反乱した淮西軍の驍將であったが、
李愬に捕らえられ厚遇されたことにより
唐朝の臣下となり勇戦した將軍。
-----------------
李祐伝
-----------------
祐は字は字慶之。淮西將であり吳元濟につかえた。
驍勇でありしばしば唐朝軍を破り、その残酷さが怖れられていた。
元和十二年五月.唐隋鄧節度使李愬はこれを捕捉したが、將士の強硬な抗議を抑えて赦し、その膽略を認めて優遇した。祐はその恩に感じ忠誠を誓った。
一向に進展しない元濟討伐を一挙に解決する奇策を提案した。
十二月.厳冬をついて小規模な侵攻を行い、淮西軍の油断をついて長躯本拠地の蔡州を襲撃するとの劇的な策であり。現地で命を聞いた監軍達が「祐の策に墜ちて死ぬことになった」と嘆くものだった。
しかし愬と祐はかまわず奇襲攻撃を行い、数十年反抗を続けた淮西を滅ぼし、元濟を捕らえる大功をあげた。
祐は神武將軍となり、金吾將軍に移った。
十五年.檢校左散騎常侍夏州刺史御史大夫夏綏銀宥節度使となった。
長慶四年.右金吾大將軍に移った。その時に敬宗皇帝に私的に馬を献じて、侍御史温造に弾劾された。
宝暦二年.涇州刺史涇原節度使として対吐蕃防衛にあたり
任が終了し左金吾大将軍に移った。
太和二年十一月.檢校戶部尚書滄州刺史滄德景節度使として、杜叔良が失敗し敗戦続きであった李同捷の討伐にあたった。
檢校尚書左僕射に進み、
三年四月.德州を攻略し、李同捷は降り討伐に成功したが、諫議大夫柏耆が勝手に同捷を誅し、祐の将萬洪までを殺したことに衝撃を受けて病に倒れた。
太和三年五月.現地で病死した。
李愬に捕らえられ厚遇されたことにより
唐朝の臣下となり勇戦した將軍。
-----------------
李祐伝
-----------------
祐は字は字慶之。淮西將であり吳元濟につかえた。
驍勇でありしばしば唐朝軍を破り、その残酷さが怖れられていた。
元和十二年五月.唐隋鄧節度使李愬はこれを捕捉したが、將士の強硬な抗議を抑えて赦し、その膽略を認めて優遇した。祐はその恩に感じ忠誠を誓った。
一向に進展しない元濟討伐を一挙に解決する奇策を提案した。
十二月.厳冬をついて小規模な侵攻を行い、淮西軍の油断をついて長躯本拠地の蔡州を襲撃するとの劇的な策であり。現地で命を聞いた監軍達が「祐の策に墜ちて死ぬことになった」と嘆くものだった。
しかし愬と祐はかまわず奇襲攻撃を行い、数十年反抗を続けた淮西を滅ぼし、元濟を捕らえる大功をあげた。
祐は神武將軍となり、金吾將軍に移った。
十五年.檢校左散騎常侍夏州刺史御史大夫夏綏銀宥節度使となった。
長慶四年.右金吾大將軍に移った。その時に敬宗皇帝に私的に馬を献じて、侍御史温造に弾劾された。
宝暦二年.涇州刺史涇原節度使として対吐蕃防衛にあたり
任が終了し左金吾大将軍に移った。
太和二年十一月.檢校戶部尚書滄州刺史滄德景節度使として、杜叔良が失敗し敗戦続きであった李同捷の討伐にあたった。
檢校尚書左僕射に進み、
三年四月.德州を攻略し、李同捷は降り討伐に成功したが、諫議大夫柏耆が勝手に同捷を誅し、祐の将萬洪までを殺したことに衝撃を受けて病に倒れた。
太和三年五月.現地で病死した。