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高屋俊夫

2019-07-13 22:43:57 | 日記
1956年

大宮高の高屋(こうや)俊夫投手(18)=五尺八寸十七貫、右投右打=は国鉄入りが内定していたがきのう正式に契約した。同投手について森国鉄代表は「高屋君の亡父も実兄も国鉄の大宮工機部に関係があるし、本人が国鉄入りを強く希望していたのが実を結んだもので、球は速いし、シュートが非常によい。それに体の大きい割に柔らかいし、打撃もよいので楽しみにしている」と語った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤良雄

2019-07-13 21:00:47 | 日記
1956年

国鉄スワローズでは宮城県白石高の斎藤良雄投手(17)の入団を決定した。同選手は五尺九寸五分、十八貫五百、左投左打の速球投手で先輩佐藤、大沼を擁する国鉄が西鉄、大映とせった末獲得したものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする