女房が、「こんど小学校でフラメンコを踊る」という。
そのときに、
「バストン(杖・ステッキ)を使った踊りをやるの。
バストンの練習を公園でするから一緒にいて、
ひとりで公園で踊っているのは恥ずかしい」という。
近所にある中央公園に行く。
ここんところ暖かい天気が続いている。
今日も“春”といってもおかしくない陽気だ。
小さな子どもたちが駆けずり回っている。
ふいに息子たちの幼かった頃を思い出してしまう。
下がコンクリートのところを選んで女房は練習を始めた。
左足を上げて降ろしたときの音のあとに、
右手に持ったバストンをコンクリートに当てる。
右足を踏みならしたあとにバストンの音を鳴らす。
これがスピードあるリズム展開で繰り返される。
私はすることもなくそんな女房の練習を眺めている。
女房は必死だ。
私の心の中は“崖っぷち”だ。
ウォーキングをしている老人たちが私と女房を見て、
何やっているのだろう?、という視線で通り過ぎる。
走り疲れた子どもたちが近くに寄って見つめている。
あるていど練習した女房は私に「やってみて」という。
「いいよ、おれは…」
「運動と思ってやって」
(なんでおれがやらなくちゃなんねぇんだ)
と思いながらも私はやる。
足とバストンのリズムパターンを女房に教わりやってみる。
むずかしい。
女房が私の気持ちをほぐそうとがんばっているのが分かる。
しかし、私の心は深く谷底に落ち込んでいて
這い上がろうとする気持ちがおきない。
救いようのない“宿六”です。