生協が好きだった

2001年10月30日 | 会社・仕事関係

今日(10/30)の朝日新聞朝刊第2社会面に、
「コープこうべ」希望退職者 インタビュー集を出版
という記事があった。
記事は、同生協の業績悪化で希望退職者を募り、
640人が昨年の4月に職場を去った。
辞めた仲間たちの思いを記録に残そうと、
インタビュー集を出版したという内容だった。
それを読んで私は久しぶりに、
生協に勤めていた頃を思い出した。

私が生協に勤めていたのは、21から26歳までだった。
最初は日本女子大生協で、4月からアルバイトとして入った。
新しく出来た学生会館の地下の食堂の隅で、
パンやアイスクリームを売っていた。
女子大生が眩しかった。
目白駅から学バスに乗ると、男は私と運転手だけだった。
夏なんか女子学生は薄着で、満員のバスで私は困った。
そのとき私は、夜のデザイン学校に行っていた。
昼間の学生が羨ましかった。
9月、書籍部の職員が辞めるので、
私に職員にならないか、という話があった。
書籍部担当ということがうれしかった。
ちょっと悩んだが、なることにした。
本を売るということに憧れていた。
生協も学生会館に4月に移ったばかりで、
25坪の書籍部の棚は、まだ全部ふさがってなかった。
私は当時の東販に行き、本の倉庫から好きな本を選んで、
それを納品してもらった。
文芸書と文庫と絵本は、ほぼ私の好みの本を入れた。
あの頃は楽しかった。
でも、そのせいでいつの日か
デザイン学校には行かなくなってしまった。
職員になると残業があり、学校に行けなかった。
昼休みにはだいたい外のベンチで、ケーナを吹いていた。
けっこう私は女子大生に人気があった(カナ?)。
翌年、東大生協に移籍になった。駒場で雑貨担当になった。
新学期、蒲団や電気コタツを、
今年なくなった駒場寮までよく配達した。
汚いところだったが、羨ましかった。
学生演劇をやっていた野田秀樹の芝居を、観たこともあった。
東大生協ではエレキバンドを作り、私はドラムを叩いていた。
労組のいろいろなイベントで演奏しました。
24歳、本郷に移動になった。毎日赤門をくぐって通勤した。
電機担当、レコード担当をやった。
レコードを売ってたときも楽しかった。
生協では何度か恋をして、失恋した。
女房と会ったのも本郷の東大生協だった。
結婚した26歳のとき、
東洋大生協の店長として3月に行き、5月で辞めた。

 

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