唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

郭釗伝

2019-03-22 09:49:21 | Weblog
元老郭子儀の孫、外戚として無能ながらも優遇された。恭謙であった。

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郭釗伝
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元老郭子儀の子曖と昇平公主の子。代宗には外孫になる。

釗は長身で風采がよく寡言であった。

蔭位により太常寺奉禮郎。

德宗では太子右庶子に至る。

元和初,左金吾衛大將軍充左街使。

九年十一月.檢校工部尚書兼邠州刺史充邠寧節度使。

檢校戶部尚書司農卿。

釗は勢家の出身であるためかえって恭謙であり評判がよかった。

憲宗皇帝の皇后は釗の姉であり皇太子[穆宗]はその子であった。
だが憲宗皇帝はその能力に疑問を持ち[実際に無能であった]、廃位も考えていた。
ところが十五年正月,憲宗皇帝が道教の神丹中毒から病となり、
寵臣である宦官吐突承璀は澧王惲を皇太子に押し立てようとした。
皇太子=穆宗は甚だ心配して釗に相談した。
そこでは釗はなにもするなと助言したことになっている。
しかし憲宗皇帝が宦官に殺された背景には郭氏の蠢動はあったかもしれない[宣宗皇帝はそう思っていたようだ]。

十五年.穆宗皇帝が即位し,姉が皇太后になり外戚となった。
釗は刑部尚書兼兼司農卿。

長慶元年正月.出て檢校戶部尚書充河陽三城懷節度使。

二年九月.河中尹河中晉絳慈隰節度使に移る。

四年七月.兵部尚書となった。

穆宗皇帝が卒した時、敬宗皇帝が幼い[実際は知能が低い]ので宦官達は郭太后の称制を求めたが、
釗は則天武后の先例を懼れて認めなかった。

敬宗皇帝が即位しても外祖父。
兵部尚書兼檢校尚書左僕射。

寶暦元年三月.梓州刺史劍南東川節度使。

文宗皇帝時も外祖父。検校司空を加えられる。

大和三年十一月.雲南王が西川節度使杜元潁の失政により入寇した。
蠻軍は成都外城を陥し危機に瀕した。十二月.唐朝は釗に西川節度を兼任させた。
蠻軍は東川にも侵攻したが、東川軍は虚弱で援軍もまだ到着せず、
釗はひたすら雲南王に講和を求めた。
雲南王もとことん唐と争うつもりはなく釗の要請により撤退した。

正式に成都尹劍南西川節度使に遷り、雲南王と講和した。

まもなく疾を持って辭し、李德裕に代わり、四年十月.檢校司徒太常卿に任ぜられた。

十二月.帰還中に卒した,詔贈司徒。

なんらの才幹はないが、外戚として恭謙で高位を全うした。