小説「親鸞」

2011年05月30日 | 健康・病気

現在、職場で購読している信濃毎日新聞を私は読んでます。
これに連載されている五木寛之の「親鸞 激動篇」を愛読している。
私はどっちかというと新聞小説を読むという習慣はなかった。
たしかこの小説は今年の元旦から始まったと思う。
はじめの頃は、しかたなしに一日のおつとめと思って読んでいた。
しかし、今はちがう。
読み終わってから次が読みたくてしかたない。

親鸞が、断り切れなくて雨乞いの念仏をすることになる。
七日間の雨乞いの法会が、雨が降らぬまま終わろうとするとき、
守護代の戸倉兵衛は、息子の貞次郎に親鸞の処刑を命じる。
群衆がじわじわとつめかけてきている。

台座の上の親鸞が、動きをとめた。
(略)
太鼓の音は雷鳴のように台地にとどろいた。
(略)
守護代の戸倉兵衛が、台座の前に仁王だちになって、大音声(だいおんじょう)をはりあげた。
「法会は終わった。雨は降らぬ。皆の者、ただちににせ坊主を捕らえよ」
(略)
「そやつを斬れ!」
(略)
「この男は、雨を降らせると称して盛大な法会をつとめ、われらをあざむいた。
 その罪は万死にあたいする。われらの怒りは、こやつの首をはねたくらいではおさまらぬ(略)」
(略)
そのとき、天が裂けるような音がおこった。

このようなストーリーが昨日まででした。
今日は、147回「焼野原の風景(26)」です。
私は、最後には雨は降ると思っていた。
でも、どういうふうに降らせるのだろうと楽しみにしていた。

太鼓が鳴りだした、と、だれもが一瞬そう錯覚したようだった。
(略)
「雷(かみなり)さまだ!」
と、だれかが叫んだ。
(略)
「雨だ!」
「雨だぞう」
すべての人びとが叫んでいた。

このあたりを読んでいて、私は安っぽく涙なんかを流してしまった。
あ…ぁ、おれなんか泣かすのは簡単だね~。

「焼野原の風景」に入ったとき、雨乞いに念仏なんかとなえても雨は降るわけない。
親鸞自身も念仏で雨が降るとは考えていない。
五木はどのようにしてストーリーを進めるのだろうと思った。
臭い展開にはしないだろうな、とは予想していた。
そんな高見の見物をしていた私なのに、この3日ほどは夢中になって読んでいた。
たんなる一読者として。
さすがに五木寛之は話の進め方がうまいですね。

昔、五木寛之の小説が好きでけっこう読んでいた。
「青春の門」は、私が20代のときに書かれてあったものは全部読んだ。
(その後、書かれたものは読んでない)
その他のもかなり読んだ。
でも、ここ20何年かは読んでいない。
いや、「大河の一滴」などの随筆は読んでいる。
私は五木寛之が好きですね。
これから親鸞がどのように生きていくか楽しみです。

コメント (3)
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