1983年
本格派の右腕速球投手で、56年春の中部大会では工藤(現西武ライオンズ)と投げ合ったこともある。昨年夏の県大会では、決勝進出の原動力となった。57年35勝。「明野高校に9対5で敗れ準優勝でした。ボク自身は3点とられました。右打者の胸もとをえぐるシュートが武器。体力をつけて早く一軍で投げたいです」
1983年
本格派の右腕速球投手で、56年春の中部大会では工藤(現西武ライオンズ)と投げ合ったこともある。昨年夏の県大会では、決勝進出の原動力となった。57年35勝。「明野高校に9対5で敗れ準優勝でした。ボク自身は3点とられました。右打者の胸もとをえぐるシュートが武器。体力をつけて早く一軍で投げたいです」
1997年
切れのいいスライダーが武器。高2のとき1試合17三振をマーク。「同じ左腕のアキラには負けない。先発完投できる投手をめざす。静岡県球界の発展に尽くしたい」
契約金5500万。昨年夏の静岡大会では、準々決勝で常葉菊川に敗れて、夢の甲子園は果せなかったものの、スカウトの評価は変わらず。2年生の時に1試合17三振を奪ったこともある。手の振りがしなやかで、将来性が期待されるサウスポー。
1998年
力感いっぱいのフォーム。まずファーム1勝をめざし、直球とスライダーに磨きをかける。
1999年
ファーム未勝利ながら防御率1.59。左腕から力強い直球と鋭いスライダーを繰り出す。
2000年
神宮マウンド経験でひと皮むけた。クイック投法も上達。左腕の利を生かし一軍枠に食い込めるか。
2001年
ヤクルトから移籍の貴重な左腕。過去、一軍では結果を残していないが、新天地での活躍に燃えている。まずは一軍枠に食い込み、藤田の負担を少しでも軽くしたい。
1978年
二十四日初登場したシード校・日体荏原の左腕・長瀬正弘投手(二年)が新たに怪腕の仲間入りをした。一年生時代から「将来が楽しみな大型新人」と注目されていた同投手、この日、神宮第二球場の対都戸山戦では、一回の先頭打者から七番打者までを連続三振に切って取る快記録を作り、期待どおりの成長ぶりを示した。一㍍八一の長身から繰り出す速球が、打者のひざ元にズバリと決まり、スタンドからは「投球フォームといい、速球主体のピッチングといい、近鉄のエース鈴木にそっくり」と称賛の声しきり。試合は、味方打線が爆発して、三回までに9-0。大差が決まったところで、五回戦以降の試合日程を考慮した秋元進監督の指示でマウンドを島崎浩樹君(二年)に譲って左翼に回ったが、三イニングの投球成績は打者十人に対し奪8三振、ノーヒットと立派なもの。しかも投球数四十五のうち、カーブは三球しかなかった。「相手打者がボールになる高めの球を振ってくれたので…」という控え目な言葉とは裏腹に、投げ足りないような顔つきだった。
1979年
冷たい風が吹き抜ける。シーズンオフの冬のグラウンドに、まだ球音は響かない。選手たちの掛け声も、ユニホーム姿もない。人影のない、そんな静かなグラウンドが、彼の、いわば新しい出発点であった。多摩川の川崎市側河川敷にある日本ハム練習グラウンド。その敷地作業に、彼は黙々と精を出していた。土を運び、地ならし用のトンボを引く。その額は、冬の乾いた日差しにも、汗ばんでみえた。彼ー吉武正成。つい先ごろまで、日本ハムの投手だった青年である。七四年のドラフトで三位に指名された専大出身の右腕。同じ日本ハムでは、一位指名の菅野光夫内野手とは同期の入団だったが、昨年暮れ、現役を任意引退したのである。現役引退の時は、遅かれ早かれどの選手にも非情にやってくる。四シーズン、野村や王、張本のように、二十年以上も現役で気を吐くスーパースターだっているくらいだから、それと同列には考えられないにしても、四年という短命の選手生活に終わった結果は、吉武なりに、ふがいなく思え、悔しくもあった。引退後の生き方は、人さまざまである。「せっかく志を抱いて飛び込んだプロ野球だ。この世界のカマのメシを一年でも余計に食ってみたい」そう考えた吉武の進んだのは、マネジャーへの道であった。といっても、球団職員でなく、嘱託契約のサブマネジャーで、しかもバッティング投手に用具係も兼ねるというきびしさだった。それでもプロ野球への愛着があればこそ、自分にいまできることなら何でもやってみせると、一人何役ものかけ持ちでマネジャーの下積みから出直してみる気になったのだ、という。その謙虚にして強烈なプロ野球に対しての情熱さは、さしずめ、あの江川なんかには吉武の爪のアカでも煎じて飲ませてやりたいと思うほどだ。口では「他人に迷惑をかけたくない」などと優等生を気取りながら、その実、やること、なすこと、迷惑をまき散らすばかり、政治家と読売巨人にあやつられてなお反省のひとかけらもなさそうな江川の思い上がりとわがままは、プロ野球への驕慢さそのものに通じていると考えられるから、である。確かに、吉武には、投手として江川のようなきらびやかな過去はない。しかし、プロ野球がそれほど甘い世界でないことの辛酸さは、十二分に知り尽くしている。吉武は江川より二つ年上、早生まれだから、学年にして三つ上級にあたる。山口県防府市で、国鉄職員を父とする長男として育ち、父の転勤につれて、高校は広島商業から徳山市の桜ケ丘高へ。ともに、野球部の投手だったが、甲子園出場は果たせなかった。専大時代は、東都大学二部で三たびリーグ優勝投手となって、一部昇格の原動力となり、桜ケ丘高監督の人脈が日本ハムスカウトに通じていたことから、三位指名でプロ入りしたというわけだ。「実戦で一球を投げるまでは、不安がずっとつきまとっていた」と本人がプロ入り(契約金七百万円、年棒百六十万円)だったが、ファームのスタートは好調だった。投手のローテーションに加えられ、ジュニア・オールスターにも選ばれた。しかし、その後は打たれる一方。ボールが素直だという理由で、二年目は一軍のバッティング投手に重宝がられ、三年目もファームでパッとせず、四年目は現役登録のままにバッティング投手やマネジャーの手伝いをやらされていた。背番号も13番→56番→65番と、年ごとに急降下、実戦投手の自信はすっかりなくしてしまった吉武だったが、プロ野球への執着心は、むしろつのるばかり。「ヨッチー」の愛称で先輩選手から好かれ、後輩選手にも慕われる面倒見のいい性格が球団に見込まれて、今度の再出発となった。現役引退の寂しさとマネジャー転身の希望とー。吉武は哀歓入り混じった複雑な思いを、努めて前向きにこう言うのだ。「一歩後退、二歩前進ですよ」かけ出しマネジャーの年棒としてサインした金額は、二百十万円だそうである。二年目のオフに結婚して、夫婦共働き。四畳半と三畳のアパート暮らしだ。で、吉武の仕事の内容はというと、これが実に幅広い。まず、用具係として、キャッチャーマスク、プロテクター、ノックバット、マスコットバット、ロージン、スプレー、球団旗などをまとめ、数を点検する。ボールもそれぞれ大きな麻袋に詰める。それらの球場送り手配もすべて吉武の仕事だ。遠征では、選手たちがまだ寝ている朝のうちに起きて、ホテルから駅、空港へとトラック便に同乗、荷物のチェックインを済ましておかねばならない。