唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劉従諫伝

2019-03-29 20:34:10 | Weblog
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劉従諫伝
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劉悟の後を継ぎ昭義節度使を世襲した。専権を極める宦官勢力と対立し続けたが、卒後は宦官と李徳裕に滅ぼされた。

從諫は淄青節度使李師道を殺して帰朝した昭義軍節度使悟の子。

寶暦元年八月の悟の死後、十一月.將作監主簿より,起復雲麾將軍守金吾衛大將軍同正檢校左散騎常侍兼御史大夫充昭義節度副大使知節度觀察等留後となる。
本来昭義節度使は河北の諸鎭と違い世襲を認めた例はなかった。從諫は淄青以来の悟の親兵を率いて自立し、その禁を破った。宰相李絳は反対したが、李逢吉や宦官王守澄は収賄してこれを是認することにした。

二年三月/四月.金吾上將軍檢校工部尚書充昭義節度等使として正任になった。

文宗が即位して檢校司空に進んだ。

太和二年八月.成德王廷湊を臨城、昭慶に破った。

三年七月.義成節度使李聽が史憲誠の後任として魏博へ入ろうとしたが、大敗した時に派兵して救った。

父悟は苛酷であったが、従諫は寛厚で麾下の人望が厚かった。
また本来は忠誠であったが、六年十二月入朝し唐朝の政治が腐敗していることを知り専権を振るうようになった。

七年正月.同平章事を帯びる。

七月.宰相李徳裕は、河北三鎭との連携を断つため宣武節度使への移動を計画したが文宗皇帝は認めなかった。

九年十一月.文宗皇帝と李訓達が宦官勢力を除こうとして返って敗れ、宦官達は宰相王涯[李訓とは共謀していなかった]等四人を殺害し、専横を極めた。文宗皇帝は圧迫され、文官宰相鄭覃や李石はいかんともできなかった。

從諫は王涯と結託していたため納得できず、開成元年二月.使いを送り涯の罪名を問い、兵を率いて入朝すると脅した。専権していた宦官王守澄・仇士良は懼れて宰相に遠慮するようになった。
検校司徒を与えられて慰撫された。

開成四年八月.文宗皇帝の母蕭太后の弟を宦官達がでっちあげていたことも糾弾した。
宦官達は憤慨したが從諫の正論と武力を懼れて事をごまかすしかなかった。

會昌二年.回鶻を伐つため出兵を請うたが宦官達は阻止した。

従諫は宦官仇士良が武宗皇帝に寵遇され、結託した宰相李徳裕が勢力を強めることを憂いていたが、
會昌三年四月に卒した。四十一歳。贈太傅。

從諫は宦官と対立し、王涯親族など亡命者を匿い、法を無視して唐朝の専売していた鐵・鹽を私販していた。しかしその存命中は宦官達は咎めることができなかった。

從諫の死後、甥稹が継ごうとしたが、宦官勢力は李徳裕と結びこれを滅ぼした。